明治(めいじ)とは、西暦にして1868年から1912年まで使用されていた日本の年号である。明治45年まで存在する。
前は慶応、次は大正となる。日本の歴史の一大転換点となった時代。
ニコニコ動画ではサノスケが『フタエノキワミ、アッー!』と叫んでいたことが有名である。
曖昧さ回避
- 明治天皇 - 日本国第122代天皇
- 明治(企業) - 日本のお菓子メーカー
- 明治乳業 - 日本の飲料メーカー
- 明治安田生命 - 日本の保険会社
- 明治大学 - 日本の私立大学
- 明治(生放送主) - ユーザー生放送の配信者
概要
大まかな流れに沿って明治時代を振り返る。
江戸陥落から明治改元へ、幕府残党との戦い
1868年の旧暦8月に明治天皇が即位。旧暦9月に慶応から明治へ改元。以降、一世一元が定められる。
元号が変わっても戊辰戦争は継続中。慶応4年=明治元年に元将軍徳川慶喜と江戸城はすでに降伏していたが東北や北海道での戦いは翌明治2年まで継続した。
東北では会津藩の白虎隊の悲劇が有名。一方、北海道では新撰組副長土方歳三が戦死した。
廃藩置県、地租改正、四民平等、富国強兵
江戸時代までの封建国家から世界に通用するための近代国家に変わるための制度改革が多数行なわれた。
その中でも代表的なのが廃藩置県による中央集権化と、地租改正による税金の現金による納付である。これにより江戸時代までの支配体系と税制が根本から覆ることになった。
また、四民平等がスローガンとなったが、士農工商という身分制度は存在していなかったことが明らかになっている。
それどころか華族、士族、平民と分けられた。また、徴兵制も始まり働き手をとられるのを嫌った人々によりそれに反対する一揆も発生した。
しかし、それでも政府は富国強兵策を推し進め、鉄道の敷設や産業の殖産を行なった。この時期の世界は弱ければ征服されるしかないのである。国の早急な強化は絶対必要だった。しかたないね。
征韓論と西郷隆盛の下野
富国強兵を進める一方で、政府内で西郷隆盛などにより朝鮮を征伐しようという意見が強くなっていた。
原因は幕府から政権を交替した新政府が新しい関係を結ぼうとした際に李氏朝鮮がそれに応じなかったことなどが上げられる(天皇陛下からの勅書に対して、『「皇」「勅」の字は中国専用の用語だ!』などといったとかいわないとか)。
また、徴兵制によりそれまでの役割を奪われた士族を参加させ不満を解消させようという狙いがあったといわれている。
しかし、日本国内がまだ完全に定まっていないのに朝鮮に兵を出すべきではないと考えるものたちも多く、まずは日本の国力を高めるのが先だと判断した大久保利通などによりこの意見は却下され、征韓論を唱えていた人たちの多くが下野した。その中には戊辰戦争の新政府側指揮官であった西郷隆盛も含まれていた。明治6年の事である。
台湾・朝鮮・中国との関係
西郷たちが抜けた政府は下野した人間の意見を一部受け入れ、まずは琉球の漂流民が殺された件を取り上げて台湾に出兵し、現地民と衝突。これを制圧した。ちなみにこの矛盾した行動のせいで木戸孝允が下野した。
しかし、この行動は台湾を領有する清国への侵略行為である。他人の土地に勝手に入ってはいけません。また、アジアに権益を広げていた欧米の反発もあった。そのため、大久保利通が北京に赴き清国政府と直接交渉、この問題を収束させた。
続けて朝鮮では江華島事件が発生。日本の軍艦と朝鮮の砲台との間で衝突が起こった。この事件に関しては日本側から海岸線の測量などの挑発をしたといわれている。この衝突は日本側が勝利し朝鮮の砲台を占領した。その結果として朝鮮は砲艦外交に屈し、日本との間に不平等条約の日朝修好条規を結ばされた。
士族の反乱と西南戦争
台湾に出兵したといえど、その規模はせいぜい数千程度であり、日本全国で数十万を数えていた士族の不満はいよいよ高まっていた。不満を持った士族たちは征韓論を主張して破れ、下野した元政府指導者達を頭に据えるなどして大規模な反乱を起こした。
