推理小説は、一定の形式を必要とする文学である。それが成功するためには、
1 人工的な謎と、
2 謎を解明する人工的な論理と、
3 それに伴う意外性、
を必要とする。
僕にとって〝本格ミステリ〟というのは、随分と曖昧で語弊のある云い方だとは思いますが、〝雰囲気〟なのです。何と云うか、ミステリというジャンルが、その歴史のなかで育んできた様々な〝本格ミステリ的エッセンス〟とでもいったものがあって、それらがうまく作中で結晶してさえいれば、結晶化の仕方がどれほど既成の〝本格〟と異なっていても、また局部肥大的であったとしても、その作品は僕にとっての〝本格〟である、と思う。
本格ミステリとは何か? それはミステリ作家、評論家、そしてマニアにとって永遠の命題である。
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この項目は独自研究と独自史観を元に書かれています。 信じる信じないはあなた次第です。 本記事は本格ミステリの定義を決めることを目的としたものではありません。あなたの中の本格ミステリのイデアを大切に。 |
広い意味でのミステリー全般についてはミステリーの記事を参照。
また日本のミステリーにおける綾辻行人以降のムーブメントについては新本格の記事を参照。
はじめに
「本格ミステリ」でGoogle検索するとわかるが、これほど世の中に溢れているジャンルにもかかわらず「本格ミステリとは何か」について端的に説明しているページというのはなかなか見つからない。あってもあやしげないかがでしたかブログとかだし。
さすがにWikipediaには項目があるものの、「本格派推理小説」といういったい誰が使ってるんだその用語?いつの時代の言葉ですか?という謎の項目名で立項されているし、そのWikipediaの内容もはっきり言って「本格ミステリとは何か?」という根本的なことはほとんど何も説明していないに等しい。また、ピクシブ百科事典やアニヲタwikiにも「本格ミステリ」の項はない(2023年5月時点)。
本項初版作成者はニコニコ大百科にて「新本格」とか「叙述トリック」とか「特殊設定ミステリ」とか「クローズド・サークル」とかのミステリ用語の記事を書いてきた者であるが、肝心の「本格ミステリ」の記事をそれらの前に作らずにいたのも、在野のミステリマニアがこんな場末のネット百科事典で迂闊に「本格ミステリの定義」なんぞを語って、検索してきた無邪気な読者に無邪気に信じられても困るし責任も取れないというのがある。
というわけで、まず最初に予防線として、某5ちゃんねるのライトノベル板のTOPに書かれた有名な文言に倣ってこう言っておこう。
あなたがそうだと思うものが本格ミステリです。
ただし、他人の同意を得られるとは限りません。
以上、で終わりにしてもいい気がするが、さすがにそれでは何の説明にもならないので、以下つらつらと説明していく。「何が本格ミステリか」はプロの作家・評論家やマニアの間でも永遠に決着のつかない面倒臭い問題なので、この記事では原理主義的な意見からガバガバ本格認定派まで、幅広く「こういう意見もあるよ」というスタンスで紹介していくことにする。
また、「本格ミステリ」についての見方も時の経過とともに移ろい続けている。一般に流通している「本格ミステリ」についての言説は、90年代~00年代半ばぐらい(あるいはそれ以前)のものがそのままアップデートされずにいるものも結構ある。
この記事は2024年現在、本項初版作成者の「まあだいたい今の本格ミステリ界の『本格ミステリ』に対する主流の認識はこんな感じだと思う」という認識に基づいて書かれているが、そもそも本項初版作成者のその認識が正しいか、これが本当に主流の認識かどうかも定かでは無いので、まあそのぐらいのつもりで、あまり素直に真に受けず、眉を唾でビショビショにする感じで読んでいただきたい(予防線)。
何が言いたいかというと、こんな記事の内容を真に受けて本格ミステリの定義の話をしてミステリマニアと喧嘩になっても、本項初版作成者は責任を取れませんのであしからず、ということである。
結局のところ、「本格ミステリとは何か?」という問いの答えが知りたい人は、こんなニコニコ大百科なんかでお手軽に調べようとするより、世の本格ミステリとされる作品をたくさん読んで、本格ミステリについてのいろいろな文章を読んで、貴方自身で見つけてほしい。楽しいよ!
