新自由主義(英:Neoliberalism)とは、思想・信条の一類型である。
市場原理主義(英:Market fundamentalism)と批判者に呼ばれることがある。
概要
目次
- 辞書に記載されている定義
- 性質その1 株主資本主義
- 性質その2 自助論
- 性質その3 年金の削減
- 性質その4 優生学
- 性質その5 働かざる者食うべからず
- 性質その6 格差社会・階級社会
- 性質その7 覚醒剤を使用したときのような全能感・万能感
- 性質その8 社交辞令が巧みで世渡りが上手い
- 性質その9 労働者の給料の不確実性・不安定性
- 性質その10 転職市場の拡大と職場内教育の劣化
- 性質その11 専業企業と社会的分業の重視
- 性質その12 自由貿易協定に対する熱烈な支持
- 性質その13 自由貿易による自信喪失と軽蔑
- 性質その14 内需に対して国内企業が供給することの軽視
- 性質その15 資本移動の自由
- 性質その16 移民受け入れ
- 性質その17 地方切り捨てと都市国家への回帰
- 性質その18 都市国家への回帰に伴う人口空白地域の発生と治安の悪化
- 性質その19 効率化と無駄の削減に伴う凶悪犯罪者への側面支援
- 性質その20 費用に対する嫌悪
- 性質その21 転売の賞賛
- 性質その22 政治家とカルト宗教団体の癒着
- 性質その23 低い投票率の維持
- 性質その24 カルト宗教団体のような行動
- 核となる経済思想
- 基礎となった学者たち
- 親和性の高い自己啓発本
- 名称
辞書に記載されている定義
新自由主義について辞書に記載されている定義は次の通りとなっている。
政府などによる規制の最小化と、自由競争を重んじる考え方。規制や過度な社会保障・福祉・富の再分配は政府の肥大化をまねき、企業や個人の自由な経済活動を妨げると批判。市場での自由競争により、富が増大し、社会全体に行き渡るとする。ネオリベラリズム。
性質その1 株主資本主義
新自由主義の中核となる思想は株主資本主義(株主至上主義)である。「新自由主義を支持する者の全員が株主資本主義を支持している」と言い切ってよいほどである。
新自由主義の中の自由というのは、日本国憲法第29条の財産権のことを指している。日本国憲法第28条の労働三権のことを指しているわけではない。
株主資本主義は労働組合・国の現業・終身雇用への敵視、成果主義・能力主義への賛美、などで構成されている。詳しくは当該記事を参照のこと。
性質その2 自助論
新自由主義を信奉する人の中には、自助論を熱心に説いて回る人が見られる。
自助論は、①人は強くて潜在能力が高いので自助をする能力がある、②人は自助をして周囲の負担を減らすべきである、という2つの論理で構成される。この中で①は万能感を伴う認識論であり、②は道徳論である。
そして自助論は、③人は自助をするべき存在なので困っている人を助ける義務を怠っても免責される、という1つの論理が必ず派生する。この③も道徳論である。
新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は労働者の賃下げを望む思想である。そして、世の中の賃下げに対して障害となるのは「困っている人を見捨てずに助けるべきであり、そのために賃上げするべきだ」という気運である。新自由主義者はこうした「賃上げして人助けしよう」という気運を敵視しており、「賃下げして人を見捨てよう」という気運が世の中に広まることを願っている。
新自由主義者・株主資本主義者は、自助論に伴って必ず派生する「③人は自助をするべき存在なので困っている人を助ける義務を怠っても免責される」の論理が世の中に広まることを心の底から願っている。
このため新自由主義者は自助論を宣伝して回る。そして「人はいくらでも自助ができるのだから、賃上げして人助けする必要がなく、賃下げして人を見捨ててもよい」という結論を導こうとする。
自助というのは自分を助けるということであり、それは裏返すと「他人を助けず見捨てて見殺しにする」ということに直結する。新自由主義は、人を見捨てて見殺しにする性質を持つ自助という行為を重視する思想であるから、新・見殺し主義と表現することも可能である。
新自由主義の自由は、「困っている人を見殺しにする自由」である。
新自由主義者は、「人なら誰でも自助ができるはずだ」と人々に自助の可能性を指摘したり、「人は誰もが自助をするべきだ」と人々に自助を義務付けようとしたりする。そういう言動を繰り返すことで、自らに課せられた「人を助ける義務」をできるかぎり縮小し、自らに課せられた「他人を助けるために時間とお金と労力を負担する債務」をできる限り縮小しようとする。
自助という概念には「自立」「自尊」「品位」といった輝かしい正のイメージが付着しているが、「利己主義」「エゴイズム」「自分本位」といった腹黒い負のイメージも付着している。自助論を唱えつつ苦しむ他者を放置する人の姿は利己主義・エゴイズムという表現が当てはまる。新自由主義はそういう自助を重視する思想であるから、新・利己主義(ネオ・エゴイズム)と言うことができる。
新自由主義者は、不幸や退廃に苦しむ人々を見たら目をそむけ、見なかったことにして、幸福感に満ちあふれた楽天的で快活な気分を維持しようとする。そうすることで「人助けすべきという義務感」を削減し、己を助ける自助に集中しようとする[1]。こうした姿は新・現実逃避主義と表現することができる。
新自由主義者は、低技能労働者が賃下げに苦しむことに対して、自己責任という言葉を使いつつ「努力をせず己の技能を磨かないからだ」と放言する傾向にある。
新自由主義者は、賃下げによって貧困に苦しむ人たちに対して「自助をするべきだ。他人を当てにするな。公助(政府の支援)は無いものと思え」と発言する傾向がある。
自助論を熱心に支持すると、次第に「支援」「援助」「補助」に対して否定的な感情を抱くようになる。逆に言うと、「支援」「援助」「補助」に対して否定的な感情を抱く性格の持ち主は、自助論にどっぷりハマる可能性が高い。
「誰かに助けてもらえるという既得権益」を享受する人に対して激しく嫉妬する人は、自助論に飲み込まれる可能性が高い。
自助論という思想は究極の個人主義というべき思想である。そのような自助論を強く支持する新自由主義は個人主義の側面を色濃く持つ思想と見なされるべきである。
学生の学費に対して「人が学校で学んで卒業すると、その人だけが年収が増えるなどの利益を独占する。ゆえに学生のみに学費を負担させるべきだ」という考えを「個人限定型の受益者負担主義」という。自助論の支持者や新自由主義者はこうした個人主義の考えかたを大いに好む。
学生の学費に対して「人が学校で学んで卒業すると、その人だけが年収が増えるなどの利益を独占するわけではなく、周辺の人々や政府も利益を受ける。ゆえに学生のみに学費を負担させるのではなく、政府が給付金を支払うべきだ」という考えを「個人に限定しない受益者負担主義」という。自助論の支持者や新自由主義者はこうした集団主義の考えかたを決定的に嫌い、猛烈に憤怒する傾向がある。
自助論の提唱者は、「他人の援助を必要とする劣った人」を無視したり軽蔑したりしつつ、「他人の援助を必要としない優れた人」を交際相手にしたり尊敬したりして、「他人の援助を必要としない優れた人」同士で群れようとする。そうすることで「他人の援助を必要とする劣った人」のことを完全に忘却して、自分の心に残っている「人助けすべきという義務感」を削減して、己を助ける自助に全精力を集中しようとする。つまり、優れた人と劣った人の2階級に分化する階級社会を本質的に好む傾向がある[2]。
新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は成果主義・能力主義を重視して所得税累進課税の弱体化を推進する思想であり、格差社会・階級社会を出現させようという思想である。つまり、新自由主義は階級社会と相性が良い。そして自助論も階級社会と相性が良い。このため新自由主義と自助論は極めて相性が良いと言える。
新自由主義者は「自助の精神を持つ人が多いと19世紀の英国のように繁栄する。自助の精神を持つ人が少ないと1970年代の英国のように没落する」と論じて、自助の精神が繁栄の要因であるかのように扱い、自助論をひたすら賛美する。
しかし、そうした論理には疑わしいところがある。
自助論を広めて自助の精神を持つ人を増やすと、「知識が少なくて困っている人に情報を提供して助けてあげよう」という気風が失われ、人々が積極的情報提供権(表現の自由)を行使しなくなり、知識の少ない若者に教育をしなくなり、次世代が育たなくなり、その結果として社会が没落する。このため自助論を賛美することは望ましくない。
性質その3 年金の削減
加齢によって成果を出せなくなったり能力を喪失したりした老人に対して政府がお金を給付する制度を年金という。年金は年功主義(年功序列)の極致のような制度であり、成果主義・能力主義とは正反対に位置する制度である。
新自由主義や株主資本主義に染まって成果主義・能力主義に心酔する人は老人に対する年金制度を嫌い、「既得権益者の老人が社会保険料を課すという手段で若者を痛めつけている」などと老人に対する憎悪を煽る論説をしたり、あるいは「現行の年金制度は制度疲労を起こしていて将来の破綻が考えられるので今すぐに改革すべきだ」などと不安を煽る論説をしたりして、老人に対する年金支給額を減らそうとする傾向がある。
新自由主義者は老人への支援を重視する政治を嫌っており、そうした政治をシルバー民主主義(シルバーデモクラシー)と呼び、「シルバー民主主義を否定するべきだ」と激しく訴え、「若者の投票率を上げつつ『老人を憎悪する若者』が増えればシルバー民主主義を打破できる」と考え、若者に選挙の投票へ行くことを勧めつつ「老人が社会保険料の賦課という手段で若者を痛めつけている」というヘイトスピーチに近い言動をすることがある。
年金の財源は、①人々に課する社会保険料や、②政府が日銀法第4条を堅持しつつ年金特例国債を発行して得る資金である。①は政府が関与しない財源で、②は政府が関与する財源である。
新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は強力な労働組合の出現を非常に恐れる思想であり、国の現業が創設されて国内の労働運動が活発化することを非常に恐れる思想であり、大きな政府を非常に嫌がる思想であり、日本政府が日銀法第4条を堅持しつつ日本円建て国債を発行して日本円の形態の資金を獲得する方法を強硬に否定する思想である。このため新自由主義者は、政府が日銀法第4条を堅持しつつ日本円建て年金特例国債を発行して日本円の形態の資金を調達することに対して猛烈に反対する傾向があるし、年金の財源に政府が関与することを絶対的に反対する傾向がある。
新自由主義者は成果主義・能力主義に憧れを抱いており、その影響で、成果を出せなかったり能力が低かったりして生産能力が低い人を切り捨てようとする傾向が強く、弱者切り捨てを志向するところがある。「生産能力が低い老人や障害者を支援することは労力の無駄であるからそういうことをする必要は無い」と言ってみたり、「生産能力が低い老人や障害者の要求を拒否すべきだ」と言ってみたり、「生産能力が低い老人や障害者から参政権を取り上げて制限選挙を導入しろ」と言ってみたりする。
そして新自由主義者は、生産能力が低い老人や障害者に対する医療費を徹底的に削減することを主張しがちである。「生産能力が低い老人や障害者に対して資金と人員を配置するのは無駄であって効率的でないので、老人や障害者を世話する産業を縮小して廃れさせ、もっと効率的に富を生み出す産業へ資金と人員を移動すべきだ」などと主張する。
新自由主義のそういう主張に対して、「医療器具の加工は非常に難しい[3]。老人に対する医療費を拡大することで医療器具の加工という困難な作業に挑む企業が増え、国内の産業の技術力を向上させることができる。老人に対する医療費は一種の産業振興費である」という反論が寄せられることがある。
需要の中にも様々なものがあるが、医療器具に対する需要というのは産業を振興する効果が非常に強い。医者などの医療関係者や患者の家族が「できるだけ良い医療器具を作ってくれ。さもないと患者が死んでしまう!」といった具合に鬼気迫る表情で高品質の製品を要求するからである。そんな風に発破を掛けられた医療品メーカーなどの製造業者は大いに張り切ることになり、内発的動機付けを強く掛けられることになり、技術を向上させる可能性が高い[4]。
新自由主義者の言うとおりに医療費を削減すると、難しい医療器具の加工に挑戦する企業が減り、製造業の技術水準が停滞する。このため新自由主義は新・停滞主義と表現することができる。
新自由主義者が三度の飯より好む言葉は「効率」である。その新自由主義者が政府による社会保障や年金給付を目にすると「ロクな生産力もない老人にお金を注ぎ込んで人を張り付かせるのは無駄で非効率的だ」と猛反発する傾向がある。政府による社会保障や年金給付を大々的に行う政策を確定させたのは田中角栄であるので[5]、新自由主義者は田中角栄を徹底的に敵視する傾向がある。
新自由主義者は老人に対する年金や医療費を削減したがる傾向がある。「老人は生産能力が低く社会やGDPへの貢献を行っていないので、さっさと逝去してくれたら良い」とか「老人は穀潰し(ごくつぶし)であり、姥捨て山[6]に放置して口減らしして、社会の人件費(コスト)を削減した方が良い」という思想が言動の節々からにじみ出てくる傾向がある。
それに対して反・新自由主義者は老人に対する年金や医療費を重視する。「老人が逝去せずに踏ん張ると、老人に対する医療器具を大量かつ高品質に作ることになり、医療器具を作る製造業を鍛え上げる効果が生まれ、製造業の技術水準を押し上げる効果が生まれる」とか「老人は病気になりやすい存在で、病気になることで『作るのが難しい医療器具』に対する需要を作り出す存在であり、製造業が難しい加工に挑戦するきっかけを作り出す存在であり、製造業の技術水準をグイグイ押し上げるモーターでありエンジンであるので、簡単に逝去してもらったら困る」という思想を持つ傾向がある。
新自由主義者は老人に対する年金や医療費を敵視する人が多く、「老人に対する年金や医療費が多くて老人に対する社会保障が充実しているから、『子供を作らなくても老後は安泰だ』と考える人が増えて非婚化・少子化が進む」と論じ、さらには「非婚化・少子化を抑制したいのなら、老人に対する年金や医療費を徹底的に削り、または『将来に財政破綻が起こって老人に対する年金や医療費が徹底的に削られる』という言論を発信し、『子供を作らないと老後になって悲惨な目に遭う』と皆に思わせた方がいい」と論ずることがある。
これに対して反・新自由主義者は老人に対する年金や医療費を重視する人が多く、「老人に対する年金や医療費を大きい水準に維持することを宣言して『老後は安泰だ』と考える人を増やし、人々が老後への不安に備えてお金を貯め込む貯蓄をしないで済むようにして、人々に『消費に対する勇気』や『莫大な消費をすることが予想される結婚・子育てに突き進む勇気』を与えて、非婚化・少子化を解消すべきだ」と論ずることがある。
老人に対する年金や医療費に対して、新自由主義者と反・新自由主義者は決定的と言っていいほど対立している。そのことを表にまとめると次のようになる。
新自由主義 | 反・新自由主義 | |
老人をどう思うか | 生産力が低く、社会の人件費を食い潰すだけの穀潰し(ごくつぶし)である | 難しい医療器具を作る企業を鍛え上げる存在であり、製造業の技術水準を押し上げる装置である |
老人への年金・医療費をどうすべきか | 徹底的に削減すべきである。老人は逝去してもらった方が良い | 老人が簡単に逝去してしまったら、難しい医療器具の製造に挑む企業が減り、製造業の技術水準が停滞してしまうので、そうならないように老人への年金・医療費を十分に増やす |
非婚化・少子化の原因は何か | 老人への年金・医療費が増えたことである。それらが増えると『子供を作らなくても老後は安泰だ』と考える人が増える | 「将来に財政破綻が起こって老人への年金・医療費が削られる」と語って回る人々である。それらが増えると「配偶者や子供を作ると貯蓄が減り、老後は悲惨になってしまう」と考える人が増えて、非婚化や少子化が進む |
非婚化・少子化を抑制するには何をすべきか | 老人への年金・医療費を減らしたり、あるいは「将来に財政破綻が起こって老人への年金・医療費が削られる」と人々に予感させる言動をしたりして、「子供を作らないと老後は悲惨だ」と考える人を増やす | 「将来に財政破綻が起こって老人への年金・医療費が削られる」と人々に予感させる言動に対して反論し、そうした言動を駆逐する。それらが増えると「配偶者や子供を作って貯蓄が減っても老後は安泰である」と考える人が増え、結婚や子作りに突き進んで消費を増やして貯蓄を減らす勇気を持つ人が増える |
性質その4 優生学
新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は成果主義・能力主義を大いに好み、弱肉強食・適者生存・優勝劣敗・生存競争・自然淘汰といった言葉を好む傾向がある。これらの言葉は、優生学(優生思想)を連想させるものである。
成果主義・能力主義の給与体系というものは、積極的優生学(優れた者に結婚させて生殖させるべきだ)と消極的優生学(劣った者は結婚させず死滅させるべきだ)の出発点と言える。そうした成果主義・能力主義を大いに支持する株主資本主義や新自由主義は優生学の入口に立つ思想である。
性質その5 働かざる者食うべからず
新自由主義者の心の中に根を張っているのは「働かざる者食うべからず」の思想である[7]。
新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は労働者の賃下げを望む思想であり、成果主義・能力主義を望む思想である。
「働かざる者食うべからず」の格言は、成果主義・能力主義を直接的に擁護するものとなっていて、新自由主義者にとってお気に入りの格言になっている。
「働かざる者食うべからず」の格言からは「成果を挙げられず能力が低く働けない老人に年金を与えるな」という思想が生まれるので、その点でも新自由主義者にとってお気に入りの格言になっている。
人は1日24時間のなかの3分の1にあたる8時間程度を睡眠にあてる生物であり、「全く働かない時間」を大量に必要とする生物であり、本質的に「働かざる者」である。そのため「働かざる者食うべからず」の思想を語ることで、その言葉を聞く人に「自分は『働かざる者』なので飯を取り上げられるかもしれない」と考えさせることができ、萎縮させておびえさせることができる。
「働かざる者食うべからず」の思想を語る新自由主義者は、言葉を発するだけでその言葉を聞く人を萎縮させる経験をすることになる。言葉を発するだけでその言葉を聞く人を萎縮させるという経験は、本来なら、なんらかの団体に参加して色々と苦労をして権力者の座にのぼりつめてから味わうものだが、新自由主義を支持して「働かざる者食うべからず」の思想を受け入れれば全く苦労をせずに味わうことができる。
性質その6 格差社会・階級社会
新自由主義の国では必ずといっていいほど株主資本主義が採用され、株主の利益を第一に考える企業が主流となり、従業員への人件費を削って株主への配当金を増やすことを目指す企業が主流となる。
株主の意向に従って従業員への人件費をひたすら削る経営者(役員)が「V字回復の救世主」「信念の人」などと口を極めて賛美され、そうした経営者には株主たちから褒美として高額の役員報酬が与えられる[8]。
このため株主と「株主の手先となって人件費の削減に励む経営者」が高額所得者となり、企業経営に関与しないヒラの従業員が低額所得者になっていく。
さらには所得税累進課税が弱体化され、株主と「株主の手先となってコストカットに励む経営者」が高額所得を得る現象が政府によって強く肯定される。
こうして所得格差が広がり、貧富の差が広がり、格差社会になっていく。新自由主義が席巻する国では格差の拡大が顕著であり、ごく少数の人たちが勝ち組となって富を独占するようになり、大多数の人たちが負け組となって貧困生活になる。「人口の1%の人々が国富の99%を所有する」といった状態が普通のことになる[9]。
新自由主義によってごく少数の人たちが富を独占することが批判されたら、新自由主義者は次のような論理展開を行う。
まず、「人というものは所得が伸びればそれに比例して消費を伸ばす」と主張する。続いて「高額所得者を増やせば、その高額所得者が必ず高額の消費をする」と主張し、そして「高額所得者が高額の消費をすることで各企業の売上高が伸び、経済発展する」と主張していく。これがいわゆるトリクルダウン理論である。
また、「人というものは所得が伸びればそれに比例して消費を伸ばす」と主張してから、「高額所得者は頭が良くて優秀で商品に付加価値が付いているかどうかを見定める能力が高い」と高額所得者を崇拝するがごとく褒め讃え、そして「高額所得者は付加価値の高い商品を買う消費をして、『付加価値が高い商品を作る立派な産業』を育成している」と述べていく。「フランス料理は王侯貴族という高額所得者に提供する宮廷料理が基礎となっているし、ウィーンのオーケストラはハプスブルグ家という高額所得者の王族に提供する宮廷音楽が基礎となっている」などと例を挙げ、「高額所得者が付加価値の高い産業を必ず生み出すのだ」と主張していく。これもトリクルダウン理論の一形態と言える。
こうしたトリクルダウン理論の出発点となるのは、常に「人というものは所得が伸びればそれに比例して消費を伸ばす」という主張である。この主張にはあまり説得力がなく、「アメリカ合衆国の大富豪であるウォーレン・バフェットは倹約家であって消費を盛んに行っていない[10]」という反論を浴びることが多い。
ウォーレン・バフェットは新自由主義の時代に生まれた大富豪であり、「新自由主義が作り出した大富豪」と言っていいような存在であるが、その彼の生き様(いきざま)が新自由主義者のトリクルダウン理論にとって皮肉にも天敵となっている。
また、新自由主義者は「大金持ちを人為的に作りだし、その大金持ちに国際的な大活躍をしてもらって国内に富を呼び込んでもらえばいい。優秀な大金持ちに経済を引っ張ってもらい、そのおこぼれをコバンザメのごとく拾っていけばいい」と論じることもある。この主張には「金持ちへの期待感と依存心」を見てとることができる。
新自由主義者は所得税の累進課税に反対することが多いが、そのことを主張するとき、「大金持ちは頭が良くて優秀で生産力が高い存在である」と信仰するがごとく褒め称え、そして「大金持ちの足を引っ張らずに放置しておけば自動的に国家の富を増産してくれる」と語り、「大金持ちへの所得税累進課税を弱体化させることで効率的に経済発展することができる」と述べていく。大金持ちを万能の神であるかのように扱う新自由主義者の姿は、敬虔な信仰をする宗教者といった観がある。
「大金持ちが働けば働くほど富が生まれる」と信仰する新自由主義者の姿が多く見られるが、現実は必ずしもそうなっているわけではない。大金持ちが間違った働きをして巨額の損失を出す現象はしばしば見られる。「高額所得の企業経営者が、海外進出をして工場を建設することを決断したが、どうにも上手くいかず、巨額の損失を出しながら撤退した」という現象はたまに報じられる。
このように、大金持ちは決して全知全能ではないが、それでも新自由主義者は「大金持ちが働けば働くほど富が生まれる」と熱心に信仰する。
新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は企業を「倒産しにくく永続しやすい団体」に近づけることを目指している。そして「倒産しにくく永続しやすい団体」というと、その代表例は宗教法人なのである。宗教法人は宗教活動で得た法人所得に法人税が課されないので倒産しにくく永続しやすい。
このため株主資本主義は宗教法人を理想視して企業を宗教法人に近づけようとする思想と言える。新自由主義者・株主資本主義者からどことなく宗教の雰囲気を感じるのはこのためである。
平等にも機会平等と条件平等と結果平等の3種類があるが[11]、新自由主義者が優先的に潰しにかかるのは結果平等である。「いくら頑張っても結果が平等になるという社会を作れば、人々の労働意欲が蒸発して社会が停滞し、共産主義の国のように経済が麻痺する」と主張し、所得税累進課税を徹底的に否定する。
新自由主義者の望むように結果平等を潰してしまえば、自然と条件平等も崩れていく。大金持ちの子どもは高額の謝礼を払って塾に通って高学歴を得るのに対し、貧乏人の子どもは塾に通えず低学歴になる。子どもたちが社会に参加するときには学歴格差が大きく開いており、条件平等が完全に崩れることになる。条件平等が崩れてしまえば実質的に機会平等が崩れることになる。
さらに新自由主義者は条件平等を直接的に潰そうとする。「親から子へ遺産とともに知恵が継承されていくことで社会が興隆する」と主張し、相続税や贈与税を必死になって否定する[12]。
