木髙イサミとは、かつてKAIENTAI-DOJOやユニオンプロレスに所属しており、現在はプロレスリングBASARAを率いるプロレスラー、ドロップキック店長である。
キャッチフレーズは「日本一諦めの悪い男(大日本プロレス)」「ハードコア侍、デスマッチ侍(ユニオンプロレス)」。
概要
KAIENTAI-DOJO(K-DOJO)でデビュー後、フリーを経てユニオンプロレスに入団。
大日本プロレスにも参戦してデスマッチファイターの道に踏み込むも、一度は頸椎椎間板ヘルニアで引退間際まで追い込まれる。しかし、手術から復帰後もデスマッチファイターとして奮闘し、2014年現在はBJW認定デスマッチヘビー級、ユニオンMAX、BJW認定タッグの三冠を獲得。ユニオンプロレスのエースとして団体を引っ張るまでに成長した。
ユニオンプロレス解散後は、自身が代表を務めるプロレスリングBASARAを設立。
2015年11月28日、第55代KO-D無差別級王者になる。
2014年からはDDTプロレスリング直営スポーツBar「ドロップキック」の三代目店長に就任。
天狗になっていたK-DOJO時代
K-DOJOには3期生として入門。プエルトリコでの修行中に首を痛めて途中帰国するも、千葉の道場で練習を続けて2002年7月18日、木髙イサミのリングネームで松本大介を相手にデビューする。
その後は総合格闘技スタイルで秒殺による連勝を重ね、当時からエース格として君臨していた真霜拳號にも勝利する。だが、調子に乗って真霜の黒帯を引き抜き、白帯を投げつけるいわゆる「白帯事件」を引き起こしてからは調子が悪くなり、やがて真霜との再戦で天狗の鼻を折られるように完敗するとK-DOJO内で行き詰まりをみせてしまい、最終的に逃げるように退団してしまう。
isamiとして、どインディーを放浪
K-DOJO退団後はisamiと改名し、千葉県の銚子市にあったどインディープロレス団体FWFに参戦。当時、高校1年生だったフランケン吉野(マッスル1のメインに出場)と練習をする。その後、鶴見五郎が主催する国際プロレスプロモーションや、FMWの残党が集まってできたWMF、北海道や九州の辺境ばかりを回るアジアン・スポーツ・プロモーションなど、どインディーと呼ばれる小さな団体に参戦しまくる日々を過ごす。後に盟友となる宮本裕向、澤宗紀といった面々とはアジアンでのどさ回りツアーでいっしょになり、クソ安いギャラで1日3試合をこなすなどの苦労をともにしている。
ユニオンプロレスに入団
その後、筋を通そうとTAKAみちのくにあいさつしに言った際「復帰したらウチに上がらないか」と言われて、K-DOJOにもフリー参戦するようになる。さらにDDTプロレスリング入りも目論んでいたが、こちらはアッサリとダメになる。だが、マッスル1に参戦した際に高木三四郎からユニオンプロレスの再旗揚げに誘われ、石川修司やチェリー、ポイズン澤田らとともにユニオンに入団する。
2006年5月に大日本プロレスに参戦し、“黒天使”沼澤邪鬼とタッグを組んだのをきっかけにデスマッチ参戦を直訴。暗黒プロレス組織666ではアジアンの同志である宮本裕向とタッグチーム「ヤンキー二丁拳銃」を結成。ともに葛西純、沼澤邪鬼が主宰する「スクール・オブ・マッドネス」にも入学して、デスマッチの経験値を積んだ。
だが、2007年5月のユニオンプロレス新木場大会後、かねてからビリビリとしていた腕の痺れが、まるで電流が走るかのような異常な感じとなり、医師の診断を仰ぐことに。レントゲンでは異常なしに見えたがMRI検査の結果、もう少しで全身麻痺になる直前なレベルの頸椎椎間板ヘルニアであることが判明。医師からは引退勧告されるが、このままでは終われないとして手術を決意。長期間の欠場を余儀なくされる。
手術から復帰。EXTREAM級獲得へ
腸骨を削り、潰れた椎間板を形成し直してから植骨をするという大手術を経て、2008年5月のユニオンプロレス北沢タウンホール大会で現役復帰。対戦相手は長年あこがれていたMIKAMIだった。このとき、リングネームをisamiから木髙イサミに戻している。
