新約聖書とは、キリスト教やイスラム教の聖典である。バイブル(Bible)。
概要
キリスト教やそれに由来するキリスト教系新興宗教(「関連項目」参照)、またユダヤ教とキリスト教から派生した(いわゆる「アブラハムの宗教」)の類であるイスラム教において聖典とされている書物。
キリスト教やイスラム教の信徒数の多さから、世界で最も読まれた本ではないかとも言われる。ただし具体的な数値は不明。出版数から推定するにも、一冊を複数の人物が回覧したケースや、所持したが何らかの理由で読まなかったケース(それらの宗教の文化圏に属したために所持したが興味を持たなかった者や、いわゆる「積読」など)などが考えうるため、概算すら困難である。
時に誤記されることがあるようだが「新訳聖書」ではない。別に新たに他の人が翻訳しました、ってわけではないのである。神との新しい契約という意味で「新約聖書」である。
ユダヤ教はその聖典であるヘブライ語聖書(タナハ)にも記載があるようにモーセ(モーゼ)と神(唯一神。YHVH)との「契約」をその信仰の基盤においている。この神との「契約」が新たに結ばれたと考えることから「新約聖書」と呼ばれている。
この考え方から、キリスト教においてはユダヤ教の聖典のヘブライ語聖書を「旧約聖書」として扱っている。つまり「聖典ではあるけれども旧い契約を記した内容である」と示す名称である。もちろん通常のユダヤ教徒はこの考え方を受け入れていない。ユダヤ教にとっては新しい契約なんてないのだから。ごく一部に、ユダヤ教徒であるという立場は維持しつつ新約聖書の内容も信じる人々(メシアニック・ジュー)も居るが、彼らは既にユダヤ教徒と言うよりキリスト教徒、あるいはユダヤ教の枠を外れた異端や新興宗教であるとみなされることが多い。
一方、ナザレのイエスを預言者と認めるイスラム教においては、コーラン(クルアーン)より重要性は落ちるもののやはり聖典である。キリスト教徒がコーランを燃やしてもイスラム教徒が新約聖書を燃やさないのはそういった事情もある。
現存する原本はギリシャ語。イエスはアラム語を話していたことからもわかる通り別にイエスが書いたわけではない。
内容はマタイ、ルカ、ヨハネ、マルコの四人の著者名が付いた四福音書と、使徒行伝(使徒言行録)、書簡(「エペソ人への手紙」や「テサロニケ人への手紙」など。聖書の〇〇人は基本的に『ひと』『びと』と読むのが良い。そういう人種がいるわけではない。〇〇にいる信徒たちへ、という感じである)、そしてヨハネの黙示録からなる。
意外なことに、旧約聖書と違って神そのものはほぼ出てこない。ただしキリスト教の主流派は「三位一体説」を採っているため、この説の立場に立てばイエス・キリストについて記した部分はすなわち神について記した部分でもある。
「福音書」はいずれもイエスの伝記、つまりイエスがどう生まれ、どんなことを行い、どんなことを言って、十字架で殺されて3日後に復活したという内容である。それぞれの福音書は別々の作者によって記された/編纂されたものと考えられており、各福音書で重複するエピソードも少なくない。
「使徒言行録(使徒行伝)」は初期のキリスト教徒がどのように布教していったかの記録として記載されている。
書簡はイエスの死と復活よりも後の時代に、パウロなどの複数の人物が各地の信者に当てた手紙として記載されている。
ヨハネの黙示録はこの世の終わりにどんなことが起きるかが書かれており、いわゆる「終末論」的内容である。終末論を教義に取り入れたカルト宗教や、ダークな雰囲気を好む中二病患者に好まれる。ただし、執筆された当時の権力者によるキリスト教弾圧について暗喩を用いて記した内容であるとする解釈もある。
このように、後半はあんまりイエスが出てこない。
成立時期は、章にもよるが西暦60年頃から100年頃だと言われている。わりとイエスの死後早く書かれている。
著者については、四福音書についてはそのタイトルに付いている人物であるマタイ・ルカ・ヨハネ・マルコその人、使徒言行録についてはルカの福音書と同じ著者でありすなわちルカ、書簡についてはパウロなど、ヨハネ黙示録についてはそのままヨハネが記したものと信ずるのが最もシンプルかつ伝統的な解釈である。ただし「高等批評」と言われる分析・研究の成果を反映して、これらの人物以外の著者によって記された可能性が高いと見なされる場合もある。
