「新納忠元」(にいろ・ただもと 1526 ~ 1611)とは、戦国時代の薩摩国島津家に仕えた武将で、文武両道に長け、連歌等の教養にも通じた島津家に無くてならない「島津四勇将」の一人として島津家の看経所に名を残し、島津家の5代(島津忠良・島津貴久・島津義久・島津義弘・島津忠恒)に仕えて80歳を越えても生涯現役を通した重臣であり、小柄の体格ながら、武功の数々や高い教養により島津家臣として最初に指折り数えられるところから「大指武蔵」「親指武蔵」と言われる薩摩のドワーフ。
島津四勇将 |
新納忠元 |
鎌田政年 |
川上久朗 |
肝付兼盛 |
概要
子供の頃に島津忠良に落ち延びた父に従い、13歳で島津忠良に仕え、島津忠良の子・島津貴久と共に島津忠良の薫陶を受けて育てられ、知勇兼備の将として頭角を現し、島津忠良からは島津家になくてはならない「島津四勇将」の一人に数えられた。
菱刈隆秋を攻略した後は大口を所領とし、続いて島津貴久・島津義久・島津義弘・島津忠恒と5代に渡って仕えて重臣を歴任した他、九州の桶狭間・木崎原の戦いや肥後・相良氏との戦い、そして龍造寺隆信との決戦の舞台・沖田畷の戦いで活躍し、豊臣秀吉の九州征伐においても徹底抗戦を主張し最後まで抵抗し続け、関ヶ原の戦いには参加しなかったものの老齢ながらも戦後の加藤清正の侵攻に対して国境を固める等の猛将ぶりを現し、武蔵守を自称した事から「鬼武蔵」と呼ばれた。
※「大指武蔵」「親指武蔵」とも称されていたが、これは、いくら新納忠元がドワーフな体格だといってもそこまで小さかったと言うわけではなく、歴戦の武功から島津家臣の中で最初に名前が挙がるところを、指を折って数える事と重ねて「大指武蔵」「親指武蔵」と称したものである。
また、武辺者一辺倒ではなく、高い教育を受けた島津忠良の薫陶もあってか、和歌や連歌を嗜み、豊臣秀吉への人質として京都で過ごした際には細川幽斎と誼を通じて古今伝授を受けたり、戦場であっても「古今集」「源氏物語」などを愛読する等、南国薩摩にありながら高い教養と礼節を誇った文化人でもあり、80歳を越えても生涯現役を通して島津家久(島津忠恒)の島津藩の士風教育の為の「二才咄格式定」を現した後、1611年に生涯現役の人生を終えた。
新納忠元危篤の報を受けた島津義久・島津義弘・島津忠恒は、神棚に灯明を点じてその平癒を祈ったという。
※その他「新納忠元」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
鬼武蔵・大指武蔵・親指武蔵
小柄でがっちりしたドワーフ体型もあって戦場で武功を重ね、島津家臣の中にどういった人物がいるかを語る時に最初に名前が上がる事から、指折り数える事と重ねて「大指武蔵」「親指武蔵」と称された新納忠元は、島津貴久と共に薩摩統一の為に奮戦し、島津義久の代には薩摩・大隅・日向の三州統一の為の戦いに参陣して肝付氏や伊地知氏を帰順させ、大口城主として地味に良将の多い肥後・相良氏相手の備えとして配置され、水俣城を落城させた事から相良義陽を島津家に従属させ、日平城、安楽城を抜き、合志城、御船城、島原城、田尻城が相次いで島津氏に帰順させた事からその有名は九州全土に響き渡った。
※龍造寺隆信との沖田畷の戦いでは、先に肥前での戦いで病気の自分に代わって出陣して戦死した嫡男の新納忠尭の弔い合戦とばかりに奮戦し、島津家久に釣り上げられた龍造寺隆信は戦死した。
豊臣秀吉の九州征伐の際も徹底抗戦を主張し、島津義久・島津義弘の降伏をもっても抗戦の姿勢を崩さず、島津義久の説得によりようやく降伏し、島津義久と共に出家して京都で島津家から豊臣家への人質生活を送るが、豊臣秀吉に拝謁した際に、鬼武蔵の武勇を知る秀吉より酒を賜り
余に再び刃向かうことあるか
と問われて、
主人島津義久が立ちあがるならば、また戦います。
しかし主人島津義久は交わした約を絶対に違えず、絶対に裏切らないのでその機会は無いでしょう。
と言い切り、まさに鬼としか言いようの無い気迫は長い間語りぐさとなって薩摩隼人を励ましたと言われている。
礼節を弁えた清廉の士
「鬼」と例えられた新納忠元だが、武勇一辺倒ではなく、礼節も弁えた人物でもあり、牛根城の戦いでは一年以上も篭城を続ける敵方を降伏させる為に自ら人質として赴いた他、九州征伐後に豊臣秀吉に拝謁した際も、数々の戦功で大名に取り立てられても不思議ではなかったが、長年の所領である大口の知行で満足し、実際に取り立てようとした豊臣秀吉からの要請に応える事はなく丁重に断りを入れている。
