斯波高経(1305~1367)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
概要
足利氏の中では本家に次ぐ有力一門、尾張足利氏の当主として生を受けた。1323年ごろには当首の座にあったことが確認されている。
他の足利氏と同様元弘の乱から建武政権の成立まで足利尊氏に従い、建武政権下では祖である足利家氏がついた尾張守に任じられている。また1334年には楠木正成とともに飯森山で挙兵した旧鎌倉幕府軍を鎮圧するなど、その家格に見合った待遇を受けていたようだ。
やがて足利尊氏が建武政権から離反すると、これに同調。越前守護に任じられた。1337年、新田義貞が恒良親王を報じて敦賀に進撃した際には高師泰とともにこれを迎撃し、金ヶ崎城に追い詰め、さらに1338年の藤島の戦いで義貞を討ち取る大金星をあげた。その結果1339年には海運のかなめである若狭守護にも任じられている。
1349年以降の観応の擾乱では足利直義派についた…のだがどちらかといえばやや中立派よりであり、状況に応じて尊氏側に戻ったり直義派に戻ったりを繰り返す。まず対立の激化の際には直義側につくが、直義が失脚すると尊氏側につき、直義が再帰すると直義派に、そして1352年に直義が亡くなると尊氏に帰順した割に、1354年に足利直冬に呼応して尊氏に反逆、最終的には1355年にあっけなく元鞘に収まる。このように、ほかの直義派武将が南朝に何年も身を投じたりしたりしたのに比べると、立場は一貫しておらず、弟の斯波家兼がずっと尊氏派だったこともあってか、結局越前守護にもあっけなく復帰している。
そして1358年に足利尊氏没後、足利義詮時代に入ると一族の長老として権勢を得た。義詮の補佐役であった執事の細川清氏を失脚に追い込み、その後任に幼い息子の斯波義将をつけ自分が後見させることで幕政を握ったのである。しかし1363年の大内弘世、山名時氏の帰順に貢献するなど、あくまでも幕府の利益のために動いていたようだ。
しかし、である。こうして権勢が高まったことでほかの大名と軋轢が生じ、佐々木道誉との対立の激化から、1366年に義将とともに追放されて討伐の対象になったのである。斯波高経本人は杣山城の籠城でこれを撃退した直後、そのまま亡くなったが、斯波義将の復帰でなんとか、三職の一家になることとなったのであった。
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