平等を破壊するときの新自由主義者は、日本国憲法第29条の「財産権の不可侵」を根拠にして、それを錦の御旗にする。「財産権を否定した共産主義国は、経済麻痺を起こして滅んだ」などと主張する。
新自由主義者の手によって平等を破壊して格差を広げると、格差社会になり、階級社会になる。
階級社会の悪いところは、人が人に気軽に話しかける雰囲気が失われ、情報の流通が阻害され、社会が停滞するところである。階級社会の典型例というとスクールカーストであるが、スクールカーストが異なっている子ども同士は全く交流せず、お互いに話しかけない。
階級社会になると、上流階級のものは「下流階級の連中に話しかけると『あいつは下流階級の仲間だ』と思われて上流階級から追い出されてしまう」と考えて、下流階級に話しかけることをためらうようになる。下流階級のものは「上流階級の人は自分とは住む世界が違う」と考えて、上流階級に話しかけることをためらうようになる。人が人に気軽に話しかける雰囲気が失われ、人々積極的情報提供権(表現の自由)を自ら封印するようになり、情報の流通が阻害され、社会が発展せずに停滞する。
平等社会を作り出す所得税累進課税の根拠の1つは、日本国憲法第21条の表現の自由である。人が人に気軽に話しかける雰囲気を作り出して、人々が持つ表現の自由を尊重し、社会の中の情報流通を促進して社会の発展を目指すために、所得税累進課税や相続税を課税し、富裕層や貴族の出現を防止し、結果平等・条件平等・機会平等が保障される平等社会を作りあげる。
逆に言うと、平等意識が芽生えて人々がお互いに話しかけやすい雰囲気を作り出せる程度の結果平等にすればいいのであって、「すべての労働者を年収700万円にして完璧な結果平等にする」のようなことを実現する必要は無い、ということになる。
新自由主義者は日本国憲法第29条の「財産権の不可侵」を尊重して累進課税を否定するし、反・新自由主義者は日本国憲法第21条の表現の自由を尊重して累進課税を肯定する。両者にはこうした違いがある。
新自由主義とは格差社会・階級社会の出現を肯定する思想であり、人々が積極的情報提供権(表現の自由)を封印する状態を肯定する思想であり、表現の自由を軽視する思想である。
新自由主義の自由は、日本国憲法第21条の「表現の自由」のことを指しているわけではない。
「日本国憲法第21条を遵守して『表現の自由』を尊重し人々の積極的情報提供権という基本的人権を保障しよう。そのために所得税累進課税を掛けて結果平等の平等社会にしよう」と提案する人に対して新自由主義者が投げかける言葉は「あいつは嫉妬しているだけだ、あいつは成功者の足を引っ張っているだけだ」というものである[13]。
基本的人権の尊重を求める人に対して「あいつは嫉妬しているだけだ、あいつは成功者の足を引っ張っているだけだ」とレッテル貼りして名誉を破壊する。これが新自由主義者の姿である。
事実(証拠を出して真実か虚偽かを判定できる具体的事象、という意味の法律用語)を摘示せずに主観的な判断を述べて相手の人格を否定するレベルで相手の外部的名誉(社会的評価)を破壊すると刑法第231条の侮辱罪に問われることになる。新自由主義者の「あいつは嫉妬しているだけだ、あいつは成功者の足を引っ張っているだけだ」とレッテル貼りする行為は人格を否定するレベルではないので侮辱罪には該当しないと思われるが、しかし、名誉を破壊する行為であることは間違いない。
性質その7 覚醒剤を使用したときのような全能感・万能感
新自由主義者が好む自助論は、①人は強くて潜在能力が高いので自助をする能力がある、②人は自助をして周囲の負担を減らすべきである、という2つの論理で構成され、③人は自助をするべき存在なので困っている人を助ける義務を怠っても免責される、という1つの論理を必ず派生させる。
この①~③の中で最も重要なのは①である。①を強調しないまま③を強調すると「か弱い存在を見殺しにする外道」といった非難を浴びることになり、さすがの新自由主義者も良心がズキズキと痛み、罪悪感にさいなまれ、憔悴した表情になり、頬に涙を伝わせることになる。
このため新自由主義者は①をひたすら強調することを日課にする。「人は強い」「人には物凄い潜在能力がある」「人には強大な生命力・生存本能が備わっている」と連呼し、人がまるでスーパーマンであるかのように宣伝する。そうした宣伝をするときの新自由主義者は全能感・万能感に満ちあふれた状態になる[14]。
覚醒剤を使用するとスーパーマンになったかのような感覚になり、「自分には強大な力が備わっている」と信じ込むようになり、全能感・万能感に満ちあふれた状態になる[15]。「人は強い」と固く信じ込む新自由主義者と、覚醒剤を使用する人には、共通するところがある。
新自由主義の自由とは「覚醒剤を使用したときのような全能感に浸る自由」である。
新自由主義者は、自らが実行する施策によって貧困層が拡大することを批判されたら、「貧困は人を助ける。貧困は人を成長させる。貧困に直面することで労働意欲が増えて人の可能性が呼び起こされる」と言って、人々が貧困生活に転落すること自体を大いに肯定することがある[16]。このように貧困を賛美する心理は、「人は強大な潜在能力を持っている」という万能感から発生している。
新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は長時間労働や労働強化を望む思想である。「長時間労働や労働強化をすると過労死やメンヘラが増えてしまう。労働者の生命と健康を守るために所得税累進課税や労働規制が必要である」という抗議を受けた新自由主義者は「人には生存本能というものが先天的に備わっている。人というものは過労死やメンヘラになる前に生存本能が自動的に発動し、労働量を自動的に引き下げて、自己の生命と健康をセーブ(保持)するはずである。所得税累進課税や労働規制など全く必要は無いのだ」と反論する。これも「人は強大な潜在能力を持っている」という万能感の1つである。
ちなみに、企業の労働強化に従った結果としてメンヘラになったり過労死したりする労働者を見かけたとき、反・新自由主義者と新自由主義者は全く正反対の判断をする。
反・新自由主義者は「企業が欲張って長時間労働や労働強化を課しすぎたから労働者が耐えきれずにメンヘラになったり過労死したりしたのだ」と判断し、企業の非を認め、さらには政府の監督が行き届いていないことを問題視する。そして「労働基準監督署への予算を増額すべき」と判断する。
一方で新自由主義者は「政府が経済に対する介入をしすぎたから、労働者が飼い慣らされて、労働者の生存本能が弱体化して、労働者の『メンヘラになったり過労死したりすることを回避する能力』が衰えたのだ」と判断し、企業の非を認めず、むしろ政府の非を指摘し、労働基準監督署への予算を削ることを要求する。
新自由主義者は何が起こっても「そうか、なるほど、政府がすべて悪い、政府への予算を削れ」と一本調子に判断する傾向がある。政府を悪者扱いすれば小さな政府を実現することができ、新自由主義の中核の思想である株主資本主義にとって有利な状況になるからである。
新自由主義者は「人は強い」と宣伝することを日課としているが、そうした行動は新自由主義者にとって好ましい効果をもたらす。
新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は労働組合の争議行為を非常に嫌がる思想であり、なんとかして労働者の争議権を制限したいと考える思想である。
そして日本の法律では、ものすごく強い労働者が争議行為をしたときに重い罰を課され、ある程度強い労働者が争議行為をしたときにやや重い罰を課され、権力らしい権力を持っていない労働者が争議行為をしたときに全く罰を課されないという傾向がある。防衛出動命令を受けた自衛隊員は日本国内でも最強の存在だが、その彼らが争議行為をすると最大で7年の懲役・禁錮を課される。非現業の公務員は権力を行使する存在なのである程度強い存在だが、その彼らが争議行為をすると最大で3年の禁錮を課される。民間企業の労働者は権力らしい権力を持っておらず弱い存在であり、その彼らが争議行為をしても全く刑罰を課せられない[17]。このため人々の間には「強い存在は争議行為が許されない」という漠然とした意識がある。
このため、人に対して「君はものすごく強い」と吹き込めば、それを聞かされた人は「自分はものすごく強いのだから争議行為をしてはいけないのだ」と思い込むようになり、争議権を自ら封印するようになる。これは新自由主義者・株主資本主義者が心から望むことである。
つまり、新自由主義者の「人は強い」という宣伝には、人々の争議権を封印する効果がある。
性質その8 社交辞令が巧みで世渡りが上手い
新自由主義者は「自分は強くて無限の能力がある」と自分に言い聞かせたり「あなたは強くて無限の能力がある」と周囲の人に言って回ったりすることを日課としているが、そうした行動は人に好感を持たれやすい。「あなたは強くて無限の能力がある」と告げることは立派な社交辞令になるからである。
新自由主義者は「あなたは強くて無限の能力がある」という社交辞令を抜け目なく言って周囲の人の機嫌をとることが上手く、社交的で世渡り上手である。
新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は労働者に過酷な仕打ちをすることを肯定する思想であり、労働者の恨みを買う可能性がある思想であり、労働者に蛇蝎のごとく嫌われる可能性がある思想である。
しかし、実際の新自由主義者・株主資本主義者は「あなたは強くて無限の能力がある」という社交辞令を日常的に口から放っていて、周囲の人々の機嫌をとることが上手いお調子者なので、さほど嫌われ者になっていない。
性質その9 労働者の給料の不確実性・不安定性
新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は解雇規制を緩和したり成果主義・能力主義の給与体系を導入したりして労働者の給与の不確実性・不安定性を実現する思想である。
給料の不確実性・不安定性が増した労働者は苦労することになる。
給料の不確実性・不安定性が増した労働者は、銀行からお金を借りることが非常に難しくなる。銀行は、所属する組織から長期にわたって安定した給料を確実に受け取る者に対して融資する傾向があり、収入が途絶える危険性がある者に対して融資しない傾向がある[18]。
ちなみに銀行がそうした態度を取るのにも一定の理由がある。収入が途絶える危険性がある者に対して融資して、債務者が返済不可能になると、「債権の不良債権化」「債権の焦げ付き」「債権の貸し倒れ」ということになる。不良債権を多く抱える銀行が出ると金融機関が連鎖的に経営不調に陥り、恐るべき大不況になる[19]。
給料の不確実性・不安定性が増した労働者は現時点での収入を超えた消費・投資といった需要行為をすることが難しくなり、「働かざる者食うべからず」の格言から派生する「現時点での収入を超えた消費・投資といった需要行為をするのは悪である」という価値観に沿った生活を強いられることになり、消費・投資といった需要行為を活発に行うことが難しくなっていく。
また、給料の不確実性が増大した人は、将来に備えて貯蓄に励むようになり、予備的貯蓄をするようになり、消費を怖がるようになり、結婚・子作りに踏み切れなくなり、少子化・人口減少の波に飲み込まれることになる。
給料の不確実性・不安定性が増した労働者は以上のような苦労をすることになるが、新自由主義者は覚醒剤を使用したときのような全能感・万能感に満ちあふれており、「人は努力すればいくらでも成功できるし、給料の不確実性・不安定性が増したとしても簡単に乗り切ることができる」と本気で信じており、全く気にしない。
新自由主義者は労働者の給料の不確実性・不安定性を愛する。「給料の確実性に恵まれている人は労働意欲を減らす傾向にあり、ダラダラ怠けて社会全体の生産性を落とす要因になる。給料の不確実性がある人は労働意欲を増やす傾向にあり、シャカリキになって努力をして社会全体の生産性を増やす原因になる」といった言い回しをして、労働者の給料の不確実性・不安定性を高めることを正当化する。
新自由主義者は「火事場の馬鹿力」「窮鼠猫を噛む[20]」「禽困覆車[21]」などの格言を好み、「人というのは追い詰められると凄い能力を発揮する。人の生存本能は強大である」という思想を持つ傾向がある。
そして、そうした思想が「労働者を窮地に追い込めば追い込むほど、労働者の生存本能を刺激することができ、労働者から凄い能力を引き出すことができ、生産力を高めることができる。労働者を窮地に追い込むことはとても良いことだ」という発想に変化していき、労働者から給料の確実性・安定性を没収する政策を強く支持するようになる。こうした新自由主義者のサディスティックな姿は新・加虐主義(ネオ・サディズム)と呼ぶことができる。
新自由主義に夢中になる者は、「人というのは、どれだけ給料の不確実性が増しても、本能に従って必ず消費行動を起こすし、本能に従って結婚や子作りをする」と楽観的に確信する傾向があり、そのため労働者の給料の不確実性を増やす政策を平気で支持する傾向がある。
言い換えると、新自由主義者の一部は「人には強大な本能が備わっており、極めて確実で安定した能力を備えている。人には『本能の安定性・確実性』があるので、人から『給料の安定性・確実性』を取り上げても全く問題にならない」と考える傾向にある。
「『本能の安定性・確実性』が存在するから『給料の安定性・確実性』を軽視すべき」と主張するのが新自由主義で、「『本能の安定性・確実性』など存在しないから『給料の安定性・確実性』を重視すべき」と主張するのが反・新自由主義である。
戦争が起こると、元気な若者が生存本能など関係無しにあっさりと死んでいく。戦争を経験して元気な若者があっさり死ぬ姿を目撃すると、「『本能の安定性・確実性』など存在しない」という思想に傾倒するようになり、反・新自由主義に傾倒することになる。
平和が長く続いて、元気な若者が生存本能など関係無しにあっさりと死んでいく姿を目撃したことがない人が増えると、「『本能の安定性・確実性』が存在する」と信じ込むことが流行し、新自由主義が世の中に次第に広まっていく。
とにかく新自由主義者は「人には強大な生命力・生存本能が備わっている」と固く信じ込む傾向がある。さらにいうと新自由主義者は「この世には健康で頑丈で生命力に満ちあふれた人だけが存在し、病気や怪我といったハンディキャップに悩まされる人など存在しない」と思い込んでいる節が見られる[22]。そうした信念から「人が生きていくにあたって政府の支援など一切必要ない」と言ってみたり、「労働者から給料の安定性・確実性を没収しても全く問題がない」と言ってみたり、「人は貧乏になっても十分に生きていける」と言ってみたりする。
人は給料の確実性・安定性に恵まれるとホッと一安心し、気持ちがくつろぐ。それが強くなるとのんびり・おっとりした人格になっていく。新自由主義者のは、給料の確実性・安定性に恵まれて安心して気持ちをくつろがせてのんびり・おっとりした人格を持つようになった労働者を目撃すると「気に入らない」という態度を示し、「自分は必死になって働いているのに、あの連中はのんびりしている」と論じ、不満の感情を激しく示すことがある。
そして、のんびり・おっとりした人格を持つようになった労働者が公的職場に勤めているのなら「緊縮財政を導入してあの職場の終身雇用を破壊して張り詰めた緊張感を作り出せ」と言い、のんびり・おっとりした人格を持つようになった労働者が企業に勤めているのなら「あの企業は株主資本主義を導入して終身雇用を破壊して張り詰めた緊張感を作り出せ」と言う。
新自由主義が蔓延する社会ではのんびり・おっとりすることが許されず、張り詰めた緊張感を持つように強いられ、将来不安におびえつつ目の色を変えて働かねばならない。
江戸時代の勘定奉行である神尾春央は「胡麻(ごま)の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と語ったとされる。それと同じように、新自由主義者も「胡麻の油と労働者は絞れば絞るほど出るものなり」と信じており、労働者に対して「成果が出なくなったり能力が低下したりしたら解雇する。終身雇用を保障してもらえると思うな」と脅して労働者に緊張感を持たせて労働者の労働力を絞り出すことを好んでいる。
新自由主義者は労働者に給料の確実性・安定性を与えることを本気で嫌がる傾向があり、「労働者に給料の安定性を与えるとソ連のようになる」と政治思想的なことを言ってみたり、「労働者に給料の安定性を与えると労働者が怠けて堕落する」と道徳思想的なことを言ってみたり、「労働者に給料の安定性を与えると企業経営が成り立たない」と経営思想的なことを言ってみたりして、相手によって言い回しを変え、あの手この手で必死に抵抗する。「日本がソ連になる」と脅してみたり、「怠け者になってはいけない」と子を叱る親のごとく説教してみたり、「こんなことでは経営できない」と泣き言を言って同情を誘ってみたりと、態度を変幻自在に変えており、相手の心理を揺さぶる話術がとても上手い。
性質その10 転職市場の拡大と職場内教育の劣化
新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は解雇規制を緩和して終身雇用を破壊したり成果主義・能力主義の給与体系を導入して年功主義(年功序列)を破壊したりする思想である。
解雇規制が緩和されると経営者が労働者を簡単に解雇できるようになり労働者が転職を強制される。年功主義が破壊されると労働者が「同じ会社に長く勤めると得をする」と考えなくなって転職を志向するようになる。
そのため新自由主義が流行る国では転職市場が拡大する。そして、転職市場の拡大に伴い、能力の低い若手労働者を初歩から教育することが流行しなくなり、能力の高い即戦力労働者を同業他社から引き抜くことが流行し、新卒採用が減って中途採用が増える。
新自由主義者が流行る国では非・管理職労働者(平社員)への教育が減っていくことになり、会社の中で手厚い教育を受けることが少なくなり、「仕事は目で見て盗め、教えてもらえると思うな」などと言い放つ者が増え、非・管理職労働者の技術が向上しにくくなる。
新自由主義者が流行る国では非・管理職労働者が職場内教育を満足に受けられず技術が低いままになって苦労をすることになるが、新自由主義者は覚醒剤を使用したときのような全能感・万能感に満ちあふれており、「人は努力すればいくらでも成功できるし、職場で教育を受けられなくなっても簡単に乗り切ることができる」と本気で信じており、全く気にしない。
新自由主義が盛んになる国では終身雇用と年功主義が破壊されて、若手従業員に対して「そのうち解雇されたり自ら進んで転職したりして会社に来なくなるかもしれない」という疑惑のまなざしを向けるようになり、「若手従業員を教育しても無駄だ」という考えが広まり、ベテラン従業員が若手従業員に対して教育する気運が弱まっていく。
新自由主義が盛んになる国では意識高い系と呼ばれる人々が出現するようになる。意識高い系の人々は「意識を高く持って自己に対する鍛錬を行おう」などと言いながら勤務時間の外でせっせと資格の勉強などをするのであるが、企業の労働者から「そのうち解雇されたり転職したりして会社に来なくなるかもしれない」と思われていて教育を満足に受けられないので仕方なくそうしている、という側面がある。
新自由主義者が流行る国では、管理職労働者(上司)に対する職場内教育も薄れていく。
いつの時代もパワハラをする悪徳上司が存在する。しかし、反・新自由主義が主導権を握る時代と新自由主義が主導権を握る時代とではパワハラ上司への対抗手段が大きく異なってくる。
反・新自由主義の時代では、パワハラを受けた従業員が軽々しく転職せず、労働組合を結成してパワハラ上司に対抗する。このため転職を斡旋する企業があまり儲からず、商売あがったりになる。上司はパワハラをすると労働組合からの突き上げを受けるので「自分はパワハラという悪いことをした。パワハラを止めよう」と思うようになる。パワハラ上司を矯正して教育する機能が強い社会になる。
新自由主義の時代では、労働組合を結成するという発想が従業員の間に浮かばず、パワハラを受けた従業員がさっさと転職する。このため転職を斡旋する企業が儲かり、商売繁盛となる。上司がパワハラをすると従業員が職場を去っていくのだが、そういう状況でも上司は「従業員が去っていくのは従業員に根性という能力がないからだ」とか「自分はパワハラなどしていないし、悪いことをしていない」と考えがちで、パワハラをする癖が直らない。パワハラ上司を矯正して教育する機能が弱い社会になる。
新自由主義者は「上司のパワハラに悩んでいるのなら、労働組合など頼りにせず、転職を斡旋する企業を頼りにして、転職してしまえばいい。規制緩和して転職を斡旋する企業を多く存在させることが職場のパワハラを防ぐための最大の対策だ」と語ることが多い。しかし労働者が上司のパワハラを苦にして転職してしまうと、転職先での評価が「上司の要求に応えられない無能」「人間関係を構築できない無能」といったものになるので、転職することに対する心理的抵抗が発生する。
新自由主義・株主資本主義による労働組合の弱体化と成果主義・能力主義で、労働者は上司のパワハラを回避するのが難しくなり、パワハラが盛んな世の中になる。
以上のことをまとめると次のようになる。
新自由主義 | 反・新自由主義 | |
上司のパワハラを受けたときに頼るもの | 転職を斡旋する企業 | 労働組合 |
「転職を斡旋する企業」の経営状況 | パワハラを受けたらさっさと転職する人が多いので、顧客が次々とやってきて商売繁盛になる | パワハラを受けても軽々しく転職しない人が多いので、顧客がやってこず、儲からない |
パワハラ上司への教育効果 | 「従業員が退職するのは従業員に根性という能力がないからであり、自分は全く悪くない」と考えがちで、パワハラが直らない | 「従業員が労働組合を通じて抗議してくる。自分は悪いことをしたのかもしれない」と考えがちで、パワハラが直りやすい |
従業員の労働環境 | パワハラを苦に転職すると転職先での評価が下がることが予想できるので、転職せずパワハラを受け続けることを選びがちで、過酷な労働環境になる | パワハラが少なくなりがちで、快適な労働環境になる |
新自由主義・株主資本主義が転職市場の拡大を肯定するときは「転職市場が拡大して転職が盛んになると労働者の賃金が上昇する」と語る傾向がある。
経済学の教科書では効率賃金仮説が紹介されている。効率賃金仮説を細かく分けると4つになるが、そのうちの2つをまとめていうと「転職市場が存在すると職場は転職を防ぐために賃金を上げるようになる。とくに、優秀な労働者が転職して劣った労働者が職場に残留する『逆選択』という現象を防ぐために優秀な労働者の賃金を上げるようになる」というものになる[23]。新自由主義者・株主資本主義者は効率賃金仮説を支持している。
しかし、現実の人々はダニング=クルーガー効果の心理を抱えていて、本当に優秀な人は自分の優秀さに気付くことができず、「自分の能力はヨソの企業で通用しないかもしれない。転職することをやめよう」などと考えがちであり、軽々しく転職に踏み切ることができない。
新自由主義者は覚醒剤を使用したときのような全能感・万能感に満ちあふれており、「人は努力すればいくらでも能力を高めることができるし、ダニング=クルーガー効果を克服して自己の能力を正確に認識できる」と本気で信じており、ダニング=クルーガー効果を考慮することが苦手である。
また、転職市場が大きいのなら、企業は「年収1,000万円の優秀な労働者が他社に転職してしまったら、それと同じぐらい優秀な労働者を同業他社から引き抜いて年収1,000万円で雇えばよい」と考えることができ、「優秀な人を引き留めるために賃金を上げようとしなくなる。こうした現象は特にプロスポーツ界でよく見られる。
このため新自由主義者の「転職市場が拡大して転職が盛んになると労働者の賃金が上昇する」という言い回しには疑わしいところがある。
性質その11 専業企業と社会的分業の重視
新自由主義は、解雇規制を緩和して、労働力が円滑に移転する社会を実現しようとする傾向がある。
解雇規制が緩和された社会と、解雇規制が維持された社会というのは、対照的なところがある。
解雇規制が緩和された社会があり、その社会の中の企業で機械化などの技術革新が進み、50人の余剰人員が発生したとする。その場合、企業は50人の人員を解雇して、本業に専念し続けることになる。企業経営の多角化を好まず、専業企業が兼業企業に変身しない。解雇された50人は他の企業に転職していく。
解雇規制が維持された社会があり、その社会の中の企業で機械化などの技術革新が進み、50人の余剰人員が発生したとする。その場合でも、企業は解雇規制があるので社員を終身雇用せざるを得ない。企業は50人の人員で新規事業を開拓していくことになり、いわゆる社内ベンチャーを立ち上げることになり、企業経営の多角化に一歩踏み出すことになり、専業企業が兼業企業に変身していく。