また九州征伐の際の戸次川の戦いでは、四国連合軍を率いる仙石秀久を遁走させ、乱戦の中で長宗我部元親の嫡男・長宗我部信親が八木正信に討ち取られた際に、その遺骸を取り戻す為に戦闘がまだ継続している中を引き取りに自陣を訪れた自分と同じ名に「忠」の字を刻む谷忠澄に対して、敵であるはずの長宗我部信親の死を、戦場の習いとはいえ若き命を散らせた事とその死により四国の英雄が悲しんでいる事に対して涙を流して陳謝し、僧侶を同行させて遺骸を土佐岡豊城まで丁重に送り返した逸話には、新納忠元が礼節を弁えた薩摩隼人である事を現していると言える。
老齢となり家中の留守を預かる身となってからは、朝鮮の役に薩摩の将兵の多くが出陣し戦役が長引いた為、青少年の風紀が乱れた事に心を痛め、自らが幼年の頃に薫陶を受けた島津忠良に習って、「二才咄(にせばなし)」と呼んでお互いに胸襟を開いて何でも話し合える場を設け、町田久倍や長寿院盛淳らとともに、
といった事を定めた「二才咄格式定目(にせばなしかくしきじょうもく)」を1596年元旦に直筆し、その違反者は親類中までも罰するという厳しさがありながらも、要を得て解りやすいたこの条目は、若き薩摩隼人の心を得て日常の実践項目となり、島津忠良の「日新公いろは歌」と共に、郷中教育の原点とされる規律となった。
※同じ「鬼武蔵」の異名をとった戦国武将として森長可がいるが、武勇オンリーで平素の気性も荒く、織田信長の家臣と言う事で知名度は高いのだが、武勇・教養・礼節に足る新納忠元と比べられると涙目になるのは必定だと思われる。
南国の教養人
薩摩と言う僻地の武将でありながらも、高い教養と知識を備えた美人の「常盤」から教育を受けた島津忠良の薫陶を受けた事もあって、新納忠元は武勇のみではなく茶道・歌道にも通じ、戦場において古典や源氏物語を読む等の教養の高さでも知られる人物であり、特に和歌・連歌については面白い逸話にあふれている。
相良氏の大黒柱・犬童頼安と水俣城で戦った際には、篭城する犬童頼安へ向けて、新納忠元が
秋風に皆また落つる木ノ葉かな
と「水俣(みなまた)」と「皆また」を掛けて、吹きすさぶ秋風の如き猛攻により城は落ちるだろうと詠んで降伏を薦める矢文を送ると、犬童頼安からは
寄せては沈む月の浦波
と、攻めてきても月夜の荒波が岩にぶつかるかの如く打ち砕く旨をこめた返歌を返し、お互いを認め合った。
※犬童頼安は、主君・相良義陽が親友・甲斐宗運に挑む事になってしまった際に、座して動かずに自決するかの如く討たれた事を死って悲しみ、主君戦死の地において
おもいきや 倶に消ゆべき 露の身の 世に在りし顔に 見えむものとは
と詠んで、親友と戦う事になった主君が死を選んだ無念さと、主君を島津家に従属せざるを得なくして親友と戦わざるを得ない状況にしてしまった事を悲しむ句を読んでいる。その後は相良義陽の子・相良頼房を盛り立てて、その死の際に7人の殉死者を出した知勇兼備の将である。
また、豊臣秀吉に拝謁し、島津義久がまた戦うというなら自分もまた戦うと言い切った後の酒宴にて、そのやり取りを見ていた細川幽斎が、白髪髭を持ち上げながら酒の大杯を飲み干したドワーフっぷりに
鼻のあたりに松虫ぞ鳴く
と威勢の良いだけだと詠んだところに、
上髭をちんちろりんとひねりあげ
当意即妙に上の句をつけて返歌し、居並ぶ諸将を感心させた。
※上の句としてあわせると、「上髭を ちんちろりんと ひねりあげ 鼻のあたりに 松虫ぞ鳴く」となる。
その後京都にて人質生活を送る間に細川幽斎と誼を通じて和歌の指導を受け、
晴れ曇る光は空にさだまらで夕日をわたるむら時雨かな
といった戦国時代の芸のデパート京都本店たる細川幽斎賞讃の一首を残している。
老齢の身として家中を守る立場となってからの朝鮮の役の際は、渡海する島津義弘・島津久保親子を送る酒宴の席にて、
あぢきなや 唐土(もろこし)までもおくれじと 思ひしことは昔なりけり
と選別の句を詠み、島津義弘は
唐土(もろこし)や 倭(やまと)をかけて心のみ かよう思うぞ深きとは知る
と返している。
※この時の新納忠元の句は、太平洋戦争中の頃に日本文学報国会が選定した愛国百人一首にも選ばれている。
その後も朝鮮に渡った島津義弘へ向けて歌を送り、島津義弘も返歌を与えている。まさに武士の粋だと言える。
戦国時代の和歌集に残る歌をいくつか詠んでいる。
妻が病没した翌年には、長年連れ添った女房が居ない事を悲しんで
さぞな春つれなき老いと思ふらむ今年も花ののちに残れば
と、春になっても花を散らせずに生き残った自分を悲しむ歌を詠んでいる。
※「つれなき」は「妻に先立たれた」の意であり、「花ののちに残れば」は、妻に死に遅れたことを含意するものである。
生涯現役
新納忠元は、85歳で死ぬまでの間現役を通し、島津忠良・島津貴久・島津義久・島津義弘・島津忠恒の5代に仕えた。
※類似に、北条早雲・北条氏綱・北条氏康・北条氏政・北条氏直の5代に使えた北条長綱(北条幻庵)がいる。
