概要
日本は世界一の鉄道大国と名高く、特に旅客鉄道の需要においては世界第2位の輸送人員を持つインドの4倍以上、世界全体の4割~6割を占めていると言われている。極めて正確なダイヤと膨大な旅客人員、そして案内の丁寧さ、治安の良さ、安全性の高さが大きな特徴。日本の変態技術の結晶である。
日本の鉄道概要 | ||
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年間輸送人員 | 235億3800万人 | 圧倒的な世界第1位 |
移動需要に占める 鉄道依存率 |
28.7% ※首都圏58%、京阪神55% |
圧倒的な世界第1位 (2位はスイスで15%程度) |
年間輸送人キロ | 4044億3400万人キロ | 世界第3位 |
鉄道総延長 | 27,337キロ | 世界第11位 |
定時運行率(1分以内が定時) 1列車あたりの平均遅延率 |
在来線90.3%、新幹線96.2% 在来線0.8分、新幹線0.3分 ※いずれもJR東日本のデータ |
圧倒的な世界第1位 (5分10分の遅れすら遅れに カウントされないのが通常) |
鉄道車両における技術
日本の鉄道車両は信頼性を重視する傾向にあり、枯れた技術を多用する。走っているのは貨物列車を除き殆どすべてが「動力分散方式」つまり「電車と気動車」である。
更に、信頼性に加えて、仕様の統一について並々ならぬ拘りがある。例えば、JR東海は東海道新幹線において16両編成1,323席の原則を貫き、座席の数はもちろん編成両数・配置まで徹底した統一を図っている。これは、例えば運転予定だった車両が故障して急遽他の車両で代走する事になった際、座席の配置まで徹底的に統一することで、払い戻し等の手間がなく、遅延の拡大を抑える効果があり、一見融通がきかないように見えて非常に合理的なシステムである(もっとも、近年になって車椅子スペースを増設した1,319席の車両も登場しているが)。
JR東海の16両編成1,323席の原則の他にも、日本の鉄道は戦前から車両の大量生産と仕様の統一を重要課題としてきた。
これは、日本の鉄道においては正確さと安全性が強く求められるからで、技術的な冒険を行なって欠陥車両を作った際には目も当てられないような惨状に見舞われるからである。
そのため、地道ながらも着実に積み重ねていくと言う手法をとっており、特に新幹線においてはその傾向が強い。
例えば、0系を0系で置き換えたり、103系を大量に増備したりしたのも財政的な問題もあったがそれだけ信頼性を重視していた裏返しでもある。
特に最近では新技術満載として鳴り物入りでスタートしたE331系がもはや触れてはいけない領域といえるほどの黒歴史車両と化してしまったことや、いわゆるJR東日本の大量生産車として時期尚早な新技術を多く盛り込んだ結果209系は「走ルンです」と揶揄されてしまい、後のE233系などでは特に批判の出た「寿命半分」が撤回され、行き過ぎたコスト削減姿勢を撤回し、座席の硬さなども改める(同様に701系でもE721系でJRは戦略を改めることになった)などのドタバタを起こしてしまい、はからずも、信頼性を重視し、地道ながらも着実に向上していく手法の正しさを証明してしまう結果となった。
しかし、日本の鉄道はJRだけでも6社あり、更に大手私鉄を始め様々な私鉄が走っており、私鉄の果たす役割が強く、決して単調な鉄道ではなく各社で変化にも富んでいる。
諸外国が見ると、まるで進歩がなく技術的に遅れているように見えるそうなのだが、彼らは鉄道車両における信頼性を大きく犠牲にしている(例えば、科学力は世界一で知られ、欧州で鉄道の優等生と言われるドイツ鉄道ですら日本と比較すると車両故障が在来線で40倍、高速鉄道で20倍も頻発している)
このように信頼性を重視する日本の設計思想を作ったのは、日本の初期の鉄道で大いに活躍した島安次郎と、安次郎の弟子朝倉希一、その弟子でD51や新幹線の開発者として知られる安次郎の息子である島秀雄やその弟子にあたり動力近代化計画を進めた星晃といった面々の影響力が強い。
一見するとつまらないように見えるが、そのおかげで安全な鉄道が考慮されており、日本の鉄道は安全性においても世界一と名高い。
特に新幹線の安全性は名高く、鉄道会社に責のある乗客の死亡事故は開業から50年近く立つ現在でもいまだ0である。新幹線は飛行機より安全であり、自分から死にに行かない(三島駅乗客転落事故もこれに含まれる)限り死ぬことは全くといって良いほどないのである。新幹線の安全性に対する誇りは日本人は多く持っており、とりわけJR東海では安全性に対する力の入れようが強い。リニア鉄道館でも「新幹線の事故0」を「平均遅延率の圧倒的な低さ」と並べて「誇るべき記録」としている。
それ故に、台湾に新幹線を輸出する際も、台湾側が「国際安全規格であるRAMSを用いて新幹線の事故率を計算して欲しい」と述べた所、JR東海の葛西敬之氏は「新幹線は事故ゼロなのだからゼロはいくら掛けても0だ。そんな規格は無意味である!」と一蹴している。裏を返せば、それほど自分たちの安全性に自信と誇りを持っている証拠でもある。そして新幹線は今日も安全に走り続けている。
その一方、客車列車・動力集中方式が廃れ、電車・気動車による動力分散方式が発達しており、電車という言葉が鉄道車両全体に用いられてしまっているのもその証左といえる。
鉄道員のスキル
日本の鉄道員のスキルは世界一優れており、特に運転士の技術力に関しては他国の追随を一切許さない極めて高度に洗練された技術を持っている。もし日本国外で一番優れた運転士を日本に持ってきたとしても恐らく脱線直後のJR西日本ですら即日日勤教育するだろう。
ドイツの鉄道員たちが日本の鉄道に取材をしに来て、定時性を高めようとしたが、あまりの緻密さに恐れをなして「日本とは事情が違いすぎる、ドイツに当てはめることはできない。よって定時性の目標は日本よりも5分の1の緩さ(つまり5分基準、これでも欧州から見れば相当な緻密さである)でよいだろう」という事実上の敗北宣言に等しい声明を出している。彼らはJR東日本東京駅の新幹線の頻発さに恐れをなしていてレポートには!を3つ重ねて「!!!」と表現して日本の鉄道運用に驚いていたが、彼らが名鉄名古屋駅や京急の逝っとけダイヤを見た暁にはどんな反応をするのか楽しみである。
日本の鉄道運転士の運転スキルは完全に変態の域であり、外国の鉄道員がこれを見るとほとんど例外なく驚きを通り越して恐れをなすそうである。例えば、先頭にかぶりついて前面展望しながら、ふと乗務行路表に目をやると、駅の停車時間が1秒もずれてない。なんて話はよくある話で…
- 敗戦直後、復員姿の機関士が田端にやってきてD51を運転した。もちろん何年も戦争に行っていてしかもD51も敗戦直後で状態が悪い。新人の若い鉄道員が見守る中常磐線を走っていたが、もちろん暗くてメーターが見えないにもかかわらず「時刻通り秒針がピタリと一致した」そして彼は「ああ、俺の腕もまだ衰えてないな…」と言ってどこかへと去っていった。
