ここでは右翼および左翼のうち日本の事象に関することを記述する。
明治国家においての「右翼」
体制 | |||
左 |
自由民権 新ブルジョワジー 大正デモクラシー リベラリズム |
藩閥政府 官僚エリート 軍部 藩閥・大地主 |
右 |
社会主義 共産主義 アナーキズム |
天皇原理主義 対外膨張主義 超国家主義 高度国防主義 農本主義 |
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反体制 |
日本の場合、フランスの右翼、つまり保守・反動を旨とする王党派に対応する、江戸幕府はこれを継承する者、掲げる者含め政治的立場としては、雲居龍雄の反乱謀議を除けば、皆無であった。文化的立場として、新政府を攻撃する元幕臣成島柳北や、近代化を嫌い、江戸文化への郷愁を思った永井荷風、幕府軍の行進曲を創ろうとした架空の侍を描いた、保田與重郎があった。
旧体制、つまり幕藩体制復興を標榜する「右翼」は一掃された中で、「自由主義」、「民主主義」、「社会主義」に対する「保守」、「反動」として、「自由・平等・友愛」に対して、「秩序・権威・忠誠」を掲げる政治的立場が新しく生まれた。この場合、天皇中心主義(天皇親政から立憲君主制と幅はあるものの)がある。
明治前期 | |||||
左 |
秩父困民党 植木枝盛 中江兆民 河野広中 | 板垣退助 星亨 大隈重信 | 伊藤博文 山県有朋 陸海軍 藩閥官僚 | 西郷隆盛 国学者グループ 天皇親政派 | 右 |
自由民権派 | 議会派 | 有司専制派 | 反近代派 |
天皇親政派は影響力は皆無であった。代わりに頭山満の「玄洋社」やその社員内田良平の「黒龍会」が掲げた「天皇中心主義」や「国粋主義」。急進的な「対外拡張主義」、「国防充実」が「ナショナリズム」=「国民主義」として働いた。これが右翼の特徴とされる。
但し、「天皇中心主義」は天皇親政とは全く違い、近代国家特有の新しく創造された権威、国家元首・大元帥を前提とした。「国粋主義」も、多くは明治知識人の視点から取捨選択された「歴史」や「国文学」、「日本美術」が多かった。これは徳川時代、政治的には将軍・大名を仰ぎ、文化的には支那の儒教、漢詩が知識人の尊ぶ処にあったため「天皇」や「日本伝統」は極めて体制の外側に位置していた為である。実際、天皇中心主義、国粋主義(日本文化至上主義)は、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らが、古典研究から入って、インドや支那等異国文化の崇拝を戒め、日本文化復権を訴えた文化運動、「国学」や、儒教思想から「天皇中心主義」「国粋主義」を導いた「闇斎学」「水戸学」は、儒教正統派の朱子学やリアルな徂徠学と比べて反体制的な思想に過ぎなかった。
しかしこれらの思想は幕末、開国をきっかけに、欧米勢力の軍事的脅威を前にし、「尊皇攘夷」のスローガンの下、結集し、天皇を中心とする統一国家を樹立して対外的脅威へ抗う、倒幕志士の行動指針となる。
その後、倒幕志士の中心、つまり薩長閥=明治政府はこれを一部取り入れ、新しく近代的統一国家形成にあたり、求心的シンボルとして有効な天皇や国粋的なイメージを残した。但し、攘夷は当時の世界情勢を鑑み、外交・交易の進展が図られる中、退けられ、天皇はあくまで国家統合のシンボル、元首として残り、平田派国学者の古事記神話を背景とする神秘的な天皇神学は次第に啓して遠ざけられていった(一部教育分野で残る事になる)。
明治政府は基本路線として、独立維持、欧米と拮抗する為の富国強兵を掲げる。その中で、軍隊の拡充、官僚制度の整備を進める山県有朋等政府内「右派」や、排斥された西郷隆盛の「遺韓論」、征韓論等のアジア連帯論や対外膨張主義と分化していく。但し政府は当初、相当に慎重で、朝鮮への干渉もロシア強硬外交も、反政府的な「右翼」団体、玄洋社や黒龍会に対し弾圧を加え、それらは反発し、独断的な行動を企てていた。
「尊皇」のうち退けられた神秘的部分は、教育分野で生き残った。小学校高学年で教えられる国史は、神武天皇以来の皇統の暗唱から始まり、古事記神話をも「歴史」として教えた。