とはいえ、物理的な著者が誰であったにせよ、ほぼ全てのキリスト教徒から神の霊感を受けた(神の考えを反映した)重要な書物であると見なされている。
ただしその反映の方法について「神の考えが反映されているが、執筆者自身が体験したことや資料を調べて知ったことを記した書物であり、文章自体には執筆者の解釈が含まれている」という立場から、「神が執筆者に働きかけて記載させたため、文章それ自体が神の考えによるものである」という立場があり、解釈違いとして対立する。
また、それを踏まえて「聖書にも、執筆者の当時の知識などに制限されて誤りが含まれうる」という立場と、「聖書にはまったく誤りが含まれない」という立場があり、こちらも対立の種となっている。
キリスト教は古くから、ヨーロッパ大半地域を始めとした世界各地において、そこで最も勢力を持つ宗教でありつづけてきた。そのため、キリスト教の聖典である新約聖書もまたそれらの地域の歴史・文化に多大な影響を与えている。それは古い時代の話と言うだけではなく、現代でも様々な芸術作品、さらに漫画やラノベやゲームといったサブカルチャーのモチーフにされるなど、影響を及ぼし続けている。
この日本でもそれは例外ではない。よく使われることわざに「豚に真珠」「目からうろこ」があり、これが新約聖書由来とは意外に思う方も居るのではないだろうか。
種類
いろんな人が訳しており、様々な言語に訳されているし日本語の聖書でも口語のもの、文語のもの、果てには漫画化された聖書なんてのもある。
種類としては例えば以下のようなものがあるが、これはあくまで部分的な例でしかなく、他にも様々なものが存在している。
- 欽定訳聖書・・・イングランドのジェームズ王が作らせた。イギリス国教会のもの。
- 共同訳聖書・・・プロテスタントとカトリックが共同で訳した。いわゆるエキュメニカルな聖書。
- 文語訳聖書・・・広義では文語体に訳された聖書全てを指すが、狭義には1875年から1880年にかけて刊行(明治元訳聖書)され1917年に改訳された(大正改訳聖書)日本語文語訳聖書を指すことが多い。
- 口語訳聖書・・・広義では口語体に訳された聖書全てを指すが、狭義には1955年(旧約は1954年)に日本聖書協会により出版された日本語口語訳聖書を指す。前述の文語訳聖書もこの口語訳聖書も、既に著作権が切れてパブリックドメインになっているので日本聖書協会のサイトのほか、Wikisource(ウィキソース。ウィキペディアの姉妹プロジェクト)などにも全文が掲載されている。
- 新共同訳聖書・・・日本聖書協会による日本語訳。おそらく2019年1月現在の日本で最も広く使用されている聖書。日本聖書協会のサイトの「聖書本文検索
」で検索し続ければ全文がタダで読めることは読めるが手間がかかる。
- 新改訳聖書・・・上記の「口語訳聖書」が自由主義神学(リベラル)的に過ぎると感じたプロテスタント福音派からの不満を元に刊行され始めた。福音派教会ではこちらを使っていることが多いはず。幾度か更新されており、2019年1月現在の最新版は新改訳2017。
- 岩波訳・・・岩波書店は、以下の二種類の日本語訳新約聖書を別々に刊行している。
- 日本正教会訳聖書・・・日本正教会が使っている聖書。正教会は使っている用語が大きく異なるため。
- 新世界訳聖書・・・エホバの証人が使っている。エホバの証人の教義に合うような翻訳手法を採っているという批判がなされることもある。エホバの証人が無料配布することがある。
外典
「外典」という、通常は新約聖書に含まれない文書が存在している。
そもそも「新約聖書」は上記のように複数の文書をひとまとめにしたものであるが、多数存在する文書のうちどれを「聖典」として認めるかについて、キリスト教内部で喧々諤々の議論があった。その会議を経て概ね現在の形の「新約聖書」が世に出回っていくわけだが、その過程で「これは聖典に含めない」と定められたものが「外典」とされたのだった。ただしこのプロセスについて、聖書の神聖性を重要視する立場からは「新約聖書に含まれる文書はそれが記載された時点で既に聖書であった」として、会議で収録する文書を決めたわけではないとする考え方もあるので注意されたい。