- 昭和42年に東京駅から新幹線のお召し列車が走ったが、運転士に要求された誤差は「停止位置±1cm、停車ダイヤは±5秒以内」しかし、当時の新幹線運転士曰く「通常でも特別な事情がない限り、誰でもほぼこの範囲内で運転している」そうである。
- 更に時が下り、昭和62年ある鉄道大会が開かれ、その後外国人を新幹線に招待した。それぞれに懐中時計を手に取らせ各駅の到着時刻を確認させると秒針までが一致していた。外国の鉄道人は恐れをなして「正気の沙汰ではない」「クレイジー!」とただ感嘆するばかりであったという。
などなど、にわかに信じがたいエピソードが残されている。しかも、このような変態運転士は通常のスキルなんだそうである。このようなことから、国鉄は時計より正確とまで言われたほどである。
しかし、運転士の技術力だけではなく、スジ屋や車掌・駅員、保線係など、どれをとっても世界トップクラスの匠たちであり、日本の鉄道の隆盛はこうした鉄道員たちの変態技術によって支えられている。彼らは決して自分たちの仕事ぶりを表に出さないが、胸に静かな誇りを持っている。それ故、先述のように誇りを傷つけられた時は激しい反応をすることもある。
「ある機関助士」では水戸駅を6分遅れで発車したC62牽引の旅客列車が途中駅で定時運転を取り戻し、安全運転のうち異常なく上野駅に到着する様子を書いているが、その過程で様々なせめぎあいのドラマ、遅延を取り戻すことの大変さが書かれているが最後に機関助士は当直に対して極めて簡素にこう報告する「上野駅に定時に到着、特に異常はありません」と。
旅客需要
旅客需要として見れば日本の鉄道はダントツの世界一であり、日々の通勤通学から長距離旅行まで様々に親しまれている。
新宿駅が世界一利用客の多い駅としてギネスブックに登録されているのは有名な話であり、世界第2位が池袋駅であることも比較的知名度が高い(ただし渋谷駅が第2位だとする説もある)
しかし、第3位以下はあまり知られていないが以下の通りである。
信じられないようなランキングであるが、データの存在する駅の中では日本国外最多は第24位で上23駅は日本の駅が独占している。日本の鉄道輸送人員は235億3800万人で、世界一であるがこれは世界第2位であるインドの4倍を優に超える規模である。ちなみに、世界第1位の新宿は約350万人、パリ北駅は年間1億9千万であるから1日平均は52万人ちょいであり完全に大人と子供である(余談であるが、第5位の横浜駅と第6位以下との差が非常に大きい。横浜駅は215万人弱であるが、北千住駅は150万人にも満たず、名古屋駅、東京駅となると両者あわせてようやく横浜駅と互角の規模になる)
日本の鉄道規模はもはや完全に別次元の領域に入っており、例えばJR東日本だけでインドの鉄道を上回っており、更に京王電鉄単体の輸送人員はイタリア全体の輸送人員を上回っている。他にも川崎市の南武線と小田急線が交わっている登戸駅の利用客数は中国・上海駅のそれを上回っているとか、新宿駅の1日の利用客数はニューヨークのグランドセントラル駅の1ヶ月分を上回っているなど、この手の嘘のような本当の話は多い。
移動需要(飛行機やマイカーなど)全体に占める鉄道の割合は全国平均で28.7%であり、これは世界第2位のスイスの15%を大きく引き離す依存度である。特に首都圏と京阪神が占める割合は高く、首都圏は58%、京阪神は55%を占めている(ちなみに名古屋は25%程度)。無論これほどの鉄道依存率を持つ都市は世界には皆無であり上記のようなランキングはむしろ自然であり、日本国外の駅が上位に入ってくるほうが異常なのだ。
鉄ヲタと日本の鉄道
このように、国民に多く馴染んでいる日本では鉄ヲタ人口率も世界一と言われている。鉄道趣味人と鉄道会社は対立関係にあるというのもあるが、実際にはむしろ逆であり、鉄道会社と鉄ヲタは切っても切れないほどに親密な関係である。
新幹線を作り上げた偉大な男、島秀雄は鉄道友の会の初代会長であるし、その弟子で動力近代化計画を成し遂げた星晃はいわゆる撮り鉄でもあり撮り鉄分野にかぎらず鉄道ピクトリアルなどに貴重な資料を多く残している。
JR東海の元社長須田寛やJR東日本の元会長山之内秀一郎も鉄ヲタとして有名である。
そもそも、鉄道がなければ鉄ヲタなんぞ生まれるわけもなく、鉄道が嫌いで鉄道会社に入るなどマゾ以外にいるわけもなくこうした親密関係はむしろ当然と言える。
一方、鉄ヲタにとっての鉄道趣味範囲は大半が国内を専門にしていることが多く、JR・私鉄完乗達成者でも日本から出たことはないという人は珍しくない。これを書いている著者もJR全線完乗を達成しているが日本国外に出たことは一度もない。
逆に言えば、日本の鉄道趣味界隈は国内の話題だけでも非常に多く、恵まれている証左である。
日本の鉄道史
日本の鉄道史は決して平坦なものではなかった。しかし、多くの人々の努力により、鉄道世界最先進国の座を維持し続けている。
汽笛一声新橋を
かの有名な鉄道唱歌の一句にあるように、最初の路線は官設鉄道による新橋-横浜間によるものである。日本の鉄道はイギリスの鉄道から輸入されたもので、その時点から英国式であった。
明治5年(1872年)5月7日に品川駅-横浜駅(現在の桜木町駅)間で途中無停車の仮開業とし、先ず両駅が誕生した。品川駅と桜木町駅が並んで日本最古の駅である。
次に、川崎駅と神奈川駅(京急の神奈川駅とは別、廃止)が作られる。明治5年9月12日(旧暦)に新橋(現在の新橋駅とは別)-横浜間として正式に開業し、鶴見駅が誕生した。
物珍しさもあり、鉄道は盛況で、運賃収入は旅客が多かった。この頃より、「鉄道は儲かる」と言う認識が明治政府の間で出来た。軌間は狭軌の1067mmで、所要時間は40分近くを要した。現在の東海道線は25分程度であり、停車駅が多い京浜東北線でもこれより早くつく。
更に2年後の明治7年、大阪駅-神戸駅間で仮開業、この時、大阪駅、西ノ宮駅(西宮駅)、三ノ宮駅、神戸駅が誕生した。明治10年には京都駅へ延伸し、これを持って正式開業となった。
この間にも、途中駅が次々誕生し、現存する駅では尼崎駅(当時は神崎駅といった)・住吉駅、大森駅、向日町駅・高槻駅、山崎駅・茨木駅・吹田駅、京都駅の順である。
現在の東海道本線に当たるこれらの路線を繋げることが官設鉄道の最初の目標であった。新橋駅から神戸駅まで全通するのは明治22年まで待たねばならない。
新橋駅-神戸駅の東海道本線建設中は、北海道で官営幌内鉄道(後に北海道炭礦鉄道となる)がアメリカ人技師の指導で開業している。本州以南は英国式であるが、北海道の鉄道はアメリカ式となった。これは後の自動連結器化の伏線となる。
しかし、明治10年の西南戦争に伴う財政難で、新規建設は東海道本線以外殆ど停止していたのが実情である。
日本の私鉄黎明期
鉄道は、原則国有とすると言う主張が当時の鉄道頭井上勝によってなされていたが、政府による官設鉄道が思うように進まず、これでは明治維新の富国強兵は達成できないと考えた伊藤博文を始めとする一派は、私有資本を用いての鉄道建設を進めようと画策する。
こうして達成したのが日本最初の私鉄である「日本鉄道」である。日本鉄道の路線の多くが東北本線とその支線であり、その中には山手線も含まれている。現在のJR東日本の実質的な前身といっても過言ではない。
