旭天鵬勝(きょくてんほう まさる)とは、モンゴル出身の元大相撲力士である。最高位は西関脇。現在は年寄・友綱。
本名太田勝(おおた まさる)。帰化前の本名はニャムジャウィーン・ツェウェグニャム。
概要
1974年9月13日モンゴル国ウランバートル市ナラフ区ナライハ出身。場内アナウンスでは「モンゴルナライハ出身」と紹介される。
1992年3月場所で旭鷲山、旭天山らと共に初土俵を踏んだ初のモンゴル出身力士の一人であり、その中で最も長く現役を続けている力士である。入門直後に相撲界に馴染めずに脱走したことがあるが、モンゴルまで追いかけてきた大島親方(元大関・旭國)の「今に相撲はモンゴルの時代になる」という説得で日本に戻った。
1998年1月場所で新入幕を果たし、2002年1月場所に小結に昇進、2003年7月場所には自己最高位の西関脇に昇進した。2005年に旭天山と共に日本国籍を取得し、モンゴル出身力士として初めて日本に帰化した。この時大島親方に敬意を払って本名を同じ「太田」としたが、養子に入ったと誤解が広まってしまった。
幕内定着後は連続出場を続けていたが、2007年に協会の内規で禁止されている車の運転をして男性に軽傷を負わせ、出場停止処分を受けて記録が途切れてしまった。
当初は2012年4月に大島親方が定年を迎える際に引退し大島部屋を受け継ぐ予定だったが、本人の現役続行の意志が尊重され友綱部屋に移籍し、大島部屋は一旦閉鎖された。直後の2012年5月場所では2勝3敗からの10連勝で12勝3敗の成績を挙げ、栃煌山との現行制度初の平幕優勝決定戦を制し37歳8ヶ月にして初の幕内最高優勝を果たす。優勝制度が制定された1909年6月場所以降、史上最年長での優勝となった。帰化人ではあるが2006年1月場所の栃東以来の日本人力士の優勝ということになる。
2014年9月には1954年以来60年ぶりの「40代幕内力士」となった。その9月場所で13日目に勝ち越しを決め、1941年以来73年ぶりとなる40代での幕内勝ち越しを決めた。両記録とも年6場所制となった1958年以降では史上初の記録である。また同年11月場所には10勝を挙げ敢闘賞を受賞。これも40代力士としては史上初である。
正統派の四つ相撲の力士であり、右四つでも左四つでも十分の形になれば大関横綱にも負けない力を持ち、全盛期の朝青龍を吊り出しで圧倒したこともある。長身で懐が深いのが持ち味だが、弱点として腰の高さや脇の甘さをよく指摘される。四つ相撲の力士としては珍しく、好不調の波が激しく勝ちっぱなし負けっぱなしが多い。ちなみに優勝した次の場所は2勝13敗を喫して前場所優勝力士の皆勤ワースト記録に並び、直後に2場所連続10勝している。
巨体で大食漢だが豊富な稽古量と体調管理により怪我が少なく病気とも無縁であり、大ベテランになっても若々しい張りのある肉体を解説者に誉められることが多い。2014年9月には40歳を迎えてさすがに衰えが目立ちつつあるが、幼い我が子が現役の自分を覚えてくれるまで現役を続ける事を目標に土俵に立ち続けた。現役晩年は尿管結石に悩まされたが、40代で3回の勝ち越しを記録。史上最多出場記録(序ノ口からの通算・幕内通算とも)、史上最多黒星などの数多くの記録を打ち立て、ファンから惜しまれつつ2015年7月場所を最後に、40歳10ヶ月で土俵を去った。
引退後は年寄・4代大島を襲名して、友綱部屋で後進の指導に当たっている。後に友綱親方(元関脇・魁輝)が定年を迎える際に名跡を交換して友綱を襲名し、部屋持ち親方となった。
幕内在位99場所、通算927勝944敗22休、幕内697勝773敗15休。幕内最高優勝1回、敢闘賞7回、金星2個。
超会議場所トーナメント戦の成績
ニコニコ超会議で行われた大相撲春巡業のワンデイトーナメント大会の結果をここに記す。
大相撲超会議場所
ニコニコ超会議3で開催された。当時の番付は西前頭8枚目(2014年3月場所)。
回 | 勝敗 | 決まり手 | 対戦相手 |
---|---|---|---|
1回戦 | シード | ||
2回戦 | ● | 寄り切り | 西小結 松鳳山 |
3回戦 | |||
準々決勝 | |||
準決勝 | |||
決勝 |
大相撲超会議場所2015
ニコニコ超会議2015で開催された。当時の番付は西前頭11枚目(2015年3月場所)。
回 | 勝敗 | 決まり手 | 対戦相手 |
---|---|---|---|
1回戦 | ● | 打棄り | 東前頭3枚目 高安 |
2回戦 | |||
準々決勝 | |||
準決勝 | |||
決勝 |
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