木村喜毅とは、幕末の幕臣である。江戸幕府において目付、軍艦奉行、勘定奉行等を務めた。
号は芥舟、または楷堂。
概要
天保元年(1830年)2月5日、浜御殿奉行で家録200俵の旗本、木村善彦の嫡子として生まれる。幼名は勘助。浜御殿(現在の浜離宮)は歴代徳川将軍が鷹狩りをするための庭園で、木村家は喜毅の三代前から浜御殿奉行として御殿を管理していた。
木村家は12代将軍・徳川家慶から寵恩を受け、天保13年(1842年)、木村が13歳で奉行見習いとして初出仕した際には、家慶が手ずからお酌して酒を与えられた。鷹狩りや外出時に木村親子が随伴した事もあり、家慶から親子共に非常に気に入られていた。また、幕府の命により先祖代々砂糖や朝鮮人参の製造管理を行っており、余剰分を問屋に売ることで収益を上げ、並の旗本とは比較にならない程の資産を有した。
同年、林大学の元で、後に海防掛目付・外国奉行として活動する岩瀬忠震や堀利煕らと共に学ぶ。
弘化元年(1844年)、15歳で両番格(将軍や城中の警護役)並びに浜御殿添奉行に昇進。嘉永元年(1848年)、昌平黌の乙科を及第。安政2年(1855年)2月に講武所出役に任命されるが、岩瀬忠震の推挙で9月に西の丸目付に転任し、次いで安政3年(1856年)2月、本丸目付に転任した。
遣米使節副使
同年12月、長崎表御用取締目付に任命され、翌安政4年(1857年)4月に長崎に到着。5月に長崎海軍伝習所取締りに就任。伝習所では主に風紀の粛清や宿舎の拡充に携わる。
安政6年(1859年)2月、江戸から長崎に伝習所閉鎖の通告があり、木村は5月に長崎を去り、翌月に江戸に帰着。9月に軍艦奉行並に任じられた。
当時幕府では通商条約の締結に伴い、米国へ使節を派遣する話が具体化しており、正使の他に副使も派遣してはどうかと軍艦奉行の水野忠徳が建議していた。これが実現し、11月に木村に対して遣米使節副使として渡海することが命じられた。同時に軍艦奉行に昇進し、従五位下摂津守に叙せられた。
木村は乗員選考に際して、海軍伝習所卒業生を多く選抜した。また、案内役として中浜万次郎と米国海軍大尉ブルック以下11人の米国軍人を同船させることを建議した。幕閣や海軍士官達から反対されたが、木村や勝海舟の説得が功を奏して同船させることが決まった。なお、この頃渡航の噂を聞きつけた福沢諭吉が紹介状を持って木村に会い、連れて行って欲しいという願いを快諾してくれた事を後年福沢自身が回顧談で語っている。
米国人を含め計100人以上で咸臨丸に乗り組む事が決まったが、勘定所が予算を渋ったため、木村は私財を売り払って3000両の資金を作り、渡航費の一部として充てた。
安政7年(1860年)1月13日、正使の乗船するポーハタン号に先立って日本を出航。航海中ほとんどの日が低気圧による大時化の困難な旅だったが、中浜とブルックらの協力もあって、2月26日米国サンフランシスコに到着した。
異国見聞
サンフランシスコ市長以下、市民から歓待を受けた木村一行は、3月2日に行われた歓迎会に出席した。席上木村は乾杯の際に
「今、日本の皇帝のために乾杯していただいたが、その名前がアメリカ大統領の前にあった。こんどは大統領の名前を先に、アメリカ大統領と日本の皇帝のために乾杯していただきたい」
と洒落た挨拶を行い、米国人を感嘆させた。地元紙は木村について以下のように評した。
「彼は一見しただけで温厚仁慈の風采を備えた人物で、四十前後と見受けられた。やがて彼は紳士的な服装で謙恭な態度で現れた」(デイリー・アルタ・カリフォルニア紙)
50日余りの滞在期間中、木村は官吏以外にも民間人の家族と交流したり、公共施設の見学を行った。特に病院については、咸臨丸に同行した水夫が体調を崩して入院したところ、身分に関わらず親切な介護を受けられることに感銘を受けている。