明治期の「右翼」団体
明治中後期 | |||||
左 |
幸徳秋水 田中正造 片山潜 近代文学者 | 尾崎行雄 板垣退助 大隈重信 新興ブルジョワジー 西園寺公望 伊藤博文 | 桂太郎 山県有朋 陸海軍 官僚 地主階級 貴族院 | 玄洋社 黒龍会 | 右 |
初期社会主義 | 政党政治家 | 超然内閣派 | 初期右翼 |
この頃は、今から考えられる程、「右翼」として確固たる、つまり「左翼」と分化している部分は少なかった。
右翼の代表格と言われる玄洋社も初め、自由民権を唱える政治結社として始まり、リーダー頭山満は全国的な民権運動の大会等にも出席している。しかし、明治19年清国艦隊が長崎に入港した際に清国水兵が市民を暴行強姦し、日本の警察隊と市街戦を繰り広げ双方合わせ数十名の死傷者を出した事件(通称長崎事件)が起こったのをきっかけに、頭山は、民権よりまず国権だ、軍備充実だと悟り、方針転換を図った。自由民権運動の「左派」、大井憲太郎等も殊に晩年、日本の対外拡張を強く訴えた。また中江兆民も、対ロ強硬と大陸進出を訴える国民同盟会に参加した。兆民は頭山と交流があり、玄洋社員来島恒喜が不平等条約改正で日本に不利な妥協案を成立させようとした大隈重信へ投じた爆弾は、大井憲太郎が民権運動で用いるために製造したものだった。
また玄洋社頭山満は大アジア主義を掲げる中で、孫文(中華民国)やラス・ビハリ・ボース(インド)らアジアの革命家への支援を行った。
大正デモクラシーの中で
大正期 | |||||
左 |
大杉栄 荒畑寒村 山川均 堺利彦 白樺派 | 大正教養主義 吉野作造 犬養毅 原敬 | 山県有朋 陸海軍 官僚勢力 地主・ブルジョワジー | 玄洋社系 大陸浪人 テロリスト | 右 |
大正社会主義 | 大正デモクラシー | 特権勢力 | 右翼 |
大正デモクラシー期は、世界史の流れよろしく、大日本帝国内の権力も右から左へ動いていく傾向にあった。無論権力「右派」も、依然陸海軍や官僚機構として大きな権力を持っていたが、第一次世界大戦後の世界的な平和ムード、軍縮の流れに押され気味であった。日露戦争後、曲がりなりにも軍事的経済的に先進国の一員を自任出来るまでになって、軍備充実、対外拡張を焦らねばならぬほどの危機が去ったのもあった。
昭和初期-右翼テロの時代
昭和恐慌、世界恐慌と相次いだ経済危機により、海外に経済圏を求める動きが生まれた。陸軍の一部が石原莞爾等の影響下に満州事変を起こし、満州に傀儡国家満州を樹立して、日本が実質的に支配する植民地とした。また理想主義として、五族協和、日朝満漢蒙のアジア諸民族が、白人支配から独立して共存する大アジア主義のユートピアが構想されていた。但しこの頃には内田良平といった一部の右翼活動家の中には支那、漢民族からは手を引き、満州に依拠するのみとする立場も出始めていた。
また若い軍人の中には、クーデターで権力を奪取し、資本家、また資本家階級と一体化して腐敗した政治家、を一掃し、理想の日本を改めて建設しようとする思想を抱く者、革新将校、青年将校が現れた。
また知識人や民間政治団体の中でも、似たような思想を抱き、実現を目論む、北一輝、大川周明等が現れた。
血盟団事件、5・15事件を頂点とする一連の重臣や軍人官僚へのテロ、2・26事件を頂点とする一連のクーデター未遂事件は、こうした思想を抱く革新青年将校と民間「右翼」団体が引き起こした。この中で後の稲川組となる綿政会の顧問、児玉誉士夫もデビューした。
革新右翼
第一次世界大戦後、欧米諸国は軍備を著しく機械化し、国民を総力戦へ動員出来る体制を強化しつつあった。その中で後進諸国であったドイツ、ソ連はそれぞれファシズム、社会主義の体制をとって議会制民主主義を廃し、高度な軍事国家を実現していった。
日本国内でも遅れをとるまいと軍人や「右翼」が躍起になった。「昭和維新」を起こし、高度国防国家を樹立しようとする思想が生まれた。目的は軍国主義、国家主義だが、そこには資本家や政党政治家の金権亡者、権力亡者ぶりを批判して、彼らの犠牲となって窮乏する東北の農民や労働者の救済も掲げられた。これらの構想は議会制の停止と計画経済を描く中で「左」に近づいたともいえる。
