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新庄剛志(しんじょう つよし、1972年1月28日-)とは、福岡県出身の元プロ野球選手(外野手)である。現役時代は阪神タイガース、ニューヨーク・メッツ、サンフランシスコ・ジャイアンツ、北海道日本ハムファイターズに所属。引退後はタレント、実業家、クリエイターをやっていた。2022年からは日本ハムの一軍監督を務める。プロ野球界でも屈指のエンターテイナーと言える(後述)。2022年の登録名は「BIGBOSS」。
経歴
北海道日本ハムファイターズ #1 一軍監督 |
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新庄剛志 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 福岡県福岡市南区 |
生年月日 | 1972年1月28日 |
身長 体重 |
182cm 76kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1989年ドラフト5位 |
引退 | 2006年 |
経歴 | |
選手歴 選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
長崎県対馬市生まれ、幼少期に福岡県に移住。西日本短期大学附属高等学校から1990年にドラフト5位で阪神タイガースに入団。182cm。76kg。背番号は63。
阪神時代
1992年からレギュラーとして定着し、亀山務と共に亀新フィーバーを巻き起こす。1993年には背番号5に変更。
1995年には「センスがない」という理由で引退しようとしたが、真相不明だが撤回している。その後2000年まで阪神でプレーする。
MLB時代
2000年オフにFA宣言し、阪神、横浜ベイスターズ、ヤクルトスワローズから契約金12億円のオファーがあったが、年棒2000万円でメジャーリーグベースボールのニューヨーク・メッツに入団する。
2001年に単身でアメリカに渡る。新庄は本来31番目の選手としてマイナーで開幕を迎える予定だったが、オープン戦の頃から仲良くしていた若手選手が交通事故で亡くなる。その日にボビー・バレンタイン監督からメジャー枠30人入りを告げられ、亡くなった選手の分まで頑張って欲しいと言われて複雑な心境を抱いたという。4月3日のアトランタ・ブレーブス戦では代走としてデビューし、初打席で初安打を記録した。4月9日のブレーブス戦(シェイ・スタジアム)では本拠地デビュー戦でメジャー初本塁打を記録したことでSHINJOYとして親しまれるようになった。
2002年にサンフランシスコ・ジャイアンツにトレード入団する。本人はサンフランシスコに移籍することに思うことがあったものの、空港でバリー・ボンズといった主力選手に出迎えられて400人近くから歓迎会を開かれたことで、前向きになれたという。日本人野手初のワールドシリーズ出場を果たしたが、チームは世界一に輝いた中で1安打と結果を残せず、オフにノーテンダーFAとなる。
2003年にはニューヨーク・メッツに復帰したが、監督はボビー・バレンタインではなかった。スプリングトレーニングでは結果を残したが、開幕スタメンではなかった。人種差別もあってマイナー落ちし(背番号23)、以降メジャーに呼び戻されることはなかった。
日本ハム時代
2003年オフにボブ・サップと共に映画の試写会に登場し、その場で北海道日本ハムファイターズに入団する、「背番号は1です!」と(球団の公式発表前に)発表。1は当時阿久根鋼吉が付けていたが、試写会前に事前に電話で確認をとって了承を得ており、阿久根は9に変更している。登録名「SHINJO」に変更し、日本球界に復帰した。
当時の日本ハムは札幌に移転したばかりで、野球ファンからの支持率が0.0%を記録するなど、人気獲得に苦労が伴う球団だった。新庄は北海道の野球ファンを巨人ファンから日本ハムファンに変えるという考えで楽しみを見出したという。入団会見では「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」という目標を掲げた。
2004年のオールスターでは事前に「MVPはボクのものです!!」と宣言、オールスター史上初の単独ホームスチールを決めて本当にMVPを獲得した。
その後日本ハムの主軸打者として活躍した後、2006年シーズン前半に突然引退宣言。理由は動体視力の低下、左内太股の故障、開幕試合を満員にできたことで達成感があったことだという。チームの25年ぶりの優勝を果たし、44年ぶりの日本一に貢献し、ユニフォームを脱いだ。日本ハムの日本一が決まった時に、トレイ・ヒルマン監督を差し置いて真っ先に胴上げされた。
新庄の活躍により、日本ハムの雰囲気は一変し人気球団となった。広報担当者からは「20年間努力したのに全くダメだった。それが一人の加入でこんなに盛り上がるとは」との発言もあったという。
引退後
前述のようにタレント、実業家、クリエイターとして活動しており、野球界からは距離を置いている。2010年にはバリ島に移住した。
と思いきや、自身のインスタグラムで現役復帰を宣言。
1年間トレーニングを重ね、2020年12月7日にかつて所属していた日本ハムのユニフォームを着て12球団合同トライアウトに挑戦。第1打席では初球の143km/hを捉えるもセカンドゴロ。しかしダルビッシュ有に「10年以上野球をやってないのに143km/hを芯に当てるだけでもすごすぎる」とツイートさせた。第4打席ではレフト前タイムリーヒットを記録した。
その結果…
オファーは待ったものの、獲得に現れる球団はなく自身のインスタグラムでNPB復帰断念を表明。しかし、
いくつになっても挑戦した自分に悔いはなし!
