時津風(初代)とは、日本海軍の駆逐艦である。船体だけ2隻ぶんある。
ズビアンとは違う意味で二隻で一隻な浮かぶE233系青661編成。
一つ目の船体の概要
1917年から実戦配備が始まった磯風型駆逐艦の4番艦。
常備排水量1227t、全長97m弱、主砲12cm単装4基、雷装45cm連装3基というごく普通の駆逐艦であり、第一次世界大戦の勃発に伴って増備され第一駆逐隊を編成したうちの一隻であった。川崎造船所にて建造。
しかし1917年5月31日の就役から一年も経たない翌1918年3月25日、<時津風>を悲劇が襲う。
前日24日に同型艦<磯風>や防護巡洋艦<平戸>とともに呉を出港し、夜中有明海に向かうさなか、日向灘に面する戸崎鼻灯台の光を先をゆく僚艦と見間違え、折生迫海岸に座礁してしまったのである。僚艦の汽笛を聞いて集まった近隣の消防団員の尽力により駆逐艦長以下の乗員190名は救助されたが、<時津風>の艦底には大穴が空いており、その復旧は不可能事だった。
ともかく取り外せる兵装類は回収したが、岩に乗り上げた船体はどうにもならず、同30日に放棄された。
だが、それで<時津風>が除籍されたわけではなかった。
二つ目の船体の概要
この事故で磯風型駆逐艦で構成された第一駆逐隊は編成から一年弱で<時津風>を喪うことになったわけなのだが、艦が欠けた以上、その代わりになる艦が必要である。むろんそれは第一駆逐隊に補充されるわけで、代替艦は他の磯風型駆逐艦と同スペックであることが望ましい。
そこで、新たに磯風型駆逐艦の船体を建造し、それまでの兵装と併せて<時津風>を修繕することにした。修理である。兵装が壊れたら直す、備品を失くしたら補充する、船体を喪ったら再建造する。大きさこそ違えど、なんらおかしいことはない。砲塔が新しくなっても、艦体が新しくなっても、それはどこからどう見ても同じ艦なのである。
そういうわけで舞鶴で再建造された艦体は1919年3月31日に進水し、新たな船体として<時津風>の兵装に装着された。そして1920年2月17日、晴れて修理を終え、第一駆逐隊に復帰する。
その後、舞鶴で第三十三駆逐隊、呉で第十八駆逐隊と配転されつつも実戦に出ること無く務め上げ、1935年除籍。すぐには解体されず、兵学校練習船として余生を過ごした。
代替新造について
さて、ここまで読んだ諸氏は「船体作りなおしたら別の船じゃねーか!」とか「修理って言い訳で新造してるようなものじゃねーか!」と思われるかもしれないが、少し別の方向に目を向ければ、修理しただけって顔して新造してるどう見ても新しく作っているようで修理しただけという例が案外あるのである。それが鉄道。
記事冒頭では「E233系青661編成」を挙げたが、川崎重工業で製造されたこの編成、踏切事故により6両編成のうち5両までが使用不能となり解体されたものの、同じ車両番号で車体を新造することにより修理復帰を果たしている。新津車両製作所で車体を新造したにもかかわらず「川崎重工業」の製造銘板と製造年月表記が入っているなど、扱いはあくまで「修理」にほかならない。
他にも、事故などで使用不能になった車両を廃車にせず、同等の車体を再製造することで「修理」する例は東武8000系ほか数多い。だから<時津風>が船体を再製造したとしても、それは「修理」で何の問題もないのである。予算も「修理費」で貰ってるし、ね?
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