同年7月には大日本プロレスのデスマッチ戦線にも復帰してデスマッチヤングブラッズ(木髙イサミ、竹田誠志、星野勘九郎、清水基嗣)を結成。竹田誠志とのタッグで大日本最侠タッグリーグ&BJWタッグ王座決定戦に参加する。伊東竜二&石川修司組の負傷による繰り上げとはいえ決勝戦にコマを進め、宮本裕向&佐々木貴組に勝利し、第26代BJW認定タッグ王者となった。2009年7月27日に関本大介&岡林裕二組に敗れてタッグ王座陥落してからは、石川修司が保持していたKO-D無差別級への挑戦するも敗北。2010年にはアブドーラ小林、沼澤邪鬼らに勝利してデスマッチヘビー級の挑戦権を獲得するも、宮本裕向とのダブルガラスボート&インディアンストラップマッチで敗北。タイトルを前に足踏みする状態が続いていた。
転機となったのは2011年1月3日のユニオンプロレス後楽園大会。この大会で韓国に流出していたDDT EXTREAM級の王座をキム・ナンプンから奪取。これを機に、石川修司の後塵を拝していた状態からイサミのエースへの道のりが始まった。
2011年5月5日の大日本横浜文化体育館(文体)大会では宮本とのヤンキー二丁拳銃として葛西&沼澤の045邪猿気違'sに挑戦。BJW認定タッグ王座を獲得した。
デスマッチ、いやインディーマット界新時代の牽引役に
ヤンキー二丁拳銃としてのBJW認定タッグ王座は2014年4月に陥落したが、同年11月の最侠タッグリーグの優勝戦で当時のタッグ王者だった忍&岡林裕二組に勝利し、再度タッグ王座を獲得。「防衛回数100回」を目標に、2014年5月31日の後楽園ホール大会で佐藤耕平&石川修司組に敗れるまで17回もの防衛を重ねた。さらに2013年8月18日のDDT両国大会では佐藤光留&坂口征夫組に勝利し、CMLL認定KO-Dタッグ王座も獲得。飯伏幸太&ケニー・オメガのゴールデン・ラバーズに敗れるまでインディーを代表するタッグベルトの二冠王に輝いた。
シングル王座もEXTREAM級はケニー・オメガに敗れて手放したが、2013年11月4日の大日本横浜文化体育館で石川修司を破ってBJW認定デスマッチヘビー級王座を獲得。2014年3月23日のユニオン川崎大会ではイワン・マルコフを破ってユニオンMAX王座を獲得した。
こうした活躍が認められ、2013年の東スポ認定日本プロレス大賞では惜しくも最優秀タッグチーム賞を次点で逃したが、サムライTV(のインディーのお仕事)が認定する日本インディー大賞ではベストユニット賞、ベストバウト、MVPの三冠を手にした。
2014年上半期にそれまで獲得してきたベルトはみんな失ったが、2014年KING OF DDTトーナメントに優勝し、「両国ピーターパン」でKO-D無差別級王座の挑戦者としてメインイベントのサバイバル3wayマッチに挑む。試合相手はチャンピオンのHARASHIMA、そしてケニー・オメガ。ケニー脱落後はHARASHIMAを追い込むが、スワンダイブ式蒼魔刀に敗れる。いつもは勝っても負けても「試合を楽しむ」と語っていたイサミだったが、この日の敗戦後だけは泣きながら「悔しい」「次はHARASHIMAを潰しに行きます」と語る。この年のDDTドラマティック総選挙で2位になり、HARASHIMAとKO-D無差別級王座を賭けて再戦するが、惜しくも敗れる。また、この年の11月17日には初の自主興行「木髙イサミのプロレス」を新宿FACEで開催した。
2015年はユニオンプロレスの解散など激動が続くが全日本プロレスではヤンキーニ丁拳銃としてアジアタッグを獲得。ドラマティック総選挙では第一位を獲得。その結果を受けた11月28日の大阪府立第一大会では、王者・坂口征夫を破って新たに第55代KO-D無差別級王者となる。
得意技
細身だが、スピードと高さを利用したトリッキーな攻撃を得意とする。K-DOJO時代、フリー時代、ユニオン時代で使う技が異なるが、ここではユニオンや大日でよく使われる技を列記する。
- ダイビング・ダブル・ニードロップ(パイプ椅子やラダー、蛍光灯の束などを携えて放つことも多い)
- ギガラダーブレイク(ラダー最上段からのダブル・ニードロップ)
