「晏嬰」(あん・えい ? ~ BC500)とは、中国の春秋時代に斉国の霊公・荘公・景公の三代に仕え、身長140cmに満たない小さな体で、斉の歴代国王の中でも最強のボケキャラである景公のツッコミ役をこなしながら政務を司り、管仲を重用した恒公に並ぶ斉国の隆盛期を築きあげた宰相オブ宰相なちびっ子。
「晏平仲、善く人と交わる。久しうして人これを敬す」
(晏嬰の交際能力はチート。長くつきあうと、いつのまにか晏嬰への敬意が増してくんだよ。)-孔子- 「今の時代に晏子が生きていたなら、わたしは御者となってでも仕えたい」
(晏嬰さんはんぱねえっす。仕えられるんなら御者でいいっす。)-司馬遷-
氏は「晏」、諱は「嬰」、字は「仲」、諡は「平」。「晏平仲」とも呼ばれる他、質素倹約を心掛け、国の繁栄の為のみに尽力する私心の無い姿から、「晏子」の尊称で呼ばれることもある。
エピソードの多さゆえに、絶賛している司馬遷が「史記」を著述した際は、「晏子春秋」と言う晏嬰の言行録を読む事を前提にしたかの如く記述が少なく、同じ列伝に記載されている管仲に比べてマイナーなところがあるが、小さな体に天空の如き大きな志を持って遂行した中国最強の政治家として、もっと評価されるべきちびっ子である。
概要
天才的な軍事センスをもって、斉では太公望呂尚以来の悲願とされていた來を僅か4年で討伐し、來の国民の信任を得るまっすぐさで、來を斉防衛線の要衝とした晏弱の子に生まれる。莱の夷維の人。
生涯を斉に捧げて走りまわり、死後は斉では最高級の謚号「恒」を送られた父・晏弱のまっすぐさは、社稷(国家)の臣である事を第一として誰に憚ることなく諫言すると言う晏嬰の人格に大きな影響を与えた。
霊公の治世下では、霊公の趣味や晋との戦いで敗走する姿にツッコミをいれ、「蟷螂の斧」の故事に定評のある荘公の治世下では、晋の欒盈の復讐に協力しようとする荘公を諌め続けたことが逆に不興を買い、職を辞して農民となり畑を耕す生活を送った。
荘公が宰相の崔杼の妻と密通した事から、怒った崔杼に殺され、慶封と共にダメ君主ぶりに定評のある景公を擁立し、崔杼と慶封が政権を握ったものの、崔杼は慶封に殺され、慶封も攻められて滅ぶと言った政治的混乱の中で景公を守り通し、景公の「俺何もしないけどがんばってちょ」な信任から宰相となった。
宰相となって以降も
- 節倹力行をもって重んじ
- 食事に肉は二皿つかわず
- 下女には帛を着せず
- 朝廷にあっては、主君に声をかけられれば、まっすぐに言い
- 言葉をかけられなければ、自分の行いをまっすぐにしていた
- 国の政が道理にかなっていれば、ただちに君命にしたがい
- 道理にかなわなければ、君命を衡量していた
と言う自身の理念に従って行動し、軍事においては田穰苴(司馬穰苴)を抜擢し、遊興に惚けて散財しまくりのボンクラ景公の50年にも及ぶ放蕩治世下と言う、滅亡フラグ立ちっぱなしな設定の中で管仲のバブル経済型で隆盛を極めた恒公の治世下と並び称される斉の第二期黄金期を築いた。
※景公の道楽家ぶりはこちらの動画参照 |
しかし、別の滅亡フラグである暴君ぶりは見せず、逆に言えば、晏嬰と言う能臣がいたことで、自分が何もしないことで国を繁栄させた「強運」持ち(三國志11では劉禅が持っている特技)で、遊ぶ事が大好きな気前の良いおっさんだった事も第二期黄金期成立フラグの一つだったのかもしれない。
そんな晏嬰も、恒公の宰相を務めた管仲同様、主君より先に永遠の旅立ちを迎えることとなった。
家法を変えぬようにとの遺言を残して晏嬰が逝った後、海辺に遊びに行っていたはずの景公が、晏嬰の危篤を聞いて最初は馬車を飛ばしていたが、馬車の速度が遅く、御者にかわって自分自身で手綱をひいたが、それでも馬車の速度があがらなかったので、自らの足で駆け込んできた。
晏嬰の遺体にすがって景公が大ちゃん涙を流していると、非礼であると諌める者がいたが、景公は、
むかし晏嬰に従って公阜に遊んだ時、晏嬰は一日に三度わしを責めた。
いま誰がわたしを責めようか。
とツッコミ役がいなくなった事を告げると、さらに泣き続けたと言う。
※その他「晏嬰」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
晏嬰のエピソード
羊頭狗肉
晏嬰が最初に仕えた霊公は、宮中の女性に男装させる趣味があった。漢女スキーだったかは不明
しかしこの趣味が斉国内の民衆にまで広まり、女性が男装する事が流行った。
霊公は、男装した女子は見つけ次第その衣装を裂いて帯を断つようにと、男装を禁止する令を出したものの、ブームの元ネタである霊公が止めようしなかった為、一向に収まる気配が無かった。
