昌平君(しょうへいくん ? ~ 紀元前223年)とは、中国の戦国時代において、楚の公子(王族)でありながら、秦に仕え、嬴政(エイセイ、後の始皇帝)の家臣として活躍した人物である。
秦が楚を滅ぼそうとした時に、楚に寝返り、楚王となったが、敗死した。
名は不明であるが、姓を羋(ビ)、氏(うじ)は熊(ユウ)と言った。
概要
秦に仕えることになった経緯に関する二つの説
楚の公子(王族)であり、楚の考烈王(名は完)の子の一人であった。「昌平君」とは、あくまで秦に封じられた号名であり、姓を羋、氏は熊といった(戦国時代までは、「姓」と「氏」は別に扱われる)。
名は伝わらないが、啓(ケイ)とする説がある。
兄弟には、楚の王となった負芻(フスウ)、楚の幽王と哀王がおり、三人とも楚王となっている。
なぜ、楚の公子であり、王の子である彼が秦に仕えていたか不明。
一説には、昌平君は、秦王となる嬴政(エイセイ)の祖父にあたる孝文王の后(きさき)であり、楚の王女であった華陽(カヨウ)夫人に養育されたとされる。
これが事実だとすれば、昌平君は、楚の考烈王が「楚の太子」として、秦に人質になっていた時に生まれた子供であり、紀元前263年に、考烈王が春申君(しゅんしんくん)の手引きで楚の逃亡した時に、取り残されたものであると考えられる。
また、別の説では、秦王であった嬴政が、第一夫人を楚国から迎えた時に、付き添いとして、親族である「昌文君」とともに、楚から秦に来訪していたと推測されている。
この説によると、この楚から迎え入れた夫人が嬴政の長子である「扶蘇(フソ)」を生むことになり、昌平君と昌文君は嬴政の「外戚(妻の親族)」となったのではないかと考えられている。
どちらも研究者から出された説であるが、2021年現在のwikipediaでは、前者の説により記事を作成されている。
秦での活躍
紀元前238年、秦王・嬴政の母である趙姫(チョウキ)の愛人であった嫪毐(ロウアイ)が、趙姫との間に密通を繰り返し、子が二人生まれていることが嬴政に発覚するのを恐れて、秦への反乱を決める。
嫪毐は、嬴政と趙姫の玉璽(ぎょくじ)を偽造して、二人の命令といつわり、各県の兵士、近衛兵、近衛騎兵を徴発し、戎翟(じゅうてき、異民族)の君公、嫪毐の舎人(側近)とともに決起する。
この時の嬴政はかつて秦の都があった「雍(ヨウ)」の地において、成人となるための「加冠」の儀式を行うことにしていた。
嫪毐は、嬴政のいる蘄年宮(きねんきゅう)を攻めようとしていた。
嬴政に命じられて、昌平君は、昌文君とともに兵を率いて嫪毐の反乱を鎮圧する。秦の都である咸陽(カンヨウ)において戦闘となり、数百人を討ち取った。嫪毐は敗走した。
この戦いで、功績は立てたものは爵位を与えられた。嬴政の宦者(側近。この時代は去勢した男性である宦官だけを指すものではない)の中でも功績を立てたものは、特に爵位をあげられた。
逃亡した嫪毐には、生かして捕らえたものには銭100万、殺したものには銭50万という莫大な賞金がかけられる。やがて、嫪毐とその一党は全て捕らえられた。
嫪毐の一党であった内史(ないし。官職名と思われる)の肆(シ)、佐弋(さよく、官職名?)竭(ケツ)、中大夫令(ちゅうたいふれい)の斉(セイ)ら20名は全て処刑となった。
※創作作品である『キングダム(漫画)』では、肆や竭は、肆氏・竭氏として、嬴政の弟である成蟜(セイキョウ)の部下となっているが、史実では嫪毐の部下である。
このため、嬴政は嫪毐を車裂きの刑にした上で、その一族を滅ぼす。嫪毐の舎人も罪が軽いものは労役刑となり、その爵位を奪った。四千人以上いた舎人の家族は財産没収の上、へき地である蜀の地へ流され、房陵(ボウリョウ)に地に住むこととなった。
嬴政は、秦の実権を握っていた呂不韋(リョフイ)も、嫪毐を推薦した罪により、失脚させる。
呂不韋の後釜(あとがま)として、昌平君は秦の宰相である「相邦(しょうほう)」に、任じられることとなったようである。
昌平君は、秦が天下統一のために六国を侵略し続けた後も秦に仕え続けた。
秦は、紀元前230年に韓を滅ぼし、紀元前228年に趙を滅ぼした。韓王と趙王は捕らえられたが、処刑はされなかった。
(近年、発掘された睡虎(スイコ)地秦簡『編年記(へんねんき)』によると、)紀元前226年に、かつての韓の都である新鄭(シンテイ)の地で反乱が起きた。この年に、元の韓王は死に(嬴政によって処刑されたか)、元の韓王がいた土地に昌平君が移動することとなった。