- 勇脚(「いさみあし」と読む。いわゆるトラース・キック)
- 勇脚・斬(ハーフダウンした相手に向かって走り込んで放つトラース・キック。現在の必殺技)
- 六八九(指をつかんでの変形腕固め。名前はDDT48総選挙の得票数から。かつては四壱九だった)
- 螺旋丸(らせんがんと読む。垂直落下式のカサドーラ)
- 八咫烏(一度ガードされた相手に向かって光速で放つバズソーキック)
- トペ・スイシーダ
- 昇竜拳(ケニー・オメガの波動拳に対抗して編み出された)
- かめはめ波(こちらもケニーに対抗して編み出された)
- 二丁拳銃(ヤンキー二丁拳銃の合体技。コーナーに倒れ込んだ相手に向かって、ダブル低空ドロップキックを放つ)
- 勇脚・焔(ヤンキー二丁拳銃の合体技。宮本がファイヤーサンダーで相手をマットに突き刺し、イサミが勇脚・斬でとどめを刺す)
- 腕パンチ(相手の腕に放つナックルパート。厳密には反則だが、プロレスは5カウント以内なら反則も許されるし、デスマッチやハードコアでは反則なんか取らない。蛍光灯デスマッチでは相手に蛍光灯束を渡して、それを目掛けて放つ事が多い。このとき危険防止を兼ねて、腕に装着している「大日魂」と書かれたリストバンドを手に付け直してから攻撃する)
エピソード
- 出身は横浜市となっているが、生まれたのは母親の実家である鹿児島である。その後、小学校2年生までは東京で過ごしていた。
- 小学校3年生までは「一緒に日本百名山を登るのが夢」だという父親に登山に連れ出されていた。最初に登ったのは瑞牆山で、他に北岳や穂高岳や、高尾山や筑波山なども制したが、富士山だけは登ってないという。特にキツかったのは槍ヶ岳で、断崖絶壁を鎖を頼りに登っていたそうだ。
- 子供の頃はゲームや漫画(ジャンプ派)が好きなインドア系であり、ゲームセンターも怖がって行かないような子だった。ヤンキーなキャラクターは暗黒プロレス組織666で宮本と組んでからだが、今はすっかり遅咲きヤンキーが身に染みついている。
- プロレスとの出会いは柔道部を辞めた中学3年生の頃。ムタやライガー目当てでワールド・プロレスリングを見ていたが、印象に残ったのは金本浩二や大谷晋二郎だったという。
- 高校2年生のときに高田道場に入門。同期には櫛田雄二郎(KUSHIDA)がいた。アマチュア修斗や柔術の大会にも出たが、当時は1回戦ボーイ止まりだったという。
- 高校卒業後(ちなみに中高一貫の山手学院)、新日本やFMW、バトラーツにDDT、アルシオンにWWEとプロレス観戦しまくっていた。このとき、MIKAMIにあこがれてプロレスラーになる決意を固める。事実、マッスル1でもMIKAMIの首を獲りに来た的なコメントを残している。
- 体の線も細く、運動神経も良くない身だったが週刊プロレスに載っていたTAKAみちのくの連載「毒針日記」にあったK-DOJO練習生募集「身長、体重、経歴、すべて不問。レスラーを諦めているなら俺のところに来い」の文章は自分のための言葉だと思い、入門を決意した。
- 長期欠場の原因となった頸椎椎間板ヘルニアは「バスも電車も乗らず、タクシーでゆっくり、急ブレーキは絶対踏まないように帰らないとダメ。今、ジェットコースターに乗ったら即死だ」と言われるくらいの重傷だった。
- アイドルオタクとしては筋金入りで、主にハロプロオタク。特に加護亜依の大ファンであった。今はアップアップガールズ(仮)推しらしい。
- K-DOJO時代に色々とあった真霜拳號のことはガチで嫌っており、真霜が大家拳號としてユニオンに上がっていた頃も側に並ぼうともしなかった。しぶしぶながらもようやく握手できるようになったのは、つい最近のことである。
- 酒好きだが、ウイスキーは割と苦手らしい。
- ユニオン所属ながら、大日本プロレスに対する愛着は強い。2014年1月2日の大日本後楽園では、当時大日本所属の塚本拓海を挑戦者に迎えてのデスマッチヘビー級王座の防衛戦に勝利。このとき、「大日魂」をキーワードに掲げた。試合後、「「大日魂」とは、物を引き寄せる「磁場」みたいな物」と語っている。
関連動画
関連商品
関連項目
外部リンク
- 0
- 0pt