解雇規制が緩和された社会では企業の多角化があまり進まず、本業に専念する専業企業が増えやすい。本業に専念する企業の方が企業の能力を評価しやすく、社債や株式の値段を付けやすい。新自由主義者の好む直接金融に合致する企業である。
解雇規制が維持された社会では終身雇用の維持のために企業の多角化が進み、「本業1つと副業1つ以上を抱えた兼業企業」という企業が増えやすい。「本業1つと副業1つ以上を抱えた兼業企業」に対しては、副業を「全くの無駄」と評価することもできるし「将来に大化けするかも」と評価することもできるので、評価するのが難しく、社債や株式の値段を付けにくい。新自由主義者の好む直接金融に合致しにくい企業である。
解雇規制が緩和された社会では社会的分業を徹底しようという気運がやや濃くなり、「『餅は餅屋』ということだし、我が社でやってみるのをやめて、ヨソの会社にやってもらおう。その方が合理的だ。余計な社員は全員解雇したのでヨソの会社にやってもらうしかない」という気風がやや濃くなり、自給自足の傾向がやや薄くなる。
解雇規制が維持された社会では社会的分業を徹底しようという気運がやや薄れ、「ヨソの会社にやってもらうのではなく、我が社でやってみようか。終身雇用を保障していて社員を解雇できないので社員が余っている。その社員を活用しよう」という気風がやや濃くなり、自給自足の傾向がやや強くなる。
解雇規制が緩和された社会で新規産業が勃興するときは全く新しいベンチャー企業が起業することが主流となる。ベンチャーは、既存企業から企業経営のノウハウを引き継ぐこともできないし、既存企業から人材面や資金面での支援も見込めるわけでもないので安定感に乏しい。ただし、社員が背水の陣に立たされるので、「死にものぐるいでやる」という雰囲気はやや濃くなる。
解雇規制が維持された社会で新規産業が勃興するときは、既存の企業の中に新規部門が発生するという社内ベンチャーの形式が主流となる。社内ベンチャーは、既存企業から企業経営のノウハウを引き継ぐこともできるし、既存企業から人材面や資金面での支援も見込めるので安定感がある。ただし、社員が背水の陣に立たされるわけではないので、「死にものぐるいでやる」という雰囲気はやや薄れる。
解雇規制が緩和された社会では、それぞれの企業が簡単に従業員を解雇できるので、業績拡大のチャンスが転がり込んだときに「正社員を増やしたあとに経営不振になったら、従業員を解雇してしまえばいい。ゆえに雇用の拡大は経営の負担にならない。いくらでも雇用を拡大してよい」と考えるようになり、雇用拡大に対して積極的になり、業績拡大のチャンスに飛びつくことになる。そうした企業ばかりになるので、業績を拡大する企業が一人勝ちして独占に突き進むという現象が起こりやすく、少数の大規模企業が多くの市場占有率を占める独占・寡占の社会になる。小規模企業・中規模企業は淘汰され、弱肉強食・優勝劣敗の殺伐とした世の中になる。
解雇規制が維持された社会では、それぞれの企業が終身雇用の維持を求められるので、業績拡大のチャンスが転がり込んだとしても「終身雇用の正社員を増やすと、経営不振に陥ったときに経営の負担になる。うかつに雇用を拡大するわけにはいかない」と考えるようになり、雇用拡大に対してきわめて慎重になり、業績拡大のチャンスを見送ることになる。そうした企業ばかりになるので、業績を拡大する企業が一人勝ちして独占に突き進むという現象が起こりにくく、小規模企業・中規模企業が多く併存する社会になり、共存共栄の牧歌的な世の中になる。
解雇規制が緩和された社会では、「攻めの経営」「市場占有率を他の企業から奪い取ることを優先する経営」をする企業ばかりになり、「急成長して一攫千金を狙おう」と欲望をギラつかせる企業ばかりになる。また、小規模企業から大規模企業へ急成長する企業が発生しやすいので、株式投資をする者にとっても「濡れ手に粟(あわ)」の一攫千金(いっかくせんきん)を実現しやすくなる。
解雇規制が維持された社会では、「守りの経営」「市場占有率を他の企業から奪い取ることを優先しない経営」をする企業ばかりになり、「従業員の人生を預かっているのだし、従業員を確実に養うことが大事だ。顧客を確実に保持して経営を安定させよう」と考える企業ばかりになる。また、小規模企業から大規模企業へ急成長する企業が発生しにくく、ジリジリとゆっくり規模を拡大させる企業しか出現しないので、株式投資をする者にとって「濡れ手に粟」の一攫千金を実現しにくくなる。
以上のことをまとめると次のようになる。
新自由主義 | 反・新自由主義 | |
解雇規制 | 解雇規制の緩和 | 解雇規制の維持 |
労働者の給料の確実性・安定性 | 労働者の給料の確実性・安定性が低い | 終身雇用を維持して労働者の給料の確実性・安定性を維持する |
機械化などで余剰人員が発生したとき | 余剰人員を解雇する。企業が本業に専念し続け、専業企業のままであり続ける | 余剰人員で社内ベンチャーを立ち上げて企業を多角化させ、兼業企業に変身する |
直接金融への合致度 | 企業の能力を測定しやすく、株式や社債の価格を決めやすく、直接金融に合致しやすい | 企業の能力を測定しにくく、株式や社債の価格を決めにくく、直接金融に合致しにくい |
社会のあり方 | 社会的分業を徹底しようという気運がやや強い。「餅は餅屋、他の人に任せた方が合理的」という気運がやや強い | 自給自足の気運がやや強い。「自分たちでやってみよう」という気運がやや強い |
新規産業が勃興するときの様子 | 起業精神あふれる人がベンチャー企業を創設する。安定性がないが、死にものぐるいの気風がやや強い | 既存企業の内部に社内ベンチャーが発生する。安定性があるが、死にものぐるいの気風がやや薄い |
企業の雇用拡大に対する姿勢 | 「経営不振になったら従業員を解雇すれば良い」と考えるので、気軽に雇用を拡大する | 「経営不振になっても終身雇用を維持せねばならない」と考えるので、うかつに雇用を拡大できない |
企業の業績拡大に対する姿勢 | 業績拡大のチャンスを決して逃さない | 業績拡大のチャンスをみすみす逃す |
市場占有率の様子 | 市場占有率を急拡大させる企業が増え、大規模企業による寡占や独占が増え、小規模企業・中規模企業が淘汰される社会になる | 市場占有率を急拡大させる企業が増えず、大規模企業による寡占や独占が増えず、小規模企業・中規模企業が多く併存する社会になる |
世相 | 弱肉強食・優勝劣敗となり、殺伐とした世の中になる | 共存共栄となり、牧歌的な世の中になる |
主流となる企業経営 | 攻めの経営。市場占有率を他の企業から奪い取ることを優先し、急成長して一攫千金を狙う | 守りの経営。従業員を養うことと確実な顧客を保持することを優先する |
企業の成長 | 小規模企業から大規模企業へ急成長する企業が発生しやすい | 小規模企業から中規模企業へジリジリとゆっくり成長する企業が発生しやすい |
株式投資の魅力 | 濡れ手に粟の一攫千金が期待できる。一発当てて大儲けすることが期待できる | 濡れ手に粟の一攫千金が期待できない。一発当てて大儲けすることが期待できない |
新自由主義に好意的な経済学者の書く教科書では、「社会的分業こそが人類の発展をもたらしたのだ」と熱っぽく述べる文章がしばしば見られる[24]。また、「自給自足というのは人類の歴史における一番最初の状態である」と語りつつ、自給自足に対して「不合理」といった低い評価を与える傾向が見られる。
独占・寡占は消費者の声が生産企業に届きにくくなって消費者が不利益を受けやすくなる形態であり、望ましくない形態である。独占・寡占を防止するには、独占禁止法(反トラスト法)を制定したり公正取引委員会(公取委)の権限を強化したりする方法がある。それ以外の方法でもっとも有力なのが解雇規制の強化である。
新しい産業が生まれるとき、そうした産業へ労働力を円滑に移転させることは、どこの国にとっても重要な課題である。つまり「労働力の円滑な移転」「円滑な労働移動」「労働移動円滑化」はどこの国にとっても重要な課題である。その課題に対して、新自由主義が主導権を握る国では「解雇規制を緩和して転職市場を拡大して転職を促そう」という意見が優勢になるし、反・新自由主義が主導権を握る国では「大企業が社内の雇用を維持しつつ社内ベンチャーを立ち上げて新しい産業に参加することを促進しよう」という意見が優勢になる。
性質その12 自由貿易協定に対する熱烈な支持
新自由主義は、国境と関税をひたすら敵視し、自由貿易を極限まで推し進めようとする。FTAやRCEPやTPPといった国境の壁を取り除く自由貿易協定を好み、EUのような国境の消滅を理想視する。新自由主義はグローバリズムとの親和性がとても高い思想であり、国際主義の思想であり、国家意識が希薄な思想である。
新自由主義者は、関税を撤廃するような貿易協定を導入するとき、「世界に置いていかれる」「世界中の国が発展し、日本だけが取り残される」「日本が世界の孤児になる」「バスに乗り遅れるな」と語りかけ、不安と恐怖を煽って「意思決定の自由」を阻害して人を困惑させる言い回しを駆使する[25]。
ちなみに不安と恐怖を煽って「意思決定の自由」を阻害して人を困惑させる言い回しを駆使するのが上手い団体というと、カルト宗教団体が挙げられる。
新自由主義者は、保護関税を撤廃して自由貿易を促進するときに、「企業というのは保護関税に守られなくなって窮地に追い込まれると、生存本能が刺激され、切磋琢磨し、創意工夫の限りを尽くし、必死になって智慧を求め、頭が良くなっていき、優秀な存在に生まれ変わっていく」と述べ立てる傾向がある。
新自由主義者は覚醒剤を使用したときのような全能感・万能感に満ちあふれており、「人は努力すればいくらでも成功できるし、保護関税に守られなくなって窮地に追い込まれたとしても簡単に乗り切ることができる」と本気で信じている。
新自由主義者は、保護関税を撤廃して自由貿易を促進するときに、「自動車産業や漫画・アニメ産業といった産業はほとんど保護関税で守られなかったが、そうした産業が日本の富を生みだしている。一方で農林水産業などの産業は保護関税で入念に守られてきたが、そうした産業が日本の足を引っ張っている」と述べ立てることがある。つまり「保護関税を撤廃すると産業が成長し、保護関税を掛けると産業が劣化する」という論法である。
それに対して反・新自由主義者は、「保護関税で企業を保護すると賃上げする流れが生まれ、労働者が安定して消費するようになり、労働者の消費という巨大な需要によって産業が発展する。自動車産業や漫画・アニメ産業が発展できたのも国内の需要が巨大だったからである」と述べ立てて保護関税を重視する傾向がある。つまり「保護関税を掛けると国内の需要が増えて産業が成長する」という論法である。
新自由主義者は「世界各国が関税を引き上げて保護主義に走ると戦争が起こる。第二次世界大戦の原因は関税で作り上げられたブロック経済である」と主張する。保護主義を敵視し、「危険な保護主義」という表現を繰り返し、「保護主義の台頭を許してはならない」と訴える。
また、新自由主義者は「世界各国が関税を撤廃して自由貿易を促進すると国家間の相互依存が深まるので世界平和が実現する」と主張することがある[26]。
こうした「自由貿易を促進すると世界平和が実現する」という主張に対しては「第一次世界大戦の直前においてイギリスとドイツの間における貿易は非常に規模が大きかった。貿易が活発に行われれば戦争を回避できるというわけではない」という反論が寄せられることがある[27]。また、「2022年までロシアは自由貿易を盛んに行っていたが、それでも2022年2月24日にロシアによるウクライナ侵攻が勃発した」という反論が寄せられることもある。
後述するように、自由貿易が発展すると先進国の労働者が自信を喪失し、自信を取り戻すため攻撃的な言動を好むようになり、戦争を好む国民性へ変貌していく。そうした点を重視すると「自由貿易は戦争の原因となるものである。『危険な自由主義』と表現すべきであり、自由主義の台頭を許してはならない」ということになる。
第一次世界大戦の直前は自由貿易が盛んであり、第一次グローバリゼーションと表現されるほどだった[28]。自由主義を厳しく批判する立場の人は「自由貿易によって憎悪と軽蔑が国内に広がり、各国の国民性が戦争を好むものに変貌し、多数の死傷者を出す大戦争の原因が作られた」と批判することがある。
新自由主義者は「1991年にソ連が崩壊してロシアになり、ロシアが自由主義経済の一員になった。1940年代から1990年代まで続いた自由主義経済と共産主義経済の冷戦は自由主義経済の勝利で終わった」と勝ち誇るがごとく語り、「自由主義経済は必ず勝利する」と熱狂的に述べ、その上で「自由貿易を最大限に尊重すべきだ」と主張する。
ちなみに1948年から1994年まで続いたGATT(関税貿易一般協定)は、1930年代のブロック経済よりも自由主義を重んじるものであったが、1995年から2022年現在まで続いているWTO(世界貿易機関)よりも保護主義を認めるものであって、自由主義と保護主義の中間に位置する協定だった[29]。このため、冷戦で勝利した西側諸国のことを「自由主義経済諸国」というのは決して正確な表現ではなく、やや無理がある表現である。
新自由主義者は、自由主義と保護主義の中間に位置するGATT体制を維持した西側諸国が冷戦に勝利したのにも関わらず、その事実を無視して、「自由主義の西側諸国が冷戦に勝利した」と表現することが多い。自分たちの思想を支持しない団体が勝利したのに「自分たちの思想を支持する団体が勝利した」と宣言して手柄を横取りすることを好む。
新自由主義者は、株主資本主義を擁護するために「財産権は不可侵の基本的人権である。株主の所有権の絶対性を認めろ」などと財産権を重視する主張をすることが多いので、「自分以外の人の財産権も尊重する人たちであり、決して横取りのような真似をしない人たちである」というような印象を持たれやすい。しかし新自由主義者は、「自由主義と保護主義の中間に位置するGATT体制を維持した西側諸国」が勝ち取った冷戦勝利の手柄を平気で横取りする。
性質その13 自由貿易による自信喪失と軽蔑
新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は「協力企業に払う費用」や「労働者に払う費用」を削減しようとする思想である。そして自由貿易は株主資本主義者の願いを叶えるものである。
自由貿易を促進すると、各企業は国内の協力企業からの割高な購入をとりやめて海外の協力企業からの割安な購入に切り替えることが可能になり、「協力企業に支払う費用」を削減することが可能になる。
自由貿易を促進すると、先進国の各企業は、発展途上国の低賃金労働者が作った製品との価格競争にさらされる。そして先進国の各企業の経営者は労働者に向かって「我々経営者は、君よりも安い賃金で君と同じ働きをする労働者を、発展途上国においていくらでも見つけることができる」と言って労働者に賃下げを受け入れることを迫ったり、「発展途上国の労働者に君たちと同じ賃金を支払うと、君たちよりもずっと活発に働いてくれる」と言って労働者に賃金を維持したままの労働強化(実質的な賃下げ)を迫ったりする。そうした言葉を頻繁に聞かされる労働者たちは「自分たちは高い賃金をもらう資格があるのだろうか・・・」と自信を喪失していく。
自由貿易をすると、労働者を入念に罵倒して労働者の自信を効率的に破壊して労働者の給料を大いに下げることが可能になる。自由貿易は罵倒貿易とか自信破壊貿易と表現できる。
ちなみに、「従業員に自信を与えると賃上げの流れを生み、従業員の自信を破壊すると賃下げの流れを生む」ということはいつの時代も変わらない。従業員の自信を打ち砕いて従業員を賃下げする経営者が多く見られる[30]。
自由貿易を進めると企業における賃下げが進んでいくので、自由貿易は賃下げ貿易といっていいものである。新自由主義は、そういう自由貿易を全面的に肯定する思想であるので、新・賃下げ主義ということができる。
先進国の企業は、発展途上国の低賃金労働者の水準にまで賃下げを追求するようになるが、そうした様子は底辺への競争と表現される。
自信を喪失した人間は自分以外の誰かを攻撃することで自信を取り戻そうとする習性があるのだが、自由貿易によって自信を喪失した先進国の労働者たちもそういう習性を持っている。ネット上で、あるいは政治活動で、もしくは経済論議で、対立相手を過度に攻撃する行為に傾倒するようになる。その結果として、先進国で憎悪(ヘイト)が広がり、憎悪言動(ヘイトスピーチ)や憎悪犯罪(ヘイトクライム)や憎悪主義(ヘイト主義)が盛んになり、社会の分断が深まっていく。
新自由主義がはびこる国では、攻撃的言動を繰り返す政治指導者が大人気となる[31]。外国に対して喧嘩腰で対応したり国内の対立政治勢力を痛烈に批判したりして「何かを攻め立てる姿」を周囲に見せつける政治家は、労働者たちによって熱心に支持されることになる。自由貿易による賃下げ圧力で自信を破壊された労働者は、何かを攻撃することで自信を取り戻したいと思っている。そうした労働者が攻撃的言動を繰り返す政治指導者を見ると「自分のしたいことを実現している人」と思い込み、熱心に支持するようになる。
新自由主義がはびこる国では、名誉毀損罪や侮辱罪で訴えるスラップ訴訟をしたり、「彼らは我が国を貶めているだけである」とレッテル貼りしたりして、論争相手の「表現の自由」を攻撃する政治家が増える[32]。自由貿易による賃下げ圧力で自信を破壊されていて何かを攻撃することで自信を取り戻したいと思っている労働者は、そうした政治家を見ると「自分のしたいことを実現している人」と思い込み、深く尊敬することになる。
新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は成果主義・能力主義の導入や所得税累進課税の弱体化を望む思想であり、格差社会・階級社会の出現を望む思想である。そして階級社会というのは人々の積極的情報提供権(表現の自由)を封じ込める社会である。つまり、新自由主義は表現の自由の抑制と相性が良い思想である。新自由主義の時代で躍動する政治家がスラップ訴訟や「あいつは我が国を貶めている」というレッテル貼りで相手の表現の自由を潰しに掛かるのも、新自由主義の特色が出現した現象と捉えることができる。
新自由主義がはびこる国では、自由貿易とそれに伴う賃下げによって労働者の自信が破壊され、労働者が自信を取り戻すため攻撃を好むようになる。そして実際に凶悪犯罪をして人を攻撃することがある。賃下げによって生活がすさみ、財産や身内などをことごとく失い、失うものが何もない状態になって凶悪犯罪に走る者のことを「無敵の人」ということがある。
自信を喪失した人が自信を取り戻すには、何かに対する攻撃的な言動をするだけではなく、何かに対して見下して軽蔑する心を持つことも有効な手段である。
このため、新自由主義で自信を破壊された労働者は、自分よりも劣った存在を見下して軽蔑することを積極的に行うようになる。「君のような劣った人と同格であると周りに思われたくない。だから君は自分に話しかけないでくれ」とか「君のような劣った人と一緒に行動すると自分の評判が下がる。だから君と一緒に行動するつもりはない」といった軽蔑心のこもった言動を行うようになる。
また、新自由主義者は、自信を破壊された労働者が「自分よりも劣った存在」を見下して軽蔑する行動を制止するわけではなく、むしろ同調する傾向がある。新自由主義者はとても熱心に「自分よりも劣った存在」を見下して軽蔑する行動を行う[33]。こうした姿は新・軽蔑主義ということができる。
そうした人々の行動が集積すると階級社会が形成されるようになる。階級社会というのは人類史において古代や中世に見られた社会形態である。新自由主義は、「新(Neo ネオ)」という言葉を看板に掲げているので時代の最先端を走っている思想であるかのような印象を与えるが、実際は復古的なところがあり、「復古主義」「回帰主義」「逆戻り主義」といった観がある。
古代・中世といった古い時代の階級社会に回帰するのが新自由主義である。英国の小説家ジョージ・オーウェルの『1984年』という作品では「戦争を企画する平和省」「嘘を拡散する真理省」「拷問する愛情省」というものが登場するが、「古い時代に逆戻りする新自由主義」というのはそれらと類似した存在である。
「人が人を軽蔑することが盛んに行われる社会」では、人々の間に「自分よりも劣った存在を残しておいて、軽蔑の対象を残しておきたい。そうしておけばいつでも軽蔑して自信を取り戻すことができる」といった軽蔑対象の確保を求める心理が生じる。あるいは「誰かに対して教育すると、自分の無知が露わになり、他の人に軽蔑されるかもしれない」といった警戒の心理も発生する。それらの心理により、「困っている人を見つけたら親切に情報を提供して親身になって教育する」といった気運が失われ、困っている人を冷笑しつつ放置する社会になる。
新自由主義が盛んになる国では終身雇用が破壊されて、若手従業員に対して「そのうち解雇されたり転職したりして会社に来なくなるかもしれない」という疑惑のまなざしを向けるようになり、「若手従業員を教育しても無駄だ」という考えが広まり、ベテラン従業員が若手従業員に対して教育する気運が弱まっていく。
「新自由主義の流行によって人が人を軽蔑することが盛んに行われ、困っている人を教育せずに放置する社会」と、「新自由主義によって終身雇用が破壊され、若手従業員を教育せずに放置する企業」というのは、親和性がある。
「人が人を軽蔑することが盛んに行われる社会」では、何らかの危機が差し迫っていることをひたすら主張し、危機感や危機意識をしっかり持つ人が現れやすい。特に、「迫り来る危機について大衆は気づいておらず、自分たちだけが気づいている」という陰謀論を主張する人が現れやすい。
「自分を含むごく少数の人が危機感を持っていて、自分以外の大多数の民衆は何も気づいていない」と脳内設定することで、「危機感を持っていない大多数の民衆」への軽蔑を無限に行って自信を取り戻すことができる。さらには選民意識を持つことができ、世の中の階級の最上部に君臨しているかのような優越感にひたることができ、貴族に成り上がったかのような気分になり、陶酔感を得ることができる。
ちなみに「人が人を軽蔑することが盛んに行われる社会」の中で最も手軽に行われる軽蔑は「容貌がブサイクな人に対する軽蔑」である。つまり「ルッキズム(lookism 容貌・外見による差別)に基づく軽蔑」である。
相手の能力を理由として相手を見下して軽蔑するのは、相手の能力を分析するという面倒な手間を掛けねばならず、あまり手軽に軽蔑できない。一方で、相手の容貌・外見を理由として相手を見下して軽蔑するのは、相手の能力を分析するという面倒な手間を掛ける必要がなく、とても手軽に軽蔑できる。
また、「人が人を軽蔑することが盛んに行われる社会」の中で「容貌がブサイクな人に対する軽蔑」に次ぐ手軽さを持つ軽蔑は「外国語を理解できない人に対する軽蔑」である。
外国語を理解できるかどうかの能力はすぐに判明する。意識高い系と呼ばれる人たちのようにビジネスの会議で外国語を使用してみたり、大きなイベントの標語に外国語を使用してみたりする[34]。そうした外国語を理解できずにキョトンとした表情をする人を見つけたら、すぐさま「外国語を理解できない人に対する軽蔑」をすることができる。
自信を喪失した人が自信を取り戻すには、何かを攻撃したり何かを軽蔑したりするだけではなく、「型破りな行動をしてやりたい放題のワガママを押し通す権力者」を見ることも重要である。
新自由主義・株主資本主義が流行する国では、イタリアのシルヴィオ・ベルルスコーニ首相やアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領のような経営者出身の政治家が目立つようになる。自由貿易により自信を失った労働者達は、経営者出身の政治家が型破りな行動をしてやりたい放題のワガママを押し通している姿を見ると、「凄い存在だ」と憧れ、「自分もあんなことができるだろう」と考えるようになり、自信を回復していく。
性質その14 内需に対して国内企業が供給することの軽視
新自由主義・株主資本主義が優勢な国では、政府が緊縮財政を採用して国内の官公需[35]が減少し、労働者の賃下げが進んだり労働者の給料の不確実性が増して労働者が貯蓄志向に走ったりすることで国内の民需[36]が減少し、内需[37]が減少していく。
新自由主義者は「内需が増えると、不足する国内供給を増やすため原材料の輸入が増え、不足する国内供給を補うため完成品の輸入が増え、結果として輸入が増える。また内需が増えると、輸出に回すべき完成品の商品が内需に食い潰されることで輸出が減る。つまり内需が増えると輸入が増えて輸出が減る」と論じ、続いて「固定相場制や中間的為替相場制を採用しているのなら、輸入増加と輸出減少で政府の外貨準備高が減り、国家にとって大きな損失となる。変動相場制を採用しているのなら、輸入増加と輸出減少で自国通貨が安くなり、生産に必要な原材料の輸入量が少なくなって生産が減って、国家にとって大きな損失となる。いずれの場合でも、内需は国家の損失をもたらすものであり、できるだけ削減すべきである」と論じ、内需を敵視する傾向がある[38]。