ブームの沈静化が見えない事に困り果てた霊公のぼやきに、晏嬰は、
君は、宮廷内では女子の男装を行い、外でのみ禁止しています。
例えるならば、牛の肉を看板に使って馬の肉を売っているようなものです。
宮廷内でも禁止すればすぐに流行は収まります。
と言い、霊公も晏嬰の言を聞き入れて渋々宮廷内での男装を禁止すると、一ヶ月程でブームは終わり、男装する女子はいなくなった。
この故事から「牛頭馬肉」の言葉が生まれ、見せ掛けは立派だが実物は異なると言う意味の「羊頭狗肉」へと変化した。
勇気がたりない
霊公が晋との戦いに敗北した時、まだまだ戦える状況にありながら逃亡しようとしたんで、晏嬰は
君も勇気がないのですね。
まだ戦えると言うのに何故逃げるのですか。
と諌めて霊公の袖を引きちぎった。
私を斬り捨てる勇気を持ってあたれば敵と戦えます。
お前を斬り捨てる勇気がないから今逃げているのだ。
晏嬰の切り札
晏嬰が仕えた二人目の斉王・荘公は、晏嬰の諫言を煩わしく思った事から、晏嬰は職務を辞して農民として暮らしていた。
しかし荘公が、宰相・崔杼の妻と密通した為、怒った崔杼の屋敷に招かれた荘公は兵士に囲まれて殺されてしまう。
と言う究極の二択状態の中で、晏嬰は、
君主が社稷(国家)のために死んだのならば私も死のう。
君主が社稷のために亡命するのなら私もお供しよう。
しかし君主の私事の為ならば直臣以外はお供する理由はない。
臣は君主に仕えるのではなく、社稷(国家)に仕える身である。
そして国王もまた社稷の臣の一人である。
に基づくジョーカーのカードを切って見せ、型通りの哭礼だけを行って帰った。
崔杼はその後、慶封と共に景公を擁立し、「組しない者は殺す」と宣言したが、晏嬰は、
君主に忠誠を尽くし、社稷のためになる者に従う
と言い返し、斉国民内ではAランクのアイドル的人気を誇る事もあって、崔杼は晏嬰を殺す事が出来なかった。
崔杼は、晏嬰を「許す」としたが、晏嬰は、
君主を弑逆すると言う大不仁を犯した者が、私を許すと言う小仁を行った。
それが正道をとりかえしたことになろうか。
と追い討ちして崔杼の顔色を変えさせた。
ゆっくり走りなさい。
疾く走っても必ずしも、生きられるわけではなく、ゆっくり走っても、必ずしも死ぬわけではない。
と言った。
この、絶体絶命の状況でも一本筋の通った姿勢を貫いた事は、晏嬰の人気を爆発させるきっかけとなった。
社稷の臣
景公の代になったある寒い日に、景公より暖かい食べ物をもってくるように言われた晏嬰は、
臣の役目ではありません。
それではお前は何の臣なのか
と尋ねると晏嬰は、
私は社稷の臣です。
国家を立ててその根本を明らかにし民を安んずることが役目です。
と答えた。
忠臣の条件
忠臣の君主への仕え方とはどういったものか
と問い、晏嬰は、
君主が困難に遭遇しても、その為に死ぬような事をせず、君主が他国へ亡命しても見送ったりしません。
と答えた。
君主が地を割いて臣下に封じ、爵位を与えて貴族とするのに、君主の困難を見捨てて、共に亡命しようともしないとは、それで忠といえるのか。
と返すと、晏嬰は、
臣下の意見が採用されていれば、臣下が君主のために死ぬことはありません。
もしも意見が採用されず、君主の困難に殉じて死ねば、それは無駄死にです。
ゆえに、本当の忠臣とは、善言を君主に献じて実行してもらい、君主とともに困難におちいらない者をいうのです。
と答えた。
晏嬰狐裘
政争の中で崔杼と慶封が死ぬと、景公から宰相に任命された晏嬰は、これまで同様に慎ましい生活を続けた。
中でも、狐の脇の下の白い毛の部分で作った衣である「狐裘」一着を、晏嬰は三十年間愛用して職務にいそしんだ。
この故事から「一狐裘三十年」とも言われ、上に立つ者が倹約に務めて職務を遂行する事を表す「晏嬰狐裘」の語源となった。
領地返上
晏嬰の功績に報いたいと思った景公は、晏嬰に領地を与えようとしたが、
国はそれほど大とはならず、民の生活も潤っているとは言えません。
これは宰相たる私の不徳の致すところですので、そのようなものを私が受け取ることはできません。
と言って晏嬰は断った。
それでも景公は無理矢理に晏嬰に領地を与えたが、ほとぼりが冷めた頃を見計らって晏嬰は密かに領地を返上した。
妻との約束
景公が酒宴を催した際に、晏嬰と共に現れた晏嬰の妻を見て、愛娘が晏嬰に嫁ぎたいと願っていた事を思い出して、
妻はずいぶん老けてしまっておるな。
私の愛娘は若くて器量良いなので貰う気は無いか?
