木戸孝允 / 桂小五郎(1833~1877)とは、幕末から明治時代初頭にかけて活躍した人物である。
概要
長州藩士。1865年に君命により木戸姓を使い、寛治、純一郎、孝允と名乗っていく。号は末菊、木圭、広寒、竿鈴など。
萩城下の藩医・和田家に生まれるが、8歳で馬廻役の桂家を継ぐ。幼いころは病弱だったにもかかわらず、秀才ぶりを毛利敬親などからも認められていた。明倫館に学び1849年には吉田松陰の兵学門下となった。1852年には自費で江戸へ遊学。神道無念流の斎藤弥九郎の剣術道場・練兵館で学び塾頭になった。そして1853年のペリー来航に刺激され、西洋砲術を学ぶために江川太郎左衛門の門下となる。さらに浦賀奉行所の中島三郎助の下で造船術を学ぶなど刺激的な日々を送っていった。
1854年に江戸の藩上屋敷に設けられた有備館御用掛に任ぜられて指導者となる。1860年には水戸藩士らと江戸で会談し、丙辰丸盟約を結んだ。
1861年になると公武合体論が藩是となったことに反対を唱え、破約攘夷に転換させるために奔走、1862年に周布政之助らと譲位を唱え、藩是にすることに成功した。しかし一方で開国すること自体は将来的に見据えており、志道聞多(井上馨)ら密航留学生を周旋している。
その後京都で薩摩や土佐藩士らと会談を重ね、孝明天皇の意志である攘夷を実行に移そうとする。しかし、1863年に長州藩の尊攘派は八月十八日の政変で失脚。久坂玄瑞らと同様に失地回復を目指して奔走し、直目付、奥番頭格に加えられた。そして1864年ふたたび京都に入り因州藩(鳥取藩)などの協力を取り付け復権をもくろんだが禁門の変で敗走。小五郎自身は但馬に潜伏した。
そして1865年の内戦で藩政府が刷新され、再び藩に帰国する。政事堂内用掛政方用談役心得を任ぜられて藩政府の中心人物に躍り出る。1866年には再度京都に上り、西郷隆盛らと薩長同盟を結んだ。そして第二次幕長戦争で活躍。1867年の王政復古によって新政府が誕生するや、1868年に参与となり五箇条御誓文の仕上げに加わる。さらに参議となって版籍奉還や廃藩置県を推進し、中央集権化を図っていった。
1871年に岩倉使節団副使として欧米を視察。帰国するや征韓論に対し大久保利通とともに反対を唱えて退けた。しかし木戸孝允自身も台湾出兵に反対して下野。1875年の大阪会議で三権分立を認めさせて政府に復帰するが、1877年の西南戦争の最中に病没した。
どちらかといえば改革推進派で、漸進派だった大久保利通とはしこりがあり、伊藤博文らが大久保に取り込まれていくのを苦々しく思っていたという。
関連項目
- 1
- 0pt