「余熟(つくづく)思うに、此(この)国の人皆懇篤にして礼儀あり、今度我国との交際を悦び、其傭婦、販夫に至るまで吾船のはじめて来りしを快とせざるものなく、就中(なかんずく)其官人はつとめて懇切周旋し、毫も我徒に対し軽蔑侮慢の意なきは、まことに我皇国の威霊ともいうべきなれど、また其国の風俗教化の善をも思い知るべきなり」
(木村喜毅『奉使紀行』)
正使一行の乗ったポーハタン号がパナマを経由してワシントンに向かったことを確認した木村は、閏3月19日市長や民間人と別れの挨拶を交わし、咸臨丸で帰国の途に着いた。
大海軍構想
帰国後木村は軍艦奉行として海軍設立や士官の待遇改善を図った。
文久2年(1862年)閏8月20日、木村は幕閣に、軍艦370隻、総員6万人以上からなる大海軍構想を上程したが、同席していた勝海舟は意見を求められると「500年はかかる」と、事実上不可能と取れる発言をし、幕閣も実現困難と見てそのまま流れてしまい、採り上げられなかった。
その後も木村は人材の育成や身分差による選別を廃した階級・俸給を制度化するよう度々建議したが、一向に実現の目処が立たず、幕閣の鈍重さに失望して文久3年(1863年)9月26日、軍艦奉行を辞任した。
元治元年(1864年)4月9日、開成所頭取に任命される。その後12月に目付に再任され大坂に向かうが、老中・小笠原長行と意見が合わず慶応元年(1865年)11月21日に辞任、江戸に戻る。
翌慶応2年(1866年)7月26日、再び軍艦奉行並に任じられる。この時期第二次長州征伐の敗北があり、14代将軍・徳川家茂が病死し、徳川慶喜が15代将軍に就任している。木村は慶喜の聡明さに望みをかけ、勝海舟と連署で海軍士官の俸給制度改革、造船所と製鉄所の設立、海外への留学生派遣などを建議した。階級と俸給制度の改革については特に力を入れ、小栗忠順とも連署で重ねて建議した。
これが功を奏し、慶応3年(1867年)1月4日、階級と俸給に関する大幅な制度改革が実現した。6月25日、再び軍艦奉行に就任。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いにて徳川慶喜が江戸に敗走し、謝罪恭順に徹する事を決め、敗戦処理のため陸軍総裁に勝海舟、海軍総裁に矢田堀景蔵、会計総裁に大久保一翁が就任した。木村は3月に海軍所頭取兼勝手方勘定奉行に任命され、旧幕府の全財産を官軍に引き渡す責任者となった。
全ての引渡しが済むと、7月26日に隠居願いを出し「芥舟」と号した。以後、歴史の表舞台から姿を消す。
隠棲
明治以後、木村は家督を息子に譲って引退し、専ら詩歌や著述活動に専念した。新政府から仕官の誘いはあったものの、全て断った。
明治21年(1889年)、木村は勝海舟の依頼で、旧幕府海軍の歴史を編纂した『海軍歴史』の執筆に協力している。この『海軍歴史』の中で勝は咸臨丸渡航の件についてごく簡単にしか書かなかったため、これを読んだ福沢諭吉は勝が海軍興隆の手柄を独占していると思い、木村の著作である『三十年史』の序文や『時事新報』にて木村の功績を賞賛した。
(咸臨丸渡航について)是れぞ我大日本国の開闢以来、自国人の手を以て自国の軍艦を運転し、遠く外国に渡りたる濫觴(らんしょう)にして、此一挙以て我国の名誉を海外諸国に鳴らし、自ら九鼎大呂の重を成したるは事実に争う可からず。就中木村摂津守の名は、今尚お米国に於いて記録に存し又古老の記憶する処にして、我海軍の歴史に湮没(いんぼつ)す可らざるものなり。当時諭吉は旧中津藩の士族にして、夙(つと)に洋学に志し、江戸に来て藩邸内に在りしが、軍艦の遠洋航海を聞き外行の念自ら禁ずる能わず、乃ち紹介を求めて軍艦奉行の邸に伺候し、従僕と為りて随行せんことを懇願せしに、奉行は唯一面識の下に容易く之を許して、航海の列に加わるを得たり。(中略)今度の航海は諭吉が机上の学問を実にしたるものにして、畢生の利益これより大なるはなし。而して其の利益は即ち木村軍艦奉行知遇の賜にして、終生忘る可からざる所のものなり。