とはいえ、日本鉄道は「会社というのは名ばかりでお役所である」とまで言うほど政府の意向が強かった。
明治15年、先ず上野-熊谷間が開業したのを皮切りに急速に延伸を続け、8年後つまり新橋神戸間全通の一年後には上野-青森間が開業した。ちなみに、長らく世界一利用客の多い駅として君臨している新宿駅が開業したのは明治18年で、世界第3位の駅である渋谷駅も同日である(世界第2位の池袋駅は明治36年)。この時は山手西側は田舎中の田舎である。
日本鉄道と並行し、神戸-下関間及びその支線を建設したのが「山陽鉄道」である。日本初の寝台車を運行したり、長距離急行列車や、車内灯、食堂車、連絡船など日本の鉄道には山陽鉄道に由来するサービスは多く、運転の神様と呼ばれた「結城弘毅」も在職していた他、日清日露戦争にも貢献しており、明治政府が大本営を広島に移す(実質的に広島に首都を一時移転した)際にもお召し列車を運転している。
更に、九州地方の鉄道会社としては「九州鉄道」が該当し、旧本社の建物は現在の九州鉄道記念館となっている。鹿児島本線、長崎本線、日豊本線及びその支線に当たる路線の建設をしており、現在のJR九州の実質的な前身といってよいだろう。ちなみに、ドイツの技術が使われており、九州の鉄道はドイツ式である。
そしてもうひとつ、「関西鉄道」がある。名古屋駅から現在の関西本線と草津線にあたる路線を運転しており、官設鉄道と競合しており、スピード競争以外にも様々な競争を繰り広げた。京急とJR東日本や阪神阪急JR西日本といった「並行私鉄」「競合私鉄」の起源である。ここに在籍していたのが後に結城と並ぶ明治の鉄道の最重要人物である「島安次郎」である。
これらに加え、上記の北海道炭礦鉄道を併せて、「五大私鉄会社」といった。これらの私鉄会社は鉄道国有法において他の主要私鉄もろともことごとく国有化されることとなる(もちろん、国有化を免れた私鉄もある)。日本の鉄道が私鉄主導と言われる所以はこの五大私鉄会社の影響が強い。
馬車鉄道から路面電車、そして郊外電車へ
都市交通としては、馬車鉄道が誕生した後、路面電車へと切り替えられる。
馬車鉄道というのは馬に引かせるもので蒸気機関車などに「馬力」と言う単位が使われているのもここが源流である。とはいえ、所詮は馬である。速度は遅いし糞尿の問題などがついて回ったため、路面電車へと切り替えられることになった。
更にそこから都市間交通にも用いられるようになり、当時全盛期を誇ったアメリカのインターアーバンを参考にしたものである。アメリカのインターアーバンは脆くも崩れ去ったが日本の鉄道は後述する定時性の確保による乗客増加が続き、本家をも凌ぐようになり、日本のインターアーバンは独自の発展を遂げることになる。
日本の旅客需要が極めて多い理由はここに源流を見ることが出来る。
都市間交通としては後に国有化された「甲武鉄道」の存在が大きい。現在の中央線に当たる路線(八王子駅まで)の建設に関わっており、日本初の電車を運転した事業者でもある。「国電」の起源はここに見ることが出来る。
後述する私鉄主導の乗客誘致策により、アメリカで崩壊したインターアーバンは全く違う形で日本で独自の発展を遂げることとなった。
改軌論争と我田引鉄
鉄道の多くが国産化されたのは上記の私鉄国有化から暫くしてである。外国の技術を貪欲に取り入れ、それを発展させるために多くの技術が国産化されていった。また、国産化と並行して、信頼性の追求のための標準化が取り入れられるようになる。
そんな中、日本の鉄道界では意見を二分する大論争が起きた。それが「改軌論争」である。
日本最初の鉄道は軌間1067mmであり、他の私鉄などもそれに従っていた。これは世界標準(広軌)とされる1435mmよりも狭い軌間であり、軌間が狭いと建設費や手間、カーブの許容力において有利であるが、スピードや輸送力には不利となる。
つまり1067mmの軌間を1435mmに改めようと言う運動ではあるが、結局の所東海道新幹線開業まで実現しなかった。
両者の言い分としてはこうである。
広軌改築派(軍部、立憲同志会、後藤新平、島安次郎、島秀雄、十河信二など)の主張
- 東海道本線などの主要な路線は輸送力や速達性が求められる。よって今後も伸び続ける需要に対応するには広軌改築は必要不可欠である。
- (特に蒸気機関車においては)線路幅が広いことは非常に重要であり、改軌実行をすることで様々な弊害を取り除くことが出来る。
狭軌維持派(政友会、井上勝、原敬など)の主張
- 線路幅が広いとそれだけ建築費がかかる。改軌のための手間もままならず、機関車や客車も取り替えなければならない。地形が複雑な日本ではそれが更に強まる。
- それよりも、鉄道が通ってない地域の新線建設の要望に答えるほうが先である。
- そして、異なる軌間が混在すると直通運転などで不便となる。よって狭軌を維持すべきである。
東海道本線全通前からこうした論争が延々と続けられ、ついには立憲同志会VS政友会という政争の具に発展。
地方の政治家に支持されていたのが狭軌維持であり、逆に中央の政治家が推し進めたのが広軌改築である。
特に島安次郎は後述の自動連結器化と並行し、横浜線を使って改軌の実験を行うなどをした。更に島安次郎とその弟子の朝倉希一が手がけた名機である9600形やC51を開発する。9600形では島安次郎の長男、島秀雄が簡単に広軌改造できる方式を思いつき父安次郎は「面白いことを考えついたな、しっかりやれよ」と言って大陸に輸送された。
島安次郎を筆頭とする技術陣は何としてでも広軌改築を実現させたかったのだ。しかし狭軌派からは「広軌に簡単に改造できるなら今のままでもいいじゃないか」と逆に突っ込まれ、更に島安次郎が主導したC51は会心の名機であり「広軌ならばさらなる傑作ができる!」と宣伝してみたものの上層部は「これほどの素晴らしい機関車ならば狭軌でも充分やっていける」と解釈。
策士策に溺れる、島安次郎は自滅してしまう。極めつけは米騒動により後ろ盾であった寺内内閣が倒れ狭軌派の原敬が首相に就任。大正7年、「狭軌ニテ可ナリ」と言う国会議決がなされ、署名を余儀なくされる。島安次郎はこれを拒否し、満鉄に転身することになる(後に弾丸列車計画で復帰)
連結器ヲ交換セヨ
島安次郎が行った偉大な業績として、日本の鉄道史を語る上でも自動連結器化の話を避ける訳にはいかない。東海道新幹線の開業と並ぶ、日本の偉大な業績である。
島安次郎自身は大正7年に鉄道院を辞任したが、彼の業績を引き継ぐ形で自動連結器化が行われることになる。
元々、アメリカ式であった北海道の鉄道を除き、日本の鉄道は大半は欧州式の「ネジ式連結器」であった。この連結器の連結作業は危険極まりなく、死傷事故が多発、しかも死亡率も高いというものであった。更に、連結器の強度が低く、連結器そのものも付け替えなければならないという大変に不便なものであった。
大正9年に鉄道院から昇格した鉄道省は綿密に計画する。機関車・客車・貨車の全てをほぼ1夜にして全交換するというものである。作業チームを作り、1時間あたり2両、つまり15分に1個の連結器を交換できるように訓練させ、数が多く移動も多い貨車については予め前後2個分の自動連結器を用意、いかなる場所でも交換可能な体制を作る。