新自由主義者が重視するのは外需[39]である。「外需に対応して輸出を増やせば、固定相場制や中間的為替相場制を採用しているのなら政府の外貨準備高が増えるし、変動相場制を採用しているのなら自国通貨が強くなって生産に必要な原材料の輸入量が増えて生産が増加する。外需は、政府の外貨準備高の増加か、または生産の強化をもたらすものであり、できるだけ増加させるべきである」と論じて外需のことを宝石のように扱う。
そして「日本の人口は1億2512万人で、日本を除く全世界の人口は77億5000万人ぐらいである。ゆえに内需にこだわらず、狭苦しい日本市場に閉じこもらず、ひたすら外需を狙っていくのが経済戦略として正しい道だ」と主張し、TPPやFTAといった貿易協定を結んで海外市場の開拓に励もうとする。このため、新自由主義者が経済を主導すると内需が縮小して外需が拡大していき、外需依存の国になる。
外需を拡大するためにTPPやFTAといった関税撤廃型の貿易協定を結ぶと、貿易相手国の関税を引き下げて外需の拡大に成功するが、その代償として自国の関税も下がって、「内需に対して国内企業が供給する」ということが難しくなっていく。
新自由主義者は内需だけでなく「内需に対して国内企業が供給する」ということも敵視する傾向がある。「内需に対して国内企業だけが供給する状態だと、政府が市場を統制したり民間人同士で談合したりして競争原理が働かなくなり、製品価格が上昇し、製品の品質が陳腐化していく。ゆえに内需に対して国内企業が供給することを削減し、内需に対して海外企業が自由に参入できるようにしよう」と主張する。
ちなみに「内需に対して国内企業が供給する」というのは消費者と生産企業の距離が近い形態である。内需に対して国内企業が欠陥商品・イマイチ商品を販売した場合、消費者と生産企業の間に国境の壁や言語の壁や文化の壁がないので「欠陥商品・イマイチ商品を買わされた消費者が企業の本社に猛抗議する」ということが起こりやすい。消費者の苦情が生産企業に届きやすく、消費者から生産者へ「この商品のここが悪い」という情報伝達が行われやすく、消費者の苛烈な要求によって生産企業が鍛えられやすく、企業の製品の品質が向上する流れが起こりやすい。また、消費者から生産者へ感謝の言葉が届きやすく、内発的動機付けが強烈に働きやすく、企業の活気が盛んになりやすい。
いっぽう「外需に対して国内企業が供給する」とか「内需に対して海外企業が供給する」というのは消費者と生産企業の距離が遠い形態である。外需に対して国内企業が欠陥商品・イマイチ商品を輸出したり内需に対して海外企業が欠陥商品・イマイチ商品を輸出したりした場合、消費者と生産企業の間に国境の壁や言語の壁や文化の壁があるので「欠陥商品・イマイチ商品を買わされた消費者が企業の本社に猛抗議する」ということが起こりにくい。消費者の苦情が生産企業に届きにくく、消費者から生産者へ「この商品のここが悪い」という情報伝達が行われにくく、消費者の苛烈な要求によって生産企業が鍛えられることが起こりにくく、企業の製品の品質が向上する流れが起こりにくい。また、消費者から生産者へ感謝の言葉が届きにくく、内発的動機付けがあまり働かず、企業の活気が盛んになりにくい。
「内需に対して国内企業が供給すると、消費者の苛烈な要求という情報提供によって国内企業が技術力を高め、消費者の感謝の言葉で内発的動機付けがバリバリに掛かり、国内企業が世界で通用する品質の製品を作るようになる。企業を内需でシゴいてから外需の開拓をさせるべきである」「内需で国内企業を鍛えることにより製品の品質が良くなり、自然と輸出が伸びる」「内需は国内企業にとって教師である」というのがひとつの考え方であるが、新自由主義者はそういう考え方をするのが苦手である。
新自由主義者は「消費者の苛烈な要求によって生産企業が鍛えられる」と発想すること自体を苦手にしているようであり、「生産企業自身の決意や心がけによって生産企業が鍛えられる」という発想を好む傾向がある[40]。
新自由主義者は覚醒剤を使用したときのような全能感・万能感に満ちあふれており、「人は努力すればいくらでも成功できるし、消費者からの情報提供がなくなったとしても自己の決意を固めるだけで簡単に商品の品質を向上させることができる」と本気で信じている。
新自由主義・株主資本主義というのは格差社会・階級社会を出現させやすいのだが、階級社会というのは人々の積極的情報提供権(表現の自由)が封じ込められた社会である。このため、新自由主義・株主資本主義は積極的情報提供権(表現の自由)を軽視する思想ということができる。
新自由主義者・株主資本主義者に対して「内需に対して国内企業が供給するという状態は、消費者と生産者の間に言語の壁が存在しない状態であり、積極的情報提供権(表現の自由)を行使しやすい状態であるので、とても好ましい状態である」と説いても、なかなか新自由主義者・株主資本主義者たちは理解できないのだが、それはなぜかというと、新自由主義・株主資本主義が積極的情報提供権(表現の自由)を軽視する思想だからである。
戦後の日本国は製造業の躍進により奇跡的な経済発展を遂げた。その原動力の1つは、言語的・文化的に統一された状態であることを保っていて、消費者と生産者の間に言語の壁や文化の壁がほとんど存在しない状態を保っていて、消費者から生産者への情報伝達を極めて円滑に行い、消費者の助言により生産者の技術力を大きく向上させ、消費者の感謝の言葉により生産者に対して内発的動機付けを強力に掛けたことである。しかし、新自由主義者・株主資本主義者はそういう理屈が理解できず、「戦後の日本が経済発展したのは人口ボーナスを享受したから」という分析をするだけである。
新自由主義者が好む経済理論は比較優位である。比較優位とはイギリスの経済学者デヴィッド・リカードが提唱した考え方で、ごく簡単に言うと「国家は、自国の得意とする分野の生産に特化すべきであり、自国が得意としない分野において自国生産をとりやめて貿易によって賄うべきである。つまり国際分業をすべきである。そうすると世界全体の富が増大する」というものである[41]。
これを言い換えると「国家は得意分野において『内需に対して国内企業が供給する』という形態と『外需に対して国内企業が輸出して供給する』という形態を行い、不得意分野において『内需に対して海外企業から輸入して供給する』という形態だけを行うべきだ」となる。
比較優位の考え方に従うと、国家は不得意分野において「内需に対して海外企業から輸入して供給する」という形態に頼ることになり、消費者と企業の距離が遠い形態になり、消費者の要求が企業に届きにくくなる。自国消費者は、自らの要求するような高品質の製品を受けられなくなり、「望ましくない品質の製品で我慢しよう」と考えるようになり、より好ましい品質の製品を欲しがる心が弱まり、あきらめの心が強くなり、向上心を失い、文明の停滞が発生する。また、自国消費者は「生産企業に対して積極的情報提供権(表現の自由)を行使して情報を与えて生産の手助けをしよう」という意欲を失い、それに伴って情報収集権(表現の自由)を行使しなくなり、情報を持とうとしなくなり、愚かで頭の悪い存在になっていく。このため比較優位の考えは望ましくない。
「消費者の苛烈な要求により企業は製品の品質を向上させる」という考え方は製品の品質を重視する考え方であり、比較優位の考え方は製品の物量を重視する考え方である。比較優位の考え方を好む新自由主義者の姿は「質より量」という言葉が当てはまるものである。
性質その15 資本移動の自由
国際金融のトリレンマに従うと3種類の国家のみが地球上に存在することになる。そのうち1種類が資本移動を制限する国家で、残りの2種類が資本移動を自由化する国家である。
ブレトンウッズ体制が健在だった1945年~1971年は「資本移動を制限して、固定相場制または中間的為替相場制を採用し、自国の経済事情に合わせて金融政策を実行する国」の国家が多く、どこの国も資本移動が制限されていて、新自由主義の出る幕がなかった。
ブレトンウッズ体制が崩壊して新自由主義が盛んになった1980年代以降は世界中で資本移動の自由化が進み、「自由な資本移動を受け入れて、変動相場制を採用し、自国の経済事情に合わせて金融政策を実行する国」と「自由な資本移動を受け入れて、固定相場制または中間的為替相場制を採用し、他国の金融政策と連動した金融政策を実行する国」の国家ばかりになった。
資本移動が自由化されることにより、先進国の投資家が発展途上国の金融市場に乗り込んで現地の国債・社債・株式を買いあさる姿が日常のものとなる。19世紀の帝国主義・植民地主義とよく似た姿である。
資本移動の自由化の長所は、世界中の投資家から資金を集めることができ、企業の資金調達の金額が巨額になりやすくなることである。「日本の青森県の企業が公募増資して、アイスランドの投資家やブラジルの投資家がその株式を買う」という現象が起こりうる。
資本移動の自由化の短所の1つは、通貨危機が起こりやすくなって金融市場が不安定になるということである。この短所は特に中進国・発展途上国において顕著である。通貨危機をごく簡単に説明すると、A国で保有していた国債・社債・株式を売って得られたA国通貨を米ドルに両替しつつB国へ資本を移動させる投資家が大量に発生して、A国の通貨が異常に安くなりA国の輸入量が減ってA国が高インフレに苦しむことをいう。
通貨危機というと1992年のイギリス・ポンド危機、1992年のスウェーデン・クローナ危機、1997年のアジア通貨危機、2018年のアルゼンチン・ペソ危機、2018年のトルコ・リラ危機が有名だが、これらはいずれも資本を自由に移動させる機関投資家の手によって引き起こされたものである。
資本移動の自由化の短所の1つは、直接金融が過剰に発達してしまい企業に対して良質な情報を伴わずに融資・出資することが増えて企業の成長が促されなくなるという点である。これは先進国・中進国・発展途上国の区別を問わず、すべての国に関係することである。
資本移動の自由化により国家に流入する資金は、その国家において直接金融の形態で市場を通じて貸し付けられたり出資されたりする。直接金融というのは間接金融に比べて大きな欠点があり、企業に対して情報の提供が行われにくいというところである。間接金融なら融資担当の銀行員が企業の社長と定期的に会って他の業界から仕入れた情報を豊富に与えることが恒例となり企業の成長が促されるのだが、直接金融ではそういうことが起こりにくい。詳しくは直接金融の記事や間接金融の記事を参照のこと。
新自由主義・株主資本主義というのは階級社会を肯定する思想であり、人々が積極的情報提供権(表現の自由)を封印する状態を肯定する思想であり、情報の円滑な流通の重要性を認識できない思想である。このため「間接金融というのは、銀行員がお金を貸し付けるとともに情報を提供するものであり、銀行が企業を教導・教育するものであり、企業の成長を促すものである」と説かれてもそのことを理解できない。
「資本移動の自由化によって世界中の投資家から巨額の資金を集めよう」という考え方は金融の量を重視する考え方であり、「資金移動の自由化を制限して間接金融を重視して貸し手から借り手に良質の情報が届くようにしよう」という考え方は金融の質を重視する考え方である。資本移動の自由化を好む新自由主義者の姿は「質より量」という言葉が当てはまるものである。
性質その16 移民受け入れ
新自由主義が猛威を振るう国家では、人々が賃下げと長時間労働に悩まされ、終身雇用が崩壊して人々の給料の不確実性・不安定性が増加し、人々が不安定な将来に備えて予備的貯蓄に励むようになり、人々が消費を恐れるようになり、非婚化と少子化が進行し、人口が減少し、人手不足が深刻化していく。
自国の人口が減少していく現象に直面した新自由主義者は、「これは歴史の必然で、不可避である」とか「人口減少を悪いこととは考えず、決して問題視せず、肯定的にとらえて、楽天的な気分になろう」といった態度を示すことが多い[42]。
労働者に鞭を振るって労働強化するときの新自由主義者は「『不可能はない』と思え。『できない』といったら嘘になる。人の可能性は無限大だ」などと覚醒剤を使用したかのように威勢よく喋るのだが、人口減少に直面するときの新自由主義者は「人口減少を食い止めるのは不可能だ。人口減少に対して有効な対策を立てることができない。我々の可能性は無限に小さい」などと弱音を吐き、無気力そのものといった存在になる。
「賃下げと長時間労働を維持しつつ、人口減少を解決したい」と考える新自由主義者は、移民(外国人労働者)の受け入れを提唱することが多い。「移民によって国家に活力をもたらそう」などと言って、外国人技能実習制度のような移民を受け入れる法整備を進めていく。
新自由主義者は「もはや国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました」などと語りつつ[43]、移民の受け入れに力を注ぐ傾向がある。
「結婚して家庭を持って出産して子育てして人材を輸出するのは発展途上国の人たちの役割で、結婚せず家庭を持たず出産せず子育てせず自己の能力開発に専念し労働に夢中になって労働に人生を捧げるのが先進国の人たちの役割だ」といった価値観が少しずつ世の中に広まる。こうした考えかたは一種の国際分業であり、「出産と労働の国際分業」と称すべきものである。
新自由主義が蔓延する国家では自由貿易が活発に行われ、安価な輸入品に対抗するため各企業が人件費の削減に励むことになり、企業の中で労働者の自信を破壊して賃下げすることが流行する。自信を破壊された労働者は自信を取り戻すため攻撃的な言動に熱中するようになる。
新自由主義が蔓延する国家において、自信を喪失した労働者たちが外国人労働者を攻撃対象にすることは全く珍しくなく、極めて一般的である。日本各地で暴言や暴力やパワハラの被害を受ける外国人労働者の姿が見られる[44]。こうした外国人労働者が本国に帰国したあとは、日本に対する厳しい批判を行うことになり、日本の評判が一気に悪化していく。
新自由主義者は、「国家の人口が多いと、必ず国家の繁栄の原因となる」という思想を持つ傾向がある。戦後の日本がなぜ高度経済成長したかと問われると「人口が多くて人口ボーナスを享受したから」と答える傾向があるし、バブル崩壊以降の日本がなぜ経済停滞しているかと問われると「少子化が進んで人口が減少したから」と答える傾向がある。そして「日本を再生するには移民を増やして人口を増やせばよい」と考える傾向がある。
それに対して反・新自由主義者は、「国家の人口が多くても、必ず国家の繁栄の原因となるわけではない」という思想を持つ傾向がある。「労働者に給料の確実性・安定性を与えないまま移民を増やして人口を増やしても、『将来不安に備えてひたすら貯蓄に励む労働者』とか『長時間労働に忙殺されてロクに消費することができない労働者』だけが増えてさほど需要・消費が伸びない」と論じ、「労働者に給料の確実性・安定性を与える政策こそが優先されるべきだ」と論ずる。
また反・新自由主義者は、「移民というのは原住民と言語・文化が異なる人々であり、原住民との間に言語の壁や文化の壁がある人々である。移民の消費者は、原住民の企業に対して積極的情報提供権(表現の自由)を行使して『この商品のここが悪くてあれが良い』と情報提供することを行いづらく、原住民の企業に対して感謝の言葉を述べて内発的動機付けを掛けることを行いづらく、原住民の企業の生産力を鍛え上げる力になりづらい」と述べて、移民の受け入れに消極的な態度を示す。もしくは、言語教育・文化教育を入念に行って原住民と同化させることができる程度の少量に限って移民を認める。
性質その17 地方切り捨てと都市国家への回帰
新自由主義者が三度の飯より好む言葉は「効率」である。その新自由主義者が政府による地方支援を見ると、「ロクな産業もない土地にお金を注ぎ込んで人を張り付かせるのは無駄で非効率的だ」と猛反発する傾向がある。政府による地方支援を大々的に行う政策を確定させたのは1972年から1974年まで首相を務めて1980年代中盤まで日本政治において支配的地位を維持した田中角栄であるので、新自由主義者は田中角栄を徹底的に敵視する傾向がある[45]。
新自由主義者は緊縮財政を志向して財政支出を削減しようとする傾向があるが、その中でも、中央政府から地方公共団体へ渡される国庫支出金[46]を削減することを好む。
さらに新自由主義者は、地方交付税交付金[47]を敵視する傾向があり、「有力な産業がある豊かな地方公共団体に住む個人・企業から富を吸い上げて、ロクな産業がない貧乏な地方公共団体へ富をばらまく制度である」と猛批判する傾向がある[48]。地方交付税交付金の制度を廃止することや[49]、「地方交付税交付金の財源としていた国税」を全て地方税に変換してしまうことを主張する。
こうした政策は、新自由主義者の手にかかると「地方公共団体が有力企業の誘致を必死になって行うようになる政策であり、地方の自立を促す政策である」と美化され、反・新自由主義者の手にかかると「地方の荒廃をもたらす地方切り捨ての政策である」と厳しく批判される。
新自由主義者の言うとおりに国庫支出金を削減して地方交付税交付金を廃止して地方に税源を移譲すると、豊富に産業を抱える地方公共団体の財源が大幅に増えて行政サービスが充実し、豊富に産業を抱えていない地方公共団体の財源が大きく失われて行政サービスが劣化する。つまり、地方公共団体の間での格差が強烈に拡大する。
その結果として、豊富に産業を抱えていない地方公共団体から人々が脱出して、豊富に産業を抱える地方公共団体に人々が流入していく。
新自由主義者の言いなりになると、豊富に産業を抱える地方公共団体において人口が増加して労働力の供給が増え、企業が人件費を安く買い叩いて賃下げできるようになる。新自由主義者・株主資本主義者にとって地上の楽園というべき状況になる。
豊富に産業を抱えていない地方公共団体のことを俗に表現すると「恵まれない土地」となる。また、豊富に産業を抱えている地方公共団体のことを俗に表現すると「恵まれた土地」となる。
恵まれない土地から逃げ出して恵まれた土地に住み着く人々が増えると、都市国家という国家形態に近づいていく。
一方で、恵まれた土地から飛び出して恵まれない土地に住み着く人々が増えると、領域国家という国家形態に近づいていく。
都市国家というのは人類の歴史の中で最初に出現した国家形態である。中国でもヨーロッパでもメソポタミアでもインドでも、まず最初に都市国家が出現して、そのあとに領域国家が出現した。そこから考えると、「国庫支出金を削減したり地方交付税交付金を廃止したりして国家を都市国家の形態に近づけていく新自由主義者は、歴史を逆戻りさせる復古的な存在である」と見ることができる。
新自由主義は、「新(Neo ネオ)」という言葉を看板に掲げているので時代の最先端を走っている思想であるかのような印象を与えるが、別にそんなことはなく、歴史の最初期に逆戻りする復古的な思想である。
恵まれない土地に住み着いて領域国家を作り上げる行為は、冒険心・探検心・開拓心の発露と言うことができる。このため、「国庫支出金を削減したり地方交付税交付金を廃止したりして恵まれない土地に住み着く人々を支援しない新自由主義者は、冒険心・探検心・開拓心をあまり持ち合わせていない人たちである」と見ることができる。
冒険心・探検心・開拓心を持っていない状態のことを俗に表現すると「引きこもり」となる。人々が恵まれた大都市圏へ引きこもることを肯定する新自由主義は、新・引きこもり主義と表現することができる。
また、新自由主義は農業と林業と水産業(漁業)の自由化を求める思想である。海外から輸入される農産物や林産物や水産物への関税を引き下げる国際協定を結んで自由貿易を推進したり、政府が農産物や林産物や水産物の価格を統制することを廃止するように推進したりする[50]。こうした政策により、農業や林業や水産業が大打撃を受けるのだが、新自由主義者は「農業や林業や水産業がGDPに占める割合は非常に少ないので、それらの産業を潰しても全く問題にならない」という態度を示す[51]。
多くの地方公共団体にとって、農業や林業や水産業は非常に重要な産業である。新自由主義者の政策によって農業や林業や水産業が衰退し、多くの地方公共団体が「豊富な産業を持たない地方公共団体」や「恵まれない土地」に没落していく。
性質その18 都市国家への回帰に伴う人口空白地域の発生と治安の悪化
新自由主義者の言うとおりの政策を実行すると、国内に人口が極めて希薄な地域(人口空白地域)が生まれることになる。日本は雨量が多くて植物が育ちやすい国なので、人口空白地域は草ぼうぼうの湿地になったり(画像)、雑木林が生い茂る山地になったりする(画像
)。そういう場所は殺人事件などの凶悪犯罪の実行犯にとって望ましい場所であり、凶悪犯罪を犯したあとに証拠を隠滅するのに最適な場所である。人口空白地域は治安の悪化を引き起こしやすいものであり、発生させない方が望ましい。
つまり、治安の維持を優先するためには、新自由主義者の言うことを却下して人口空白地域の発生を押さえ込むことが望ましい。
新自由主義者といえば自助論が大好きで、経済的な苦境に陥った労働者を意地でも支援しようとしない傾向がある。しかし、そんな新自由主義者が無意識のうちに支援する存在があり、犯罪の証拠を人口空白地域に隠滅しようとする凶悪犯罪者である。新自由主義者は、国内に人口空白地域を作り出すことにより、「人目に付くことをひたすら恐れつつ証拠を隠滅する凶悪犯罪者」をしっかりと支援している。
凶悪犯罪者にとって、人口空白地域を作り出してくれる新自由主義者はとても頼りになる存在である。凶悪犯罪者は、「恵まれていない土地を開発するのは無駄で非効率的なので、そこから人を退避させて人口空白地域を作り出してしまおう」と主張する新自由主義者を見ると、「凶悪犯罪の証拠を安心して隠滅できるようになる」と考えて大喜びする。
新自由主義者は、労働者から給料の確実性・安定性を奪い取って労働者を不安に陥れることばかりしているのだが、その一方で、人口空白地域を作り出して凶悪犯罪者に「証拠隠滅の確実性・安定性」を与え、凶悪犯罪者を不安から解放している。
新自由主義者は、労働者に冷酷な仕打ちをしつつ、凶悪犯罪者に温かい支援の手を差し伸べている。
労働者が新自由主義者の顔を見ると「自分の給料の確実性・安定性を破壊する人だ」と察知して、陰鬱な表情になり、曇った表情になり、おびえた表情になる。一方で凶悪犯罪者が新自由主義者の顔を見ると「自分の凶悪犯罪の証拠隠滅の確実性・安定性を創造する人だ」と察知して、明るい表情になり、晴れやかな表情になり、安心した表情になる。
ここまでのことをわかりやすく表にすると、次のようになる。
凶悪犯罪者 | 労働者 | |
新自由主義が優勢な国家でどうなるか | 人口空白地域が増えて、証拠隠滅の確実性・安定性を得られる。「将来になっても隠滅した証拠が見つからない」と安心することができ、不安から解放される。温かい支援の手が差し伸べられるので、明るい表情になる | 解雇規制が緩和されて、給料の確実性・安定性が失われる。「将来に解雇されるかもしれない」と思うようになり、将来不安にさいなまれ、安心することができない。冷酷な仕打ちを受けるので、陰鬱な表情になる |
人類の歴史を振り返ると、中国でもヨーロッパでもメソポタミアでもインドでも、都市国家から領域国家へ移行していった様子を観察できる。そうした移行の原動力は、凶悪犯罪に対する恐怖心であると考えることができる。「人口空白地域を残したままにすると、凶悪犯罪者が証拠を隠滅しやすい状態が続き、治安の面で望ましくない」という恐怖心が働き、その恐怖心によって人口空白地域に人々が進出していき、領域国家が形成されていった、と見ることができる。
一方で新自由主義者は恐怖心が麻痺しており、凶悪犯罪に対する恐怖心を持ち合わせていない。このため人口空白地域を拡大させて都市国家へ逆戻りする政策を平気で支持する。
覚醒剤を使用すると恐怖心が麻痺する。このため各国の軍隊は戦争になったら覚醒剤を兵士に投与して兵士に恐怖を克服させているし、第二次世界大戦において空襲の恐怖に悩まされた民間人が覚醒剤を使用した例がある[52]。凶悪犯罪への恐怖心が麻痺して人口空白地域を平気で作り出す新自由主義者と、覚醒剤を使用する人には、共通するところがある。
新自由主義者というのは、不幸や退廃に苦しむ人々を見たら目をそむけ、見なかったことにして、幸福感に満ちあふれた楽天的で快活な気分を維持することを得意とする人たちである[53]。そうした意識を保つことで、労働者に対して情け容赦のない賃下げを実行することが可能になり、株主資本主義の実現が可能になるからである。しかし、不幸や退廃に苦しむ人々を見たら目をそむけるという意識を維持する行為には、「凶悪犯罪がこの世に存在することを意識する能力が衰えていき、凶悪犯罪への恐怖心が麻痺していく」という望ましくない副作用がある[54]。
