斯波義将(1350~1410)とは、南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将である。
概要
斯波高経の4男…なのだが長男・斯波家長は北畠顕家との戦いで早くに討ち死に、次男・斯波氏経は九州探題の役目を果たせず失脚、三男・斯波氏頼は父・斯波高経から疎まれ、彼が後継者候補になった(ちなみに弟は大野斯波氏の祖・斯波義種がいる)。
最初に管領になったのは、執事の細川清氏が失脚した1362年のことである。彼はまだ12歳と幼かったが、父親の高経が後見となり幕政を斯波派が握ることとなる。ところが佐々木道誉と高経が不和になると、1366年に道誉の讒言で親子ともども追放される。翌年高経が亡くなると赦免され、越中の守護には復帰したが、旧領若狭、越前を取り戻すことはできなかった。
その後1371年に桃井直常の討伐に成功すると、一気に名声を高めることとなる。一方で当時将軍権力の向上を目指していた細川頼之に対する、反頼之派の中心人物となっていき、1379年に幕府に反した土岐頼康、京極高秀追討の軍が発されると、義将は京極高秀と合流。これに驚いた将軍・足利義満と交渉して細川頼之の追放と旧領回復を実現させた康暦の政変を起こさせたのである。
しかし1391年に頼之が復帰すると抗議のため管領を辞して越前に帰国した。その間明徳の乱と南北朝合一が起きている。しかし細川氏の権力増強を警戒され1393年に再度斯波義将は管領の座に次いだ。その後1394年に畠山基国が管領となり、翌年の応永の乱では基国とともに大内義弘を追討した。
斯波義将はこれ以降管領になることはなかったが、依然として幕政に強い影響を与え続けた。足利義持の将軍就任、義満死後の太上法皇の称号の拒否、対明外交の廃止の陰には義将がいたという。そして1410年に亡くなり、彼によって斯波氏の幕内での地位は固められたともいえる。
関連項目
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