「外典だから内容も偽りや誤りだろう」とは単純にいかず、「内容の真実性が疑われて外されたわけではない」文書も混じっている。また物語としては新約聖書正典に含まれているものより面白い(悪く言えば「俗っぽい」)ものも含まれており、伝説や絵画など芸術作品の元になった文書もある。そういった意味では、外典であるからと言って無視してよいとか、影響力のないものとも言えない。
これら外典にも和訳書が存在している(『新約聖書外典』。編:荒井献。本記事の「関連市場」参照)ので、興味がある方は購入して読んでみるとよいだろう。
新約聖書読んでみるか、と思った人へ
上記の「種類」の節でも触れたがインターネット上でタダで手軽に読みたいなら、「Wikisource(ウィキソース)」というウィキペディア関連のサイトにて口語訳聖書や文語訳聖書が読める。この記事の最下部「関連リンク」から飛ぼう。文語訳聖書は雰囲気があるかもしれないが、読みやすさからいって口語訳聖書の方がオススメ。
もっと新しい訳がいいなら、日本聖書協会のサイトの「聖書本文検索」で検索し続ければ新共同訳聖書の全文がタダで読めないことはない。ただし1章ずつ検索して表示し続けなくてはならないので面倒臭い。
ちなみにあなたがAmazonのKindle Unlimitedに登録済みなら、新共同訳や新改訳2017のKindle版もタダで読める。
手軽なネット上での閲覧にこだわらないなら、大抵の図書館には新約聖書はあるので近所の図書館で借りればタダだ。別にそんなに高価な代物でもないので、タダにこだわらないならこの記事の「関連商品」から好みの訳を買ってもよい。
「新約聖書は、旧約聖書を踏まえた内容を含んでいる。だから旧約聖書から読むべき」という意見もあるだろう。だが旧約聖書は律法など退屈な記述を列記していてぶっちゃけ眠たくなりそうな部分や、現代日本人の感性でそのまま読むとドン引きしかねないような過激なところも多いので投げ出しかねない。もちろん旧約聖書から読んだ方が理想的ではあるだろうが、とりあえずキリスト教についてザッと知りたいだけなら新約聖書からでもいいだろう。興味がわいたら旧約も遡って読めばいい。
ただし新約聖書を読む前に知っておいてほしい基礎知識として「福音書は同じような話が繰り返し出てくるせいで、あまり面白くないかもしれない」という点がある。そう書くといろんな人から怒られるかもしれないが、実際さまざまな面白いフィクション作品に晒されている現代の日本人が「退屈まぎれに読んでやるか」という軽い気持ちで手を出すと「やっぱりいいや……」と脱落してしまいかねない。何しろ四福音書はどれもイエスの伝記なので、同じような話が繰り返し出てきたりもするのだ。「は?さっき読んだわこの話。ふざけてるの?」とイライラするかもしれない。
だがこれには、「イエス・キリストの言行を余さず記録するため、別々の著者による四つの記録を、重複も含めて全て収録した」という事情がある。このことを知っていれば「おお、この話はさっきの章でも出てきたな。どこに違いがあるのか見比べてみよう」といった楽しみ方も生まれるはずだ。
それでも投げ出しそうなら、とりあえず「使徒行伝(使徒言行録)」と続き物になっている「ルカによる福音書」だけ読んで「使徒行伝(使徒言行録)」に移ってはどうだろう。他のマタイ・ヨハネ・マルコは後で読み返す気になったらその時にルカじゃなくてそちらを読むことにすればいい。
「使徒行伝(使徒言行録)」は物語になっているのでまあまあ面白く読める(かもしれない)。
「書簡(~への手紙シリーズ)」は、ある人から特定の人々に宛てて書いた内容なので、その背景を知らないとさっぱりピンと来ないかもしれない。Wikipediaあたりのざっとした解説をチラ見しつつ読むか、もういっそのこと読み飛ばそう。「もしキリスト教徒になったら、そのとき読み返す」とかでもいいはずだ。
「ヨハネ黙示録」は、しばしば厨二創作やらホラーやらに影響を与えているようにダークな雰囲気とファンタジックな描写が多く、日本人のオタクが読むなら「あ、ここはアレの元ネタだな」などと面白く感じられるかもしれない。だが、ちょっとばかり描写や言動が苛烈である。「打ち殺そう」とか出てくるし。影響されやすいとか怖がりだという自覚がある人は、ここは読まないという選択肢もありだ。
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