概要
1972年に第一回大会が開かれ第十回まで継続した。日本SF大会を模しており、参加者も実際に重複していたと言われる。あくまで漫画イベントであり、同人誌即売会(当時はファンジン即売会)は付属イベントに過ぎなかったが、のちのコミックマーケット(コミケ)に先駆けるものであるとされる。
しかし、後述の参加者拒否事件をきっかけとして誕生したコミケに参加者を奪われ消滅して行った。
歴史
60年代は高度経済成長に比例するように漫画雑誌も興隆を極めた。しかし、いまだ自由に作品を発表する場もなく出版や編集など商業資本的な要望に常に左右される状態が続いていた。経済成長の裏返しとして学生運動などの政治運動も盛んな時期であり、この影響を受けた若年層の間ではこれら商業主義を廃した上で作品を発表する場が求められていた。
この頃、一部の漫画家やファンがSFや小説などの発表媒体として手掛けていた同人誌に着目。ミニコミ誌ブームもあり、静かなブームとなる。1966年創刊の漫画雑誌「COM」はこの動きを見逃さず、同誌で評論をしていた真崎守が同人サークルの全国化を支援。「ぐら・こん」として組織化し、同人作家と同人誌の発掘を開始した。
「ぐら・こん」自体はその後のCOMの編集方針の転換により中途半端な形で終了(COM自体も73年に廃刊)するも、同人の全国化や普及に果たした影響は大きく、同人誌作家から漫画家生活を始めると言う現在では当然の道筋も立ち始めた。
この「ぐら・こん」に影響を受けた漫画ファン・評論家が、「ぐら・こん」に変わる組織として編成しイベント化したのが日本漫画大会であった。
イベント内容
内容はスライド講演・作家挨拶・パネルディスカッション・ファン賞選定・オークション・ファンジン即売であった。のちのコミケの影響から同人誌即売会の印象が強いが、あくまで一部であり講演会にはプロなどが参加していた。また、ファン賞も商業作品を対象にしていた。参加者合宿もあり、これは初期コミケも踏襲した。
全般的には日本SF大会を模しており、参加者も多くが作家付きのファンクラブであり当時のファンイベントの延長線上にあった。ただし、同人誌の売買が出来るイベントは全国規模では唯一の存在であったため、ファンジン即売は大変に好評であり耳目をひいた。
出場拒否事件
第一回参加者は369人。75年の第四回は567人となり順調に規模を拡大させたかに見えた。しかし、第四回開催を前に、参加申し込み書に第三回大会の抑圧的な警備方法と開催内容を批判する内容を書いた女性が大会本部から出場を拒否される事件が発生。女性は知人を通じて開催支援者の一人と接触し、事態は拡大・表面化した。
7月この事件に異議を唱えるファンが「まんが大会を告発する会」を結成。大会本部との団体交渉を要求する。だが、大会本部側は学生運動に対する大学側の対応(要求を聞かない、反対者には残るか去るかを迫ると言う方法。もっとも、告発する会側にも学生運動家が参加していたので間違いではなかったのだが…)をとり、話し合い自体を拒否され手詰まり感が漂っていた。しかし、告発する会を主催していた漫画評論サークル「迷宮」は以前より独自の漫画イベント構想を持っており、この事件を機に自由に漫画を表現できる場の必要性を痛感。漫画大会の中でも盛況であったファンジン即売に注目し、これに特化したイベントの開催を決意する。
これが同年12月に開催された第一回コミックマーケットであった。
その後
第一回コミックマーケット自体は32サークル、参加者700名と現在から見れば少数ではあったが、実際のところ動員人数だけでは日本漫画大会を上回っていた(ただし、日本漫画大会の参加人数は名簿記載者のため単純比較は出来ないが)。以降も順調に拡大を続け、80年代になると一万人と言う同人誌即売会はもちろん、漫画イベントとしても類をみないほどの規模を誇るようになる。
一方、この人気に反比例するかのように日本漫画大会は参加者・規模共に縮小。コミケが一万人規模になる前後に姿を消した。コミケが開催された75年以降は資料も少なく、第十回まで続いたこと以外に分かることは少ない。
影響と評価
多くのオタク系の書物やコミケの歴史を書いた本で取り上げられる大会であり、同人のファーストファンダム(SFにおける1939年以前と同様)を象徴する大会とされる。ただ、その後にファンダムの主流となったコミケや同人誌即売会はこの大会と出場拒否事件の反省から生まれたため、肯定的な評価は少なく場合によっては過小評価される傾向もある。コミケの歴史を書いた30年史でも、この大会がなければコミケがなかったと言う見解には否定的な編集がなされている。
当時の現実的なモノの見方として、日本漫画大会自体が極めてあいまいな組織であり、主催者・支援者・参加者は全員が顔見知りで、上下関係もしくは一方的な関係をいいことに主催者側が好き勝手をしたと言うのは誤りであると言う指摘がある。実際、告発する会にもかつての支援者が集まっており、迷宮もアクティブな参加者であった。どちらかと言えば内紛に近く、コミケが反対者を吸収して大きくなったと言えないこともない。
学生運動を弾圧する方法を真似た漫画大会にとって最大の誤算は、学生運動と違い反対者側が独自の大会(組織)を開くと言う手段を有していたことであり、逆に言えばこれが上下関係などによらない組織の限界であったとも取れる。
とは言え、この反省から「参加者間の平等」「表現の自由」をコミケが重視し、のちのコミケ分裂騒動を適格に乗り切る遠因となったのは間違いないと言える。
関連人物
- 米澤嘉博
CPSと言う漫画評論サークルに参加していた。合宿にも参加しており、ここで培われた人脈がのちにコミケにつながることになる。CPSは75年に迷宮に発展解消され、出場拒否事件を迎えることになる。 - 永井豪
ファンクラブが参加。本人もゲストとして幾度となく参加していた。
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
- コミックマーケット
- 同人誌即売会
- コミケ分裂騒動
同じくイベントにおいて警備方法が問題となった例。 - 徹夜組
日本漫画大会の合宿組に起源があると言われる。米澤嘉博氏も合宿組であったため、強行姿勢が取れなかったと言われる。 - コスプレ
第一回大会において月光仮面の仮装をして参加した者がおり、これがファンによるイベントにおける初のコスプレと言われる。 - 1970年代
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