そして大正14年、ついに作戦は決行された。予め取っておいた統計において、最も輸送需要が少ない7月17日を一斉交換日に選ぶ。ちなみに、九州のみ7月20日となった。
機関車・客車は終着駅で、そして貨物列車は24時間運休させ鉄道関係者を総動員、この大胆不敵な試みは滞り無く終了し、一夜にして全交換。機関車3205両、客車8544両、貨車51552両、合計63301両の連結器126602個が本州九州併せて僅か2日にして自動連結器となった。
この大胆不敵な試みは世界をも驚かせたと言われ、日本の鉄道の名声が世界に轟いた最初の事例とも言えよう。一方のヨーロッパでは各国間の調整などの理由から未だに旧式のネジ式連結器が幅を利かせている。
定時性の確保
大正時代、日本の鉄道は定時性の確保に揺れていた。そんな中で、大正時代の鉄道の最重要人物である結城弘毅が登場する。
彼は元々山陽鉄道に入社していたが、山陽鉄道国有化に伴い国鉄職員となる。彼は「鉄道を正確に走らせよう」と考えるようになった。「運転の神様」と称される腕前であり、日本の鉄道員が世界一と言われる所以を作った源流の人物である。
先ず、彼は長野にやってくる、そして機関士たちに鉄道の定時制確保を厳命した。当時の機関車には速度計がなかったため、線路のジョイント音や風景の速さでスピードを把握させ、定時運行に努めさせた。この結城弘毅と言う男は「投炭の名人」としても知られていたため、機関士・機関助士共に鉄道員のスキルが大幅に向上することになる。
当時の上司からは「君はよく仕事をやっているんだが、最近列車が時間通りに来るもんだから間に合わないよ。」と言われたという。現在ではイタリアの鉄道において同様のジョークが存在する。
彼は長野から大阪に転勤するにあたって同様のことを行い、ついに超特急「燕」の運転課長に任命される栄転を果たす。超特急「燕」は昭和5年当初先述した「C51」牽引とし、補機として島秀雄が開発した強力型「C53」、丹那トンネル開通後に沼津までは電気機関車、沼津以西はC53に改められる。
しかし、結城弘毅は鉄道局員の減俸問題に対する抗議として21万人の鉄道局員もろとも辞表を提出してしまい、二度と鉄道省には戻ることはなかった。
しかし、結城の思想は現在も生き続けており、時計より正確と名高い国鉄・JRはもちろんのこと、私鉄においても定時性は守られており、世界一正確な日本の鉄道は今日に至っている。
私鉄主導の発展
改軌論争から、京急や、関西の私鉄などでは1435mmでの鉄道が敷かれていた。現在大手私鉄と言われる鉄道会社の主要路線は大正末期~昭和初期に開通している。
特に関西は「私鉄王国」とまで言われ、国鉄・私鉄あるいは私鉄同士で激しい競合が行われていた。
中には強引な企業買収を行なって勢力を伸ばした東急の強盗慶太こと「五島慶太」や、西武のピストル堤こと「堤康次郎」といった経営者もいる。
特に阪急の小林一三と東急の五島慶太は関西及び関東の私鉄に多大な影響を及ぼした。ターミナル駅にデパートを建設して乗客を増やしたのは小林一三が初であり、沿線に学校や遊園地、住宅地などを誘致して集客を測ったのは五島慶太の発案である。
この頃の地下鉄も、五島慶太などを始め後に営団となるまでは、私鉄主導での建設がなされている。
こうした大都市における私鉄主導の乗客誘致策により、関東・関西は世界でも類を見ない鉄道都市へと発展していくのである。都市の発展とともに鉄道も発展し、更にそこから都市が発展するという好循環がここに生まれた(一方でラッシュ時の混雑が問題ともなった)。
また、現在こそ阪神電鉄と西武鉄道しか関わりがない野球球団(現在は西武鉄道は西武ライオンズとは直接には関わりがない)であるが、昔は鉄道会社と野球球団は切っても切れない関係であり、現在のオリックス・バファローズは元々「阪急ブレーブス」であり、また最近に球団消滅した「近鉄バファローズ」も「近畿日本鉄道」である他、国鉄もスワローズ、つまり現在のヤクルトスワローズにあたる「国鉄スワローズ」を持っていた。
日本ハムは元「東急フライヤーズ」つまり東急電鉄であり、中日ドラゴンズの前身、名古屋ドラゴンズには名古屋鉄道が経営参加していた他、「福岡ソフトバンクホークス」は「南海ホークス」であった。西武ライオンズも元々は「西鉄ライオンズ」であった。
つまり、球団の本拠地を沿線に誘致することにより収益の向上を計ったものである。しかし、現在では球団の経費の問題から、鉄道会社が深く関わっている球団は阪神タイガースのみとなっている。
蒸気機関車黄金時代
超特急燕は、丹那トンネル開通後、強力な蒸気機関車、C53において牽引されていた。先述したC51を源流として、日本は蒸気機関車の黄金時代を迎える。島安次郎-朝倉希一-島秀雄-細川泉一郎の系譜である。
C53は日本において最初で最後の3シリンダー式であった。そのため、標準化を是とする日本の鉄道関係者には馴染めなかったとされている。また、当時増え続ける需要において、鉄道上層部は最高傑作とまで褒めちぎったC51でも満足せず、非常に贅沢な性能を要求していた。
C54はC53からひき続いて島秀雄が設計に携わったが、上層部の性能要求を満たすために軽量化を極限に推し進めたために空転が多発し、早々と生産が打ち切られてしまう。この失敗を教訓として作られたのがやはり島秀雄の設計したC55である。
また、同時期にD51やC10、C11の開発も行なっており、蒸気機関車は黄金時代を迎える。
この時、島安次郎-朝倉希一-島秀雄-細川泉一郎の系譜は、技術的な冒険はせず、これまでに培われた技術を採用し地道に性能の向上を図る方法を採用した。この方法は新幹線から今日の日本の鉄道に至るまで踏襲されており、信頼性の向上に大きく貢献している。
島秀雄の後を継いだ細川泉一郎は、C56、C57、C58そして最強の蒸気機関車と名高いD52を開発している。
島秀雄は言う「合理的なメカニズムは美しくなければならない、美しい機械は性能も素晴らしい」と語っている。
しかし、島秀雄は名機と言われる蒸気機関車を開発しつつも、蒸気機関車は日本には適さない、電車列車こそ日本の鉄道にふさわしいと考えていた。これは戦後になり、再び花開くことになる。
朝鮮、台湾、樺太の鉄道
また、日本は朝鮮や台湾の開発として、鉄道を建設する。この時は1435mmつまり広軌建築となっていた。
軍事的な意味の他にも枝線やローカル線なども建設されており、台湾や朝鮮の近代化に貢献した。
また、満州では、島安次郎設計の本土を凌ぐ「あじあ号」による特急列車が運転されているなど、決して内地と比べて冷遇されていたわけではない。
戦時中の混乱
折しも、日本は戦争への道を進んでいた。ここでは戦争については詳しく語らない。ともあれ、戦争に突入したのである。
戦争に伴い、鉄道の需要は急騰し、貨物・旅客共に急増、特に東海道・山陽本線はこのままでは限界に達するとされ、新線建設が急がれた。これが弾丸列車である。
弾丸列車を開発するに当たり、満鉄に転身していた島安次郎が計画のトップとして鉄道省に復帰してくる。更に何の因果か長男の島秀雄が弾丸列車の車両設計を任されることになる。
