曖昧さ回避
- 日本活字工業…1894年創業のタイプファウンドリー。当該記事を参照。
- 日活株式会社…1912年創業の映画会社。当記事で解説。
日活株式会社 (NIKKATSU CORPORATION) とは、日本の映画会社である。
概要
1912年に横田商会、吉沢商店、福宝堂、エム・パテー商会の4社が合併して誕生した映画会社。日活という社名はかつての社名「日本活動冩眞株式會社」の略称からきている。誕生当初は「日本活動フィルム株式會社」で「活フイ」と略されていたのだが、「これから発展しようという会社が“フイ”になってはいかん」ということでわざわざ社名を変えている。
太平洋戦争中に製作部門が大映に統合されて一度撤退したものの、1954年に映画製作を再開。
石原裕次郎、小林旭、宍戸錠、岡田真澄など新人俳優を積極的に起用した若者向けのアクション映画で人気を博し、東映・東宝・松竹・大映と並ぶ日本の映画配給メジャーの一角に食い込んでいた。
しかし、テレビが台頭し今まで人気を博していたアクション映画路線がマンネリ化して人気が低迷。ワンマン経営による人材流出まで起きてしまい経営が傾いた。
1971年6月2日にワンマン社長の堀久作が引退し、実子の堀雅彦が新社長にする。7月に映画製作を一時中断した後、少数精鋭の大作主義を推し進めると標榜したが、経営再建を目指す現場サイドの声としては低予算の成人映画に特化するしかないとの声の方が強く、11月より「日活ロマンポルノ」を開始するに至った。
世界的に見ても日活ほどのメジャー会社が成人映画を主力にすることは異例ではあったが、あくまで主力が成人映画になったのであって、一般映画から撤退したわけではない。それどころか、日活児童映画という子供向け実写映画も主に1970年代から1980年代にかけて制作していた。
なお、成人映画に注力したメジャーの映画会社は日活が初ではない。1960年代後半から東映が推し進めていたものに、日活が後乗りした恰好なのである。鈴木則文監督と天尾完次プロデューサーが見出した池玲子のデビュー作である『温泉みみず芸者』で日本に「ポルノブーム」が巻き起こったのだが、日活ロマンポルノはこれを無断拝借したものなのである。
裸さえ出せば少ない制約で自由に制作ができることを約束し、中小企業の製作が多いポルノ映画に比べると自社のスタジオに潤沢な予算で製作が行えたという利点があったため、多くの才能が集まった。ここから多くの俳優・監督・脚本家を輩出し、現在でも第一線で活躍している者も多い。
ロマンポルノで一度は立ち直ったかに見えた日活だったが、1980年代に入り強力なライバルであるアダルトビデオの登場で再び苦境に立たされる。低予算かつ量産が可能、そして一人で見ることが容易なアダルトビデオの前にポルノ映画業界が全世界的に立ちゆかなくなっていった流れの前に日活ロマンポルノも敵わず、1988年に製作から撤退してしまう。
再び一般映画製作に立ち返った日活だったが、邦画の斜陽時代を生き抜いた東映・東宝・松竹ですら苦戦する時代に日活が耐えられることはできなかった。
1992年に日活創立80周年記念作品として制作費50億円を投じ大々的に製作された「落陽」が興行的に大失敗に終わり経営が悪化。翌年の1993年に会社更生法を申請し倒産。
日活の経営再建にナムコ(現:バンダイナムコエンターテイメント)が手を挙げ、同社の傘下で経営を再建。経営規模を大幅に縮小し、実質的に大手から中堅クラスの映画会社になった。
その後、親会社がインデックス(2005年~2009年)、日本テレビ(2009年~現在)に移動。
また、2008年には主にミニシアターを経営している東京テアトルと業務提携し、日活の直営映画館チェーン「シネ・リーブル」の業務を委託している。
自社所有のスタジオが東京都調布市にある。他社にも貸し出されており、映画やテレビドラマの撮影所として数多く使用されている。
沿革
1912年 | 映画会社4社を統合し、日本活動写真株式会社を創立。 |
1942年 | 戦時企業統合により、大日本映画製作株式会社に合併。 |
1945年 | 大日本映画製作株式会社の興行権を継承して、日活株式会社へ商号を変更。 |
1978年 | 株式会社にっかつへ商号を変更。 |
1993年 | 会社更生手続開始の申し立て。実質的に倒産。 |
1996年 | 更生計画認可、日活株式会社へ商号を変更。 |
削除状況
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関連項目
外部リンク
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