日本国においては、昭和時代から平成時代を経て令和時代に至るまで、人口が少ない地域で公共事業を大々的に行うことが常態化している。そうした政策を象徴する言葉が「国土の均衡ある発展」や「日本列島改造論」である[55]。そういう政策に対して、新自由主義者を中心とする政治勢力が「利権政治であり、汚職政治であり、選挙で票を得るための利益誘導であり、金で票を買う行為である」などとボロクソにこき下ろすことがおなじみの風景である[56]。あるいは新自由主義者が「クマしかいない土地に立派な高速道路を敷くことは、貴重なお金をドブに捨てるような行為であり、効率的でない政策であり、無駄な政策である」といった具合に痛烈に批判するのも見慣れた光景である[57]。
それに対して反・新自由主義者を中心とする政治勢力が「人口が少ない地域の人々の雇用を守るための大切な政策である」などと擁護することも恒例である。
しかし、「人口が少ない地域で公共事業を行うことで凶悪犯罪を抑制できる」といった擁護も、反・新自由主義者にとって必要と言える。「クマしかいない土地に道路を敷くことをとりやめると、クマしかいない土地に凶悪犯罪の証拠を隠滅する者が出現するようになって治安が悪くなる」というふうに即座に言い返すことも論争において必要となる。
人口が少ない地域で公共事業を大々的に行うことで、「人気(ひとけ)の少ないところに凶悪犯罪の証拠を隠滅しても、その場所で公共事業をやられてしまったら、公共事業の工事の最中に凶悪犯罪の証拠が見つかってしまう」と人々に考えさせることができ、人々が凶悪犯罪に手を染めることを思いとどまるように仕向ける効果がある。
新自由主義者が主張するように「人口が少ない地域で公共事業をすることは無駄で非効率だから今後は決して行わない」と政府や地方公共団体が宣言すると、「人気(ひとけ)の少ないところに凶悪犯罪の証拠を隠滅すれば、その場所で公共事業を行われることもないので、その証拠が永遠に見つからず、完全犯罪が成立する」と人々に考えさせることになり、人々が凶悪犯罪に対して前向きな気分になり、人々が「凶悪犯罪をやってしまおう」と考えるきっかけを作り出すことになる。
凶悪犯罪者が犯罪の証拠品を積み込んだ自動車を運転し、人里離れた場所まで行って、人気(ひとけ)のない雑木林の前に辿り着いたとする。その雑木林の前に「このあたりは令和○年から道路を建設する予定となっています」という看板が置いてあると、凶悪犯罪者は「道路建設の工事中に証拠が見つかるだろう」と考えて震え上がる。その一方で、その雑木林の前に「新自由主義者が緊縮財政を主張して地方へ渡す国家予算を削っているので、このあたりは将来にわたって決して公共工事をしません」という看板が置いてあると「永久に証拠が見つからない」と考えて堂々と証拠を隠滅する。
この例え話のように、実際に公共事業を行わずに「公共事業の予定地です」という看板を立てるだけでも、凶悪犯罪を抑止する効果がある。
新自由主義者の政治活動によって凶悪犯罪者が暮らしやすい国家になる。新自由主義の自由とは「凶悪犯罪をする自由」である。このため新自由主義を新・凶悪犯罪主義と表現することができる。
新自由主義者といえば、労働者の賃下げを繰り返して貧困層を増やして治安が悪化する可能性を高める政策を平気で支持するし、地方公共団体への財政支出を削減して人口空白地域を作り出して凶悪犯罪の証拠を隠滅しやすい土地を増やして凶悪犯罪の発生を手助けする政策を平気で支持する。新自由主義者のこれらの行動から、「治安の良さに価値を見いださない」とか「犯罪の脅威を意識できない」という性質を読み取ることができる。
日本の政治に関する言論空間では、外国の脅威を意識できない人物のことを「脳内お花畑」と表現するのが通例だが、犯罪の脅威を意識できない新自由主義者のことも「脳内お花畑」と表現することができる。新自由主義は新・脳内お花畑主義と表現することができる。
犯罪の脅威をしっかり認識して治安を維持することを最優先する社会になると、「ド田舎に住み着いて年収の低い仕事をしていてGDPへの貢献度が低い人であっても、人口空白地域の発生を抑制して治安の維持に貢献しているのだから、国家にとってとても重要で尊い人である」という判断が世の中に広がる。つまり、世の中の人々が治安維持を意識するようになると「成果を出せず能力が低い人も尊重すべきだ」という判断が広まり、成果主義・能力主義が崩壊し、平等社会・無階級社会が出現しやすくなる。
このため新自由主義・株主資本主義者は犯罪の脅威を忘れようとする傾向があり、治安の維持を軽視しようとする傾向がある。新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は成果主義・能力主義の導入を通じて階級社会の出現を望む思想であり、犯罪の脅威をしっかり認識して治安を維持することを最優先する社会になって平等社会・無階級社会が出現したら困ってしまう思想であるからである。
新自由主義とは直接の関係がないのだが、新自由主義者の願望達成を支援する可能性を持つ政治運動があり、「一票の格差の是正を求める政治運動」という。この運動が成功すれば人口過疎の地方に住みたがる人が減り、都市部への人口流入が増え、新自由主義にとって望ましいことになる。詳しくは一票の格差の記事を参照のこと。
新自由主義とは直接の関係がないのだが、新自由主義者の願望達成を支援する可能性を持つ思想がある。それは「手つかずの自然は尊い」という思想である。
「手つかずの自然は尊い」という思想は「自然は尊い」という思想と似ているが、一致していない部分がある。
「自然は尊い」という思想は、人が林業を通じて植林する人工林もある程度まで肯定することになる。しかし「手つかずの自然は尊い」という思想は人が林業を通じて植林する人工林を否定することになり、人の手があまり入っていない天然林
や、人の手が全く入っていない原生林
を大いに肯定することになる。
「手つかずの自然は尊い」という思想は、自然に人の手を加えることを嫌がる思想であり、農業や林業を否定する思想であり、人口空白地域の創出につながりやすい思想であり、「日本において農業や林業はGDPへの貢献度が非常に少ないから縮小してしまえばいい」とか「恵まれない土地から撤退して恵まれた土地に集まればよい。それが無駄を排除した効率化というものだ」という新自由主義者の政策の追い風になりやすい思想である。
「手つかずの自然は尊い」という思想を持つ人の中には「手つかずの自然に対して感じる畏怖心や恐れ敬う心は、人類が持つ原始的な感情である」といった思想を持つ人がいる。
「手つかずの自然は尊い」という思想によく似た思想として、「手つかずの自然の奥深くに、豊かに水が湧き出てくるような静かで清浄で神聖な場所がある。そうした場所についてのイメージが日本人の魂の奥底にひそかに残っていて、日本人は『逝去したらそこに帰りたい』と誰もが考えている」という思想がある[58]。つまり「手つかずの自然がすべて尊いというわけではないが、手つかずの自然の中に尊い場所がある」という思想である。
これらの思想に対して批判的な人は「手つかずの自然のなかに凶悪犯罪者が犯罪の証拠を隠滅することがある。手つかずの自然は凶悪犯罪の温床になりやすいものであって、危ない場所である。手つかずの自然はものすごく尊いわけではない」と言ってみたり、「手つかずの自然に立ち入る人は、『ここで遭難したら誰にも見つからず、あの世行きになる』と直感して遭難への恐怖心が心の中に湧き起こる。そうした遭難への恐怖心を『手つかずの自然に対する畏怖心』に錯覚しているだけではないか」と言ってみたりする。
新自由主義・株主資本主義といえば、国の現業を民営化して「政府の費用」を目一杯削減することを追求する思想である。そして、国の現業を民営化することの代表例が国鉄の民営化である。
民営化された鉄道会社は株主から「不採算部門を廃止して費用を減らして税引後当期純利益をひねり出し、株主への配当金を増やせ」という要求を浴びることになり、人よりもタヌキの数が多いような辺境の田舎を走る鉄道を廃止して、道路にバスを走らせる事業形態へ転換していくようになる[59]。
これに対して反・新自由主義は凶悪犯罪の抑止を重視する思想であり、「政府の費用」の発生をある程度容認する思想である。人よりもタヌキの数が多いような辺境の田舎を走る鉄道を抱える鉄道会社を国の現業にして、赤字の鉄道路線を維持しようとする。
反・新自由主義は「こんな辺境の田舎にも鉄道が走っているのか・・・なんだか人がいるような印象を受ける。これでは凶悪犯罪の証拠を隠滅できないだろう」と凶悪犯罪者に思わせることを重視しているので、赤字鉄道路線の維持という選択肢を好む。「鉄道は大量輸送で、バスは少量輸送である。鉄道が走っている光景は人が多いような印象を与え、鉄道が走っておらずバスが走っている光景は人が少ないような印象を与える。このため鉄道を走らせたほうが凶悪犯罪者への威圧の効果が高く、凶悪犯罪の抑制の効果が高い。凶悪犯罪者というのは短絡的な思考回路の持ち主で、見た目の印象だけで右往左往するような存在である。赤字鉄道路線の維持費は凶悪犯罪抑制費と割り切るべきだ」などと述べ立てる傾向がある。
新自由主義が優勢な日本ではふるさと納税の制度が導入されている。この制度は「魅力的な返礼品を産出できない地方公共団体がお金を失うようにしよう」という制度であり、「地方公共団体は魅力的な返礼品を産出するように努力しろ」という制度であり、地方公共団体に負の外発的動機付けをする制度である。
新自由主義者は覚醒剤を使用したときのような全能感・万能感に満ちあふれており、「人は努力すればいくらでも成功できるし、すべての地方公共団体は魅力的な返礼品を産出できるようになる」と本気で信じている。
この制度により、魅力的な返礼品を産出できない人口希薄地域の地方公共団体の税収が落ち込んで荒廃する可能性があり、人口空白地域が拡大して凶悪犯罪者が証拠品を隠滅できる場所が拡大する可能性があり、治安が急激に悪化する可能性がある。
性質その19 効率化と無駄の削減に伴う凶悪犯罪者への側面支援
新自由主義者が心から好む言葉というと「効率化」と「無駄の削減」である。twitterなどのSNSや書籍で「効率化」と「無駄の削減」を連呼する新自由主義者の姿が多く見られる。そうした姿は新・効率化主義と表現することができる。
日本は食糧やエネルギーなどの資源の自給率が低い国である。資源を無駄なく効率よく使用することは日本国民にとって永遠の課題である。このため「効率化」と「無駄の削減」は日本において大変にイメージが良い言葉となっている。
新自由主義者は「効率化」と「無駄の削減」を連呼して自らのイメージを高めつつ、実際に「効率化」と「無駄の削減」を追求する行動を起こしてさらに自らのイメージを高めている。解雇規制を緩和して生産性の高い人だけが企業に雇用されるようにして企業の生産の効率化が進むことを目指すし、緊縮財政を導入して生産性の低い土地への財政支出を削減することで生産性の高い土地に企業や人材が集まるようにして国家全体の生産の効率化が進むことを目指す。
しかし、生産性の高い土地に企業や人材が集まるようにして国家全体の生産の効率化が進むことを目指すと、人口空白地域が発生し、凶悪犯罪者が証拠の隠滅を行いやすくなり、凶悪犯罪者が大喜びする社会になる。凶悪犯罪者というのはとてもイメージが悪い。
新自由主義者は、「効率化」と「無駄の削減」を追求して自らのイメージを高めているが、それと同時に「人口空白地域の発生」と「凶悪犯罪者への側面支援」を促進することで自らのイメージを大きく損ねている。
性質その20 費用に対する嫌悪
新自由主義者は、「企業や個人というものは利益の最大化を追求する存在である。企業なら税引後当期純利益の最大化を追求するというのがごく自然な姿であり、個人なら可処分所得の最大化を追求するというのがごく自然な姿である」という思想を持っている。
企業の税引後当期純利益というのは、売上などの収益から人件費などの費用を引いて税引前当期純利益を算出し、税引前当期純利益から法人税を引いて、最後に残った金額のことである[60]。個人の可処分所得というのは、給料などの収入から経費を引いて所得を算出し、所得から所得税を引いて、最後に残った金額のことである。
このため新自由主義者は、費用や経費を毛嫌いする傾向にある。
新自由主義者が費用や経費を嫌っていることを示す例として、新自由主義者の「行列のできる人気店」に対する無理解というものを挙げることができる。やや細かい例だが、本項目で解説しておきたい。
ある店が商売繁盛になり、「行列のできる人気店」になった場合、その店は3つの選択肢の中から1つを選ぶことができる。①銀行から借り入れして資金を調達して店舗を増やしたり人員を雇ったりして供給を増やし、行列を解消し、商品の価格を一定にしつつ客足をさらに増やして、税引後当期純利益の大幅拡大を目指す。②客足が減って需要が減ることを覚悟の上で商品の価格を釣り上げて、高級店に変貌して、行列を解消しつつ客足も途絶えさせないという絶妙な価格を見つけて、税引後当期純利益の小幅拡大を目指す。③店舗も増やさず価格も釣り上げず、行列をそのままにして税引後当期純利益の維持を目指す。
新自由主義者が大いに理解できるのは①であり、②も理解できる。しかし新自由主義者は③を理解できず、「なぜ③の方法を採用するのだろうか。①や②を採用すればいいではないか」とSNSで困惑気味に喋ることが多い。
店にとって、行列ができている状態は儲ける機会の損失であり、機会損失である。しかし、行列ができていることで周囲に対する無言の広告宣伝になっているので、「儲ける機会を損失していて機会損失となっているが、しかし、その機会損失は一種の広告宣伝費として考えよう」という経営判断をすることができる。
客にとって、行列に並ぶ状態は他の何かをする機会の損失であり、店のサービスを享受するための機会費用[61]である。しかし、行列ができていることで「自分以外の人が人身御供・人柱(ひとばしら)になってくれている。行列ができているから良い商品なのは間違いない」という安心感を得られるので、「他の何かをする機会を損失していて機会費用となっているが、しかし、一種の『安心獲得費』として考えよう」という判断をすることができる。
③の方法を採用する店は広告宣伝費を重視しているのであり、そうした店舗の行列に並ぶ客は「安心獲得費」を重視している。このように「すきこのんで費用を支払おうとする人」は確かに存在するのだが、新自由主義者はそういう人を理解することを苦手としている。
「行列のできる人気店」が発生するのは日本のような治安が良い国に限られる。治安が悪い国で行列を作ると拳銃を持った強盗犯や足の速い窃盗犯がやってきて金目の物を奪われてしまうので、治安が悪い国では「行列のできる人気店」が発生しにくい。
日本でそこら中に「行列のできる人気店」が発生することは日本の治安の良さを証明する出来事であって、ある程度賞賛されるべきことであるが、新自由主義者にとっては「日本で『行列のできる人気店』が発生するのは日本人が政府に飼い慣らされて奴隷根性を植え付けられているからである」とか「日本人は効率を意識できず無駄なことばかりする劣った人たちである」ということになって「恥ずかしいこと」ということになる。「治安の良さを誇らない」とか「治安の良さに価値を見いださない」というのが新自由主義者の性質のひとつである。
性質その21 転売の賞賛
新自由主義を支持する者は転売をする転売厨(転売ヤー)を支持する傾向がある。転売厨(転売ヤー)とは転売屋を非難するときに使われるインターネット俗語である。
新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は経営者に対して「リスクを負担していて素晴らしい」と賞賛する思想である。このため新自由主義者・株主資本主義者は企業経営者のようにリスクを負担して転売という商行為に挑む転売屋に対して「リスクを負担していて素晴らしい」と賞賛する傾向がある。
歌手というものは、コンサートのチケットの販売を一部の業者だけに許可して転売屋の介在を許さずチケットが安価で最終消費者の手に渡るように仕向けることが多い。こうした行為は自由な商取引の制限であるから、新自由主義者にとって批判の対象となる。新自由主義者は「自由な商取引が人類の発展をもたらしたのだ」という信念を持っているので、商取引を制限することすべてに対して批判の槍を向ける。
歌手というものは、所得が少なくて娯楽についての選択肢の幅が狭い人にコンサートチケットを持たせたいという経営戦略を持っている。所得が少なくて娯楽についての選択肢の幅が狭い人というと若者が典型例であるのだが、そうした人に歌手のコンサートを体験させると激しく感動する可能性が高く、リピーター(常連客)になりやすい。つまり、歌手というものは若者の囲い込みをしたいという経営戦略を持っている[62]。
そのため歌手はコンサートのチケットの販売を一部の業者だけに許可して転売屋の介在を許さずチケットが安価で最終消費者の手に渡るように仕向け、所得が少ない若者がチケットを購入できる環境を整えるのである。
新自由主義者は覚醒剤を使用したときのような全能感・万能感に満ちあふれており、「人は努力すればいくらでも成功できるし、歌手は努力すればいくらでもコンサートの品質を高めることができる」と本気で信じており、コンサートの品質向上をせずに若者の囲い込みを目指す経営戦略をなかなか理解できない。
性質その22 政治家とカルト宗教団体の癒着
新自由主義がはびこる国では、攻撃的な姿勢を保つカルト宗教団体が勢いを拡大する。「宗教団体を弾圧する共産主義国」や「自分たちと敵対する宗教団体」や「自分たちの団体に所属しておきながら財産を寄付しようとしない人」や「自分たちの団体から脱退しようとする人」に対して非常に攻撃的になるカルト宗教団体が社会の中で存在感を増す。自由貿易による賃下げ圧力で自信を破壊されていて何かを攻撃することで自信を取り戻したいと思っている労働者は、そうしたカルト宗教団体を見ると「自分のしたいことを実現している団体」と思い込み、心を奪われることになる。
また新自由主義がはびこる国は、解雇規制の緩和が行われて「会社の労働者の一体感・連帯感」が弱体化し、長時間労働が横行して家族・友人とのふれあいが減り、人々が孤独になり孤立化していく。孤独になった人というのはカルト宗教団体にはまりやすい。カルト宗教団体というのは信者同士が濃密な付き合いをする団体であり、入信すると孤独感を紛らわせることができるからである。新自由主義がはびこる国において「カルト宗教団体から脱会したが、孤独に耐えきれず、もとのカルト宗教団体に出戻りしたり、別のカルト宗教団体に入信したりする」という例はかなり多い。
新自由主義がはびこる国では、勢いを拡大したカルト宗教団体が、攻撃的言動を繰り返す政治指導者に対して手厚い支援をするようになる。攻撃的な姿勢を保とうとするカルト宗教団体にとって、攻撃的言動を繰り返す政治指導者はまさしく理想像であり、後光が差すような存在であり、信仰対象の1つである[63]。
一方で、攻撃的言動を繰り返す政治指導者にとって、カルト宗教団体は気の合う仲間であり、強固な支持基盤であり、頼りになる相棒である。攻撃的言動を繰り返す政治指導者は、政治的に対立する出版社・テレビ局の「表現の自由」を抑圧したいと考えているが[64]、カルト宗教団体はその手伝いをしてくれる可能性がある。カルト宗教団体はデモ隊を組織して自分たちを批判する出版社・テレビ局の社屋を取り囲むことがあるし、「電話抗議隊」のようなものを組織して自分たちを批判する出版社・テレビ局へ電話で猛烈な抗議をすることがあるからである[65]。
つまり、攻撃的言動を繰り返す政治指導者にとって、カルト宗教団体はナチスの突撃隊[66]のような役割を受け持ってくれる可能性がある存在であり、私兵組織になってくれる可能性がある存在である。
攻撃的言動を繰り返す政治指導者にとって、カルト宗教団体はある種の民間軍事会社(PMC)であり、ある種の傭兵である。もちろん、カルト宗教団体が保持する武器は抗議電話ぐらいだが、それでもなかなかの攻撃力があり、抗議先の通信業務を麻痺させる程度の実力がある。しかも、カルト宗教団体の抗議というのは宗教的情熱が入り混じった執念深いもので、粘着性と継続性がやたらと高く、「この人たちは何をしでかすか分からない」と周囲に思わせるものなので、抗議先をおびえさせて萎縮させる能力が非常に高い。カルト宗教団体の信者は、抗議電話をすることに関して一流の人材であり、最上級の精鋭である。
攻撃的言動を繰り返す政治指導者は、カルト宗教団体のイベントに参加しつつカルト宗教団体の教祖に対して「敬意を表する」と発言することがある。ただのリップサービスとしてそういう発言をすることもあるが、「抗議電話をすることに関して一流の人材を大量に生み出していて、本当に凄い」という感嘆の気持ちを抱えつつ、心底からの本音でそういう発言をすることもある。
攻撃的言動を繰り返す政治指導者は、ネット上での世論操作をするための組織を作り上げ、そうした組織に誰でも参加できるようにすることがある[67]。カルト宗教団体は、信者たちに対して「攻撃的言動を繰り返す政治指導者が結成した世論操作組織に参加せよ」と指示をする可能性がある。
カルト宗教団体は教祖を絶対視することが多い団体であり、教祖の指示を忠実に守る信者が多い。このため統制がとれており、数万の単位の人員が教団幹部の指示に従って一糸乱れず同じことをすることを得意としている。
カルト宗教団体は、攻撃的言動を繰り返す政治指導者の応援団となり、「攻撃的言動を繰り返す政治指導者による政権」を批判する報道をする出版社・テレビ局に大量の抗議電話を送りつける可能性がある。もしそうなったら、出版社・テレビ局が萎縮し、「攻撃的言動を繰り返す政治指導者による政権」を批判する報道をとりやめ[68]、「攻撃的言動を繰り返す政治指導者による政権」を礼賛する報道ばかりをするようになる。国内で礼賛報道一色になるので、「攻撃的言動を繰り返す政治指導者による政権」の支持率が高くなり、長期安定政権になっていく。つまりカルト宗教団体は、攻撃的言動を繰り返す政治指導者にとって、報道統制装置になる可能性があり、世論操作装置になる可能性があり、支持率押し上げ装置になる可能性があり、政権延命装置になる可能性がある。
さらにカルト宗教団体は、選挙になったら信者に対して「あの候補者に投票せよ」と指示することがあり、組織票を提供する存在である。
新自由主義が主流となる国では様々な職場で長時間労働が進み、労働者が政治に関心をもつほどの余暇を得にくくなり、選挙の投票率が下がる傾向になる[69]。そういう状況ではカルト宗教団体の組織票が決定的に重要になり、カルト宗教団体の組織票が政治家の選挙の当落を決めるようになる[70]。
さらにカルト宗教団体は、選挙になったら信者に対して「あの候補者の選挙運動に協力せよ」と指示することがあり、選挙運動員という労働力を提供する存在である。
新自由主義が主流となる国では様々な職場で長時間労働が進み、労働者が余暇を得にくくなり、選挙運動に参加する人が減る傾向になる。そういう状況ではカルト宗教団体の労働力提供が非常に重要になり、カルト宗教団体の選挙運動員が政治家の選挙活動を大いに助けることになる。
日本の選挙においては、選挙運動員が有権者に電話を掛けて投票をお願いする電話作戦が効果的とされている。そして、組織的に大量の電話を掛けることはカルト宗教団体が得意とする分野である。
カルト宗教団体の信者は宗教的情熱を政治的情熱に変換して勢いよく政治活動することが多く、政治家に好かれることが多い。このため、カルト宗教団体の信者は政治家の選挙運動員になるだけに留まらず、政治家の秘書になることが多い[71]。
カルト宗教団体の信者は、日頃から霊感商法で教団にお金を巻き上げられていて、貧乏に耐える能力を得ていることが多い。その場合は、政治家の選挙運動員や秘書になって政治家に無給または薄給で酷使される立場になっても、健気に耐え抜くことができる。
カルト宗教団体は攻撃的言動を繰り返す政治指導者に対し、抗議電話による報道統制をして間接的支援をしたり、選挙において組織票や運動員を提供して直接的支援をしたりする存在であり、攻撃的言動を繰り返す政治指導者にとって非常に役に立つ存在である。
このため、攻撃的言動を繰り返す政治指導者はカルト宗教団体へ好意的な態度を示し、カルト宗教団体の機関誌の表紙に登場したり、カルト宗教団体のイベントにビデオメッセージを送ったりして、自ら進んでカルト宗教団体の広告塔になる[72]。そして、カルト宗教団体の教祖や幹部の表現を真似して、カルト宗教団体の思想が優れているように宣伝する[73]。
さらに、カルト宗教団体の支持を受ける政治家やその子分は、国家公安委員会委員長(略称:国家公安委員長)に就任して国内の警察を指揮することがある。そうなれば、カルト宗教団体の支持を受ける政治家は、「カルト宗教団体が組織的に行う大量の抗議電話は刑法第234条に違反しており威力業務妨害罪である」とか「カルト宗教団体が行う霊感商法を取り締まってくれ」という通報が一般市民から警察に寄せられても、警察が事件にしないように警察に圧力を掛けることができる[74]。カルト宗教団体が治外法権の存在となり、法の枠組みを外れた存在となり、法を超越した存在になり、思う存分に抗議電話や霊感商法をする存在になる。