明治政府は連鎖的に起こるこれらの士族の反乱を一つひとつ鎮圧していったが、最後に鹿児島にて西郷隆盛を担いで最大の士族の反乱である西南戦争が勃発した(明治10年)。
当時の鹿児島は西郷が開校していた私学校を中心として政府の力が届かない独立勢力のようになっており、幕末の戦いで活躍した薩摩隼人のサムライ達が今度は新政府に刃を向けることになった。
この戦争では熊本城包囲、田原坂の戦いなどが特に有名である。とくに田原坂は激戦であり、西郷軍の優秀な兵の前に政府軍は大いに苦戦した。戦場付近では現代になっても当時の弾丸などが発見される。この戦いでは政府軍は西郷軍の抜刀隊に苦しめられたが、それに対抗するために会津出身の警官隊による抜刀隊などが組織され大きな戦果を上げた。このときの抜刀隊の参加者は戊辰戦争の遺恨があったとも言われている。元新撰組の斉藤一もこの抜刀隊に参加している。
政府軍は西郷軍の後方に船で戦力を送り込むなどして最終的に西郷軍を打ち破ることに成功。これを以って士族の反乱は終わりを告げ、以降は言論によって政府を変えていこうという流れが強まっていくことになる。
フタエノキワミとヒテンミツルギスタイル
西南戦争が終わった頃、東京では一人の剣客崩れが街道場の門をくぐっていた。教科書などでは触れられることはないが、この剣客を中心に据えた日本を揺るがすような騒動がこの時期に連続して起こっていたとされる。この騒動の只中の明治11年、明治政府の中心人物であった大久保利通も騒動に巻き込まれ、暗殺された。親友西郷を西南戦争で死なせてから一年たっていない、早すぎる死であった。
また、ノーパンスタイリストであったサノスケにより川原の石が全てゴブリン☆バットの練習で破壊され、一隻の鉄甲艦が沈められたといわれている。
これらの結果、大久保利通を失った明治政府の舵取りは伊藤博文、山縣有朋などが中心となっていくことになった。
自由民権運動の芽生え
西郷らとともに明治政府から下野していた板垣退助や土地の払い下げ問題に関連して政府から出て行くことになった大隈重信などは明治政府に対して議会の開設などを強く求めていた。
これに対して伊藤博文は『議会開設できるってレベルじゃねーぞ!』と答え、開設を先延ばし。ただし、明治23年までに議会を開くことを約束して、来るべき議会政治に向けてその土台となるべき憲法の制定に取り掛かった。
一方、板垣や大隈などもそれぞれ独自の政党を作り、来るべき議会開設の時期を待つことになった。
大日本帝国憲法発布
伊藤博文たちはヨーロッパに渡り、先進諸国の憲法を研究した。その中でも後発の国家でありながら国家の統一と国力の増大に成功していたプロイセンの憲法がもっとも日本の状況に近いと判断され、プロイセンの憲法を参考にしながら日本の憲法を作る作業が続けられた。
そのような経緯を経た後、明治22年に『大日本帝国憲法』が天皇から臣民に与える形で発布された。
昨日、日本の憲法発布されたんです。憲法 。
そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで祝ってんです。
で、よく見たらなんか垂れ幕下がってて、祝憲法発布、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、お上から与えられた憲法 に喜んでんじゃねーよ、ボケが。
欽定憲法 だよ、欽定憲法 。
なんか勘違いしてるやつとかもいるし。国民総出でお祝いムードか。おめでてーな。
よーしパパ絹布の法被もらっちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、『学問のすすめ』やるから勉強しろ と。
憲法ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
話し合いのテーブルに座った政府といつ衝突が起こってもおかしくない、
革命起こすか弾圧されるか、そんな雰囲気で決めるもんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。
