概要
日本三大悪女に数えられる一人。しかし、軍記物語である『応仁記』の記述をソースにして論じるのはどうなんだという論争が、平成の世に結局収束せずに持ち越されてしまったため、今でもよくわからないことになっている日本史上の重要人物である(しかも、女性史の研究者が結構古い政治史の認識で一般書を書くのでますますよくわからないことになっている)。
藤原真夏の子孫である日野家に生まれる。日野家のうち北朝についた日野資名らの流れは足利将軍家と縁戚となり、彼女の大おばである日野重子も足利義教の妻で足利義政の母親である。16歳になった日野富子は足利義政に嫁ぐ。
彼女が嫁いだ時、室町幕府内では有馬元家、烏丸資任、今参局の三魔が権勢を誇っていた。このうち足利義政の乳母で愛妾でもあった今参局は大きな影響力を持ってきた。しかし、彼女ら妾の子供はすべて娘であり、今参局を排除した後も、日野富子にも男子が生まれないままであった。
ここで中継ぎとなったのが、足利義視であるのだが、以後の有名な諸々のやり取りは後世編まれた軍記物語の『応仁記』にのみ描かれるものであるため、実際問題本当かどうかはわからない。かといって『応仁記』に依拠しない政治史の再建の試みもすでに90年代前半のものであるため、その後の基礎研究の積み重ねとは齟齬をきたしており、真面目にまだ事実関係の時系列の再現すらできていないので、この後の結果を知っている前提で省かせてほしい。
かくして、寛正6年(1465年)に日野富子は足利義尚を産む。以後、有力大名同士の抗争や、各家の後継者争い、京都周辺の不安定な情勢が連鎖反応的になだれ込む、応仁元年(1477年)に応仁の乱が勃発する。
だが、事情はどうあれ、『応仁記』以降、これらの原因が日野富子一人に収斂されてしまった。しかし、日野富子は足利義政の側近を務めていた兄・日野勝光が亡くなって以降これに代わり、室町幕府を支えていった。しかし、この乱で夫・足利義政との関係は微妙なものとなり、また、実子である足利義尚も父母との関係が冷え込んでしまったため、家庭崩壊してしまう。
経済再建に取り組み高利貸しににいそしんだ日野富子は、幕府と朝廷の財政再建に取り組む。ところが、ここで息子・足利義尚、夫・足利義政と死別。以後、出家して妙善院と名乗った日野富子は、かつて抗争を繰り広げた足利義視とその息子・足利義材を迎え入れる。ところが両者との関係は冷え込み、細川政元、伊勢貞宗と連携して明応の政変を引き起こし、彼女の参加が奉公衆の大半や諸大名の自陣営参加を決定づけたのであった(なお、細川政元大勝利という筋書きは、まだ基礎研究もなかった昭和の認識である)。
しかし、それからすぐの明応6年(1496年)に亡くなった。
以後、細川高国や大内義興らの足利義稙の政権で結束のため彼女を悪人に仕立て上げる筋書きが作られたのが『応仁記』である、ということも言われてきたが、この論争がまだ決着していないため特に触れずにおく。
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この時代の政治史の再建を行ってきた家永遵嗣は自身の論文を全く書籍化していないので、桜井英治との論争も含めて全くアクセスしにくいため、便宜的にこれを紹介した一般書をあげる。
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