カルト宗教団体は「信者を監視して信者の脱退を防ごう」という意向が強い組織なので、組織内におけるホウレンソウ(報連相)[75]が徹底されており、信者のプライベート情報を共有する体制が整っている。
そしてカルト宗教団体は、信者を秘書として派遣した先の政治家についても「あの政治家は我々の身内である。あの政治家をしっかり監視して我々の集まりから脱退することを防ごう」と考える危険性が高く、組織内においてホウレンソウ(報連相)を徹底して政治家の情報を共有する危険性が高い[76]。カルト宗教団体の信者が政治家の秘書になって政治家の金銭スキャンダルや性的破廉恥スキャンダルを把握したら、教団の幹部に連絡する危険性が高い。そうなると、政治家に対して信者を秘書として派遣したカルト宗教団体は、政治家の弱みを握るようになり、いつでもマスコミに情報をリークできるようになり、好きなときに政治家に対して報復できるようになる。弱みを握られた政治家はカルト宗教団体から離れることができなくなり、カルト宗教団体と運命共同体になる。
新自由主義がはびこる国では、攻撃的言動を繰り返す政治指導者とカルト宗教団体が融合し、合体し、連動するようになる。
攻撃的言動を繰り返す政治指導者を広告塔にしたカルト宗教団体は、政治家のお墨付きをもらって清潔なイメージを身にまとうようになり、霊感商法を順調に行うようになり、収益を増やし、当期純利益を積み上げ、安定的な経営を謳歌するようになる。
「攻撃的言動を繰り返す政治指導者を広告塔にしたカルト宗教団体が行う霊感商法の被害者」に対して、「攻撃的言動を繰り返す政治指導者の支持者」は冷淡な態度を取ることが多い。「攻撃的言動を繰り返す政治指導者が安定した政権運営をしているおかげで国家が大きな利益を得ている。霊感商法の被害などは国家にとってほんの小さな損失に過ぎない」などと喋り、霊感商法の被害者に我慢と忍耐をするように求めることが多い。
新自由主義が流行する国では株主資本主義も勃興する。「倒産しにくく永続しやすい企業」を建設するために株主資本主義者が労働者に対して我慢と忍耐を求め、滅私奉公の精神を求め、犠牲を払うことを求めることが広く行われる。そういう国では、「攻撃的言動を繰り返す政治指導者による安定的な政権」を建設するために「攻撃的言動を繰り返す政治指導者の支持者」が「攻撃的言動を繰り返す政治指導者を広告塔にしたカルト宗教団体が行う霊感商法の被害者」に対して我慢と忍耐を求め、滅私奉公の精神を求め、犠牲を払うように求めることも広く行われる。こうした世相は、人が人の犠牲(いけにえ)を求める世相である。
新自由主義者・株主資本主義者も「攻撃的言動を繰り返す政治指導者の支持者」も、「○×のためには犠牲がつきもの」と考えて犠牲者の発生を肯定する傾向があり、冷酷な人格の持ち主であり、抗争の際に子分を鉄砲玉にして使い捨てるヤクザのような思考回路の持ち主である。
新自由主義者・株主資本主義者は「『倒産しにくく永続しやすい企業』を建設すれば巨大な利益が生まれるのだ」と主張するし、「攻撃的言動を繰り返す政治指導者の支持者」は「『攻撃的言動を繰り返す政治指導者による安定的な政権』を建設すれば巨大な利益が生まれるのだ。国際社会において日本の存在感が高まり、日本が世界中から頼られて尊敬される国になり、日本がものすごく偉い国になるのだ」と主張する。利益を過剰に強調することで、その利益を得るための犠牲者の存在感を小さく見せかけ、「犠牲者を見殺しにした」という批判が弱まることを期待している。
新自由主義が流行る国では、カルト宗教団体が攻撃的言動を繰り返す政治指導者を広告塔にして順調に霊感商法を行うようになるので、人々の財産が危険にさらされることになり、治安という点で問題の多い状態となる。
新自由主義者は治安の悪化を気に病むことが少なく、それどころか、むしろ治安の悪化を望む傾向がある。治安が悪化すると人々の不確実性が増大し、皆が「将来は自分や家族が犯罪に巻きこまれるかもしれない」と不安に思うようになり、消費をとりやめて予備的貯蓄をするようになる。そうなると人々が次第に「消費を楽しみにせず長時間労働ばかりするロボット」に変化していき、社会全体の生産力が上がり、新自由主義者にとって夢のような世界になる。このため新自由主義者は心の奥底で治安の悪化を望み、「霊感商法で人々の財産に危害を加えるカルト宗教団体を取り締まって良好な治安を維持しよう」という提案に対して「カルト宗教団体は非常に小さい問題である」とか「そんなことよりももっと大事なことがある」と述べ立てて相手にせず、カルト宗教団体が霊感商法で暴れ回って治安を悪化させることを黙認する傾向がある。
性質その23 低い投票率の維持
政治家とカルト宗教団体が癒着することを防ぐには、投票率を上げるのが一番効果的である。投票率が上がって浮動票が増えれば、候補者が浮動票を獲得することを優先するようになり、「あの候補者は、霊感商法で悪名高いカルト宗教団体のイベントに出席してその宗教団体の教祖に敬意を表しており、まことにいかがわしい人物である」という噂が流れて浮動票が一気に離れることを候補者が恐れるようになり、候補者がカルト宗教団体から離れるようになる。
投票率を上げるための最も有力な手段は義務投票制である。あるいは、選挙で投票した人に「投票報奨金」などの名称のお金を政府から給付する制度を整備してお金で有権者を釣るという方法もある。
いずれの方法も、緊縮財政を信奉する新自由主義者が猛反対する。義務投票制なら「正当な理由があるかどうかを審査する人材や罰金を科す事務をする人材を確保せねばならず人的コストがかかる」と批判し、投票報奨金制なら「お金を支払うコストがかかる」と批判する。
新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は「給料が上がってほしい」といったような民意が政治に反映されることを嫌がる傾向がある。このため新自由主義者は選挙の投票率が上がることをあまり望んでおらず、投票率が低いままであることを許容する傾向がある。新自由主義者・株主資本主義者は「投票率が上がって馬鹿な大衆が投票所に押しかけるようになったら、頭が悪くてくだらない積極財政政策が推進されるようになり、その影響で世の中の企業の人件費が上がってしまう」とか「投票率が低いままで馬鹿な大衆が投票所に寄りつかない状態なら、利口で立派な緊縮財政政策が推進されるようになり、その影響で世の中の企業の人件費が下がってくれる」と考える傾向がある。
こうした新自由主義者の影響によって、政治家とカルト宗教団体の癒着が続く社会になる。
新自由主義者は民主主義を嫌ってエリート主義を信奉する傾向があり、「選挙の投票というのは、政治に興味と関心があって政治に関する知識がある知的エリートだけが独占的に行うのが本来の姿だ」と考える傾向がある。このため「政治には興味も関心もなく、政治のことは全く分からないので、候補者の顔つきや人柄で投票を決める」といった程度の人々が選挙の投票をすることを嫌がる傾向がある。
政治には興味も関心もなく政治のことは全く分からない人であっても、「『霊感商法で悪名高いカルト宗教団体のイベントに出席してその宗教団体の教祖に敬意を表する候補者』に投票すべきではない」といった程度のことなら十分に判断できるのだが、新自由主義者はそうした現実を直視せず、大衆の判断力を信頼しようとしない。「政治には興味も関心もなく政治のことは全く分からない人は、すべて排除してしまえ」という思想を持つ傾向がある。
新自由主義はエリート主義で「知性がある人のみが投票すべきだ」との信条を抱えがちである。ゆえに新自由主義が主流の国では、選挙が荘厳な雰囲気に包まれる傾向があり、選挙の雰囲気が知性に満ちたものになる傾向がある。しかし、その反動として浮動票が少なくなり、組織票の威力が強くなり、「霊感商法で悪名高いカルト宗教団体のイベントに出席してその宗教団体の教祖に敬意を表する候補者」を落選させることが難しくなり、社会の自浄作用が弱くなる。
反・新自由主義は平等主義で「知性がない人もどんどん投票すべきだ」との信条を抱えがちである。ゆえに反・新自由主義が主流の国では、選挙が大衆迎合的な雰囲気に包まれる傾向があり、選挙の雰囲気が知性の欠けたものになる傾向がある。しかし、その見返りとして浮動票が多くなり、組織票の威力が弱くなり、「霊感商法で悪名高いカルト宗教団体のイベントに出席してその宗教団体の教祖に敬意を表する候補者」を落選させることが容易になり、社会の自浄作用が強くなる。
以上のことをまとめると次の表のようになる。
新自由主義 | 反・新自由主義 | |
選挙の投票はどのように行われるべきか | エリート主義。政治に興味・関心があって政治に対して深い知識を持つ者のみが選挙の投票をするべきだ。制限選挙の導入をしてもよい | 平等主義。「政治には興味も関心もなく、政治のことは全く分からないので、候補者の顔つきや人柄で投票を決める」といった程度の人々も投票するべきだ。普通選挙であるべきだ |
選挙の投票率はどうなるべきか | 低迷してくれて構わない。「政治には興味も関心もなく、政治のことは全く分からないので、候補者の顔つきや人柄で投票を決める」といった程度の人々が選挙の投票にやってきたら、政治が惑わされ、政治が混迷してしまう。そういう人たちは投票しなくてよい | 100%に近い数字にまで上昇させるべきだ。「政治には興味も関心もなく、政治のことは全く分からないので、候補者の顔つきや人柄で投票を決める」といった程度の人々がやってくるので知性の欠けた大衆迎合的な雰囲気になるが、そうなっても構わない |
圧力団体の組織票 | 浮動票がやたらと少ないので、存在感を増す | 浮動票がやたらと多いので、存在感を失う |
「霊感商法で悪名高いカルト宗教団体のイベントに出席してその宗教団体の教祖に敬意を表する候補者」がどうなるか | 浮動票がやたらと少ないので、組織票の支持を固めて楽々当選する | 浮動票がやたらと多いので、あっさり落選する |
社会の自浄作用がどうなるか | 自浄作用が弱い社会になる | 自浄作用が強い社会になる |
国会議員の中には、知名度に恵まれて当選するタレント議員が存在する。元・芸能人の議員とか、元・スポーツ選手の議員のことである。そして、知名度に恵まれて当選するタレント議員の中にも聡明で立派な議員と馬鹿で間抜けな議員の2種類が存在する。
世の中には体裁や名誉を気にする人がいる。そういう人は「国家の代表ともいうべき国会議員は、全員が聡明で立派な人物であるべきである」とか「国家の代表ともいうべき国会議員の中に馬鹿で間抜けな人物が混入したらとても恥ずかしい」と考える傾向があり、「知名度だけは恵まれている馬鹿で間抜けなタレント議員」を徹底的に嫌う。
そして、体裁や名誉を気にする人は、選挙の投票率が上がることを嫌がり、選挙の投票率が低迷することを望む。選挙の投票率が上がると「政治には興味も関心もなく、政治のことは全く分からないので、候補者の知名度で投票を決める」といった人が投票するようになり、「知名度だけは恵まれている馬鹿で間抜けなタレント候補」が当選する可能性が高まるからである。
しかし、体裁や名誉を気にする人が望むとおりに選挙の投票率を低迷させて「知名度だけは恵まれている馬鹿で間抜けなタレント候補」が当選しにくい状況にすると、カルト宗教団体の組織票が存在感を増し、政治家がカルト宗教団体と癒着するようになる。政治家のお墨付きをもらったカルト宗教団体が大いに霊感商法を行うようになり、恐るべき暗黒の社会になる。体裁や名誉を気にする人の欲望を尊重すると、カルト宗教団体が猖獗(しょうけつ)を極めるようになる。
「知名度だけは恵まれている馬鹿で間抜けなタレント議員を見るのは恥ずかしい」という羞恥心が、カルト宗教団体の躍動の原因になる。
「投票率を上げると『知名度だけは恵まれている馬鹿で間抜けなタレント候補』の当選が増えるが、『霊感商法で悪名高いカルト宗教団体のイベントに出席してその宗教団体の教祖に敬意を表する候補者』が落選しやすくなる。『知名度だけは恵まれている馬鹿で間抜けなタレント議員』の存在は、政治家とカルト宗教団体の癒着を防ぐための費用と割り切るべきだ」と説得して、体裁や名誉を気にする人の願望を無視して、選挙の投票率を上げる政策を導入することが望ましい。
性質その24 カルト宗教団体のような行動
新自由主義者とカルト宗教団体は似たもの同士であり、新自由主義者はカルト宗教団体のような行動をとる傾向がある。
新自由主義の国でカルト宗教団体が躍動するのは、新自由主義とカルト宗教団体に親和性があるからである。
新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は小さな政府を志向する思想である。新自由主義者・株主資本主義者は小さな政府を実現するために財政破綻論(一種の終末論)や「日本円建て国債は子孫を苦しめる」という論理を語り、人々の不安と恐怖を煽り立てて「意思決定の自由」を阻害して困惑させている。
カルト宗教団体も末端信者に対して「日本は滅ぶ」という終末論を語ってみたり「君の行いで子孫が苦しむ」と言ってみたりして[77]、末端信者の不安と恐怖を煽り立てて「意思決定の自由」を阻害して困惑させている。
新自由主義者は労働者に対して「関税の撤廃で企業は国際競争にさらされている。自由貿易の拡大は歴史の必然であり、決して避けることができない。このままでは国際競争力を失って企業が次々と倒産する」と語り、不安と恐怖を煽り立て「意思決定の自由」を阻害して困惑させている。そして新自由主義者は従業員に「そうした不安から逃れるためには人件費の削減を受け入れて会社の内部留保(利益剰余金)を増やして会社の体力を付けるしかないのだ」と吹き込み、従業員から人件費削減の名目でお金を巻き上げる。そして新自由主義者は、株主や株主に近い経営者を「企業の経営を引っ張る偉大なカリスマ」と盲信し、そういう人々に大量のお金を与える。
カルト宗教団体も末端信者に対して不安と恐怖を煽り立て「意思決定の自由」を阻害して困惑させている。そしてカルト宗教団体は末端信者に「そうした不安から逃れるためには献金の要求を受け入れて教団の富を増やして教団の体力を付けるしかないのだ」と吹き込み、末端信者から献金の名目でお金を巻き上げる。そしてカルト宗教団体は教祖を「教団を引っ張る偉大なカリスマ」と盲信し、教祖に大量のお金を与える。
新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義を信奉する企業経営者がいつも夢みているのは、従業員に対して給料を払わずに使用することであり、従業員にタダ働きさせることである。
一方で、カルト宗教団体は信者をタダ働きさせて運動に駆り出すことを日常的に行っている[78]。
このため新自由主義・株主資本主義を信奉する企業経営者はカルト宗教団体に対して一目置いており、「なかなかやるじゃないか」「すごい」という感情を抱きがちである。
新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は労働者による労働三権の行使を否定する傾向にある思想であり、下の者が上の者に意見を述べることを否定する傾向にある思想であり、「労働者は経営者・株主の命令に黙って従え」「労働者は軍人のようになって経営者・株主に絶対服従しろ」と考える思想である。
一方でカルト宗教団体は、末端信者が教団幹部や教祖に対して何か意見を述べることを絶対的に禁止する傾向にあり、下の者が上の者に意見を述べることを否定する傾向にあり、「末端信者は教団幹部・教祖の命令に黙って従え」「末端信者は軍人のようになって教団幹部・教祖に絶対服従しろ」と考えることが極めて一般的である。
新自由主義が勢いを増す国では株主資本主義が国家を席巻し、立場の強い企業経営者が立場の弱い労働者に対して威圧的に接しつつ「労働者に払う費用」を目一杯削ることが賞賛され、立場の強い大企業が立場の弱い協力企業に対して威圧的に接しつつ「協力企業に払う費用」を目一杯削ることが賞賛され、弱肉強食の社会構造が大いに肯定される。
一方でカルト宗教団体は、何らかの事情で精神力が弱くなった人々に襲いかかり、霊感商法を行ったり霊感寄付強要を行ったりして財産を奪い取る存在であり、弱肉強食の権化のような存在である。
立場の弱い人々に襲いかかって「労働者に払う費用の削減、協力企業に払う費用の削減」という名目で財産を巻き上げる新自由主義者と、精神力が弱った人々に襲いかかって霊感商法・霊感寄付強要で財産を巻き上げるカルト宗教団体は、いずれも弱肉強食を体現する存在であり、よく似たところがある。
新自由主義者は兄であり、カルト宗教団体は弟である。新自由主義者とカルト宗教団体の兄弟はとても仲が良く、お互いに刺激しあって切磋琢磨しており、「弱い人から財産を巻き上げて弱肉強食を実現する」という行為の腕前をそろって高めている。
核となる経済思想
アダム・スミスは『国富論』という著作で「見えざる手」という経済思想を書いた。そして、後世の経済学者たちがアダム・スミスの言葉を引用しつつ「それぞれの個人が自分の利益だけを自由に追求すると、見えざる手により導かれ、社会全体の利益が増進する」と説くようになった。「それぞれの個人が自分の利益だけを自由に追求すると、見えざる手により導かれ、社会全体の利益が増進する」という考えは、「それぞれの個人を規制から解放して、自分の利益だけを自由に追求するのを肯定しておけば、何もかもよくなっていく。政府の規制を緩和して、それぞれの個人を自由に活動させよう」という考え方となり、新自由主義の規制緩和を後押しするものとなった。
新自由主義者は、「見えざる手」という経済思想を引用して「自由は尊い」と語り、それと同時に「企業経営者が成果主義・能力主義に基づいて従業員の給料を削減する自由を認めろ」と要求したり、「企業経営者が解雇規制にとらわれず従業員を解雇する自由を認めろ」と要求したり、「企業経営者は原材料などを納入する協力企業に対して目一杯の値下げ圧力をかける自由を思う存分に楽しむべきだ」と主張したりする。
ちなみに「見えざる手」の思想と対照的な思想は、ジョン・スチュワート・ミルが提唱した他者加害原理である。「見えざる手」の思想は「自由は利益を作り出す」という考え方で自由を絶対視するものであるが、他者加害原理は「周囲に害をまき散らす人に与える自由は損害を作り出す」という考え方で自由を絶対視せずに相対視するものであり、水と油のように正反対である。
新自由主義の基礎となる経済学の1つというとサプライサイド経済学である。そのサプライサイド経済学は、ジャン=バティスト・セイが唱え始めたセイの法則(セーの法則、販路法則)を中核にしている。セイの法則とは、「供給は、それ自体が需要を創造する」と表現されるものである。
デヴィッド・リカードは比較優位という考え方を提唱した。ごく簡単に言うと「国家は、自国の得意とする分野の生産に特化すべきであり、自国が得意としない分野において自国生産をとりやめて貿易によって賄うべきである。つまり国際分業をすべきである。そうすると世界全体の富が増大する」というものである。この考え方は新自由主義者が自由貿易を推進するときに必ずといっていいほど持ち出す考え方である。
世界中の経済学部が採用しているというN・グレゴリー・マンキューの教科書には自然率仮説が頻出する。自然率仮説とは「需要というものは短期において供給を増やす効果があるが、長期において供給を増やす効果が無い」というものである。新自由主義者・株主資本主義者は「自然率仮説によると、需要を増やしてもまったく供給を増やす効果が無いのだから、需要など拡大させる意味がない」などと主張しつつ官公需や民需を拡大させる政策を否定して小さな政府や緊縮財政を肯定することが極めて多い。
自然率仮説は「消費者から生産者への情報提供による生産技術の向上」や「内発的動機付けの労働強化による生産技術の向上」を完全に無視する考え方であり、その名前にしてはだいぶ不自然な考え方であり、欠点が多い考え方であるが、しかし新自由主義者・株主資本主義者が愛用する考え方である。
通貨の成り立ちや定義を論ずる学説の中に商品貨幣論というものがある。この商品貨幣論は新自由主義と極めて相性が良い。
「通貨を発行する中央銀行は政府から独立しているべきである」という思想がある[79]。この思想があると、政府が国債を発行して長期金融市場に売却するときに、政府が「中央銀行が通貨を発行して長期金融市場に参加する銀行・企業に余剰の通貨を持たせる」という支援を受けられなくなるので、政府が自由自在に通貨を獲得できなくなる。ゆえに、この思想は新自由主義の理想視する小さな政府と極めて相性が良い。
基礎となった学者たち
新自由主義の基礎となった経済学者は、フリードリヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンとされる。ミルトン・フリードマンはアメリカのシカゴ大学で教鞭を執り多くの弟子を育てたので、彼を慕う経済学者の一群をシカゴ学派(シカゴボーイズ)という。また新自由主義の基盤となる経済学を新古典派経済学と呼ぶこともある。
人々の労働意欲を刺激して国内の生産力・供給力を強めることを重視するサプライサイド経済学(供給者側経済学)も、新自由主義の基礎の1つとされる[80]。これの支持者をサプライサイダーというが、主な人はロバート・マンデル、アーサー・ラッファーなどである。
ジェームズ・マギル・ブキャナン・ジュニアは、新自由主義の流行が本格化した1986年にノーベル経済学賞を受賞した。彼の提唱する均衡財政論・健全財政論は新自由主義の理想視する小さな政府と極めて相性が良い。
親和性の高い自己啓発本
サミュエル・スマイルズという英国の作家は1859年に『自助論』という作品を発表した。序文に「天は自ら助くる者を助く」という文章があり、そのあとはひたすら「努力すれば成功する」「成功者は他人の援助を当てにせずに努力をした」という内容が続く。新自由主義者のなかには『自助論』を絶賛するものがいる[81]。
名称
新自由主義(英:Neoliberalism)という言葉を考案したのは、ドイツのアレクサンドル・リュストウという経済学者である。1938年に知識人が集まって開催されたウォルター・リップマン国際会議
で、この言葉を発表した。
市場原理主義という表現
市場原理主義(英:Market fundamentalism)という表現は、新自由主義(英:Neoliberalism)の別名称である。
命名者とされる人、学術誌における初出
Market fundamentalismという言葉は、イギリスの社会問題ジャーナリストであるジェレミー・シーブルックが生み出したものであるという。パラグミ・サイナート
というインドの社会問題ジャーナリストが、そのように述べている(記事
)。
ジェレミー・シーブルックは、『世界の貧困―1日1ドルで暮らす人びと』という著作を持っており、新自由主義を批判し、格差の拡大に警鐘を鳴らすタイプの人である。
1991年8月の『Anthropology Today(こんにちの人類学)』という人類学者向けの学術誌の1~2ページに、Market fundamentalismという言葉が載っている。
経済学者の八代尚宏は「市場原理主義という言葉は、そもそも経済学にはありません。」と『日刊サイゾー』の2011年10月29日版で語っている。
パラグミ・サイナートと八代尚宏の発言を総合すると、「Market fundamentalismという言葉は、経済学の外にいるジャーナリストが、新自由主義に対して独自の感覚で名付けたものであり、経済学者たちの議論から生まれた経済学用語ではない」ということになる。
蔑称の響きがある
市場原理主義(Market fundamentalism)という言葉には蔑称の響きがある。
原理主義(fundamentalism)というのは、天地創造など聖書の記述をすべて事実と扱う米国キリスト教運動のことを指す言葉である。そうした運動をする人たちを批判するときに使われた蔑称だという(臼杵 陽の論文)。
1979年にイランで革命が起こった。このとき政権を奪取した人たちをイスラム原理主義者(Islamic fundamentalist)と呼ぶようになった。このため、「○×原理主義」というのはイメージが悪い言葉で、これを自称する人はとても少ない。
批判者達に使用される
市場原理主義という言葉は、新自由主義を批判する立場の経済学者によって使われることがある。
ジョセフ・スティグリッツは、2001年にノーベル経済学賞を受賞したとき、次のような文章を書いている。
More broadly, the IMF was advocating a set of policies which is generally referred to alternatively as the Washington consensus, the neo-liberal doctrines, or market fundamentalism, based on an incorrect understanding of economic theory and (what I viewed) as an inadequate interpretation of the historical data.
