昵近衆単語

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昵近衆とは、室町時代から江戸時代にかけて将軍やその関係者の接待を行った公家のことである。

もっと一般的な用法としては「人に側仕えする人」の意味がある。

室町時代の昵近衆

もともと足利義満の時に官位が上昇したため、室町将軍には中級クラス公家衆が礼として使えるようになっていたのだが、室町幕府における他の~衆と同様、大体が足利義教足利義政期にまとまった存在として確立した。

彼らは武家伝奏という公式な役職とはまた別に将軍と深い関係を持ったであり、たとえば足利義尚による六角氏討伐や、織田信長足利義昭の名のもとに朝倉義景征伐を行おうとした際に、このに属する公家たちも従軍している。

具体的なメンバーであるが

の八が代々仕えることとなった「譜代」ともいうべき昵近衆である。当初は最初の六がその構成員だったが、足利義澄の時代に上冷泉が、足利義晴の時代に勧修寺が加わった。この八すべてが、室町第に出仕する公家衆のうち毎一日に出仕と決められた節朔衆に含まれている。

またそれ以外に将軍個人との関係で一、二代程度似た関係にあった白川、山科、葉室万里小路殿がいたが彼らは昵近衆として固定化されることはなかった(また足利義満の時代に礼だった中山も選ばれていない)。両者の格差は儀礼などで明確にされており、葉室は譜代の昵近衆になることを望んだが、許されていない。

昵近衆は上述の通り足利義昭時代まで存続していた。しかし、そもそも朝廷側ではなく、あくまでも将軍側の立場で活動する側近公家衆という立場自体、足利義稙期の葉室忠、野季綱、足利義澄期の正親町三条実望、上冷泉為広、高倉永康、飛鳥井俊、日野くらいの一時期にしか存在しないものであったである。それ以降は武内談衆が側近化していくようになり、また将軍の縁戚も日野から格が上の近衛に代わっていく。

そして、足利義輝の時期になると広高倉永相といった譜代の昵近衆はむしろ三好長慶松永久秀に接近していき、足利義晴葬儀にはまだ昵近衆の姿が見られたが、永禄の変の後に昵近衆が葬儀に来ていないことを山科言継が『言継卿記』に書き残すほどになっている。

そこで、もともと公家社会との関係が希薄だった足利義昭将軍任官に伴い、義昭の昵近衆に当たる「御直之衆」として、烏丸康、万里小路惟房、山科言継、万里小路房、烏丸宣、日野資、山科言経、飛鳥井教、飛鳥井、上冷泉為満の10人を編成した。

しかし、もともと公家社会との関係が希薄だったうえに、婚姻関係などを結ぶなどもしなかった足利義昭の元に参礼する公家はどんどん減り、恒常的な交流を維持し続ける織田信長に接近していく。昵近衆も二条御所での織田信長との戦いには参加していたものの、将軍追放の際それまでは公家衆が付き従うこともあったがそういうこともなく以降、自然消滅したものと思われる。

江戸時代の昵近衆

徳川家康には慶長4年(1599年)頃から個人的に関係を持つ公家が参例に赴き、次第に高位の公家豊臣秀頼に対するのと並行して家康のそれに加わっていくようになった。そして、江戸幕府側の高家と同様に慶長8年(1603年)の徳川家康征夷大将軍としての参内をきっかけに昵近衆がめて編成された。

なお、織田信長朝廷に参内し続けたものの簡素なものだったため、昵近衆は編成されず、豊臣秀吉も個人的な縁故のあった今出川季、勧修寺豊、久我通、中山綱を頼りにし続け、彼らを武家伝奏にはしたものの昵近衆に編成したわけではない。つまり長い間昵近衆の存在しない時間が経過していたのだが、徳川家康は以前朝廷との関係の深い豊臣秀頼に対し、足利将軍を引き継いだ征夷大将軍であることを朝廷アピールする必要があったので、昵近衆を編成したとされる。

この時点では室町時代の昵近衆に山科、白川野、万里小路を加えたメンバーで、当時の時点でそういうノウハウのあるメンバーであったが以降も変動していき、元和初年までには将軍の参内への供の慣例化、駿府や江戸徳川家康徳川秀忠への下向など他の公家と異なる独自の存在となり、正保期に十七がその地位として確立した。このメンバーはどちらかというと朝廷内の実務官僚層かつ当時天皇との関係が深かったのものとされる。慶長14年(1609年)の猪熊事件や慶長20年(1615年)の禁中並公家中諸法度の制定などで、昵近衆はきちんと機したとされる。

具体的なメンバーであるが

である(室町組のうち正親町三条のみ続投することはできなかったようだ)。諸本によっては竹内、甘露寺、今出川、下冷泉山本が代わっているものもあるが、基本的には上の十七幕末まで存続していった。
また固定化された昵近衆のとして確定はしなかったものの西洞院中院が一時期これにあったり、山院が準ずる扱いを受けていたりする時期もあった。

とは言ったものの寛永11年(1634年)の三代将徳川家光の参内を最後に将軍の上幕末までなく、彼らの役将軍の弔辞や新将軍就任の書状、奉納程度となり、江戸下向も自発的なものから儀礼化されたものとなっていった。

ただし彼らは将軍との結びつきから名や半という下位の公家であっても千石前後の高が得られるなど、その恩恵は測り知れなかったようである。

また

と分かれていたが特に待遇面で差はなかったようだ。

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