で、やっと発布されたかと思ったら、隣の奴が、アジア初、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、アジアなんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、アジア初、だ。
お前は本当にアジアを知っているのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、アジアって言いたいだけちゃうんかと。
西洋通の俺から言わせてもらえば今、西洋通の間での最新流行はやっぱり、
脱亜論、これだね。
中国朝鮮が隣にあるのは日本の不幸。これが通の考え方。
朝鮮ってのは旧弊が多めに入ってる。そん代わり革新の志士 が少なめ。これ。
で、金玉均を俺が援助する。これ最強。
しかし金玉均を援助すると そいつが李朝に暗殺されるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らド素人は、しっかり勉強しておけってこった。
と警鐘を鳴らした。要するに、フランス革命などに代表されるように国民が戦って憲法を勝ち取ったのではなく、上から与えられた憲法を何も考えずに受け入れているようでは自立した国民といえないのではないかと心配しているのである。ちなみに『学問のすすめ』が完成したのが明治13年、『脱亜論』が書かれたのは明治18年である。
日清戦争
明治27年に日本と清国との間で朝鮮の扱いを巡って戦争が勃発した。日清戦争の始まりである。
戦争開始のきっかけは朝鮮政府からの『中国へ、農民が反乱を起こして困ってる。軍隊を出してでも助けて欲しい。』という要請である。当時の日本中国朝鮮の間では朝鮮に日本中国のいずれかが軍隊を進めるときはもう一方も軍隊を出すという取り決めがしてあったため、朝鮮の要請を受けて出兵した中国に対して日本も軍隊を出さざるを得なかった。両軍にらみ合いの中で朝鮮の扱いを巡って両国は対立。戦端が開かれることになった。
陸海におけるどの戦闘でもおおむね日本軍有利に展開し、海軍は清国艦隊を黄海海戦にて破り制海権を確保。陸軍は朝鮮半島から清国軍を追い出し、そのまま清国に侵攻。ここでも清国軍を打ち破り、清の重要拠点である威海衛や旅順要塞を占領する。
この戦果を以って日本と清国は下関条約を結び、講和。日本は台湾・遼東半島などを清国から割譲し、膨大な賠償金を手に入れ、朝鮮の独立を確認させた。
しかし、その直後に三国干渉が発生し、
日本『ねんがんの遼東半島をてにいれたぞ!』
ロシア・ドイツ・フランス『rア ころしてでもうばいとる』
日本『な、なにをする きさまらー!』
という感じで、殺されはしなかったものの日本は遼東半島を清国に返還することになってしまった。しかし、返還したはずの遼東半島はロシアが租借し、まさに奪い取られた形になってしまった。これには日本国民も大いに怒り、『ロシアへの無念を晴らす!』とますますの富国強兵に励むことになった。
日英同盟
三国干渉にも見られるようにこの頃のロシアはアジアに対して南下政策をとっていた。これに危機感を覚えたのが日本と、当時のアジアで大きな権益を持っていたイギリスである。
両国は互いの利益を守るため、ロシアの南下を牽制するための措置として同盟を選択。明治35年に日英同盟が成立した。
このときの同盟の内容は
の二項目であり、日本がロシアと一対一で戦う際にはイギリスは中立を守ると同時に、他の国がロシア側に立って日本に戦争を仕掛けることを牽制する内容となった。また、その裏では戦争行為に当らないギリギリのところでイギリスはロシアへの嫌がらせを担当することになった。このいやがらせはバルチック艦隊を相手にするときに特に大いに役に立つことになる。
イギリス
ロシア ∩___∩
__ _,, -ー ,, / ⌒ ⌒ 丶| 補給できないって、どんな気持ち?
(/ "つ`..,: (●) (●) 丶 ねぇ、どんな気持ち?
