- プロ野球選手一覧 > 有働克也
概要
OB | |
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有働克也 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県神戸市 |
生年月日 | 1969年9月24日 |
身長 体重 |
182cm 90kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1991年 ドラフト3位 |
引退 | 2000年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
神港学園神港高等学校に進学。控え投手の一人でであったが、3年春に練習試合で10者連続三振を記録している。
卒業後、大阪経済大学へ進学。1年春に6戦無敗でMVP受賞と一気に才能開花。MVP以外にも在学4年で最優秀投手2回、ベストナイン3回受賞とリーグを代表する選手に成長した。
1992年、19試合に登板して3勝6敗、防御率4.99という成績を残す。二軍ではジュニアオールスターゲームに出場したが、イチローに本塁打を打たれている。
1993年、エースの野村弘樹や前年8勝を挙げた斎藤隆・岡本透を差し置いて開幕投手として登板。横浜ベイスターズ初代開幕投手となった。この起用はエースの斎藤雅樹が登板する開幕戦は捨てて、2、3戦目を勝ちに行こうという近藤昭仁監督の判断であった。有働はこの開幕戦こそ敗戦投手となったものの、シーズン通して先発ローテーションを守り、6勝6敗、防御率3.30をマーク。オールスターゲームにも初出場を果たしている。
1994年、2年連続で開幕投手を任された。起用意図は前年と同様であったが、有働は粘りのピッチングを見せ、打線は中日のエース今中慎二を打ち崩し勝利投手となった。同年は規定投球回に到達し、8勝7敗、防御率3.39をマークした。
しかし以降は成績が低下していき、1995年は4勝7敗、防御率5.38と精彩を欠き、1996年は1勝3敗、防御率8.33と低迷。同年オフに戦力外通告されてしまう。
1997年、中日ドラゴンズに入団。同年、敗戦処理やロングリリーフ、先発ローテーションの谷間での登板などいわゆる便利屋として起用され19試合に登板、1勝4敗、防御率4.10という成績を残す。
1998年、ウエスタン・リーグで10勝を挙げ最多勝投手となったが、一軍での登板機会は0。翌1999年も登板0に終わり、同年オフに2度目の戦力外通告を受ける。
その後、オリックス・ブルーウェーブの入団テストを受験したが不合格となり、海を渡り台湾プロ野球の中信ホエールズに入団。
中信では抜群の安定感を発揮し、5勝7敗、防御率2.26という成績を残したが、スタミナ不足と判断され同年限りで戦力外となり、そのまま現役を引退。
引退後、ヤクルトスワローズの打撃投手を務めた後、古巣の横浜で打撃投手やスコアラー、チームサポーターを務めた。
2015年には横浜の二軍投手兼育成担当コーチに就任して2016年まで務めた後、再びスコアラーとして活動している。
人物・エピソード
球速はそれほど速くはなかったが、球種の多さと制球力の高さを武器に打たせて取る投球で活躍した右腕。
投法は基本的にはオーバースローだが、時折サイドスローで投じて打者のタイミングを外すなど味のある投球術も特徴であった。有働自身はこの投法を「おちょくり投法」と呼び、メディアでもこの名称を使用することもあった。
盛田幸妃と仲が良く、酒好きの両者は朝まで飲み明かすことも珍しくなかったという。また、佐々木主浩からは弟分として可愛がられ、有働が戦力外通告を受けた際、佐々木は球団に対し怒りをぶつけ、メジャー移籍を示唆するコメントを残している。
通算成績
投手成績
通算:6年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 127 | 5 | 0 | 23 | 33 | 0 | --- | .411 | 470.0 | 174 | 231 | 236 | 229 | 4.39 |
関連動画
関連項目
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