日章丸事件単語

ニッショウマルジケン

日章丸事件とは、1953年に発生した際的事件である。関与したイラン日本イギリス

概要

時に1950年代初頭。中東イラン独立ながらも、その実態はイギリスの半植民地状態だった。イギリス資本が介入し、苛な搾取を受けていたのだ。イランは産油だったが、内の油田は全てイギリスに押さえられており、勝手な売買は禁じられていた。おかげでの前に金の成る木がありながら手出しが出来ず、イラン政府民ともに十分な利益を得られず塗炭の苦しみに喘いでいた。政府民を養うため、1951年に油田の営化を宣言。イギリスの手から油田を奪取した。

この対応にイギリス激怒。自慢の軍を出動させ、ペルシャ湾を上封鎖。イランの石油を買いに来る船を片端から撃沈すると宣言したのである。実行使でイラン社会から締め出し、孤立させようとしたのだ。イギリス読み通り各イランから手を引き、日に日に孤立していった。この出来事は油田がある地名から取って「アーバーダーン危機」と呼ばれ、戦争の兆として全世界が注した。

そんな中、日本出光興産社長出光佐三は強権をかざすイギリスに疑念を抱き、イランに同情。イギリス海軍の封鎖を掻い潜って石油を買い付けようと決意し、専務イラン派遣。交渉に入った。イラン側は驚愕しながらも、交渉は成功。そしてイランに向かう船は、1952年12月22日工したばかりの日章丸であった。元々はチャーターしたタンカーを使用する予定だったが、寸前でキャンセルされたため日章丸の使用に踏み切ったという。

1953年3月23日、行き先を偽装した上で神戸港を出港。線封鎖をしながらイギリス海軍の厳重な監視網を突破し、4月10日イランアバダン港に到着。イラン民から熱な歓迎を受けた。これには全世界も大騒ぎし、出光の本社には記者団が詰め掛けた。5日間ほどで石油を詰め込み、出港。機イギリス艦艇を突破して、5月9日に帰した。この痛快劇は敗戦で落ち込んでいた日本国民の心を奮起させたと言われている。

丸潰れになったイギリス日本に矛先を向ける。油田を押さえていたイギリスアングロ・イラニアン社は石油の所有権をして、東京地裁に差し押さえをめた。出光の行動は隠密だったため、日本外務省イギリスからの抗議を受けて初めて事態を知ったという。またイギリスは駐英大使を呼び出し、厳重注意をしている。日英が大いに揉めている中、日章丸は再びイランへ石油の買い付けに向かった。6月7日アバダン港に到着。イラン側は石油を大幅減額して日章丸を労った。
イギリスの追及はであったが、ここで思わぬ助け舟が現れた。アメリカが介入してきたのである。イギリスの石油独占を快く思っていなかったアメリカ日本政府の肩を持ち、事実上黙認した。また日章丸を称える世論のに後押しされ、裁判はイギリスの全面敗北に終わった。イラニアン社は控訴したが、最終的に取り下げたため、出光側の勝利が決まった。

この一件により、イランの対日感情は良好なものになり、現在に至るまで友好関係が結ばれている。

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2019/08/21(水)00時更新