朝護孫子寺とは、奈良県生駒郡平群町にある寺院である。「信貴山寺(しぎさんじ)」「信貴山の毘沙門さん」ともいわれる。
概要
生駒山地南部にそびえる標高437mの信貴山山腹に境内を構える、信貴山真言宗の総本山。毘沙門天を本尊とし、「日本三毘沙門」や「大和七福神」のひとつなどとして信仰をあつめている。商売繁盛・必勝祈願・金運招福・合格祈願などのご利益があるとされ、初詣の時期をはじめとして多くの参拝客がご利益を求めて訪れる。本堂では毎日祈祷が行われ、参拝客が撞く鉦がこだまし香が漂う、まさに信仰の山といえる。
聖徳太子が寅の年・寅の日・寅の刻に毘沙門天に加護を受けたとの言い伝えがあり(詳細後述)、これにあやかって寅の日は毘沙門天のご利益を受けることが出来る日として「福寅」と呼ばれる。なかでも寅が三つ揃う日時は「三福の寅」といわれ、格別に縁起がよいとされる。正月初寅の日には大祈祷法要が営まれ、多くの参拝客が訪れる。なおこの日に毘沙門天に参ることを「初寅参り」といい、特に正月三が日中に初寅の日がある年はことさら初寅参りで賑わう。また境内の各所に虎の張子が置かれており、なかでも赤門前にある「世界一福寅」と呼ばれる巨大な虎は見物。このように虎を象徴とすることから、戦神・毘沙門天を祀ることから阪神タイガースの選手が必勝祈願に訪れる。
寺院中興の祖・命蓮上人の逸話を描いた国宝『信貴山縁起絵巻』でも知られる(後述)。
寅年にあたる2010年(平成22年)を勝縁の年と定め、平城遷都1300年記念も兼ねて1年にわたって特別法要や普段見られない文化財の公開、各種イベントなどが行われた。
紅葉の名所としても知られ、紅葉の時期は夜間のライトアップもある。
同人シューティングゲーム『東方星蓮船』に登場するいくつかの人物・事物は朝護孫子寺と命蓮上人、信貴山縁起をモデル、モチーフとしている。東方星蓮船から興味を持って参拝するのはよいが、当然ながら参拝客としてのマナーを守り迷惑をかけないよう十分留意されたし。
歴史
言い伝えによると信貴山は毘沙門天が初めて日本に出現した場所であるという。聖徳太子が物部守屋討伐のため河内稲村城に向かう途中にこの山で戦勝祈願を行ったところ、虎をお供に引き連れた毘沙門天が天空に現れて必勝の秘法を授けた。聖徳太子は毘沙門天の加護により勝利し、自ら毘沙門天像を彫って祀り、「信ずべし貴ぶべき山」として信貴山と名づけた。また毘沙門天が現れたのが寅の年・寅の日・寅の刻のことであったため、これ以来信貴山の毘沙門天は虎に由来づけて信仰されるようになったという。ただし実際のところ、正確な創建時期や経緯については記録が残されておらず不明。
元は比叡山系統の天台宗で、山岳密教の道場として修験道の密寺としての性格も持っていたが、葛城修験の勢力下にはいり真言宗となる。
667年(天智6年)に生駒山地に築城された高安城が712年(和銅5年)になくなってからは荒廃したが、命蓮上人の入山後復興(後述)。902年(延喜2年)には、醍醐天皇から朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜る。
鎌倉時代に興福寺大乗院の支配下となり、法相宗と真言宗の兼帯寺院となる。
1331年(元弘元年)の元弘の乱では大塔宮護良親王が毘沙門堂にとどまり、楠木正成と連絡をとりあって戦備を整えるなどした。
1395年(応永2年)、本堂が焼失するものちに再建される。
1483年(文明15年)には本覚院より出火、僧房30ほどとともに炎上した。これは天狗の仕業と伝えられた。さらに翌1484年(文明16年)、学徒と禅僧の闘争から学徒が離山、このとき禅僧が学徒の坊舎を焼き払った。
1536年(天文5年)には木沢長政が山上に信貴山城を築いた。1542年(天文11年)に木沢長政が戦死した後、松永久秀が改築。拠点のひとつとした。しかし1577年(天正5年)、織田信長・筒井順慶連合軍に攻められ落城、城もろとも寺も焼失した。また戦国時代には楠木正成や筒井順昭、武田信玄らの信仰を集めた。
その後文禄年中に豊臣秀吉により再建(1602年(慶長7年)豊臣秀頼によるとも)。更に修復がくわえられ、1746年(延享3年)に完成した。
江戸時代には徳川家の崇敬を受けて繁栄、特に家光、吉宗の信仰が篤かった。
明治維新以降は高野山真言宗に属し、1902年(明治35年)にはいっとき上地となっていた旧寺領を回復、諸々の堂宇が再興された。
1951年(昭和26年)、高野山真言宗から独立。翌1952年(昭和27年)に信貴山真言宗を立て、総本山となる。
また1951年(昭和26年)、漏電による火災で焼失。1958年(昭和33年)に再建された。