我開闢以来始めて蒸気船なるものを見てより僅かに七年の間に其運転法に熟達して太平洋を往復とは古今絶無の例にして、此一事こそ実に海軍発達の源を成したるものなり、船の名は咸臨丸と云い、和蘭にて製造したるものなるが、其船将として船中一切の指揮を司りたるは時の軍艦奉行木村摂津守、即ち今の海軍大尉木村浩吉氏の厳父にして、現に芥舟翁と称して今年七十に近く今尚お健在なり。翁は当時航海に長じたる技師に非ざれども、兎に角日本建国以来最大一発の軍艦長として太平洋の彼岸に渡り諸外国まで其名を知られたる人なれば、我が国の海軍史上に特筆大書して其功労は遂に埋没すべからず。
明治34年(1901年)12月9日死去。享年72。同日政府から「帝国海軍の創設に功労有り」として正五位に叙せられた。
逸話
咸臨丸
咸臨丸での渡航時、指揮官という肩書きで乗船していた勝海舟はほとんど指揮をせず、船室に籠りっきりだった。これは勝の当時の日記によると流感に罹っていたためであることが分かるが、木村は位階に関して不満があったためではないかと回想している。
勝サンは、小普請というのでした。小普請というのは、一体、非役で、三千石以上の非役が、寄合、三千石以下が、小普請で、もと、普請の入用を出すという役柄です。小普請から、小十人、大御番(鎮台)、両御番(近衛)、布衣というようになるので、それぞれ格があります。長崎に行きなさる時に、ようやく小十人組になったのです。ソンナ事で、始終不平で、大変なカンシャクですから、誰も彼も困ってしまいました。
維新後はズット静かになられました。先達ても、その話が出て、『実に老中などのつまらない奴に、くってかかったのだが、ソウした所が何もならないのだということを、あの時分は、知らなかったものだから、ただあれ等に当たって、いじめさえすればドウカ事がなるものだと思ったのが間違いだった』と言われました。
咸臨丸の艦長にするのでも、どうか行きたいという事ですから、お前さんが行ってくれればというので、私から計ったのですが、何分身分を上げる事もせず、まだあの頃は、切迫していないものですから、ソウ格式を破ると云う工合にゆかないので、それが第一不平で、八ツ当りです。始終部屋にばかし引込んでるのですが、艦長の事ですから、相談しないわけにも行かず、相談すると『どうとでもしろ』という調子で、それからまた色々反対もされるので、実に困りました。はなはだしいのは、太平洋の真中で、己(おれ)はこれから帰るから、バッテーラ(ボート)を卸(おろ)してくれなどと、水夫に命じた位です。それで福沢の伝にあるように、ただ舟によったというのではない、つまり不平だったのです。
これらの醜態による「だらしねぇ指揮官」というのが福沢諭吉の勝に対する第一印象で、福沢は後年この件についてしつこく語って勝をさんざん煽りまくった。
福沢と勝
上記の通り、木村は福沢諭吉や勝海舟と浅からぬ因縁がある。福沢は木村に対して終生尊敬の念を持ち続け、死ぬまで生活の援助を続けた。勝については、意見の違いや勝と他の同僚らとの諍いがあり、仲が良いと言える関係ではなかったが、維新後はわだかまりは無く、『海軍歴史』の執筆に木村も協力し、勝も木村の功績を同著の中で認めている。
だが、福沢と勝の仲の悪さはどうにもならないものがあった。木村の親族の話として、勝や榎本武揚を批判した『瘠我慢の説』が、木村を介して勝に渡されたという逸話があり、それを読んだ勝は
( ゚,_ゝ゚)プッ
天下の福沢センセイがこんなにまで勝のことを気にしておられることを知って、おれもそんなにエラいものかと解ったヨ( ゚,_ゝ゚)ププ-ッ
と憤慨したという。ちゃんちゃん。
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