the neo-liberal doctrines, or market fundamentalism と書いてある。「新自由主義の信条、言い換えると市場原理主義」といった意味であり、新自由主義をわざわざ言い直している。
「市場・原理主義」なのであって「市場原理・主義」ではない
市場原理主義という言葉はMarket fundamentalismを翻訳した言葉であり、市場・原理主義という意味である。
しかし、市場原理主義のことを市場原理・主義のことだと考えている人がいる。つまり「英語のMarket principle-ismを翻訳した言葉なのだろう」と漠然と考えている人である。それは、厳密に言うと間違いである。
しかし、市場・原理主義(Market fundamentalism)は市場原理(Market principle)をやたらと重視するので、市場・原理主義(Market fundamentalism)と市場原理・主義(Market principle-ism)を混同しても、おかしいことにはならない。
歴史的背景
第二次世界大戦後、先進国で目指されたのは、第一次世界大戦と第二次世界大戦やその間に起きた世界恐慌を再び繰り返さないようにするべく、国際的・国内的な政治的平和と経済的安定化を確保するような秩序の構築だった。
この秩序を可能にする政治経済体制として多くの国々に合意されたものを、国際政治学者のジョン・ラギーは「埋め込まれた自由主義」と定義した。すなわち、市場を自由放任にすると不況や失業が生じるので、調整的・緩衝的・規制的な諸制度の中に自由主義を埋め込む。つまり、国際的には自由貿易体制によって国際経済の開放性を高めつつ、他方で、国内的には政府が国際競争に脆弱な国内の社会集団を保護する福祉国家的政策を進めた。いわゆる修正資本主義であり、ケインズ経済学はこれを後押しするものである。
この修正資本主義は、先進諸国の経済成長があった1960年代まではうまく機能してきたが、1960年代末頃から機能しなくなった。国際経済的には世界的規模のスタグフレーション(不景気とインフレーションの同時進行)が起き、各国の国内経済的には財政危機が起きた。それらの原因は、1965年~1975年のベトナム戦争、1973年の第一次オイルショック、1979年の第二次オイルショックとされる。
こうした深刻な危機に直面する中でいくつかの対案が出されたが、結局、国家によるコントロールを維持すべきだとするケインズ経済学陣営と、市場の自由競争を活発化させるべきだとする新古典派経済学陣営に分かれることになり、後者の、新古典派経済学陣営が先進国の政治の中で影響力を持つようになった。これが新自由主義と呼ばれるものであり、批判者に市場原理主義と呼ばれるものである。
1980年代のアメリカでロナルド・レーガンがレーガノミクスという経済政策を推し進め、同じ時期にイギリスでマーガレット・サッチャーがサッチャリズムという経済政策を採用した。いずれも、規制緩和と累進課税弱体化を組み合わせた経済政策で、新自由主義の影響を濃厚に受けている。また、日本においても、中曽根康弘首相が、国鉄、電電公社、専売公社、日本航空を相次いで民営化し、新自由主義的政策を実行している。
理論の柱
新自由主義は「埋め込まれた自由主義」から自由主義を解き放つことを主張する。すなわち、社会民主主義的福祉国家政策(大きな政府)によって膨らんだ財政赤字を削減するための口実として小さな政府が謳われる。ここから国営事業、公営事業の民営化が進められた。また、国家による市場介入ではなく、市場を自由放任にすることが国民に公平と繁栄をもたらすという自由放任主義が求められた。この考えから市場の自由を妨げる様々な領域での規制を緩和していくことが目指された。
理論の実践
新自由主義的国家編成の最初の実験が行われたのは、1973年のチリである。民主的に選ばれた左翼社会主義政権が、アメリカのCIAとキッシンジャー国務長官によって支援されたピノチェト将軍によるクーデターで転覆させられたあと、ミルトン・フリードマンが拠点としていたシカゴ大学から送られた経済学者たち(シカゴ学派)によってピノチェト軍事政権下で新自由主義政策が推進された。チリ経済は短期的には復興を見せたが、大半は国家の支配層と外国の投資家に利益をもたらしただけだった。
しかし、この実験を成功とみなした陣営が、1979年以降、イギリスのマーガレット・サッチャー政権とアメリカのロナルド・レーガン政権下で新自由主義政策を推進した。その後、アメリカで1990年代に加速された金融化が世界中に広がり、アメリカへと利益を還流させた。結果、アメリカ経済は好況を呈するようになる。
こうしてアメリカの新自由主義が様々な経済問題の解決策であるかのように振る舞うことが政治的に説得力を持つようになり、1990年代のワシントン・コンセンサス、1995年のWTOの創設で新自由主義は確立するようになる。更に、1990年代には発展途上国だけでなく、日本やヨーロッパも新自由主義的な道を選択するよう経済学や政治の場で主張されるようになる。
トリクルダウン
新自由主義理論の一つの理論的根拠として、トリクルダウン理論がある。トリクルダウンとは、社会民主主義的福祉国家のように、国家の財政を公共事業や福祉などを通じて貧困層や弱者に直接配分するよりは、大企業や富裕層の経済活動を活性化させることによって、富が貧困層や弱者へと「したたり落ちる」のを待つ方が有効であり、その方が国民全体の利益になるという考え方である。
税制の改正に関して言えば、これを根拠に富裕層の税金が軽減され、企業に対しておびただしい数の補助金や優遇税制が提供された。こうして富の配分比率が富裕層寄りに変えられた。また、企業の経営方針の見直しが行われ、その延長線上で労働法の改正が行われた。日本では、その経営の特徴と言われた長期雇用と年功序列型賃金が見直され、アメリカ型とされた株主利益重視になった。これにより、リストラや労働者の賃下げをしてでも、株主への配当を優先することが動機づけられた。この労働者の賃金削減のために雇用の流動化が推進され、労働基準法改正、規制緩和が推進された。日本では2008年において労働者全体に占める非正規労働者の割合が三分の一を超えるまでになった。
富裕層への優遇は、投資をめぐる法解釈にも現れている。投資に関して、借り手より貸し手の権利を重視するようになった。例えば、貧しい者がその住居を差し押さえられる事を何とかするよりも、金融機関の保全と債権者への利払いを優先させる。実際、サブプライムローンの焦げ付きから端を発した2008年の金融危機では、多くのローン返済が困難になった貧困者が住居を追い出されたのに対して、アメリカの金融機関のいくつかは国家に救済された。
主な論者による批判
東京大学名誉教授の宇沢弘文は、「新自由主義は、企業の自由が最大限に保証されてはじめて、個人の能力が最大限に発揮され、さまざまな生産要素が効率的に利用できるという一種の信念に基づいており、そのためにすべての資源、生産要素を私有化し、すべてのものを市場を通じて取り引きするような制度をつくるという考え方である。新自由主義は、水や大気、教育や医療、公共的交通機関といった分野については、新しく市場をつくって、自由市場・自由貿易を追求していくものであり、社会的共通資本を根本から否定するものである」と指摘している。
ニューヨーク市立大学名誉教授のデヴィッド・ハーヴェイは、著書『新自由主義―その歴史的展開と現在』で、新自由主義とは国家権力によって特定企業に利益が集中するようなルールをつくることであると指摘し、著書『ネオリベラリズムとは何か』で、ネオリベラリズムとはグローバル化する新自由主義であり、国際格差や階級格差を激化させ、世界システムを危機に陥れようとしていると指摘している。また自由主義は、個人の自由な行為をそれがもたらすかもしれない代償の責任を負う限りにおいて認めるのに対して、新自由主義は、金融機関の場合、損害を被る貸し手を救済し、借り手には強く返済を求める点から、実現された新自由主義を階級権力の再生と定式化する。
ノーベル経済学賞受賞者であるジョセフ・ユージン・スティグリッツは、「ネオリベラリズムとは、市場とは自浄作用があり、資源を効率的に配分し、公共の利益にかなうように動くという原理主義的な考え方にもとづくアイデアをごちゃまぜにしたものだ。サッチャー、レーガン、いわゆる「ワシントン・コンセンサス」である民営化の促進にもとづいた市場原理主義である。4半世紀のあいだ、発展途上国のあいだでは争いがあって、負け組は明らかになった。ネオリベラリズムを追求した国々はあきらかに成長の果実を収穫できなかったし、成長したときでも、その成果は不均等に上位層に偏ることになった」と指摘している。また1990年代の資本還流によるアメリカ経済の好景気は、IMFと世界銀行によるものと説明する。つまり、この2つは、発展途上国が求める融資を提供することと引き換えに債権国やアメリカの意向を反映した、構造調整計画を、1980年代から1990年代を通じて実施要求してきた。しかしこの改革は、メキシコ、アジア通貨危機、ロシア、ブラジルの経済危機、アルゼンチンの全面破綻を引き起こした。結果が伴わない場合は、「改革が十分に実行されなかった」と、責任転嫁をしてきたという。
各国の議論
中国
思想家の汪暉は、中国における新自由主義の特徴の一つとして、国家の推進する国有企業改革を擁護する「国家退場論」を挙げる。1990年代以降、急速に進められてきた国有企業改革は、国有企業の資産や経営権を国から民間へ譲渡する「国退民進」として現れる。しかし、その過程自体が国家的に推進されているため、本来公有資産であったものが、国有企業指導者層ら既得権益者によって実質上私有化されるとして批判される[82]。
新自由主義と共産主義の共通点
共産主義(社会主義)という経済思想がある。国内のすべての生産手段を国有化し、 国内のすべての企業を国営企業に変えてしまおうという思想である。
新自由主義は「小さな政府」を志向する思想で、共産主義は「大きな政府」を志向する思想であり、 両者は水と油のように正反対であるかのように見える。
ところが新自由主義と共産主義には共通点がいくつか見受けられる。 その共通点の中で明確なものを2つ挙げると以下のようになる。
- 格差社会になる
新自由主義を採用すると、自由競争が激しくなることでごく一部の勝ち組が富を独占し、大部分の負け組との経済格差が広がっていき、格差社会が出現する。
共産主義の経済格差も顕著である。国営企業の経営を一手に握る官僚は、富を独占して贅沢な暮らしをする。ソ連のノーメンクラトゥーラは特権階級として有名で、彼ら向けの百貨店も存在した。一方、庶民は配給の列に並んで、決まった量の粗末な品物を受け取る毎日になる。
経済格差を肯定的に扱って決して修正しようとしないところが新自由主義と共産主義の共通点である。
- 市場の独占・寡占が進む
新自由主義を採用すると、自由競争が激しくなることで企業の合併が進んでいく。「国際競争力を付けなければならない」といいつつ同業の企業が合併していき、大きな市場シェアを抱える企業ばかりになり、市場を2~3社で寡占したり1社で独占したりするようになる。また解雇規制が緩和されることで各企業が積極的に雇用拡大できるようになり、各企業が生産能力を一気に拡大できる社会になり、市場占有率を一気に上昇させる企業が増えやすくなり、寡占・独占に突き進む大企業が多い社会になる。
共産主義も同じで、国内のすべての企業を国有化することで、政府という超巨大企業1社が全業種の市場シェアを100%独占するようになる。
市場の独占・寡占を肯定的に扱うところが、新自由主義と共産主義の共通点である。
「既得権益に対する嫉妬心を煽りつつ、既得権益の解体を目指す」という点も共通点の1つといえる。新自由主義も共産主義も大衆のルサンチマン(恨み・憎しみ・ねたみ・ひがみ・嫉妬心)を煽るのが上手い。
新自由主義は「政府の規制に保護されている存在」に対する嫉妬心を煽る。公務員、農家、労働組合、正社員といった人たちを既得権益と呼び、そうした人たちが政府規制の保護を受けて不当な利益を享受していると論じたて、既得権益の解体を主張する。
共産主義は資本家・金持ちに対する嫉妬心を煽る。会社を所有する資本家・金持ちを既得権益と呼び、そうした人たちが労働者を搾取して不当な利益を享受していると論じたて、既得権益の解体を主張する。
富を生み出さないのに富を得ている人、生産をしないのに消費をする人、「働かざる者食うべからず」の格言に従わない人、すなわちフリーライダーへの軽蔑と憎悪が強いことも、新自由主義と共産主義の共通点である。
新自由主義は、払った税金の額よりも多くの額の利益を政府の福祉部門から受けている人を軽蔑する傾向にある。新自由主義の旗手であるロナルド・レーガンは、「福祉の女王(welfare queen)が存在していて、税金をロクに払わないのに福祉制度を悪用して高級車を乗り回している。納税者の富にただ乗りして、納税者を搾取している。フリーライダーを許してはならない」と選挙の時に主張していて、批判者から「でっち上げ」と指摘されていた[83]。また新自由主義の中核となる思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は成果主義・能力主義を導入して年功主義(年功序列)を否定する思想であり、疲れ切った様子であまり働けないのに高額の給与をもらう高齢労働者を軽蔑する傾向にある。
共産主義というと労働価値説であり、そこから「会社の富を本当に作り出しているのは、労働者である」という論理を展開していた。その論理から、「株主である資本家は労働もしていないのに利潤を得ている。労働者の富にただ乗りして、労働者を搾取している」と主張していた。ウラジーミル・レーニンは論文で盛んに「働かざる者食うべからず」の格言を引用しており、そこから先述の通りに「資本家は労働をしていないのに美味しい料理を食べている」と主張していた。
「巨大な団体に所属して人事権を振るう現役の権力者」に対する個人崇拝が発生するところも共通点である。新自由主義が流行って累進課税が弱体化した国では、大企業経営者が「カリスマ経営者」になって高額報酬を受け取ることを目指すようになり、経済雑誌に登場してロック歌手かアイドルであるかのように振る舞って、「経営者の超人的な判断能力が大企業を正しい方向に導いた」と宣伝して、民衆が自らを崇拝するように仕向ける[84]。
共産主義国では独裁者の肖像画や彫刻を広場に設置して、「独裁者の超人的な判断能力が国を正しい方向に導いた」と宣伝して、民衆が崇拝するように仕向ける。
新自由主義の国も共産主義の国も「働かざる者食うべからず」の思想が広まっており、「高額の報酬と高い地位を得ている者はそれだけ超人的に働かねばならないしそれだけ有能でなくてはならない」という強迫観念が固定されているので、高額の報酬と高い地位を得ている権力者が必死になって「自分は超人的な働き者でものすごく有能である」と周囲にアピールすることが常態化する。その結果として民衆が権力者を個人崇拝するようになる。
「人というものは凄い存在であり、『全面的に信頼してもいいような優秀な能力』を備えている」という思想を持っていて、致命的な思い上がり[85]をしていることも共通している。覚醒剤を使用するとスーパーマンになったかのような感覚になって全能感・万能感に満ちあふれるようになって致命的な思い上がりをするようになるが、そうした覚醒剤使用者の姿は、新自由主義者や共産主義者と非常に良く似ている。
新自由主義者は覚醒剤を使用したときのような全能感・万能感に満ちあふれており、「人はどんなに貧乏になっても強大な生存本能があるのでいくらでも生きていける」といった具合に人の生存本能を全面的に信用し、労働者に対して目一杯の賃下げをする傾向がある。また新自由主義者は「生産者は自らの決意を固めさえすれば完璧な商品を作り出すことができる」といった具合に生産者の生産能力を全面的に信用し、「生産者は消費者からの情報提供を得て商品を完璧なものへ作り替えていく存在であり、消費者に助けてもらう存在である。ゆえに需要・消費を増やすことが経済発展に必要である」といった提言を完全に無視する傾向がある。
共産主義者は「人はどんな複雑な経済現象も完全に支配する理性・知性を持っている」といった具合に人の理性・知性を全面的に信用し、経済官僚が国家のすべてを統制する統制経済・計画経済を大いに支持する傾向がある。
労働三権を認めず、「物言う従業員」を経営上の脅威と位置づけ、反抗的な労働者を追放する仕組みを整えている点も共通点である。新自由主義者も共産主義者も、覚醒剤を使用したときに得られるような全能感・万能感に満ちあふれていて致命的な思い上がりをしているので、「経営者というものは自分の決意だけで完璧な判断をすることができるのであり、下々(しもじも)の言うことなど聞く必要は無いのだ」という感覚にとらわれやすい。
新自由主義がはびこる国では国の現業が廃止されて気骨ある対決型労働組合が存在しなくなり、すべての労働組合が御用組合になっていき、さらには労働組合を持たない企業が多く出現するようになる。そして解雇規制が緩和され、経営者に対して反抗的な労働者が解雇される。
共産主義国でも同じであり、共産主義国の労働組合は極めつけの御用組合だった。企業経営者である政府に反抗的な労働者はシベリア送りにされたり強制収容所に放り込まれたりして、極度に悪い環境をあてがわれて健康を破壊される。
「官と民が力を合わせて共存するべきであり、官民協働が大事だ」とか「官には『民間に存在しない長所』があり、民間には『官に存在しない長所』があるので、双方が補い合うべきだ」という思想を持っておらず、「官と民がこの世に存在するが、片方は完全無欠であり、もう片方は全てにおいて劣っている」とか「官と民がこの世に存在するが、優秀な片方に全てを任せるべきであり、劣った片方は消滅するべきだ」という思想を持っていることも共通している。新自由主義者も共産主義者も、覚醒剤を使用したときに得られるような全能感・万能感に満ちあふれていて致命的な思い上がりをしているので、そういう極端な判断に傾くことになる。
新自由主義は典型的な民尊官卑で、「民間は全てにおいて優秀である」と考えて民間主導の経済にすることを目指しており、政府に回す予算を徹底的に削ることを好み、「経済における政府の存在を決して許さない」という傾向が非常に強い。一方で共産主義は典型的な官尊民卑であり、「官僚は全てにおいて優秀である」と考えて官僚主導の経済にすることを目指しており、「経済において民間企業の存在を決して許さない」という傾向が非常に強い。
「企業の倒産」を忌まわしい現象と位置づけ、企業の延命をなによりも優先し、「倒産しない企業や倒産しにくく永続しやすい企業ばかりになる社会」を理想視するところも共通点である。新自由主義者も共産主義者も企業の倒産を極度に怖がる倒産恐怖症というべき心理状態になっている。
新自由主義がはびこる国では株主資本主義が主流となり、解雇規制が緩和されて人件費を急減少させることが可能になり、不況になっても税引後当期純利益を叩き出す企業が主流となり、貸借対照表の純資産の部の利益剰余金が大きくて自己資本比率が大きい企業が主流となり、倒産しにくく永続しやすい企業が主流となる。また新自由主義が主導権を握る国では直接金融の「株式発行による資金調達」が主流になり、貸借対照表の純資産の部の資本金・資本剰余金(資本準備金)が大きくて自己資本比率が大きい企業が主流となり、倒産しにくく永続しやすい企業が主流となる。
一方で共産主義国ではすべての企業が国有化され、決して倒産しない企業になる。
新自由主義も共産主義も「倒産しにくく永続しやすい企業」を作り出す思想であるが、そうした「倒産しにくく永続しやすい企業」は宗教法人とよく似ている。多くの国において、政府が宗教法人に対し「宗教活動によって得られる法人所得」について法人税を課税しておらず、宗教団体が「倒産しにくく永続しやすい団体」になっている。つまり、新自由主義も共産主義も企業を宗教法人に近づけようとする思想である。
新自由主義も共産主義も企業を宗教法人に近づけようとする思想なので、どことなく宗教と似たような雰囲気を漂わせることになり、権力者への個人崇拝が進むなどの性質を持つことになる。
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関連項目
新自由主義を含む分野
新自由主義の性質
- ルサンチマン
- ヘイト主義
- ヘイトスピーチ
- 働かざる者食うべからず
- 自由及び権利には責任及び義務が伴う
- 小さな政府
- 夜警国家
- 民尊官卑
- トリクルダウン
- 無政府主義(アナーキズム)
- リバタリアニズム
- グローバル化(グローバリズム)
- 株主資本主義
- 資本主義
- 直接金融
- 親米保守
新自由主義者が敵対する者に対してよく使う表現
新自由主義の源流ということができる人たち
新自由主義を支持する人たち
脚注
- *新自由主義の信奉者とされる竹中平蔵や小泉純一郎が愛読して絶賛するサミュエル・スマイルズの『自助論』には、「不幸や退廃から目をそむけて、幸福感に満ちあふれた楽天的な性格になり、得をしよう」という記述が見られる。
- *新自由主義の信奉者とされる竹中平蔵や小泉純一郎が愛読して絶賛するサミュエル・スマイルズの『自助論』には、「劣った人と交際すると劣った人から悪い影響を受けて自分が劣化してしまうので、劣った人と交際すべきではない。優れた人から良い影響を受けて自分を高めるため、優れた人とだけ交際すべきだ」という記述が見られる。
- *医療器具の加工は非常に難しい。切削しにくい難切削材の素材であることが多く、切削しにくい複雑な形状であることが多く、切削しにくい微小な形状であることが多いためである。医療器具を上手く加工するには、切削工具、切削油、工作機械、CADソフト、CAMソフトといったすべての要素を改良する必要がある。切削工具のメーカーや工作機械のメーカーが自社の商品を売り込むときの定番文句の1つは「我が社の商品は医療器具の加工に使われております」である(記事1
、記事2
、記事3
)。
- *ちなみに、産業を振興する効果の強さという点で「医療器具に対する需要」に匹敵するのは「軍需物資・兵器に対する需要」である。軍人が「できるだけ良い軍需物資・兵器を作ってくれ。さもないと味方が死んでしまう!」といった具合に鬼気迫る表情で高品質の製品を要求するからである。そんな風に発破を掛けられた製造業者は大いに張り切ることになり、内発的動機付けを強く掛けられることになり、技術を向上させる可能性が高い。
日本は憲法で平和国家であることを定められている。そして、エネルギーや食糧といった資源の自給率が非常に低い国家なので、すべての国家と仲良くする全方位外交を維持する必要があり、軍事行動を起こすことが難しく、外国の恨みを買うような兵器輸出が難しい。ゆえに日本が「軍需物資・兵器に対する需要」を大幅に増やして技術を進歩させるという国策をとるのはあまり現実的ではない。
- *田中角栄が首相に就任していたのは1972年7月7日から1974年12月9日までだが、1973年になって「福祉元年」と宣言し、老人医療の無料化や老人に対する年金支給額の大幅引き上げを実行した。このため、田中角栄こそが日本を福祉国家に変貌させた政治家だと言える。
- *姥捨て山(うばすてやま)
とは江戸時代の日本の中の貧困地帯で存在したとされる風習で、生産能力が低くなった老人を人里離れた山に放置して絶命させ、その共同体の人件費を削減することをいう。ちなみに、共同体の構成員を追放したり殺害したりすることで人件費を削減することを口減らし(くちべらし)という。
- *「働かざる者食うべからず(He who does not work, neither shall he eat)」とは、新約聖書の「テサロニケ人への第二の手紙3:10
」に出てくる言葉を原典とした格言である。共産主義者のウラジーミル・レーニンは論文で盛んに「働かざる者食うべからず」の格言を引用したことで知られている。
- *一例を挙げると、カルロス・ゴーンは人件費を削減するコストカッターとして有名であるが、日産自動車CEOの地位を解任されるまで日産自動車から高額の役員報酬を受け取り続けていた(記事
)。「役員報酬が高すぎる」と言われると世界各国の自動車会社における役員報酬を調べ上げて「日産と同規模の自動車会社では日産よりも多くの報酬を役員に支払っている」と反論していた(記事
)。
- *イギリスの非政府組織(NGO)「オックスファム(Oxfam)」は、2016年1月18日に、「世界の最富裕層1%が保有する資産の総額が、残る最富裕層以外の99%が保有する資産の総額を上回った」と発表した(記事
)。
- *ウォーレン・バフェットはアメリカ合衆国の大富豪で、株式投資によって巨万の富を稼ぎ出した。彼の私生活は非常に質素であり、こぢんまりとした小さな住居に住み、一般市民が飲むようなチェリーコーク
を愛飲し、年会費無料のごく一般的なクレジットカードを使っている。
- *機会平等の例は「最終学歴が中卒の人にも最終学歴が大卒の人にも公務員試験の受験資格を与える」というものである。条件平等の例は「世の中のすべての人々の最終学歴を大卒にして、そうした上で世の中のすべての人々に公務員試験の受験資格を与える」というものである。結果平等の例は「所得税累進課税を掛けて世の中のすべての人々の年収を500万円~2000万円の幅に収める」というものである。
- *所得税累進課税を否定して所得税一律課税を肯定し、相続税を廃止することを主張した新自由主義者というと、渡部昇一である。
- *2006年2月1日参議院予算委員会で小泉純一郎首相が「私は格差が出るのは別に悪いこととは思っておりません。今まで悪平等だということの批判が多かったんですね。能力のある者が努力すれば報われる社会、これは総論として、与野党を問わずそういう考え方は多いと思います」「成功者をねたむ風潮とか、能力のある者の足を引っ張るとか、そういう風潮は厳に慎んでいかないとこの社会の発展はないんじゃないかと。できるだけ成功者に対するねたみとかそねみという感情を持たないで、むしろ成功者なり才能ある者を伸ばしていこうという、そういう面も必要じゃないかと」と答弁した(資料1
、資料2
)。新自由主義の支持者である竹中平蔵も「頑張って成功した人の足を引っ張るな」というのが定番の語りである(記事
)。新自由主義の支持者である渡部昇一も「所得税累進課税は成功者への嫉妬である」と繰り返し主張していた。英国の首相を務めたマーガレット・サッチャーは演説で「金持ちを貧乏にすることはできても、貧乏人を金持ちにすることはできない(The poor will not become rich even if the rich are made poor.)」と語ったが、これは「成功者に嫉妬して成功者の足を引っ張るな」と主張する人々によってしばしば引用される言葉である。
- *新自由主義の信奉者とされる竹中平蔵や小泉純一郎が愛読して絶賛するサミュエル・スマイルズの『自助論』には、「人は努力すれば必ず目標を達成できる」「人には能力が備わっている」という意味の文章が多く存在する。
- *埼玉県資料
- *新自由主義の信奉者とされる竹中平蔵や小泉純一郎が愛読して絶賛するサミュエル・スマイルズの『自助論』には、「貧困になっても成功できる。貧困が人を成長させる」という思想が随所に見られる。
- *以上のことについての詳細は日本国憲法第28条の記事を参照のこと。
- *ナニワ金融道の作者である青木雄二は、「金貸しは、アルバイト・フリーター・水商売・超一流以外のマンガ家といった人々に対しては『定期収入がない』と判断して融資しない。金貸しが好んで融資するのは社会的な信用のある会社に勤めているサラリーマンと公務員である。なかでも金貸しが好んで融資するのは自衛官と警察官である。自衛隊も警察も『身内から破産者を出しては体裁が悪い』といった古い体質を持つ組織であり、構成員が借金をしすぎて破産しそうになると組織が肩代わりしてくれることが多く、融資を確実に回収できるからである」と語っている。土壇場の経済学(南風社)
青木雄二・宮崎学 60~61ページ
- *2007年米国におけるサブプライム住宅ローン危機
は、収入が途絶える危険性がある者が「不動産を買いたいので融資してくれ」と申し込み、それに対して銀行が融資したことが問題の発端だった。2007年頃に銀行の多くが不良債権を抱えていることが発覚し、世界中の金融機関が連鎖的に経営不調に陥り、そのまま2008年9月のリーマンショックになり、世界的な大不況になった。
- *窮鼠(きゅうそ)とは、絶体絶命の窮地に追い詰められた鼠(ネズミ)のこと。「窮鼠猫を噛む」とは、猫に追い詰められて絶体絶命となったネズミが猫に噛みつくことがある、という意味である。
- *禽困覆車(きんこんふくしゃ)を書き下し文にすると「禽(きん)も困(くる)しめば車を覆(くつがえ)す」となる。「狩猟対象の鳥も、追い詰められると狩猟用の車を引っ繰り返すほどの力を発揮する」という意味である。