みんなも挑戦する楽しさをわかってほしいなぁ!
日本ハムビッグボス・監督時代
新庄は1年間12球団の二軍の選手を見ることで野球の勉強を重ねながら体を作っていた。2021年は北海道日本ハムファイターズは低迷し、栗山英樹監督が退任。10月26日に後任に新庄の名が挙がったが、10月29日に正式に日本ハムの監督となることが発表された。11月4日に球団社長とオーナーが同席し記者会見が行われた。監督就任を受けた際は驚きつつもプロ野球を変えたいという気持ちで引き受けたという。前年には選手復帰を目指してトライアウトを受けたが、最終的な目標は監督になることだったと明かした。「高い目標を目指すと選手は上手くいかない」という考えから優勝を目指さず、「9月に優勝争いできていたら、さあ!」という形で優勝を目指すことを明かした。なお名刺には監督ではなくビッグボスと書いていたが、これは監督ではなく、ビッグボスと呼ばれた方が監督っぽいからとのこと。背番号は現役時代にも付けていた1だが、「いつか1番を付けるに相応しいスター選手が現れるまで、僕が1番付けま~す!」とのこと。
プロ野球開幕を翌日に控えた2022年3月24日、正式に登録名を「BIGBOSS」に変更した。
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https://twitter.com/npb/status/1506894770811338754
2022年は順位を問わず、選手全員を一人ひとり成長させたいと考えて一軍の試合に出場させた。これがかなり大変だったと西岡剛との対談で明かしている。
2023年からは肩書を監督、登録名を新庄剛志としている。一時は4位に浮上したが徐々に低迷し2年連続で最下位に低迷。12球団で失策数ワーストだったことを受け、荒木雅博を臨時コーチとして招いて秋季キャンプをエスコンフィールドHOKKAIDOで行った。
プレースタイル・人物
打撃面ではムラがあったが豪快な長打力と勝負強さが持ち味。日本でもメジャーでもマイナーでも、どこで打っても.250という一見貶しのような褒め言葉も存在する。最高のチャンスで打ってヒーローになりたい願望から、チャンスで最大限の集中力を発揮するために、走者のいないときや試合大勢にあまり影響しない打席などはあまり集中していなかったという本人証言もある。
NPB歴代でも屈指の強肩と世界トップレベルと称されるほどの守備を誇り、シーズン最多補殺を3回、最多刺殺を記録している。俊足だが盗塁はあまりうまくなく、状況をうまく利用した巧みな走塁が得意だった。
ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞10回、オールスターMVP3回(セ・パ双方での受賞は史上三人目)。野球じゃないところではベストドレッサー賞を2回受賞している。
エピソード
- 小学生の頃、8回も交通事故に遭ったがいずれも重症に至らなかった。
- 高校時代、甲子園には出場できなかったが、地区大会決勝でサイクルヒットを達成した。
- 好きな色は赤であり、日本時代はリストバンドで赤を貫き通した。
- ジーンズが履けなくなるからという理由で下半身のトレーニングはしていなかった。しかし見えないところでかなりトレーニングをしており、人に見られると辞めてしまう。
- 始球式では平気で球を打つ、バット以外のものを持ち出すなどツッコミに枚挙にいとまがない。
- プロ野球1年目の年俸の大半を車代に当てたら、税金が払えず叔父に立て替えてもらった。
- 同じ新庄つながりで山形県新庄市と奈良県新庄町(現在の葛城市)と岡山県新庄村で自治体挙げて応援してたとか。
- 阪神入団後、本人の希望で内野手にコンバートした。その甲斐あって、遊撃手としてプロ初スタメンを記録した。その後も三塁手・二塁手としても出場経験を得ている。
- 内野で使われていた新庄の才能を惜しみ、外野手として使うことを強硬に主張したのが、当時のコーチであった川藤幸三である。
- 1997年のオールスターでは成績が悪かったにも関わらず、ファン投票2位で出場。応援をボイコットされるという屈辱を味わった。
- 野村克也が就任した際、オープン戦でピッチャーもやっており145km/hをマークしたが、左膝を痛めて数試合で頓挫した。良くも悪くも気になっていた選手なのか、その後も野村は新庄が引退するまで色々ツッコミを入れていた。
- 1999年には敬遠球をサヨナラ安打にしてしまった。ちなみに、当時の打撃コーチであった柏原純一も敬遠球を打った経験がある。
- メジャーリーグ時代では「記録はイチロー君に任せて、俺は記憶」と語っており、お互いの守備を認め合っている。
- 現役時代は「引退したらムービースター(俳優)になる」と語っていた。