このように昭和の「右翼」もまた、明治期の右翼同様「革新派」であった。ただ一つ、同じ革新的でも左翼と違ったのは「昭和維新」を唱え、天皇絶対主義を奉じていた点であった。
明治維新で出来た政府は、天皇を国家の中心に据えこそすれ、薩長出身の指導者が操るものであった。大日本帝国憲法制定後、これは立憲国家の象徴的君主の形で制度化された為であり、近代的政治理論を理解した東京大学卒業の高級官僚や学者エリートは十分理解していた。がしかし、一般庶民また軍人エリート向けの教育では、天皇は「万世一系」の「現人神」で全国民の慈悲深い父母と信じさせられていた。戦後、思想家久野収は、これを仏教内のエリート向け教義と大衆向け教義とのダブル・スタンダードと喩えて、前者を「密教」、後者を「顕教」と呼んでいる。
昭和の「右翼」は、明治の権力者が庶民用、軍人用に創り上げた「伝統」を信仰し、これを前提として、私心なき神である天皇が直接支配すれば、農村中心の穢れなき日本が回復するというユートピアを夢想していった。
そして学問的エリートの通説、「天皇機関説」を、天皇陛下を蒸気機関のごとく見做す不敬な学説ゆえ弾圧すべしと突き上げるまでに至った(国体明徴問題)。
その実現の為には、個人、少数同志によるテロ、あるいは軍人クーデターを考え、主情的に、自らが自爆的に死ぬロマンチックな行動で人々の心情に訴えようとした。
昭和戦前期-「右翼」のユートピア実現
昭和戦前期 | |||||
左 |
日本共産党 マルクス主義知識人 | 自由主義知識人 無産政党 民政党 政友会 西園寺公望 | 財閥 陸海軍 革新官僚 (満州国) | 石原莞爾 青年将校 北一輝 大川周明 農本主義 | 右 |
左翼 | 政党政治 | 国家総動員 |
テロやクーデター計画は取り締まられ、その中でも最大規模の二・二六事件は、首謀者17名が死刑となった。しかし、天皇絶対主義の顕教教育を受けた一般人の「右」への同情には広範なものがあった。
明治から昭和にかけて、「右翼」が主張した路線の殆どは全て権力によって実現されていった。戦争の大義として、アジアを白人から独立させ、大東亜共栄圏を樹立するという大アジア主義だ叫ばれ、戦線拡大は対外拡張主義の夢を現実とした。戦時体制下の日本は一種国家社会主義的な統制経済が行われ政党を否定した高度国防国家=国家総動員体制が実現し、精神的には、天皇絶対主義が社会のあらゆる領域へ浸透し、特攻隊の自爆ロマンが讃えられた。これは「権力左翼」が実現したスターリニズム全体主義の右翼版、「権力右翼」の勝利ともいえる。
戦後体制の出発
戦後、主に占領軍によって起草された日本国憲法は、象徴天皇制と議院内閣制を明文で規定した。これにより戦前の権力内「右」、つまり「天皇は神聖にして侵すべからず」を文字通り天皇を絶対視し、「大臣は(側近の言に従い)天皇が選ぶ」とした解釈憲法の中で生きた「右」は、反体制の「右翼」へ押し出された。また戦前には体制内の「左」、自由主義的でデモクラシー的で反軍的と見られた政友会や民政党の政党政治家達は、戦後「日本自由党」「進歩党(後、民主党と改称)」といた保守政党を結成、体制内の「右」の座を占めた。
戦前、こうした「右」のさらに「右」として影響力を誇った、玄洋社等明治以来の政治結社、昭和維新や軍、政治の革新を叫んでクーデターやテロを企てた「右翼」団体も、占領軍により日本のファシストと見做され、解散させられ公職追放となった。
戦後日本的「右-左」図式の始まり
昭和20年代 | |||||
左 | 日本共産党(火炎瓶闘争時代) | 平和運動 進歩的文化人 朝日・岩波マスコミ 日本社会党 | 財界・官僚・農協 日本自由党 民主党(進歩党) | 禁止された右翼諸団体 | 右 |