さすがに老齢を迎えて若き薩摩隼人達の帰る地を守る立場となってからでもイケイケじいさんであり、関ヶ原の戦いで島津義弘が西軍に参加して敗れた際に、肥後の加藤清正が攻め寄せてくる事を想定して国内の守備を固める際に、国内の士気を盛り上げる為の十首の歌を詠んだのだが、
一つ、 | 肥後の加藤が来るならば煙硝肴に団子会釈 | それでも聞かずに来るならば首に刀の引手物 |
二つ、 | 深きてだては胸のうち敵にもらすな此の事を | 味方味方の陣所には合図定めて告げ知らせ |
三つ、 | 御国の人は残りなく鎧甲を備へつつ | すはやといはばそのままに陣所陣所に馳せ溜れ |
四つ、 | 夜討を敵がかくるならば鉄砲を構へつつ | 大将と見えし人々をねらひすまして討ち落とせ |
五つ、 | いつも替わらぬ加藤奴が片鎌槍でくるならば | なたやまさかりとぎてててもろ鎌共に討ち落とせ |
六つ、 | 昔の人も歌ひける薩摩荒武者此の度は | 思ひ極めしことなれば岩もこがねも一砕き |
七つ、 | なかなかそちも退屈よ気をばきかせて引きとれや | いかに必死と極めても薩摩武士には勝ちやならぬ |
八つ、 | 屋敷屋敷の隅々をさがし求めて敵方の | 間者居るならそのままに縄や綱もてしばりをけ |
九つ、 | ここは所も大口よ肥後の多勢も安々と | 只一口に引き入れて口の中にてみなごろし |
十、 | 咎なき敵を法もなく殺さば後の罪作り | 弱き加藤はそのままにいざや仁愛加へおけ |
いきなり煙を伴う団子→鉄砲の弾丸をくれてやると詠い、十首目では、敵軍は弱いから丁重に扱って、死後地獄におちないようにしようと言う調子に乗るにも程がある内容の歌なのだが、これにより士気は大いに上がり、薩摩を攻めるつもりだった加藤清正は出陣を考え直し、島津義弘が帰還するまでの、そしてその後の防衛体制を整えるまでの時間稼ぎになったと言われている。さすがは南国のドワーフは、やる事が一味違った。
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※島津義弘・島津家久・立花道雪・立花宗茂・高橋紹雲・鍋島直茂はチート枠で登場。
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 67 | 政治 | 59 | 魅力 | 63 | 野望 | 60 | 教養 | 74 | ||||
覇王伝 | 采配 | 78 | 戦闘 | 79 | 智謀 | 23 | 政治 | 46 | 野望 | 60 | ||||
天翔記 | 戦才 | 160(A) | 智才 | 74(B) | 政才 | 104(B) | 魅力 | 63 | 野望 | 62 | ||||
将星録 | 戦闘 | 82 | 智謀 | 63 | 政治 | 50 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 61 | 戦闘 | 80 | 智謀 | 58 | 政治 | 42 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 75 | 智謀 | 50 | 政治 | 25 | 野望 | 69 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 75 | 知略 | 45 | 政治 | 24 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 77 | 知略 | 47 | 政治 | 24 | 教養 | 70 | ||||||
革新 | 統率 | 85 | 武勇 | 81 | 知略 | 51 | 政治 | 26 | ||||||
創造 | 統率 | 80 | 武勇 | 79 | 知略 | 67 | 政治 | 45 |
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関連項目
- 鬼武蔵/大指武蔵/親指武蔵
- 島津四勇将(川上久朗、新納忠元、鎌田政年、肝付兼盛) ※肝付兼盛は、肝付兼亮の弟肝付兼護とは別人。
- 島津忠良
- 島津貴久
- 島津義久
- 島津義弘
- 島津歳久
- 島津家久
- 島津忠恒
- 犬童頼安
- 細川幽斎
- 豊臣秀吉
- 長宗我部信親
- 谷忠澄
- 古今伝授
- 郷中教育
- 戦国時代の人物の一覧
- ニコニコ歴史戦略ゲー
- iM@S架空戦記シリーズ
- ドワーフ
関連リンク
- 鹿児島県:『敵中突破の島津義弘とその時代』 新納忠元肖像掛軸掲載
- 鹿児島県:新納忠元外四名連署起請文
- 観光スポットナビ:忠元公園 新納忠元の名を冠した公園。公園内には忠元神社もある。
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