- 2002年にはめちゃイケの数取団に出演。一敗し新庄が関取団と相撲をしようとしたが、中嶋APに「怪我をしてはいけない」と止められ、代わりに中嶋APが相撲を取った。
- 2004年に北海道日本ハムファイターズに入団。当時は日ハムを選んだ理由を「ハムが一番最初に声をかけてくれたから」としていたが、実際には最初に声をかけたのは巨人の原辰徳監督だったことを後年に告白している。
- 日本球界に復帰した2004年にはクイズ・ミリオネアでは最後の2問を鉛筆にゆだね、15問全問正解。賞金は札幌ドームの個人広告看板のために使用した。
- 札幌ドームでの対ソフトバンク戦で12-12で迎えた9回裏2アウトで、三瀬幸司からサヨナラ満塁ホームランを放ったが、嬉しさのあまり一塁走者の田中幸雄が新庄に追い越される形で抱きついてしまい、ホームランは取り消し、入ったのは1点のみという結果になってしまった事がある。
- 2004年にプロ野球選手会によるストライキが発生し、9月18日と19日の全試合が中止になった。新庄の被り物として有名なゴレンジャーと、上記の「サヨナラ満塁フェンス超え単打」はこの翌日の出来事である。ヒーローインタビューでの「今日のヒーローは僕じゃありません、みんなです!」という言葉とともに、プロ野球とファンを大事にする新庄の伝説となった試合であった。
- 試合で使用していたグラブは、初任給でスポーツ用品店で購入した約7000円の既製品である。阪神のロゴと当時の背番号63が印刷されていた。4回もの大補修を重ね、現役引退まで使われた。その後、2011年に新庄の父が癌で亡くなった際に葬式で共に棺に納めたため、このグラブは現存しない。
- 日本ハムに入団して以降は、カエル、スパイダーマンなどの被り物をする他、三輪バイクを運転するなど、ファンサービスやパフォーマンスを積極的に行った。だが、『パフォーマンスは試合に勝ってナンボ』という意識があるのか、被り物パフォーマンスに関しては試合に負けて以降封印された。
- 目立ちたがり屋と思われがちだが、実際は他の人を気に掛け、他人を立てるように配慮している。
- 日本ハム時代の同僚の森本稀哲とは師弟関係にあたり、 新庄引退後、背番号1は彼が継承した。
- サンデーモーニングご意見番スポーツでは、張本勲からよく「喝」を入れられていたが、張本と新庄の仲はすこぶる良かった。VTR中で新庄がスタジオの張本に対して「喝!」を入れたこともある。
応援歌
球団 | レス | No | プレイヤー |
---|---|---|---|
阪神 | 応援歌のピコカキコ一覧 | 8700 | |
日本ハム | 応援歌のピコカキコ一覧 | 8862 |
成績
通算打撃成績
通算:16年 Total |
試 合 G |
打 席 PA |
打 数 AB |
得 点 R |
安 打 H |
二 塁 打 2B |
三 塁 打 3B |
本 塁 打 HR |
打 点 RBI |
盗 塁 SB |
犠 打 SH |
犠 飛 SF |
四 球 BB |
死 球 HB |
三 振 SO |
併 殺 打 GDP |
打 率 AVG |
出 塁 率 OBP |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB:13年 | 1411 | 5629 | 5163 | 647 | 1309 | 234 | 36 | 205 | 716 | 73 | 44 | 25 | 326 | 27 | 990 | 105 | .254 | .304 |
MLB:3年 | 303 | 960 | 876 | 98 | 215 | 41 | 4 | 20 | 100 | 9 | 9 | 6 | 55 | 6 | 128 | 13 | .245 | .299 |
年度別監督成績
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2022年 | 日本ハム | 6位 | 143 | 59 | 81 | 3 | .421 | |
2023年 | 6位 | 143 | 60 | 82 | 1 | .423 | ||
NPB:2年 | 286 | 119 | 163 | 4 | .422 | Aクラス:0回、Bクラス:2回 |
表彰
表彰 | ||
---|---|---|
ベストナイン | 3回 | 1993年、2000年、2004年 |
ゴールデングラブ賞 | 10回 | 1993年、1994年、1996年-2000年、2004年-2006年 |
月間MVP | 2回 | 1999年5月、2004年9月 |
オールスターゲームMVP | 2回 | 1999年第3戦、2004年第2戦 |
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