島安次郎は満鉄で「あじあ号」を開発していた。当時、鉄道は営業運転はどんなに頑張っても160キロが限界だと言われていた。しかし、島安次郎は「200キロの営業運転も可能である」と看破していた。
しかし、狭軌では辛い。広軌による新線建設を島安次郎は主張した(ついでに在来線の広軌改築もどさくさ紛れに書き込んだが却下された)。そのプロセスはこうである。
と言う三段論法である。これが功を奏し、弾丸列車は最高時速200キロ、東京~下関間を走り更に連絡船(海底トンネルも検討されていた。これが皮肉にも悪名高い日韓トンネルの源流となる)から朝鮮半島・満州の奉天や北京、更に東南アジアに至る壮大な計画となった。
当初、電化において開業することになっていたが、軍部は「敵に攻撃されたら電気機関車では立ち往生する、自走できる蒸気機関車にするべきだ」と言って譲らない。東京~大阪間電化、大阪~下関間非電化から、更に短縮し、ひとまず新丹那トンネルが絡む東京~静岡間を電化、それ以西を非電化とする事となった。
弾丸列車の頃から「新幹線」という言葉が使われており、実際ルートも現在の新幹線とほぼ同様(三島駅の代わりに沼津駅が予定されていたという違いくらいである)である。
主な違いとしては、機関車方式であること、そして貨物列車が運行されていること、昼夜兼行であることなどの違いがある。
一部建設は進み、後の東海道新幹線の土地ともなったが、戦争の激化に伴い計画は頓挫されてしまい、島安次郎はついに終戦直後失意のまま息を引き取ることになる。
戦争が激化して、米軍が都市に無差別空襲するようになると、鉄道も大きな被害を被った。また特急列車や急行列車なども運転の中止を余儀なくされてしまい、また戦時設計という劣悪な設計にせざるを得なくなる車両も出てくる。
小林一三は、空襲下においても鉄道を動かそうとした。無差別爆撃による大虐殺に打ちひしがれる人々が懸命に動く鉄道を見て、大いに勇気づけられた。広島に原爆が落とされても、広島電鉄は僅か3日後に運転を再開した。8月15日のその日にも鉄道は動いていたのである。
異常事態においても懸命に鉄道を動かそうとするその姿は後の東日本大震災における三陸鉄道に受け継がれた。日本の鉄道員の誇りとプライドである。
鉄道の復興、航空技術者たち
何はともあれ終戦となった。ここでは日米の歴史的な行動の是非は置いておいて、純粋に鉄道の歴史を書き連ねることにする。
昭和20年の終戦後、日本の鉄道は大きな損害を受けた。終戦直後の日本の鉄道は最悪の時代だったとも言われるが、島秀雄は新たな活動を決意する。そう、電車列車における復興である。しかし、GHQという邪魔者がいた。アメリカはインターアーバンが崩壊しており、鉄道斜陽論を支持しており、更に非電化主義思想であったため、電車列車を支持する島秀雄らと真っ向から対立することになる。
また、旧陸海軍の航空技術者たちを国鉄は積極的に受け入れた。これが大きな成功につながっていく。
運転を中止していた特急列車の運転を再開させ、東海道本線も全線が電化、電気機関車による「つばめ」・「はと」が運転されるなどされ、電化方式として交流電化が実用化された。
更に島秀雄は湘南電車の原型となる「80系電車」を設計する、また貨物用機関車として最強のボイラーであるD52を改造したC62を設計。日本の鉄道は急速に復旧する。
昭和29年12月15日、C62機関車17号機は狭軌世界最速の蒸気機関車となった。といっても、これは「高速走行時における橋梁のたわみを調べる」のが主目的で129キロの世界記録はあくまで副次的なものであった。この17号機はJR東海のリニア鉄道館にて保存されている。
当時、「長距離列車は機関車方式に限る」というのが世界中の鉄道関係者の常識であった。しかし島秀雄は「長距離列車は電車方式がふさわしい」と断言した。国鉄内部からも大きな批判が出た。もちろん海外の鉄道関係者もこんなことを言うのは頭が狂ってると言った。島秀雄は世界中の鉄道技術陣を敵に回さねばならなかったのだ。
貨物屋と旅客屋、連絡航路の衰退
ちょうどこの頃、昭和26年から昭和38年にかけて国鉄五大事故と言われる事故が立て続けに起こっている。そのうち2つは連絡船絡みの海難事故であり、瀬戸大橋、青函トンネルの建設に大きな影響を与えた。
残りの3事故はいずれも鉄道事故であり、一つ目は桜木町事故という桜木町駅付近で起こった列車火災事故である。戦時設計の劣悪な設計が祟り列車が火災になっているにもかかわらず、乗客は隣の車両にも車外にも非難できず「丸焼け」となった事故である。この事故が原因で、島秀雄は国鉄を下野して住友金属に転身してしまう。電車列車の普及が妨げられてしまった瞬間である。
そして残りの2事故は現在も貨物屋と旅客屋の対立を生むきっかけとなった事故である。一つ目は三河島事故である。
事故の内容はこうだ。田端操車場を発車したD51牽引の貨物列車は常磐線に向け定時に発車、しかし、三河島駅に到着した取手行きの電車が遅れているため、貨物列車に旅客線との合流付近で臨時停車の措置を取った。しかし、機関士は蒸気機関車特有の視界の悪さ等が相まって(発生日は新月であった)旅客線の出発信号機を貨物線のものと勘違い、注意信号を見落としたまま進行し、更にその先の赤信号にも気づかずそのまま進行、取手行きの旅客電車も進行信号であったためそのまま進む(鉄道における青信号は「進め!」であり道路とは意味が異なる。信楽高原鉄道事故においてこの事情を知らないと的外れな批判をしてしまう)、やがて機関士は赤にようやく気づきブレーキをかけるが間に合わず安全側線に突っ込んで右側に脱線、それと重なって下り電車と衝突、下り電車は上り本線を支障する。
機関士や車掌などは列車防護処置を見落としてしまい、乗客の避難誘導と三河島駅員への報告に終始、乗客は桜木町事故の教訓で備え付けられた非常用ドアコックを使い車外に脱出し三河島駅方面に歩き出す。事故の防護処置を行ってないため、上り電車は事故のことを何も知らずに走行、運が悪いことにダイヤは遅延中で回復運転中であったため、慌てて事故現場に遭遇して非常ブレーキをかけるも間に合わず、先頭車両は粉砕され、更に線路を歩いていた乗客を次々に跳ね飛ばした事故である。
凄まじい阿鼻叫喚の惨状であるが、最初の原因は機関士の信号見落としである。これを機にATSが設置されており、現在では三河島事故は起きないようになっている。
そして二つ目は鶴見事故である。これは貨物列車の貨車の一部がいきなり脱線し、それに気づいた下り電車が非常制動をかける。しかし、突然の脱線であったため、距離の近かった上り電車は制動をかける暇もなく貨車と衝突、その勢いで下り電車の4両目をえぐりながら5両目を串刺しにする形で衝突した。事故の原因は競合脱線であったとされるが、この2つの事故から旅客鉄道を運転する人の間で貨物列車の関係者を嫌悪するものが現れており、機関車屋と電車屋の対立の他、旅客屋と貨物屋の対立も発生し、現在のJR東海とJR貨物の不仲に繋がっているとされている。
夢の超特急 国鉄黄金時代
