新潟県民歌とは、1948年に新潟県が制定した県歌である。作詞・高下玉衛、作曲・明本京静。県のサイトでは単に「県民歌」と記述されているが、制定時のレコード盤では「新民謠 新潟縣民歌」、また大半の文献では「新潟県民歌」と書かれている。
概要
1947年に公選初代知事の岡田正平が日本国憲法公布を記念して制定を提唱し、歌詞の一般公募を経て翌1948年に制定された。県民歌と合わせて新民謡「越佐小唄」の歌詞と「素人演劇脚本」の募集も行われ、このうち「越佐小唄」では詩人の関根ふみとが応募した作品が入選し、江口夜詩の作曲で県民歌と同じレコード盤のB面に収録されたが脚本部門は「入選者無し」とされている。
発表音楽会は3月28日に新潟第一師範学校(新潟大学の前身)の講堂で行われたが、入選者は遠方の福岡県在住だったこともあり、当日の表彰式には出席しなかった。
作詞者について
作詞者は福岡県在住で新潟県とは直接の縁が無い人物であったが、応募資格を「県出身・在住者に限る」と定めていなかったので県外出身者の作品を選んだことは特に問題とされなかった。
大田朋子『おもしろえちご塾』によれば、県広報課の職員が1990年代に入選者から電話で聞き取り調査を行ったところ、本人は当時ビルマから復員して来たばかりで県民歌の作詞者とされていることを「初めて聞いた」としながらも「親類が公募で自分の名義を使った可能性はある」として、実作者が別にいることを明らかにした。その「親類」の氏名は公表されていないが、同書では「福岡県を中心に校歌の作詞などを行っていた人物」とされている。
この経緯はテレビ新潟のローカルニュースでも2008年8月27日に取り上げられたことがあるが、実作者について「新潟県と縁もゆかりも無い人物が賞金目当てで応募したら入選した」かのように強調する内容だったため、福岡で取材を受けた関係者は不快に感じていた模様。
曲の特徴
創唱者は藤山一郎と前島節子で、日本コロムビアが「越佐小唄」と合わせてレコード盤を製造した。明本京静が作曲した旋律は戦後の陰鬱な雰囲気を吹き飛ばす底抜けに明るいテンポの曲調が大きな特徴となっている。
全4番の歌詞では「民主」「自由」「平和」と同時期に制定された県民歌(宮城県の『輝く郷土』や『鹿児島県民の歌』など)に共通する復興色を全面に押し出したものとなっている。
1番では県の人口を「250万」と歌っているが、制定当時の県の人口は約243万人であった。「250万」に最も近づいたのは1995年国勢調査の約248万8000人で、これ以降は減少局面に入り2015年国勢調査では約230万人となっているため実際に「250万」を達成したことは一度も無く、また達成の可能性が非常に低くなっていることが時おり問題視される(島根県の『薄紫の山脈』も3番の歌詞に同じような問題を抱えている)。意外に知られていないが、新潟県は廃藩置県が行われてからしばらくは当時の東京府をも上回る全国最大の人口(約171万人)を擁していた。
4番では日本国憲法が掲げる理念の実現が歌詞に明示されているが、他県でこのような特徴を持つのは前年に制定された(にも関わらず、現在では県から制定されたと言う事実そのものを否定されている)『兵庫県民歌』と、1951年制定で1962年に廃止され(現行のものと代替わりし)た『山口県民の歌』の歌詞Bのみである。作曲者の明本京静は後に内閣総理大臣となる中曽根康弘が作詞した『憲法改正の歌』を作曲し、安西愛子(のち参議院議員)とのデュエットで歌唱している。
こうした事情から「歌詞の内容が陳腐化している」として県議会で新県民歌への代替わりを要求する質問が行われることもあるが、県側では「新県民歌への代替わりは考えていない」としている。
現状
新潟日報の2005年3月12日付夕刊によると、県が実施したアンケートでは「歌ったことがある」が18%に留まり「そもそも存在を知らなかった」が46%にのぼったと言う結果が報じられた。この時点で「歌ったことがある」と回答したのは60代以上(43%)に集中していたが、2009年の国体開催時に開会式で演奏するためPRを強化した結果、徐々に認知されるようになっており現在ではベースベール・チャレンジリーグの新潟アルビレックス・ベースボールクラブがホームゲーム開催時に選手一同で県民歌を斉唱するようになっている。
新潟市中央区の千歳大橋では、欄干の部分に1~3番の歌詞が書かれたレリーフが新潟市の市民愛唱歌『砂浜で』のものと合わせて設置されている。
関連動画
関連商品
外部リンク
関連項目
- 0
- 0pt