:/ :::::i:. ミ (_●_ ) |
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日露戦争
南下政策を続け、朝鮮半島へもその手を伸ばしてきたロシアに対し、日本はいよいよ警戒を強めていた。朝鮮半島がロシアの勢力下に入れば、その不凍港を利用して次に狙われるのは日本だと考えたからである。シベリア鉄道の完成も日本の恐れに拍車をかけた。二国間で妥協点を探る動きも見られたが、それも失敗に終わった。
明治37年に日本政府はロシアに対して国交断絶を通告。日本海軍による旅順港に停泊しているロシア艦船への奇襲攻撃で日露戦争の幕は切って落とされ、日本はロシアに宣戦布告した。
この戦争の主な戦場は遼東半島・満州である。ロシア側は日本軍を大陸の奥地に引き込んだ上で補給を断とうとし、バルチック艦隊を第二第三太平洋艦隊として極東に送り、到着を待って一気に制海権を取ろうとした。日本はそれを防ぐためにまずは旅順のロシア艦隊を殲滅する必要があった。
黄海海戦において日本は旅順艦隊に打撃を与えるものの完全な無力化には失敗、ロシア海軍は旅順に引きこもりバルチック艦隊の到着を待つことを決断した。それをさせないために日本は旅順要塞を攻撃、近代化された要塞の攻略に多大な被害を出すことになる。また同時に満州方面でもロシア軍を打ち破らねばならず、日本はその限界まで戦力を投入しなくてはならなかった。
しかし、それでもなんとか旅順を攻略することには成功。満州方面でもとりあえずの勝利を収めることにも成功。
さらに日本海海戦において日本の連合艦隊は地球を半周して到着したバルチック艦隊を粉砕!玉砕!大喝采!レベルに打ち破る。当初の目的地であったウラジオストクに到着できたのは38隻中わずか3隻に過ぎず、バルチック艦隊は文字通り壊滅する。それに対して日本は水雷艇を3隻失っただけという世界の海戦の歴史に刻まれるずっと俺の東郷ターン!的な大勝利を収めた。
この海戦の結果、ロシアは打つ手がつき、国内での暴動が勃発したこともあり、戦争継続が不可能となりつつあった。アメリカの仲介で日本とロシアはポーツマス条約を結び、日露戦争は日本の辛勝で幕を閉じたのであった。
日露戦争による国際関係の変化
極東の新興国が列強の一国を倒しちゃったので、それまでの国際関係が大きな影響を受け、がらりと変化する。
- あれだけ険悪な仲だった日本とロシアが超仲良くなる。協約4回も結んじゃう。何このツンデレ。
- ロシアは極東進出からバルカン進出へと切り替え、ドイツと対立し始める。 → 第一次世界大戦の近因
- 日露関係が改善された代わりに、中国の利権を巡って日米が対立し始める。 → 第二次世界大戦の遠因
……おそロシア。
朝鮮併合
日露戦争の結果、ロシアの勢力は朝鮮半島から駆逐され、日露戦争終結から2ヵ月後、明治38年11月には大韓帝国は日本の保護国となった。この際、韓国は外交権などを停止された。
日本としては勢力圏を保持するため、日本の間近にある朝鮮を放って置くわけには行かなかった。朝鮮半島は「日本の生命線」と呼ばれ、日本が独立国家を維持するためには絶対に西洋列強に奪われるにはいかなかったのである。そこで保護国化し、近代化を推し進めようとした。そのためには韓国に勝手に動かれては困ったのである。
しかし、肝心の大韓帝国は相変わらずの旧来の体制を維持しようとしていたため改革は遅々として進まず、また、大韓帝国皇帝高宗が国際会議に密使を送るなど、大韓帝国側としては必死に独立を保持しようとしたが日本側にとっては勝手な行動は止まず、業を煮やした日本政府は高宗を退位させ、息子に帝位を継がせた。さらに、大韓帝国の軍隊も解散させた。
日本としてもこうなっては併合して完全に自分たちの手で近代化を進めたほうがいいと判断していたが、政府の重鎮である伊藤博文が強くそれに抵抗していた。だが、その伊藤博文が韓国人の安重根によって暗殺された。この事件で日本の韓国併合はより加速することになったとも言われる。ただし、暗殺の時点では伊藤博文は既に「併合やむなし」との意見に切り替えていたことが確認されているため、「暗殺は併合の進捗に特に大きな影響は与えなかったのでは」という異論もある。
明治43年、日本は大韓帝国を併合。日本による朝鮮半島支配は第二次世界大戦で日本が敗北するまで続けられた。
総括
幕末から続く、ペリー来航による開港から始まり中世から近代に移る重要な時期を他の国と比べて早足で駆け抜けたのが明治年間である。
内乱をさっさと終わらせ新政府を作り、近代憲法を制定し、議会を開設。二度の大国との戦いを経て海外に領土を確保するなど、一気に近代国家へと成長した。
関連動画
関連項目
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慶応(けいおう) 1865~1968 |
明治(めいじ) 1868~1912 |
大正(たいしょう) 1912~1926 |
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