日本の鉄道史において、これ以上ない誉れは新幹線である。それは日本の技術の結晶であり、安全正確の高速列車、人々の夢を運ぶ鉄道界の至宝であり、日本と日本人の大いなる誇りである。
背景
五大事故と並行して、日本の鉄道の問題になっていたのは、高度経済成長に伴う輸送力の増加であった。とりわけ東海道本線の輸送力は限界に達しており、特急、急行、準急、ローカル列車、更には貨物列車が入り乱れていた。
早晩東海道本線が破綻することは目に見えて明らかであった。そして、国鉄総裁十河信二が登場する。
十河信二は後藤新平の弟子にあたり、やはり広軌論者であった。当時の国鉄では東海道本線の逼迫対策にあたり以下の三案が提案されていた。
十河信二はC案を決めていた。しかし、役者が足りない。そう、島秀雄である。住友金属に転身したとは言え、既に強い発言力を持っていたため「影の工作局長」と言う立場であった。その島を十河は正式に副理事長格として技師長に迎え入れようとする。島は再三辞退するが、十河の説得によりついに心を打たれ技師長に復帰しようと決意する。
なお、新幹線車両の設計陣の中には島秀雄の次男、島隆氏が含まれていた。一体何の因果なのだろうか、弾丸列車計画の時と酷似している。息子が鉄道関係者となり、父が国鉄を去り、しばらくすると新幹線計画に父が呼び戻され一緒の活動をする。
高速台車振動研究会
話は少し過去に戻る。昭和21年から昭和24年にかけて、官民問わず鉄道台車の開発設計関係者を集めて「高速台車開発設計研究会」が開かれる。島安次郎が「時速200キロの鉄道は可能」と看破したように息子の島秀雄もまた同じ意見を持っていた。
零戦の開発関係者である松平精が自励振動から直線区間の振動を指摘したり、YS11の設計に関わった島秀雄の弟島文雄も参加しており、官民様々な立場から多くの意見が出された。
この研究会は日本の鉄道史の最重要研究の一つであり、主催は島秀雄である。経験に頼る方法から理論的開発へ向かってきた時期であり、高速列車の実現のためには"蛇行動”の克服が必要不可欠だということが分かった。つまり、非常に速い速度においては車体は横に揺れて直線でも脱線するというものであり、この非常に危険な振動をいかにして抑えるかというのが高速列車の鍵となったのである。
当時の欧米ではやはり「営業運転は160キロ程度が限界」と言う認識であり、蛇行動が問題となるほどの高速運転を想定した台車の開発はおこなっていなかった。
東京 - 大阪3時間への可能性
島秀雄は、「高速台車振動研究会」において国鉄技術者・航空技術者更には民間車両メーカーの技術者を集めて基礎研究が積み重ねられていた。
そして、高速鉄道構想は既に基礎は多く固まっていたが、鉄道技術研究所ではなんとかそれに光を当てたいとして、既に国鉄を辞任していた島秀雄の後ろ盾の元、研究所創立50周年記念講演会の際「これまで積み重ねられてきた研究と技術を集大成すれば高速鉄道が可能になる」と言うテーマのもと、技術陣を集める。
そして、東京と大阪を3時間で結ぶことは技術的に可能だと確信、昭和32年に公開講演を銀座で行った。当時の営業運転の最高速度はつばめ・はとの95キロである。時速200キロというのは度肝を抜かれる内容であり、雨天にもかかわらず満席に鳴り、その後も聴衆希望者が絶えなかった。
しかし、国鉄側は快く思ってなかった。「勝手にホラを吹くな!」と。しかし、総裁の十河信二の目に止まり、自分を含めた国鉄幹部の前で同様の公演を要求される。そして、十河信二は「広軌別線案」を正式採用するに至り、島秀雄を呼び戻すことになる。
逆境との戦い
かくして、新幹線の計画は持ち上がった。しかし、反対派も多かった。当時は世界中で鉄道斜陽論が盛んに叫ばれ、米国では次々と線路が道路になり、モータリゼーションが普及して航空機が台頭。鉄道は消えてなくなるというのが主流であり、21世紀には長距離列車は全滅しているとまで言われていたほどである。
国鉄内部からも批判が多かった。そんなものは無用の長物だと。鉄道ファンの阿川弘之をして「世界には三大バカがあって万里の長城、ピラミッド、そして新幹線だ」と言い放った(後に謝罪)
もちろん、島秀雄は電車列車による超特急を画策するが、これにも国内外から批判の声が轟々だった。「長距離列車は機関車方式に限る」というのが鉄則だったからである。
島秀雄・十河信二、そして彼らを信じる技術者たちは、世界中を敵に回してしまうことになる。しかし、彼らは自分たちが正しいと、上手くいくと確信していた。島秀雄は大逆転勝利を収めることになる。
国鉄内部・世界の鉄道技術陣・世論、当初は多くが敵に回った。新幹線は馬鹿げているというものが多かった。彼らは、新幹線の計画についてこう読んで嘲笑った。「夢の超特急」と。
小田急SE車、国鉄線を走る
小田急は国鉄とは競合関係にある会社である。高速性能のために様々な改良を持ちだしたが、小田急線はカーブ等が多く本来の性能をなかなか生かせない。そこにちょうど高速電車を作りたい国鉄が目をつけたのである。
国鉄側は小田急を巧みな話術で引きこむことになる。国鉄は大所帯故に足並みが揃わないこともあり、小田急側も高速性能を活かしたいということでライバル会社との共同開発となったわけである。
日本初の風洞実験を含め、新幹線の原型となったものの一つであり、後の151系こだまに破られるまで狭軌世界最速の記録であった145キロをマークした。実験には国鉄線である東海道本線が使用された。
昭和32年に登場した小田急SE車はロマンスカーの原型でもある偉大な名車である。
ビジネス特急こだま
そして、小田急SE車とともに新幹線に連なる電車特急が「151系」いわゆる「ビジネス特急こだま」である。
昭和33年に登場。東海道本線を110キロで走り、東京駅と大阪駅を当初6時間50分から6時間30分で運転、つばめ・はとが7時間30分かかっていたのだから相当速いものである。
そして、この速度を持って新幹線の反対派を説得していくことになる。十河信二国鉄総裁が参加した歴史的な起工式が昭和34年4月20日に行われた。
東海道新幹線建設工事
弾丸列車計画で買収済みの土地を含めて工事は順調に進み、世界銀行での融資のために嘘の計画(貨物新幹線)を書くなどの苦心をしつつ、東京五輪に間に合わせるために、工事は急ピッチで進められた。
昭和37年神奈川県の綾瀬~小田原間約30キロにモデル線区が建設(現在も転用)され、鴨宮に基地が置かれた。そして、運行テストが様々に行われ、新型車両の設備試験・乗員訓練・保線訓練などが行われた。
昭和38年3月30日、ついに0系電車が速度向上試験で大記録である256キロを達成した。この頃になると夢の超特急は侮蔑の意味で延べられることはなくなった。
昭和39年7月1日に全通し、7月25日に全線試運転が開始された。そして、昭和39年10月1日。日本の、いや世界の鉄道の歴史が動いた。
東京 - 新大阪を駆け抜ける超特急ひかり号
昭和39年10月1日午前6時・東京駅、丸い団子鼻の新幹線電車が東京駅をスタートした。