と晏嬰に尋ねると、晏嬰は、
今は老けましたが、若くて器量の好い頃もあったのです。
人間は最初にこういう風になる後々のことまで約束いたします。
わたしも一度約束した以上はそむくわけにはまいりません。
と言って断った。
橘(タチバナ)と枳(カラタチバナ)
晏嬰が楚に使いに行った際、史記に
晏子長不満六尺(晏嬰の身長は六尺に満たない)
と残る140cmに届かない事が残されているちびっ子である事を楚の霊王が馬鹿にして、子犬しか通れない大きさの門をつくり、人間が通る門は全て閉じておいた。
晏嬰は、
犬の国には犬の門から入る。
楚に入るのに犬の門からは入れない。
と叫び、自分の国を犬の国と認めるわけにはいかない楚霊王は、門を開いて晏嬰を通した。
あきらめきれない楚霊王は、斉の出身である盗人を晏嬰の前に連れてきて
斉人は盗みをよくするようだ
と挑発したが晏嬰は、
橘(タチバナ)は淮南では橘(タチバナ)になり、淮北では枳(カラタチバナ)になります。
二つの違いはその土地の風土の違いです。
斉では盗みを働かなかった者が、楚に入ると盗みを働くと言う事は、楚の風土が盗人を作ったようです。
とやり返し、楚霊王は、
聖人と共に戯れるものではない。かえって恥をかいた。
晏子の御
「晏子春秋」におまかせ状態の「史記」では、晏嬰の個別エピソードはたったの二つした記載されていない。
そのうちの一つは、 賢人でありながら囚人として働かされていた越石父と言う人物を、旅の途中で出会った晏嬰が才能を見抜き、自分の馬車の左の副馬を身代として越石父を自由の身にし、馬車に同乗して帰ったのだが、晏嬰の家についたとたん、越石父は部屋にこもり、絶交を申し出た。
晏嬰が理由を尋ねると、越石父は、
「君子は己を知らざる者には屈し、己を知る者に志を伸ぶ」と聞きます。
あなたが私を救ってくれたのは私を理解して下さった、つまり「己を知る者」ですが、己を知りながら礼が無くては、私は囚人に戻った方がましです。
と答え、以後、晏嬰は越石父を上客として優遇した。
そしてもう一つが「晏子の御」の故事成語の元になったエピソードである。
晏嬰が斉の宰相に抜擢された後のある時、晏嬰の御者の妻は、夫の仕事振りを密かに見ていた。
すると夫は、一国の宰相の御者として得意気な様子を見せていた為、妻は夫の帰宅後に離縁を申し出た。
夫が訳を尋ねると、御者の妻は、
晏嬰様は身の丈が6尺に足らぬ小さな体にもかかわらず、斉の宰相として天下にその名を知られているが、いつも謙虚にしておられる。
あなたは8尺もありながら、人に使われる身分で満足しているようで情けないので、私は出て行きたいのです。
と答えた。以降、晏嬰の御者は自らも謙虚に勤めた。
晏嬰は御者のかわりように、理由を尋ねると、妻の言葉をそのまま答え、晏嬰は御者を大夫に取り立てた。
この逸話から、主人など他人の権威・威光などに寄りかかって得意になる事やそうような人を指す「晏子の御(晏御揚々)」と言う故事成語が生まれた。
斉の公共事業
斉で飢饉が発生し、民が困窮していた。
晏嬰は、国庫を開いて民に食料を与えるように景公に進言したが、景公は許可しなかった。
そこで晏嬰は、景公が計画していた正殿をつくる公共事業を利用し、工賃を水増しさせて竣工を予定より延ばした。
工事がはじまると、3年かけてのんびり工事を行わせ、工事に参加した斉の民の懐は、工賃により潤った。
こうして、景公は正殿の完成を喜び、民は飢えずにすんだことを喜んだ。
またある時、路上で物乞いをする幼児を見た景公が、帰るところがなくてかわいそうだと嘆いていると、晏嬰は、
君がいらっしゃいます。
役人に養わせて成人となったら報告させましょう。
梁父の吟
ある時、晏嬰は、「公孫接」「田開彊」「古冶子」の三人の猛将が、自分の功績を誇って傍若無人な振る舞いを行っているので、
これでは下克上の風潮がうまれるので、今のうちに除いておくべきです。
功績の高い者から食べよ