命蓮上人と信貴山縁起
命蓮上人は平安中期に信貴山で修行していた僧で、寺の中興の祖とされる。937年(承平7年)に命蓮が大和国に提出した「信貴山寺資材宝物帳」によれば、寛平年中に命蓮が入山した頃は毘沙門天像を安置した円堂がひとつしかなかったが、命蓮が居を構え修行を重ねるうちに人が集まり、延喜年間には本堂を改築、その後次第に僧房、中房などを整備していくことができたという。
国宝『信貴山縁起』は古くから寺に伝わる絵巻物で、この命蓮上人に関する逸話を描いたものである。12世紀頃に描かれたものとされ、「山崎長者の巻」「延喜加持の巻」「尼公の巻」の3巻からなる。それぞれの物語が面白おかしく、また表情豊かに描かれた『信貴山縁起』は日本の絵巻物の代表的なもののひとつとされる。詳しくは信貴山縁起の記事を参照。
見所など
かつては60余りの堂宇を持つ大寺院であったが、現在残っているのは本堂、玉蔵院、成福院、千手院の4つにとどまる。しかし境内は現在も広範囲にわたり、また高低差もあるため歩きやすい靴で回ったほうがよい。寺院ながら神社や祠などもあり、参道などに奉納された鳥居が数多く見られる。またここに紹介するように見所も多く、本格的に見て回りたい場合は時間を長めに取るべし。あと油断すると結構迷いやすい。
- 本堂
- 1958年(昭和33年)に再建された本堂。大般若祈祷が毎日行われている。舞台造りの境内からは大和平野が一望できる。地下には真っ暗な回廊を手探りで一周する「戒壇巡り」が設けられている(100円)。平安時代後期に覚鑁(かくばん)上人が納めたという如意宝珠が祀られている蔵があり、その蔵の錠前に触れるとご利益があるという。
- 霊宝館
- 本堂横にある小さな建物。国宝『信貴山縁起』の複製(原本は奈良国立美術館に寄託)のほか金銅鉢や鎧兜などを見ることができる。有料。
- 千手院
- 山内で最も古い寺院。約1000年前に命蓮上人が開いたとされる護摩堂では毎朝護摩が焚かれている。また金運招福の神「銭亀善神」を全国で唯一祀るお堂がある。古くから宿坊(修行中の僧侶や参拝客が宿泊する場所)として使用されており、近代的な宿泊設備が整えられている。
- 成福院
- 信貴山の宿坊の一つ。「融通殿」には如意宝珠が祀られ、あらゆる願いを融通するご利益があるという。
- 玉蔵院
- 信貴山の宿坊の一つ。融通尊のほか高さ14.56mの「日本一大地蔵」などが祀られている。また「浴油堂」では毎朝護摩祈祷が行われている。
- 奥の院
- 通称「汗かきの毘沙門天王」。聖徳太子作で物部守屋討伐の歳に阪部大臣に化現して先鋒を振るい、汗をかいたとされる毘沙門天像が祀られている。また地中から焼米が出土する場所がある。
- 空鉢護法堂
- 命蓮上人が毘沙門天の使者・難陀龍王の教えを蒙り、空鉢を飛ばしたことに由来して龍王の祠を建てたのが始まりとされる「一願成就」の守護神。約700mの山道を、500基とも言われる朱塗りの鳥居をくぐりぬけた山の上にあり、ここからの眺めもまた格別。参道途中やお堂の裏手には様々な神様を祀る祠も見られる。
- 信貴山城跡
- 木沢長政、松永久秀によって築城され、織田信長によって陥落した信貴山城の跡。高櫓跡など保存状態が極めて良いことで知られる。
- 剱鎧護法堂
- 命蓮上人が醍醐天皇の平癒を毘沙門天に祈ったときに出現した剣の鎧を纏った童子を祀るお堂。世界一福寅の脇にある道を、朱塗りの鳥居の中下った先にある。無病息災・病気全快のご利益がある。
- 世界一福寅
- 赤門(表門)手前に設置された、口をあんぐり開けた大きな虎の張り子。電動モーターで首がゆっくり動いている。触ることは出来ないが、参拝客の記念撮影スポットになっている。
- 開山堂
- 1722年(享保17年)建立のお堂。堂内の岩窟に、聖徳太子像、弘法大師像、命蓮上人像、歓算上人像が、盤上には四国八十八か所の本尊が祀られている。また四国八十八か所各寺の砂が敷かれている。
- 命蓮塚
- 開山堂の裏手にある、信貴山中興の祖・命蓮上人の墓と伝えられる塚。塚の上には十三仏が祀られる。命蓮の姉とされる尼公もともに眠るという。
- かやの木稲荷大明神
- 樹齢1500年といわれる榧の木を御神木と祀る神社。横合いには騎乗した聖徳太子像がある。
- 開運橋
- 大門池とよばれる池に架かる、全長約106m幅約4mの朱塗りの橋。三郷町側から信貴山への参道。1931年(昭和6年)架設で、日本に現存する最古の「上路カンチレバー橋」で、橋脚もトレッスル橋脚という珍しい形式として知られる。
アクセス
関連動画
関連項目
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