昌平君は、楚の都があり、かつて、秦の将軍・白起(ハクキ)の勝利によって秦の領地となった郢(テイ、後の江陵の地)にまで移った(元の韓王が幽閉されていた土地が郢?)。
※なお、ここにおける郢とは実際には、かつて楚の都があり、いまだ楚の領土であった「陳(チン)」の地であったという説もある。史料が残片的で、諸説あるため、統合して語るのは難しい。また、紀元前227年には、郢のあった「南郡郡守」は「内史騰(ナイシトウ)」という人物であり、昌平君はその後任となった可能性もある。
昌平君は、この時期には失脚していた可能性もある。
また、この時の『編年記』の記述
を、「昌平君は住んでいるところで何者かに殺害された」とする解釈も存在し(この場合、最後の「有死□属」の死は韓王でなく、昌平君と解釈する)、これが正しい場合、昌平君はこの年に死去している。
最後の楚王
紀元前224年、秦は、昌平君の兄弟である「負芻」を王とする楚を攻めることとなった。同年、同族(であるという説もある)の昌文君が死去する(偶然、病死しただけか。それとも、楚攻めに関連したことで処刑されたか不明)。
昌平君も郢(陳?)において、故国・楚の滅亡の危機に、なんらかの動きに巻き込まれたか、自分の意思であるか不明であるが、秦に反したようである。
昌平君が反したためか、秦軍を率いた李信は郢(陳?)を攻めた後、城父(ジョウホ)の地で楚の将軍である項燕(コウエン)に敗北している。
同年、昌平君は、項燕によって楚王に擁立される。
紀元前223年、淮南(ワイナン)において、秦軍を率いた王翦(オウセン)・蒙武(モウブ)と戦い、戦死する。
※『史記』「秦始皇本紀」による。史記の別箇所では、楚王は「負芻」のままであったと記されている。
この年は、『編年記』によると、
とあり、この時は昌平君が死去したとされる紀元前223年にあたるため、この「王」は昌平君のことを指している可能性がある。これが正しいとすると、昌平君が楚王として擁立された可能性はかなり高まる。
ただし、紀元前226年に昌平君は死んだものとし、昌平君が楚王に擁立されたのは、ただの楚の伝説であると主張する研究者もいる。
楚の文化について
楚の国の文化については、秦や漢より以前の中国の「周文化」の影響を受けながらも、独自の文化を形成していたことで知られる。
考古学的な発見として、当時の陶器・青銅器・漆器などの器に「周文化」とは違った特殊な形が見られ、または織ものや刺繍にも「周文化」と変わった紋様が存在し、細長い文字が好まれるなど、独自の文化がきづかれていたことが分かる。
また、老子や荘子などの「老荘思想」も楚が発祥であり、文学としては、文化人であった屈原(クツゲン)らの賦(ふ)を集めたとされる『楚辞(そじ)』が存在し、思想や文学でも独自性が強かった。
「周文化」は、「量的、科学的、理知的、秩序的」が特徴であるが、これに対して「楚文化」は、「奔放、飛躍、飄々、流動」という形容がふさわしいものとなっている。
秦の次の時代の漢代においても、漢王朝を建国した劉邦が楚人であった関係で、楚の文化は廃れることなく重んじられた。
- 言語では楚語(文字)や楚声(呼び方や発音)が、漢では大きな勢力を有していた
- それ以前の中国では「右」をたっとんだが、楚では「左」をたっとび、そのため、漢代からは「左」をたっとぶようになった。
- 漢代では楚で使われていた「冠」が流行した。また、「楚の歌」や「楚の賦」、「楚の舞」、も流行った。
- 漆画などでも、楚文化の影響が強い。
ことがあげられる。
制度方面では漢代は圧倒的に秦の影響が強かったが、文化方面においては、楚が強い影響を与えていた。
屈原の命日とされる5月5日に行われるボートレース(龍船競渡)の風俗は現在にまで伝わっている。
創作における昌平君
原泰久『キングダム(漫画)』
2021年11月において、週刊ヤングジャンプにおいて連載中の作品。
昌平君は史実の通り、楚の公子であるが、秦に長い間仕えている。
ただし、準主役にあたる秦王の嬴政(後の始皇帝)に純粋に仕えているわけではなく、友人の蒙武とともに、呂不韋の派閥に入り、「呂氏四柱」の一人となっている(残りの三人は、蒙武・李斯(リシ)・蔡沢(サイタク))。
嬴政とは敵対しながらも、同時の秦の大臣であり、軍の司令官でもあるという難しい立場の人物であり、彼の動向が、嬴政と呂不韋の対立の決着に大きな影響を与える。
関連項目
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