それに乗った乗客は何を思ったであろうか、流れるように飛び去る風景、あっという間に大阪へ着く、電車は静かで乗り心地も良い。新しい時代の幕開けであるとともに、日本国鉄の名声が三千大千世界の隅々まで轟いた瞬間である。フランスを始めとした欧州各国(特にフランス)は日本を「鉄道後進国」と見下していたため、大きな衝撃を受けるとともにプライドはズタズタとなった。後に積極的に日本の鉄道を取材しているが、正確なダイヤや緻密な運転などでとても太刀打ちできず海外の鉄道人はことごとく逃亡している。
しかし、その晴れやかな記念式典の中に十河信二と島秀雄の姿はなかった。二人は、予算問題において辞任していたからである。
後に二人の姿なき出発式を恥と思った国鉄により、東京駅に十河信二総裁の小さな記念碑と開業を記念した小さなプレートが立っている。
当初は余裕時分と徐行区間が多く、東京と大阪は超特急ひかり号でも4時間、普通特急こだま号で5時間である。しかし、当時としてはこだまでも恐ろしい速さであった。
スピードばかり重視されるが、それ以上に重要なのは正確で、電車列車でも乗り心地が良かったことにあった。
翌昭和40年にはひかりが3時間10分(10分は京都駅に止めた分である。結果的には成功だった)、こだまが4時間となり、ついに新幹線は本領発揮となった。
鉄道は衰退あるのみとされていた鉄道斜陽論を吹き飛ばし、鉄道の地位を一気に復権させた新幹線は世界の鉄道をも救ったのである。尤も、それらは日本の鉄道人にとって副次的なものにすぎない。東海道新幹線建設の動機はあくまで「東海道本線の輸送力逼迫対策」である。
東海道新幹線 この鉄道は日本国民の英知と努力によって完成された 東京駅にある小さな碑文である。
通勤五方面作戦、動力近代化、一本列島
東海道の輸送力逼迫問題は解決した。しかし、山陽方面や首都圏の通勤ラッシュなど、国鉄を襲う輸送力逼迫問題はまだまだ解決していない。当時の混雑率は現在と比べても異常とも言える混雑率であり、101系・103系・113系といった新性能電車や列車本数増発も焼け石に水となり、根本的な対策を必要としていた。
昭和39年から十河信二の跡を継いだ石田礼助国鉄総裁によって通勤五方面作戦が実施された。当初は消極的であった石田総裁は、「新宿や池袋の混雑を目の当たりに見て、つくづく自分の不明を覚った」と回想している。
なお、この頃世界一の鉄道利用客とされる駅が池袋駅から新宿駅となっている。
通勤五方面作戦とは、つまり東海道本線(小田原まで)・中央本線(三鷹まで)・東北本線(大宮まで)・常磐線(取手まで)・総武本線(千葉まで)の五方面である。つまり、根本的な対策として、複々線化し、更に地下鉄区間への乗り入れなども行うように計画されたのである。
しかし、常磐線の千代田線乗り入れが「迷惑乗り入れ」とされたり、中央線のいわゆる「杉並三駅問題」や、線路別複々線による批判がある。
更に、動力近代化計画が進められた。各国の動力近代化計画は、無煙化として蒸気機関車を廃止してディーゼル機関車で置き換えることである。しかし日本では、既に新幹線により動力分散方式の優位が決定的となったことから、旅客列車においては電化において電車、非電化区間でも蒸気機関車牽引列車を気動車で置き換える計画となった。
しかし、フランスなどはこれを批判した。新幹線が開通してなお、動力集中方式を信望する人は諸外国に多かったのである。(実際に、フランスは新幹線に影響されたとしている自国の高速鉄道において、動力集中方式に固執していた。)また、日本の鉄道のガラパゴス化を諸外国が批判する場面も多かったという。しかし、そもそも外国と線路でつながってないのだからガラパゴス化しても何ら問題無いというのが実情である。
実際には製造コストこそ割高だが、表定速度に優れ運用効率が良くなるため、電化・ディーゼル化ともに分散方式が採用された。客車・蒸気機関車は減少し、気動車と電車が圧倒的に多くなった。当時はまだ非電化区間も多く、日本はこの当時英国をも凌ぐ世界一の気動車大国となった。現在では電化区間が増え、世界一の電車大国となっている。
電車列車の優位性から、世界初の本格寝台電車とされる名車・583系を国鉄は世に送り出す。これは後にサンライズエクスプレスにおいて活かされ、夜行列車においても電車列車が使用可能であることを示した。
そして、海難事故に伴う鉄道化の一本列島として、瀬戸大橋と青函トンネルが建設される(関門トンネルは戦前に既に完成)、青函トンネルは昭和36年に建設、瀬戸大橋は昭和53年に着工となった。当時の青函トンネルにも「無用の長物」と言う批判があったが、現在では多く活躍している。
またやはり輸送力が逼迫していた山陽本線のための山陽新幹線や、東北・上越新幹線など、東海道新幹線の成功に合わせて新たな新幹線が敷設された。国鉄末期に登場した100系・200系は0系と比べて様々な改良が加えられている。
しかし、この当時、設備投資に追われ技術面は鈍化していた時代であったことは否めない。尤も、莫大な需要を捌くには信頼性が必要不可欠であり、ただでさえ信頼性と仕様統一に拘っている日本の鉄道ではますますそれが重視されることになった。
労使の問題もあり、労働組合の暗躍によりスト権ストでダイヤ崩壊状態になった挙句乗客が暴動を起こす上尾事件・首都圏国電暴動と言った事件もこの頃に起こっている。この暴動事件以降、ダイヤの正確性の重要性はますます高まり、安全性と並び鉄道の最重要課題と位置づけられることとなった。
しかし、極めて正確なダイヤであるから人々が利用しやすくなり需要が大きくなるが、反面その需要を捌くためには、正確なダイヤを運行せざるを得ないという堂々巡りの状態にもなっている(無論この傾向は好循環ではあるが、ある意味でジレンマでもある)。
更に、トラックの普及と貨物列車のダイヤ崩壊による国鉄離れが相まって、貨物輸送が激減、現在でも主流はトラックである。
更に、列車の定時性などから鉄道の需要が急増し、海外では相変わらずモータリゼーションの普及で鉄道の地位が低下し続けてるにもかかわらず、日本の鉄道は設備投資に追われ、先述の新幹線建設や、ローカル線問題から国鉄の財政は最悪の一言となった。
国鉄分割民営化
国鉄はもはや財政破綻は明白であった。東海道新幹線開業時の昭和39年から赤字に転落、運賃の値上げを抑制していたが、昭和50年代になって値上げにつぐ値上げで国鉄離れを引き起こし更に値上げをするという悪循環に陥る。
井手正敬氏、松田昌士氏、葛西敬之氏の三名は「国鉄改革3人組」と称された活躍をしている。
労働組合の解体も行われた他、北海道を中心とした地方の赤字ローカル線の廃線などを行いつつ(ただし天北線や松前線などの廃止の仕方の問題が指摘されるケースも多い)、国鉄は昭和62年4月1日にJRへと生まれ変わった。
国労の解体においては、日頃から職員の横柄な態度に辟易としていた利用客を煽るために、マスコミを使って追い込んでいった。
国鉄の民営化は一定の成功を収めたのは事実ではあるが、近年では弊害も指摘されている。国鉄が民営化されたことにより、特に大都市の鉄道は私鉄主導と言われていたが、ますます私鉄色が強く、民間部門の強さは世界の鉄道の中でも随一と言われるほどである。
分割民営化はヨーロッパの鉄道界にも影響を与えたが、日本の鉄道とは比べ物にならないほどにシェアが低いため、イギリスを始め安易に日本の事例を模倣して民営化に失敗した事例も多い。
