日本国憲法第23条とは、日本国憲法第3章(国民の権利・義務)に存在する条文である。
概要
条文
日本国憲法第23条は、個人の人権としての「学問の自由」を以下の通り保障している[1]。俳句のような五七五になっている。
日本国憲法第23条 学問の自由は、これを保障する。
成立の経緯
諸外国の憲法において学問の自由を明文化して保障している例は少ない。日本においても大日本帝国憲法時代は規定されていなかった。しかし下記の滝川事件や天皇機関説事件のように、学問の自由が国家権力によって侵害された歴史に鑑みて、日本国憲法ではとくにこれを規定した。
- 滝川事件(京大事件) - 1933年(昭和8年)
- 京都帝国大学(現在の京都大学)の滝川幸辰教授の刑法理論が、無政府主義的で共産主義的な「赤い理論」であるとして、文部省が滝川教授を休職とするよう命じ、同大法学部の教授らが辞職して抗議し抵抗した思想弾圧事件。
- 結局、滝川教授の休職は取り消されず、7人の教官が大学を去ることとなった。
- 天皇機関説事件 - 1935年(昭和10年)
- 日本の軍国主義化が進むに伴い、貴族院議員であった美濃部達吉の「天皇機関説(天皇を国家機構の一機関とする説)」は明らかな叛逆であるとし、軍部や右翼が排撃した事件。
- 昭和天皇の天皇機関説支持にもかかわらず、政府は美濃部議員の著書を発売禁止処分に付し、すべての公職から追放した。
学問の自由
定義
学問とは、真理探究それ自体に向けられた論理的・体系的知に関わる働きである[2]。
学問の自由とは、このような学問について、政府などの公権力によって妨害されないことを意味する。
現在の大学は、人類の学問の成果を継承しつつ新たな知の地平を切り拓いていく役割を担う中核として位置づけられている[3]。ゆえに学問の自由とは、特に「大学における学問」を政府などの公権力の妨害から保護するものとされている[4]。
学問の自由の4分類
学問の自由は以下の4つを意味する。
学問研究活動の自由
学問研究活動の自由は、憲法第19条「思想及び良心の自由」の特別法的性格を持つ[5]。
個人が学問研究活動をする自由は、内心領域にとどまるかぎりならその保障は絶対的である[6]。思想・良心の自由や信教の自由の「内心における信仰の自由」が絶対的に保障されるのと同じである。
しかし学問研究活動は通常なら何らかの外部的行動をともなう。その外部的行動は他者加害原理に基づく公共の福祉によって一定の制限が行われる。たとえば、人体実験のように他人の生命・身体などの法益を侵害してはならないという制約が存在するのは明白である[7]。
昨今の先端科学技術研究には、重度な脅威をもたらす危険なものが含まれている。たとえば、遺伝子組換えによる健康に対する危害、クローン技術、体外受精、臓器移植、ES細胞、ゲノム編集などに付随するプライバシー権侵害といったものである。研究者の自制に一任することは問題があると考えられるので、政府により学問研究活動の自由に対して必要最小限の規制を設けるべきではないか、との意見が有力になってきている。
研究成果発表の自由
個人の研究成果を発表する自由を尊重しないと、その個人が学問研究活動をする意欲を失うことになる。ゆえに発表の自由を尊重しなければならない。
研究成果発表の自由は、憲法第21条「表現の自由」の特別法的性格を持つ[8]。
研究成果発表の自由が侵害された例として、滝川事件と天皇機関説事件が挙げられる。
研究成果を教授する自由(教授の自由)
個人の研究成果を学生のような後進に対して教授する自由も尊重しなければならない。
「教授の自由」は従来、大学などの高等学術研究教育機関における教授のみに認められると考えられてきたが、小中学校・高等学校などの初等中等教育機関の教師についても、教授の自由が一定の制限つきで認められるべきだとする見解が優位である。
初等中等教育機関の教師に“完全な”教授の自由が認められていないのは、全国的に一定の教育水準を確保せねばならないためである。仮に、“完全な”教授の自由を認めたとすると、教育の内容や方法などについて教師が自由に決定できるようになってしまう。
また、大学に通う学生は十分な批判能力が備わっているが小学校・中学校・高校に通う児童・生徒はまだ十分に批判能力が備わっていないと考えられることや、教師が児童・生徒に対して強い影響力・支配力を有していて児童・生徒が「囚われの聴衆」になりやすいことを踏まえても、“完全な”教授の自由は到底認められないのである[10]。
大学の自治
大学における学問の自由を十分に保障するために、第23条は制度的保障として「大学の自治」をも保障している。制度としてこれは保障されているため、大学の自治を侵害するような立法は許されない。
つまり、大学が国家権力などの外部の権威から独立し、組織体としての高度の自律性を保つことを認めるものである。学長・教授・その他の研究者が大学の自主的判断に基づいて選任されることが認められ、施設と学生に対する管理の自主性もある程度は認められる[11]。
そうすることで、教育研究機関の研究者・教育従事者に職務上の独立を認め、その身分を保障することができ、学問の自由を強固に保障することができる。
大学の自治の主要な担い手は、教授で構成される教授会が中心になる[12]。
大学の自治は大学の自律的な施設管理を含むが、学問の自由とは無関係の消防・衛生については一般の場合と同じ規制に服する[13]。学問の自由とは無関係の政治的な集会が大学で公開形式で行われ、それを私服警官が見物したとしても、大学の自治に基づいて私服警官を排除することができない。