- *新自由主義の信奉者とされる竹中平蔵や小泉純一郎が愛読して絶賛するサミュエル・スマイルズの『自助論』には、人が努力を積み重ねて成果を得る姿を紹介する文章が頻繁に現れるが、「病気や怪我といったハンディキャップに悩まされる人が努力してハンディキャップを克服する姿」を紹介する文章は全く現れない。「病気や怪我といったハンディキャップに悩まされる人など存在しない」といった雰囲気で進んでいく書物である。
- *『マンキュー マクロ経済学Ⅰ 入門編 第3版(東洋経済新報社)N・グレゴリー・マンキュー』233~234ページで効率賃金仮説が解説されている。効率賃金仮説は「生産性の低下を防ぐために企業は賃上げをする」という考えで、①労働者の栄養失調による生産性低下を防ぐために企業は賃上げをする、②労働者が転職して職場の生産性が低下することを防ぐために企業は賃上げをする、③優秀な労働者が転職することを防ぐために企業は賃上げをする、④労働者の労働意欲の低下による生産性低下を防ぐために企業は賃上げをする、という4つから成り立つ。賃金の下方硬直性(賃金が下がりにくいこと)の原因は3つ考えられるが、そのうちの1つが効率賃金仮説であり、その他の2つは最低賃金法と労働組合である。
- *N・グレゴリー・マンキューは『マンキュー経済学Ⅱマクロ編[第4版](東洋経済新報社)』の87ページで「セリーナ・ウィリアムズという超一流のスポーツ選手は、庭の芝刈りを自分で行わず、近所の少年を雇ってその少年にやらせるべきである。時間を庭の芝刈りに費やさずにテレビ広告の収録に回せば、テレビ広告の報酬を稼ぐことができる」と述べている。つまり「セリーナ・ウィリアムズはテレビ広告の仕事をして、近所の少年は芝刈りをする、という社会的分業をすべきだ」と主張している。
- *1940年に首相に就任した近衛文麿はソ連・ナチスドイツ・イタリアといった全体主義諸国の追随をしようとしていた。そうした近衛内閣の姿勢を支持する人たちが「バスに乗り遅れるな」と書き立てた(記事
)。それ以降の日本において、国際的潮流に乗っていくことを支持する人がしばしば新聞などで「バスに乗り遅れるな」と書く傾向がある。2013年~2015年に日本がTPP加盟交渉をしているときや2015年に中国がAIIBを設立したときに「TPP(AIIB)に参加するのが世界的潮流である。バスに乗り遅れるな」と書く人が多かった。
- *トーマス・フリードマン
というジャーナリストは「自由貿易で国家間の相互依存が深まれば国家間の戦争が起こらなくなる。マクドナルドの店舗がある国どうしでの戦争は起こらない」という内容のマクドナルド理論(黄金のM型アーチ理論)を唱えた。
- *第一次世界大戦の直前、イギリスとドイツの間の貿易はとても盛んで、ドイツにとってイギリスが最大の貿易相手国であり、イギリスにとってドイツは第二の貿易相手国だった。中野剛志が『富国と強兵
』の342ページでそのことを指摘している。ちなみに中野剛志は、ピーター・リバーマンの『Trading with the Enemy: Security and Relative Economic Gains
』という論文を引用している。
- *19世紀末~20世紀初頭において欧州やアメリカ合衆国や日本といった各国が金本位制を導入して盛んに自由貿易を行っていたが、これを第一次グローバリゼーションと呼ぶことがある。一方、1991年に冷戦が終結して1990年代から自由貿易が盛んになったが、これを第二次グローバリゼーションと呼ぶことがある。
- *GATT(関税貿易一般協定)の体制では、農業・金融・電力・建設などの分野は貿易自由化の交渉から基本的に外されていた。貿易自由化の対象とされたのはもっぱら工業分野だったが、その工業分野においても様々な例外措置や緊急避難的措置(セーフガード)が設けられていた。例を挙げると、1956年から1981年の頃の日米両国はどちらもGATTに加入していたが、米国の要求により日本が綿製品・鉄鋼・繊維・カラーテレビ・自動車といった工業品の対米輸出を次々と自主規制することになった。GATTの体制における貿易は「管理された自由貿易」「マイルドな保護貿易」と言っていいようなものだった。(『富国と強兵』東洋経済新報社 中野剛志 448~449ページ、『奇跡の経済教室』株式会社ベストセラーズ 中野剛志 308~311ページより引用)
- *鈴木修は1978年6月にスズキの社長に就任した。半年後の1979年1月に産油国イランで革命が起こり、第2次オイルショックが始まって物価が上昇していった。同年2月頃から行われる春闘ではスズキの労働組合が物価上昇に対応する賃上げを要求していたが、鈴木修社長は団体交渉で「だいたいおまえたちは、トヨタや日産には入れなかったから、ここ(スズキ)にいるんだろう。落ちた奴らが、(トヨタなどと)同じ条件を要求しても無理だ」と言い放ち、この一言で団体交渉を決着させてしまったという(『プレジデント』2011年10月3日号 33ページ、プレジデント・オンライン2013年4月3日記事
)。このように、従業員の自信を打ち砕くと賃上げを防ぐことができるし、賃下げすることも大いに可能となる。もちろん、従業員の自信を打ち砕くと従業員の作業に対する集中力などを弱めることになって企業の実力を低下させることになるので、従業員の自信を破壊して賃下げをするという手段を乱用するべきではない。
- *攻撃的言動を繰り返す政治指導者の代表例は、アメリカ合衆国ならドナルド・トランプ、日本なら小泉純一郎・安倍晋三などである。いずれも外国に対して喧嘩腰で対応したり国内の対立政治勢力を痛烈に批判したりすることに熱心だった。
- *「彼らは我が国を貶めているだけである」とレッテル貼りして相手の表現の自由を潰すのが上手い政治指導者というと、アメリカ合衆国ならドナルド・トランプ、日本なら安倍晋三が代表例である。
- *新自由主義の信奉者とされる竹中平蔵や小泉純一郎が愛読して絶賛するサミュエル・スマイルズの『自助論』には、「努力をしない劣った怠け者」を見下して軽蔑する文章が頻繁に出現する。
- *日本国の東京で行われた2020年東京オリンピック・パラリンピックでは英語の標語が掲げられ、その英語の標語を日本語に翻訳しなかった。そのことを決定したのは日置貴之
という人物である(記事
)。彼の発言からは「外国語を理解できない人に対する軽蔑」という心理が見え隠れする。
- *官公需とは政府と地方公共団体が作り出す需要のことで、N・グレゴリー・マンキューの経済学教科書における「政府購入」のことである。また、日本のGDPにおける「政府消費」と「公的固定資本形成(公共投資)」の2つを合わせたものである。
- *民需とは民間が作り出す需要のことで、N・グレゴリー・マンキューの経済学教科書における「消費」と「投資」を合わせたものである。また、日本のGDPにおける①個人消費と②住宅投資と③企業設備投資と④企業在庫投資の4つを合わせたものである。ちなみにこの中で①と②は家計が作るもので、③と④は企業が作るものであり、①が最大の割合を占める。
- *内需とは官公需と民需を合わせたものである。
- *内需を減らして物資を片っ端から輸出して外貨を稼ぐことを極端に行うと飢餓輸出
という状態になる。
- *外需とは国外の政府・地方公共団体・民間が作り出す需要のことで、N・グレゴリー・マンキューの経済学教科書における「純輸出」のことである。また、日本のGDPにおける「財・サービスの純輸出」のことである。
- *新自由主義の信奉者とされる竹中平蔵や小泉純一郎が愛読して絶賛するサミュエル・スマイルズの『自助論』には、「他者からの苛烈な要求によって人間は向上する」という記述が全く存在せず、その代わりに「自らの決意や心がけによって人間は向上する」という記述が大量に存在する。
- *比較優位については池上彰がこの記事
で簡潔に解説している。
- *小泉進次郎は「人口減少は不可避です。人口減を悔やむ発想から早く飛び出して、人口減少でも大丈夫だという楽観と自信を生むべきだ」と語った。2016年9月28日朝日新聞デジタル
- *2013年9月25日に安倍晋三首相がニューヨーク証券取引所でそのように演説した(資料
)。
- *ベトナム国籍の技能実習生が実習先の岡山市の建設会社で2年間にわたって暴行を受けたことが2022年になって発覚したが(記事1
、記事2
)、そうした例は氷山の一角とされる。
- *日本において新自由主義の推進者となったうちの1人は小泉純一郎だが、その彼は、1990年代後半に「経世会支配からの脱却」を訴えていた。経世会は田中角栄の流れを汲む自民党の派閥であるので、「経世会支配からの脱却」は「田中角栄が推進した政治からの脱却」という意味になる。
- *国庫支出金とは、中央政府から地方公共団体へ渡されるお金の一種で、国庫負担金と国庫補助金と国庫委託金に分類される。「国からの補助金」と略して呼ばれることが多い。お金の使い道を決めた上で中央政府から地方公共団体へ渡されるので、地方公共団体にとっての特定財源である。
- *地方交付税交付金とは、中央政府が徴収した税金(国税)による収入の一部を地方公共団体に分配する制度のことである。「地方交付税」と略されることが多く、その場合は税金の一種に見えるが、そうではない。地方交付税交付金はお金の使い道を決めずに中央政府から地方公共団体へ渡されるので、地方公共団体にとっての一般財源である。
- *地方交付税交付金は、所得税収入の33.1%と法人税収入の33.1%と地方法人税収入の100%と酒税収入の50%と消費税収入の19.5%を原資としているが、これらの国税を多く負担しているのは有力な産業がある地方公共団体に住む個人・企業である。そして地方交付税交付金は、財政需要から財政収入を引いて算出される財政不足金額に応じて地方公共団体に交付されるので、有力な産業があって財政収入に恵まれている地方公共団体には少額だけ交付されたり全く交付されなかったりする。東京都は、地方交付税交付金の制度が始まった1954年度から2022年6月現在に至るまで一度も地方交付税交付金の交付を受けたことがない。このため「豊かな地方公共団体に住む個人・企業からお金を巻き上げて貧乏な地方公共団体にお金をばらまく制度である」と新自由主義者に批判される。
- *地方交付税交付金を廃止することを主張し続けているのは、日本維新の会である。日本維新の会の母体は大阪維新の会であるが、その大阪維新の会は大阪府の地域政党として設立されている。大阪府に居住する個人・企業が国税を多く支払っているのにもかかわらず、そうした国税の納税額に比べて大阪府は少額の地方交付税交付金しか受け取っていない。このため大阪府は、地方交付税交付金の廃止を訴えると有権者からの受けが良くなる土地柄である。
- *日本政府は農産物や林産物や水産物の価格を統制する体制を維持していて、農家や林業従事者や漁業従事者の収入が安定するように努めている。たとえば、天候に恵まれて農家が農産物を過剰に作りすぎてしまったとき、農産物を廃棄して農産物の供給を減らして農産物の価格を高い状態に維持している。こういう政策を「豊作貧乏を防ぐための緊急需給調整施策」といい、農林水産省や農協が指導して行っている。
- *2010年10月19日に、前原誠司外務大臣は「日本のGDPのうち、農業など第1次産業は1.5%。1.5%を守るために98.5%が犠牲になっているのでは」と講演で発言した(記事
)。外務省が作成する外交専門誌の『外交 vol.4』
においても、8ページで全く同様の発言をしている(資料
)。
- *覚醒剤を使用すると恐怖心が麻痺する。このため各国は軍隊が覚醒剤を備蓄できるように法律を整えており、戦争に突入したら兵士に覚醒剤を投与して兵士に恐怖心を克服させて戦争を遂行する用意をしている。日本の自衛隊は自衛隊法
第115条の3によって覚醒剤の所持が認められているし、アメリカ合衆国の軍隊もアフガニスタン戦争で兵士たちに覚醒剤を供給した。作家の坂口安吾は、覚醒剤を使用して空襲の恐怖から逃れたという(資料動画
)。
- *新自由主義の信奉者とされる竹中平蔵や小泉純一郎が愛読して絶賛するサミュエル・スマイルズの『自助論』には、「不幸や退廃から目をそむけて、幸福感に満ちあふれた楽天的な性格になり、得をしよう」という記述が見られる。
- *新自由主義の信奉者とされる竹中平蔵や小泉純一郎が愛読して絶賛するサミュエル・スマイルズの『自助論』には、凶悪犯罪の取り締まりに力を注ぐ人が全く登場しない。「凶悪犯罪などこの世に存在しない」といった雰囲気で進んでいく書物である。
- *1962年(昭和37年)に策定された第一次全国総合開発計画において「地域間の均衡ある発展」という目標が掲げられ、人口が少ない地域で公共事業を大々的に行うようになった。「地域間の均衡ある発展」やそれを変形させた「国土の均衡ある発展」といった言葉は、全国総合開発計画やそれを引き継いだ国土形成計画において継承されていった。2015年(平成27年)の第二次国土形成計画においても「国土の均衡ある発展」の言葉が盛り込まれている(資料
)。
1972年(昭和47年)6月に田中角栄は『日本列島改造論』という書籍を発表し、「国土の均衡ある発展」を大いに支持する政治姿勢を鮮明にして、同年7月5日の自民党総裁選に勝利して、同年7月7日に首相に就任した。首相に就任してから、その書籍の内容どおりに人口が少ない地域での公共事業を推進した。田中角栄は1974年12月に首相の座を退いたが、自民党の最大派閥である田中派(木曜クラブ)の首領であり続けたため歴代の自民党政権に大きな影響を与え続けており、1980年代中盤までの自民党政権は「角影内閣(角栄が影から操る内閣)」「田中曽根内閣(中曽根康弘首相を田中角栄が影から操る内閣)」などと表現された。田中角栄は1985年2月27日になって脳梗塞に倒れて政治生命を失ったが、田中派(木曜クラブ)やそれから分離独立した竹下派(経世会)が自民党の主流である状況に変化はなく、田中角栄の『日本列島改造論』に示されるような政策が継承された。 - *「地方 利権 票
」と検索するだけで、そうした批判をする記事が山のようにヒットする。
- *石原伸晃は、2001年(平成13年)10月16日に島根県松江市でのタウンミーティングで「北海道の高速道路でヒグマが跳ねられた。車よりクマが多いからだ」と発言した。この発言は2004年(平成16年)4月14日衆議院国土交通委員会でも取り上げられ、国土交通大臣に就任していた石原伸晃は答弁に追われている(資料1
、資料2
、資料3
)。
- *この思想を持っているとされるのが宮崎駿であり、「TECH WIN 10月号別冊/VIDEO DOO! vol.1(1997年10月1日 アスキー)」などのインタビュー記事でそのようなことを語っている。
杉田俊介は、「宮崎駿は『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『もののけ姫』『風立ちぬ』といった映画で、手つかずの自然の奥深くにある清浄で神聖な場所を描写している」と指摘している(宮崎駿の自然観について-そのアジア主義的な命脈-杉田俊介)。
ちなみに日本は火山が多い国であり、全世界の活火山の7%が日本に集中しているほどである(資料)。火山の周辺には火山噴出物(火山砕屑物)が積もっていて、普通の土でできた土地よりも隙間が多くて水を通しやすい土地になっており、雨が降ったら地下に水がしみ込んでいきやすく、地下水や湧き水を作り出しやすい(資料1
、資料2
)。火山である富士山の周辺には湧き水が多く、各種の飲料メーカーがその湧き水を利用してミネラルウォーターを作っている。静岡県富士市も地下水を使って上水道を供給している(資料1
、資料2
)。
火山の多い日本国では湧き水が多いので、「手つかずの自然の奥深くには豊かに水が湧き出るところがある」という思想を持つ人を生み出しやすい。
また、火山周辺の湧き水は、火山が作り出した火山砕屑物によって何重にも濾過(ろか)されていて清浄であり、そのまま飲むことも可能である。このため火山周辺の湧き水を「清浄で生命力をもたらすもので尊い」と感じる人が多い。
このため「手つかずの自然の奥深くに、豊かに水が湧き出てくるような静かで清浄で神聖な場所がある」といった思想は、火山性思想という風に表現することができる。 - *2022年7月28日にJR東日本は路線別の収支を初めて公表し、利用者が少ない地方の35路線の66区間すべてが2019年度に営業赤字だったと発表した。収支が特に厳しい区間はバスへ転換する協議に入りたいという考えを見せた(記事
)。
- *ちなみに税引後当期純利益というのは会計学風の表現であり、経済学的な表現に直すと「利潤」となる。
- *機会損失と機会費用
はよく似た意味を持つ言葉であるが、ごくわずかに意味が違う。Aという行為を行わなかったとき、Aという行為で得られるはずだった利益を機会損失という。Aという行為を行わずBという行為を行ったとき、Aという行為で得られるはずだった利益を「Bという行為のための機会費用」という。
19歳から22歳の4年間を無職で過ごした人がいるのなら、その人は4年間で就職して●千◆百万円の所得を得るはずだったのにそれを行わなかったので、「機会損失●千◆百万円」ということになる。19歳から22歳の4年間を大学で学生として過ごした人がいるのなら、その人は4年間で就職して●千◆百万円の所得を得るはずだったのにそれを行わなかったので、「大学に通うという行為のための機会費用●千◆百万円」ということになる。
このため本記事では「店が店舗拡張をしなかったとき、店舗拡張で得られるはずだった利益」を機会損失と表現し、「客が行列に並んだとき、行列に並ばず他のことをすることで得られるはずだった利益」を機会費用と表現した。
とはいえ、機会損失と機会費用は非常によく似ている言葉なので、混同しても大きな問題にはならない。 - *若者の囲い込みを目指すというのは歌手に限らず多くの業界で見られる経営戦略である。2022年4月に吉野屋の常務取締役が大学の講義で「生娘をシャブ漬け戦略」という不適切な表現をして炎上したが、その講義の内容は若者の囲い込みを目指す経営戦略を語るものであった。
- *統一教会や幸福の科学は攻撃的な政治家の典型例であるドナルド・トランプを礼賛する傾向がある。
- *攻撃的言動を繰り返す政治指導者の代表例というと安倍晋三である。その安倍晋三は、首相に就任して権力を握っている期間において、出版社・テレビ局に対して執拗に抗議して「表現の自由」を抑圧することに熱心だった。
池上彰は、「ところが、安倍政権になってからは、自民党はおもなニュース番組をすべて録画して、細かい部分まで毎日のように抗議し、訂正を求め、注文をつけてくる。すると、テレビ局は『面倒くさい』となる。対応が大変で、次第に『文句を言われない表現にしようか』となってしまうのです」と語り、続いて「私が特定秘密保護法についてテレビで批判的な解説をした時も、すぐに役所から『ご説明を』と資料を持ってやってきた。こういうことが日常的にあるわけです」と語り、さらに「第1次安倍政権(06~07年)の時に、メディアへの抗議が増えたんです。ところが、安倍さんが辞めた後にパタリとなくなりました。福田政権、麻生政権、民主党政権の時は抗議が大量にくるようなことはなかった。それが第2次安倍政権(12年~)になって復活しました」と述べている(『週刊朝日増刊 緊急復刊朝日ジャーナル リベラルへの最終指令!2016年7月7日号(朝日新聞出版)21ページ』)。
- *カルト宗教団体の代表例と言えば統一教会である。統一教会はデモ隊を組織して文藝春秋の社屋を取り囲んだことがある。また統一教会を批判するテレビ局に対して大量の無言電話がかかってきたことがある。詳しくは統一教会の記事や1992年8月無言電話事件の記事を参照のこと。
- *突撃隊(SA)は、ナチス(1920年に結党して1945年まで存在したドイツの政党)に直属する私兵組織で、ナチスと対立する政党に殴り込みをかけるなど武力攻撃を行う役目を果たしていた。ちなみに、突撃隊に似た組織として親衛隊(SS)というものがあり、ナチスに直属する私兵組織だったが、ナチスと対立する政党に殴り込みをかけることをあまり行わず、ナチスの幹部の身辺を警護することや政府の警察組織を監督して傘下に収めることが主な役割だった。
- *自民党は、民主党政権時代の2010年5月に自民党ネットサポーターズクラブ(ネトサポ J-NSC)を設立し、ネット上での連帯を目指すようになった。2012年12月26日に安倍晋三が内閣総理大臣に就任したあとも同組織は存続し、2022年8月現在に至っても存続している。この組織は自民党の党員資格を持っていない人物でも参加できるので、カルト宗教団体の信者が自民党の党籍を持たないまま参加することができる。
- *池上彰は、「さらに深刻なのは『電凸』です。『電話で突撃する』という意味のインターネット用語ですが、一般の読者や視聴者が、気に食わない報道があると、スポンサー企業に一斉に抗議電話をかける。『不買運動をする』なんて言われるとビックリするんですね」と述べ、一般視聴者からの抗議電話で出版社やテレビ局が萎縮することを述べている(『週刊朝日増刊 緊急復刊朝日ジャーナル リベラルへの最終指令!2016年7月7日号(朝日新聞出版)22ページ
』)。池上彰が電凸とか抗議と呼んでいるものの中には、安倍晋三政権を支持するカルト宗教団体の信者が行っているものが含まれている可能性がある。
ちなみに余談だが、lite-ra.com2016年7月6日記事では「一般視聴者からの抗議電話によるメディアの萎縮」を紹介した後に池上彰の「第1次安倍政権(06~07年)の時に、メディアへの抗議が増えたんです。ところが、安倍さんが辞めた後にパタリとなくなりました。福田政権、麻生政権、民主党政権の時は抗議が大量にくるようなことはなかった。それが第2次安倍政権(12年~)になって復活しました」の発言を紹介しているので、「安倍晋三政権のときに一般視聴者からの抗議電話が増えた」というような印象を受ける。しかし、当該記事が引用している『週刊朝日増刊 緊急復刊朝日ジャーナル リベラルへの最終指令!2016年7月7日号(朝日新聞出版)21ページ
』を見てみると、「役所からの抗議」を紹介した後に池上彰の「第1次安倍政権(06~07年)の時に~」の発言が並んでいて、「安倍晋三政権のときに役所からの抗議が増えた」という文脈になっている。lite-ra.com2016年7月6日記事
は、引用の仕方が雑である。
- *総務省の資料を見ると、新自由主義がさほど流行っていなかった昭和時代は選挙の投票率が高く、新自由主義が本格的に流行るようになった平成時代は選挙の投票率が低くなった、という傾向を見て取ることができる(資料1
、資料2
)。
- *さしたる地盤を持たない弱小議員は、ほんの数百票で当落が決まってしまう過酷な選挙戦を強いられる可能性がある。そういう弱小議員にとって、投票率が低くて浮動票を得ることを期待できないのなら、組織票が生命線になる。また、派閥首領議員は「さしたる地盤を持たない弱小議員」を数多く子分にすることで権力を強化し、権力の階段を駆け上がって総理大臣の座に近づいていく存在である。このため派閥首領議員は、極めて強固な地盤を持っていて自らの当選に関して組織票を全く必要としなくても、子分議員を当選させて権力を強めるために、組織票を大いに必要とする。
- *統一教会の信者を秘書にする自民党議員は数多いとされる。詳しくは統一教会の記事を参照のこと。
- *安倍晋三は中国と北朝鮮に対する強硬姿勢を維持しつつ、野党議員やマスコミに対する痛烈な批判を惜しまなかった政治家である。その安倍晋三は統一教会との関係が深い。詳しくは統一教会の記事を参照のこと。
- *2004年12月に、久保木修己
という統一教会の幹部の遺稿をまとめた「美しい国 日本の使命
」という書籍が世界日報社から発表された。世界日報社は統一教会の関連出版社で、世界日報という統一教会の機関誌を発行している。それから約1年10ヶ月後の2006年9月26日になって内閣総理大臣に就任した安倍晋三は「美しい国日本」という言葉を政権の標語にした。
- *安倍晋三が政権を得てから統一教会への刑事摘発が減ったことは広く指摘されることである。詳しくは統一教会の記事を参照のこと。
- *ホウレンソウ(報連相)は報告・連絡・相談の頭文字をとった造語であり、社会人教育の教材で使われることが多い。
- *カルト宗教団体の典型例である統一教会は、教団内部における相互監視が濃密であることで知られている。詳しくは統一教会の記事を参照のこと。
- *終末論を語るカルト宗教団体は数多い。詳しくはカルトの記事を参照のこと。「君の行いで子孫が苦しむ」というカルト宗教団体の代表例は統一教会である。
- *オウム真理教はうまかろう安かろう亭
やオウムのお弁当屋さん
やマハーポーシャ
を経営していて、そこで信者を無償で働かせて巨額の利益を得ていた。統一教会はアメリカ合衆国で寿司ビジネスを行っており、そこに日本人信者を派遣して極めて安い賃金で働かせていた。創価学会は聖教新聞の配達業務を信者に極めて安い賃金でやらせることで悪名高いが、そうした信者のことを「無冠の友」という。
- *ちなみに日本は日銀法第4条で「日本銀行は、その行う通貨及び金融の調節が経済政策の一環をなすものであることを踏まえ、それが政府の経済政策の基本方針と整合的なものとなるよう、常に政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない」と定められている国であり、この条文をそのまま読めば「中央銀行の独立性が全く存在しない国」ということになる。日銀法第54条第3項で「日本銀行の総裁若しくは政策委員会の議長又はそれらの指定する代理者は、日本銀行の業務及び財産の状況について各議院又はその委員会から説明のため出席することを求められたときは、当該各議院又は委員会に出席しなければならない」と定められ、日銀法第56条で「財務大臣又は内閣総理大臣は、日本銀行又はその役員若しくは職員の行為がこの法律若しくは他の法令若しくは定款に違反し、又は違反するおそれがあると認めるときは、日本銀行に対し、当該行為の是正のため必要な措置を講ずることを求めることができる」と定められているので、日銀は日銀法第4条を無視して「中央銀行の独立」を目指した際に、立法府と行政府の両方から厳しい反発を受けることになる。
- *ちなみにサプライサイド経済学の反対に位置するのはケインズ経済学で、需要・消費の活性化を重視するものである。
- *【竹中平蔵の骨太対談】vol.29 天は自ら助くる者を助く 自助・自立の勧め/vs リンクアンドモチベーション社長 小笹芳央
にて、竹中平蔵が「小泉純一郎にとって一番好きな本のうちの1つが『自助論』である」と証言している。また、竹中平蔵も『自助論』が好きで、「ゼミの学生に経済学の本よりも先に『自助論』を読ませる」と語っている。また、渡部昇一も『歴史の鉄則
』などの自著で『自助論』を絶賛していた。マーガレット・サッチャーも『自助論』を愛読し、「英国の全ての小学生に『自助論』を贈りたい」と発言したという(記事
)。
ちなみに竹中平蔵と渡部昇一とマーガレット・サッチャーはいずれも商店を実家としており、両親が商店の経営者だった。『自助論』の著者サミュエル・スマイルズも商店を実家としており、両親が商店の経営者だった。こうした共通点も注目すべきところである。 - *汪暉(著)、石井剛・羽根次郎(翻訳).『世界史のなかの中国:文革・琉球・チベット』.青土社,2011年,p.132
- *ポール・クルーグマンの『格差はつくられた
』の119ページでこの事件が語られている。1976年の大統領選挙に出馬したロナルド・レーガンはシカゴで起こった福祉詐欺事件を大袈裟に誇張し、「福祉の女王」という表現を広めた。このときレーガンが批判したのはリンダ・テイラー
という女性で、黒人の父親と白人の母親の間に生まれた人であり、つまりは黒人と扱われるタイプの女性だった。「レーガンなどの保守派は、人々の人種差別意識を利用して福祉予算を削減しようとする傾向がある」という内容のことをクルーグマンは『格差はつくられた』の117~121ページで語っている。
- *累進課税を弱体化させるとこうした大企業経営者の姿が見られることは、トマ・ピケティが『21世紀の資本
』の532ページで、ポール・クルーグマンが『格差はつくられた
』の101~104ページで、それぞれ指摘している。
- *「致命的な思い上がり(the fatal conceit)」というのはフリードリヒ・ハイエクの言葉である。フリードリヒ・ハイエクは、統制経済・計画経済を推し進めた共産主義国の経済官僚を批判するとき、「彼らは『人はどんな複雑な経済現象も完全に支配する理性・知性を持っている』と考えており、致命的な思い上がりをしている」と表現した。最晩年の著作の題名も『致命的な思い上がり(The Fatal Conceit)
』というものである。
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