昭和25年前後から、戦後日本的な独特の「右-左」対立が始まった。「右-対米従属と再軍備、9条改憲」対「左-中立と非武装、護憲」である。この背景には、国際的なアメリカとソ連との対立、冷戦があった。支那での中華人民共和国成立、半島での朝鮮戦争勃発といった情勢下で、いわゆる逆コースが到来した。これにより、それまで軍国主義者として公職追放となっていた戦前戦中の政治家や軍人が復権、また後の自衛隊となる警察予備隊がアメリカ軍の命令で緊急組織された。これらの諸政策は当然として、ソ連、中華人民共和国、北朝鮮を敵として、資本主義陣営に組み込まれた流れである。
当時はまだ国論はまとまっておらず、「右」吉田茂率いる与党自由党は、占領軍が命じる逆コースの指令を忠実に実行していく道を選んだ(吉田ドクトリン)。但し、再軍備は進めるものの最低限にとどめ、アメリカ軍基地として国土を提供して、その軍事力の傘の下、資本主義的な経済復興へ専心する形で、憲法前文や9条にあり、国民的にも支持が多かった非武装平和国家の理想も幾分か取り込んでいった。
封建的な「旧日本」
旧日本は、まだ当時人口の過半を占めた農村生活、「個」の無いイエ、ムラ共同体、男尊女卑の家父長制。都市でも、隣組や町内会組織を基として、人口の8割は小学校を終えれば、百姓として、あるいは丁稚女中奉公から働き始め、男は兵役を、女は家。
こうした絶対的な貧しさを大前提として、極少数の地主、財閥、学歴エリート(大卒は数%未満、高等教育は2,3割程度)らを上部と氏、軍人や警官、役人や先生が畏敬され、天皇を幻想の家長とする大家族、ムラとしてのアジア共同体的国家日本が成立していた。
政治学者綿貫譲治、大嶽秀夫らによれば、こうした旧日本的、戦前的な価値観を抱いた、当時の低学歴で高年齢な農業、小商店等自営業者らは、「再軍備」を支持し、新日本、戦後的価値体系を抱く、当時の高学歴、若年、ホワイトカラー層は、平和主義を支持するという対立的図式が、昭和20年代後半から昭和50年代初めまで、意識調査にはっきり現れていた。
この「旧日本」派は、アメリカ化した「近頃の若者」は「軍隊へ行かないから」軟弱になったと嘆く、中年、壮年といった男女のかなり厚みのある層が、昭和40年代まであった。故に自由党、民主党ら保守勢力は、吉田茂、芦田均、鳩山一郎らそのリーダー自身は、欧米風近代派だったにも関わらず、こうした層の票が相当取り込めると考えられた昭和40年代前半位までは、教育勅語的な天皇敬愛、愛国心、勤勉と孝行といった旧道徳復活、歴史教育の戦前化、若者の徴兵等を掲げた。
「右」である吉田茂首相と自由党政府は、アメリカを筆頭とする西側諸国とのみ講話する条約にサンフランシスコで調印し、ソ連他東側は除外した(片面講話)。同時に、日米安全保障条約が結ばれ、日本は占領終了後も、アメリカ軍の基地として国土提供を継続する旨も確定した。安保条約は10年後、昭和35年、岸信介内閣がこれを改定強化、アメリカ軍の日本防衛義務を強化、する事になった。これ以後吉田茂から自民党の保守本流へ引き継がれていった、駐留米軍と小規模の自衛隊による安全保障という戦略(吉田ドクトリン)は、1970年代までには国民的な合意として定着した。
また、この「旧日本」派政府、「右」に対して、進歩的知識人の影響を強く受けた教育界、日教組は「教え子を再び戦場へ送るな」をスローガンとした。これに再反発する形で、戦後「右翼」は、「日教組」を主要な攻撃対象の一つとした。
対米従属の反共主張
55年体制(昭和30年代~) | |||||
左 | コミューン運動 新左翼諸派 | 市民運動 進歩的マスコミ・文化人 日本共産党 総評 日本社会党 | 産業テクノクラート 財界・官僚・農協 自民党 体制内右翼 | 対米自立派 反米反体制右翼(新右翼) | 右 |
太平洋戦争が終結した後、左翼は旧来よりある社会主義、共産主義に加え、徹底した不戦、反戦運動を行うものもいた。1960年代からは、より急進的、暴力的な革命を目指そうとする動きが大学の学生を中心に興り、学園闘争やテロ活動を行うようになった。従来ある政党、政治団体を既成左翼と呼んで、彼らは「新左翼」 と呼ばれるようになった。いわゆる過激派と呼ばれる暴力的革命を求める集団が、テロ行為によって社会的な支持を失い、内ゲバによる大量虐殺などで衰退していく。
