春風亭梅橋とは、落語家の名跡である。1984年以降誰も名乗る人がいない空き名跡となっている。
この記事では二代目について記述する
概要
1934年10月1日生まれ。実家は東京京橋の刺繍屋で、義務教育終了後に四代目柳亭痴楽へ入門。柳亭痴太郎の前座名を与えられ、1957年に二つ目へ昇進し、柳亭小痴楽を名乗る。
小痴楽時代、師匠を怒らせて「お前の名跡を取り上げる」と告げられた事に対し「取り上げるのは小の字だけにしてくれ」(≒痴楽の名前をよこせ)と返した事も。
1965年にスタートした『金曜夜席』の大喜利メンバーに立川談志によって抜擢され、『笑点』スタート後も初代レギュラーの一人として継続出演した。
謎掛けを得意とし、そこに鋭いブラックユーモアを織り込んで人気を博した。ブラックユーモアのセンスは談志がうなるほど。
1969年4月に真打へ昇進し、二代目春風亭梅橋となるが、真打昇進の直前に笑点の番組路線を巡って司会者と回答者の間で諍いが起きて回答者全員が降板したためにこの名跡で大喜利に出ることはなく、後に梅橋以外の全員が番組に復帰したのに対し、梅橋だけは他局の演芸番組のレギュラーメンバーとなった関係から復帰できなかった。
度を越したレベルの酒好きで、師匠の痴楽が巡業先で倒れて入院した病院へ駆けつけた際
と嫌味を言い、父親の臨終にも
「俺がいたって治らねぇ」
と、臨終に立ち会わず居酒屋で飲んだくれていたなどの逸話を持つ。
酔っ払って高座に上がったり、酩酊状態でテレビ番組に出演してあろうことか痴楽に寄りかかって居眠りするハプニングを起こしたりと酒絡みのトラブルを多発させたこともあって仕事が激減。さらにアルコール依存症を患い、糖尿病やそれに伴う腎障害にも苦しむようになった。
「酒を断って治すのは当たりめえだ。好きな酒を飲みながら治すのが医者じゃねえか」
と言って医者を困らせた事も。
1984年1月25日、食道静脈瘤破裂により49歳という若さでこの世を去った。
関連項目
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