関連項目
日本国憲法 | |
---|---|
第1章 天皇 | 1 2 3 4 5 6 7 8 |
第2章 戦争の放棄 | 9 |
第3章 国民の権利及び義務 | 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 |
第4章 国会 | 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 |
第5章 内閣 | 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 |
第6章 司法 | 76 77 78 79 80 81 82 |
第7章 財政 | 83 84 85 86 87 88 89 90 91 |
第8章 地方自治 | 92 93 94 95 |
第9章 改正 | 96 |
第10章 最高法規 | 97 98 99 |
第11章 補則 | 100 101 102 103 |
脚注
- *日本国憲法
- *『日本国憲法論 法学叢書7 2011年4月20日初版(成文堂)佐藤幸治』242ページ
- *『日本国憲法論 法学叢書7 2011年4月20日初版(成文堂)佐藤幸治』241ページ
- *『日本国憲法論 法学叢書7 2011年4月20日初版(成文堂)佐藤幸治』242ページ。東大ポポロ事件判決(最高裁大法廷判決昭和38年5月22日刑集17巻4号370頁)の「同条の学問の自由は、学問的研究の自由とその研究結果の発表の自由とを含むものであつて、同条が学問の自由はこれを保障すると規定したのは、一面において、広くすべての国民に対してそれらの自由を保障するとともに、他面において、大学が学術の中心として深く真理を探究することを本質とすることにかんがみて、特に大学におけるそれらの自由を保障することを趣旨としたものである」という言葉にもそういう解釈が現れている。
- *『日本国憲法論 法学叢書7 2011年4月20日初版(成文堂)佐藤幸治』242ページ
- *『日本国憲法論 法学叢書7 2011年4月20日初版(成文堂)佐藤幸治』243ページ
- *『日本国憲法論 法学叢書7 2011年4月20日初版(成文堂)佐藤幸治』243ページ
- *『日本国憲法論 法学叢書7 2011年4月20日初版(成文堂)佐藤幸治』242ページ
- *建造物侵入、暴力行為等処罰に関する法律違反 最高裁判例
- *伝習館高校事件の判決文(最高裁判決平成2年1月18日民集44巻1号1頁、判時1337号3頁)に「高等学校においても、教師が依然生徒に対し相当な影響力、支配力を有しており、生徒の側には、いまだ教師の教育内容を批判する十分な能力は備わっておらず、教師を選択する余地も大きくないのである。これらの点からして、国が、教育の一定水準を維持しつつ、高等学校教育の目的達成に資するために、高等学校教育の内容及び方法について遵守すべき基準を定立する必要があり、特に法規によってそのような基準が定立されている事柄については、教育の具体的内容及び方法につき高等学校の教師に認められるべき裁量にもおのずから制約が存するのである。」の文章がある。また旭川学力テスト事件の判決文(最高裁大法廷判決昭和51年5月21日刑集30巻5号615頁に「専ら自由な学問的探求と勉学を旨とする大学教育に比してむしろ知識の伝達と能力の開発を主とする普通教育の場においても、例えば教師が公権力によつて特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない。しかし、大学教育の場合には、学生が一応教授内容を批判する能力を備えていると考えられるのに対し、普通教育においては、児童生徒にこのような能力がなく、教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有することを考え、また、普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること等に思いをいたすときは、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されないところといわなければならない。もとより、教師間における討議や親を含む第三者からの批判によつて、教授の自由にもおのずから抑制が加わることは確かであり、これに期待すべきところも少なくないけれども、それによつて右の自由の濫用等による弊害が効果的に防止されるという保障はなく、憲法が専ら右のような社会的自律作用による抑制のみに期待していると解すべき合理的根拠は、全く存しないのである。」の文章がある。
- *東大ポポロ事件の判決文の原文は「大学における学問の自由を保障するために、伝統的に大学の自治が認められている。この自治は とくに大学の教授その他の研究者の人事に関して認められ、大学の学長、教授その他の研究者が大学の自主的判断に基づいて選任される。また、大学の施設と学生の管理についてもある程度で認められ、これらについてある程度で大学に自主的な秩序維持の権能が認められている。」である。
- *『日本国憲法論 法学叢書7 2011年4月20日初版(成文堂)佐藤幸治』245ページ
- *『日本国憲法論 法学叢書7 2011年4月20日初版(成文堂)佐藤幸治』247ページ
- *暴力行為等処罰ニ関スル法律違反 最高裁判例
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