と言い、公孫接と田開彊が先に桃を取ると、古冶子が「私に功績が無いと言うのか。」となじり、二人は自分の貪りを恥じて自殺し、古冶子もまた二人が死んで自分だけ生き残るわけにはいかないと自刎した。
こうして晏嬰は、二つの桃と口先だけで三人に罪を着せることなく自決させる事に成功した。
この逸話を詠った詩が、三国志の諸葛亮が良く口ずさんでいたことで有名な「梁甫の吟(梁甫吟)」とである。
原文 | 歩出斉城門 | 遥望蕩陰里 | 書き下し文 | 歩して斉の城門を出で | 遥に蕩陰の里を望む |
里中有三墳 | 塁塁正相似 | 里中に三墳有り | 塁塁として正に相似たり | ||
問是誰家墓 | 田疆古冶子 | 問う是れ誰が家の墓ぞ | 田疆古冶氏 | ||
力能排南山 | 文能絶地紀 | 力を能く南山を排し | 文を能く地紀を絶つ | ||
一朝被讒言 | 二桃殺三士 | 一朝 讒言を被りて | 二桃 三士を殺す | ||
誰能為此謀 | 国相斉晏子 | 誰か能く此の謀を為せる | 国相斉の晏子なり | ||
訳 | 斉の城門を歩いて出て、遠くに蕩陰(地名)の村を眺めると そこにお墓が三基あります 並んで立ち、よく似ています これはどちらのお墓ですかと聞きました これが有名な公孫接・田開彊・古冶子のお墓です 三人は南山を動かすほど力が強く、 大地の四隅を繋ぐ紐を切るほど学問もできる人たちでした ところが、ひとたびでまかせを言われ、二つの桃が三人を殺しました 誰がこんなはかりごとをしたのですか? それは斉の宰相の晏嬰です |
||||
引用元:『三国時代の文学スレッド』まとめサイト[諸葛亮(諸葛孔明)の詩 > 梁父吟[梁甫吟]![]() |
儒者は滑稽
斉の隣りに「魯」の国があり、ここで生まれた人物が孔丘(孔子)であり、魯の内乱を嫌って斉を訪れた孔子を、景公が召抱えようとした。
政治についての問いに見事な答えを出した孔子について景公が尋ねると、晏嬰は、
儒者は滑稽である
と答えた。
晏嬰曰く、儒者とは、
- 知恵があっても巧言をもって人の判断を誤らせます。それゆえ、その思想を規範とすることはできません。
- おごりあなどり、他人の意見を聞きないので、下の身分に置くことができません。
- 服喪を尊重して、死者を悼んで哀しみ抜き、破産するほど葬儀を立派にしますが、それを我が国の慣わしとするわけにはいきません。
- 儒者は諸国を遊説し、財物を乞い借りたりしますが、そのような者にに国を治めさせることはできません。
- 天下を治めるほどの賢人が歿してのち、周王室はすでに衰え、礼楽が欠けてから久しくなります。
今、孔子は容儀を美しくみせ、身を盛んに飾って、階段を登降する礼や、宮中を歩行する節を細かく定めています。
何代かかっても、その学を究めることはできないでしょうし、いますぐにその礼を究めることは難しいというものです。
君が孔子とその礼を用いて斉の慣わしを革(あらた)めようとなさるのは、細民の先頭に立って善い政治を行うことにはなりますまい。
と言い、晏嬰が重要視する臣民の為のものではなく、貴族の為のもので、独善的で他者や現実をも否定する事を見抜いていた。
晏嬰の願望
晏嬰は、
臣として畏敬され、妻からは頼られ、後を心配なく嗣がせられる子が欲しいものです
明君と賢妻に加えて衣食足りて良き友があれば好いです
と答えた後に、さらに、
一番の願いは、世話のかかる君に、家から追い出したくなるような妻、そして不肖の子が居ることです
と言って話にオチをつけた。
なおこの話は、最後の条件のうち「世話のかかる君→景公」だけは実現しているところがポイントだったりする。
関連動画
▼劉禅や景公の家臣として「迷君を操る程度の能力」を発揮する架空戦記「春秋戦国三国志」
※なお、作中の景公の能力値は、統率:4・武力:10・政治:3・知力:4で、某3・5・9・4と同じ21である。
(4・10・3・4→春秋左氏、3・5・9・4→三国志)
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