また占領下でアメリカが作った憲法を改正して自主憲法を制定し、その下で日本軍を再建、軍事的にも独立を独立を主張する人々も一定規模でいた。進歩党リーダー、芦田均などは、進歩党改め改進党、民主党という保守政党に結集。対米従属的な日米安保の下、日本の軍事的独立達成を起こさない吉田政権を「右」から攻撃。岸信介元首相も、安保改定の先に、自主憲法制定と再軍備により、アメリカから自立した日本を構想していた。
占領下で開放等弾圧された戦前の「右翼」団体も、「逆コース」の下で活動再開、国粋主義の立場から、欧米の観念的理想を振り回す民主主義、社会主義、共産主義から、日本の伝統を守れという訴えを展開。やがてそれは、自主憲法、積極的再軍備の主張へつながって雪、芦田ら民主党とも接近。「極右」「反動」が生まれた。
しかし当時の状況、革命共産党政権、ソ連、中華人民共和国の実質的な指導下へ日本が入る危険は、ソ連の衛星国とされた東欧等の悲劇からも明らかであった。山口二矢少年の浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件にも「反共」の主張が尖鋭に表れた。そして結局は日米安保を肯定する結論を選んだ。アメリカに完全従属でなく、多少は距離を保って自尊心を守れる程度には、日本軍を再建するまでに主張は落ち着いた。これは国際情勢、軍事情勢から考えても、アメリカは勿論、社会主義国と完全拮抗する軍事力を備えようという主張は非現実的であった。日米安保の枠組みから先は殆ど語られず、三島由紀夫、福田恆存ら戦後「右翼」「保守」の論壇も、抜きん出た議論は起こせなかった。
芦田ら民主党、赤尾敏、児玉誉士夫ら戦前以来の有力な右翼リーダーも、日本軍復活に郷愁を覚える「旧日本」型、戦前派の当時の中高年層から一定の人気を集めた程度で終わり、民主党もやがて自由党と合同して自由民主党となって独自性を失っていった。
右翼団体も、ヤクザ、暴力団、総会屋が、合法的偽装のために「反共」「国粋」を建前とする政治団体を名乗っていた例が7,8割であった。自由党等も、社会主義、共産主義運動を妨害するため、暴力団らを右翼へと組織、60年安保の市民デモへ日本刀を抜いて殴り込ませるといった工作をした。以後、反戦など市民集会、総評、日教組など左翼的だった組合の大会へ黒塗りの街宣車を連ねてする威嚇行動が定番となった。それらは企業への恫喝的献金要求によって成り立った。
ポスト冷戦期(1990年代~) | |||||
左 | サブカル左翼 文化左翼 | 左翼文化人 朝日・岩波マスコミ 共産党 社民党 連合 民主党(左派) 労組 | 民主党 自民党 読売・産経文化人 財・官・農・産 | 対米自立保守 新右翼 | 右 |
90年代以降、武力闘争系とは異なり、街宣車等の威圧行動を否定しつつ言論活動やデモ集会を活動の主体とする「新右翼」が発生し、書籍やインターネットを通して広まったそちらが今日では日本における右翼の主流となったと言える。一方で、市民活動を装った「プロ市民」が、新左翼の中でも根強く活動を続けている。
そのほか、極左暴力集団といった反社会的組織がその勢力の拡張及び、単に紛争・争議行為自体を目的とした活動の隠れ蓑として「人権擁護」「平和運動」といったスローガンを掲げることがある。他方では暴力団等の組織が「国枠主義」「天皇擁護」といった右翼的な主張を旗印に、街宣車等による威嚇ないし恫喝行為を行うこともあるため、両者の主義主張を額面通りに受け取ることはできないことを念頭に置くべきである。
また一部インターネットにおいては、ネット右翼やこれに対応するネット左翼等の語が見られるが、これらの語は議論がエスカレートするに伴ってしばしば罵倒語として使われる(ネトウヨ連呼厨の項を参照)等の濫用が原因となり、現在では本来の政治的スタンスによる分類とは乖離した概念となっており、必ずしも意義に即していないためこの点にも注意が必要である。
関連項目
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