元々旅客鉄道において採算性が取れる日本の鉄道は世界的に極めて特異であり、海外の鉄道は赤字が前提で、赤字分は税金で補填するのが当然という思想がまかり通っている。
民営化後の動向
バブル時代であったこともあり、民営化直後は各社JR工夫を多く凝らすようになる。
特筆すべきはオリエント急行来日事件である。まだ韓流のかの字もないフジテレビが開局30周年を記念して企画したものである。
フジテレビの沼田篤良氏が国鉄の山之内秀一郎氏との交友が始まり、ついに来日が検討されることになる。これは国鉄がJRになってもそのまま引き継がれた。
当初はVSOEという会社との話し合いになったがドタキャンされたので、急遽スイスのNIOEに切り替えることになった。
日本国内を走らせるといっても非常に大きな問題が多く、レール幅や台車、更に電源や車体の重さ、車両規格など様々な問題がつきつけられた。
特に車体の重さはいかんともしがたく、試運転の機関車は度々空転した。仕方ないので電気機関車を重連運転にせざるを得ない事態も多かった。
フランスを発車した列車は香港に至り、そこから海路で広島に運ばれて東京へ。そして日本国内津々浦々を走ったという。
昭和63年の12月23日には、上野駅にその姿があり、D51も牽引に参加したという。現代ではとても信じられない出来事ではある。
この来日を契機にトワイライトエクスプレスや北斗星のグレードアップ、カシオペア・夢空間の新設と言った影響をJRに与えている。
しかし、分割民営化故の弊害が特に21世紀に入って目立つようになった。特に複数社に直通する列車は新幹線以外に激減し、不便を強いられるようになった。特にブルートレインと呼ばれる長距離夜行列車は、傍目からも明らかに廃止にさせようという悪意が満ちた経営をJRはしている。
分割民営化によってJR各社が融通がきかなくなると予言した人がいたが、その通りとなってしまっているのが実情である。更に、経営基盤の弱い三島会社と本州三社、またJR同士の対立などで足並みの乱れや技術格差が指摘されるようになり、近い将来民営化の分割方法を見なおさざるを得なくなるという意見もある。
一方、新幹線・在来線共に新技術の開発も進むが、E331系など新しすぎる技術を用いたが故の失敗作も作られるようになっている。
そんな中で、東海道新幹線を270キロで走る初代のぞみの300系や、時速300キロで走るJR西日本の500系、新幹線通勤対策の2階建て車両で高速鉄道世界最多の定員を誇るMAXなどの開発や、在来線ではJR西日本の新快速の登場における勢力図の変換や、世界初の制御振り子式車両をJR四国が開発した他、JR北海道の極寒仕様の振り子式車両の開発、更にVVVFインバーター制御の登場により、更に電車の優位性が強まることになった。
こうして、島秀雄が示した動力分散方式の優位性はますます強待っており、動力集中方式が多い諸外国でも近年は動力分散方式が増加傾向にあり、日本の鉄道の先見の明が明らかになりつつある。
島秀雄は「貨物列車においても動力分散方式が望ましい」と発言していた。貨物列車は日本においても動力集中方式が主流であるが、JR貨物のスーパーレールカーゴことM250系電車においてそれが実現する。
「電車方式・気動車方式の欠点は技術革新で何とかなる、それよりも分散方式の利点を活用せよ」は島秀雄の言葉であるが、それは現在の日本においても生き続けている。
未来へ
世界一正確で世界一安全で世界一便利で世界一利用客の多い日本の鉄道であるが、それは決して汽笛一声の時に湧いて出たものではない。それが達成されたのは鉄道員たちの想像を絶する努力があってこそである。
整備新幹線による日本の鉄道の新幹線延伸が進む中、JR東海は東海道新幹線のバイパス線として完全自己負担における「中央リニア新幹線」の建設計画を建てている。最高時速は500キロ、東京と大阪を僅か1時間で結ぶという21世紀の夢の超特急である。理由は、やはり東海道新幹線の輸送力が逼迫しているというものである。
また北海道新幹線、九州新幹線長崎ルート、北陸新幹線の建設が進められており、E5系が最高速の320キロ運転と言った内容が期待されている一方で「整備新幹線260キロの呪い」による弊害が指摘されている。また、三大都市圏を中心に、新駅や新線の開業が行われており、日本の鉄道の勢力図は毎年毎年めまぐるしく変化している。
また、JR九州では観光列車に力を入れ、様々なデザインの列車が走っている。更に、クルージングトレインとして「ななつ星」の運転も決まった。
一方、ローカル線は依然苦しい状況であり、現在でも廃線、バス転換を余儀なくされる例が多い。
銚子電鉄のぬれ煎餅など様々な方式で生き残りをかけている一方で、京福事故とそれに伴う廃線による混乱と復活が「壮大な負の実験」とまで言われ、採算性だけでは測れない鉄道の重要性の判明の他、路面電車が見直され、地方の都市内交通としてLRTが台頭しているなど、新交通システムの今後にも注目である。
また、新幹線技術を海外に輸出する際に、外国人になかなか設計思想が理解できないなどの摩擦や、欧州の鉄道関係者による鉄道規格の押し付け、中国などへの輸出の結果としての技術流出の懸念、更には日韓トンネルや宗谷トンネルといった実現性・採算性の乏しい構想の外圧など、日本の鉄道が海外と線路が一切繋がっていないにもかかわらず海外鉄道に起因する問題も浮上している。
いずれにせよ現在でも日本において鉄道は極めて重要な交通機関であるということ、安全・正確・便利である鉄道なしでは日本の生活・経済は決して成り立たないことは確実である。多くの人に親しまれる鉄道に我々は今日も頼り続けているのである。
世界の鉄道旅客がもし100人の村だったら
- 50人が日本人であり、そのうち31人が関東人です。
- 10人が関西人で3人が名古屋人です。
- 残り50人のうち、インド人が11人います。
- 残り39人のうち、ドイツ人が3人、中国人が3人です。
- 100人中50人は日常的にダイヤが崩壊した状態で極めて不安定な鉄道を利用しています。
- 残り50人は非常に正確なダイヤの元、遅延も少なく安定した鉄道という高度なサービスを享受しています。
- その50人のうち、JRを使っている人が19人います。JR東日本が13人、JR西日本が3人含まれています。
- その50人の中で少なくとも2人は東急電鉄の利用客です。
- その50人の中で阪急電鉄を使っている人が1人います。
- 100人中2人は新宿駅を利用しています。
- 100人中1人は池袋駅を利用しています。
- 100人中1人は渋谷駅を利用しています。
- 100人中1人は大阪・梅田駅を利用しています。
- 100人中1人は横浜駅を利用しています。
もしあなたが、日本の鉄道を利用しているなら、それはとても恵まれています。ダイヤの乱れは少なく、清潔で治安がよく少ないスペースで多くの旅客を受け入れることができるからです。
参考文献
関連コミュニティ
関連項目
親記事
子記事
兄弟記事
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