とりあえず基礎知識の話から
まあ、それはそれとしてこの記事では「本格ミステリとは何か?」という問題について一応の説明らしきものを試みるわけだが、とりあえず一番最初に説明しておくべきことがある。
あなたは「本格」という言葉にどんなイメージを浮かべるだろう?
たとえば「本格中華」であれば「本場の」とか「ちゃんとした」とか「正統な」とか「(ただの「中華」よりも)よくできた」とか、そんなイメージを抱くのではないだろうか。
その上で、これはたいへんよくある誤解というか語弊なのだが、少なくとも現在において、
「本格ミステリ」の「本格」とは、そうした「本格的」という意味ではない。
単なるジャンル区分の用語である。なので「本格」の一語だけでも本格ミステリを指す。
ここで「え?何言ってんの?」と思った人もいると思うが、そういう人はたぶん「ミステリー」を「殺人事件が起きて名探偵がトリックを暴いて犯人を指摘するやつ」ぐらいのイメージで捉えており、「本格ミステリ」という言葉を「それの本格的な(≒しっかりした、真っ当な、作者が力を入れて書いた)やつ」だと思っている人だろう。
もちろん「ミステリー」に対する「殺人事件が起きて名探偵がトリックを暴いて犯人を指摘するやつ」という認識自体は全く間違っていないのだが、そもそも貴方がイメージしているそれは広い意味での「ミステリー」の中で「本格ミステリ」と呼ばれるジャンル特有の形式である。
つまり「ミステリー」⊃「本格ミステリ」であり、一般的に「ミステリーのお約束」として認識されているものは「本格ミステリ」のそれにあたる。
ジャンルとしての「ミステリー」は、謎解き要素のない冒険小説やサスペンスなど、もっと幅広いジャンルを含有しており、「本格ミステリ(本格)」はその中の1ジャンルの名前なのだ。
「いやいや、どこの馬の骨ともわからんニコ百の編集者ごときが勝手なことをぬかすな」という方のために、現代日本を代表する本格ミステリ作家・有栖川有栖の文章も引用しておこう。
本格ミステリというのは「オーソドックスな謎解きを中心にしたミステリ」の意なのだが、「作者が本腰を入れて書いたミステリ」と誤解されがちである。そのように誤解させたがっているのか、と疑いたくなる本の宣伝文句も以前はよく見掛けた。
なお、Wikipediaの項目名の「本格派」というのは、そういう「本格ミステリ」を好んで書く作家のことを、だいたい昭和の頃まで「本格派」と呼んでいたのにおそらく由来する。後述する「社会派」ブームから「新本格」以前の時期は、「本格」にこだわる作家が少なかったため、そういう物好きな作家を分類する言葉として「本格派」があった。しかし本格ミステリ作家が山ほどいる現代では「本格派」はド死語である。
なのでWikipediaの項目名は明らかにおかしいのだ。「本格派」はそのジャンルにこだわる作家のことであって、作品やそれを含むジャンルのことを「本格派ミステリ」とは普通は言わないのである。せめて項目名を「本格推理小説」にしろ。
閑話休題。
というわけで「本格」は本来ジャンル名でしかないのだが、出版業界では、特に80年代~90年代ぐらいに宣伝文句として「本格的」ぐらいの意味合いでの「本格推理小説」というワードが濫用された。現代でも「本格的」ぐらいの意味合いで「本格ミステリー」という言葉が使われることはままある。
そして、そういう意味合いで「本格推理小説」「本格ミステリー」と呼ばれる作品の中には、ジャンルとしての「本格ミステリ」に該当する作品も、そうとは言いにくい作品も混在しがちである。
なので「本格推理小説」「本格ミステリー」は「本格ミステリ」の意味で使われることもあるが、「本格推理小説」「本格ミステリー」が全て「本格ミステリ」を意味するわけではない、とかいう一般読者にとっては全く意味のわからないであろう事態が生じている。
なにがなんだかわからない、お前は何を言っているんだ、と思われた方も多いと思うが、このへんの用語の混乱に関しては、そうなるに至った歴史の説明をしないといけないので、まあちょっと面倒臭いミステリマニアの解説に付き合っていただきたい。歴史の話はどうでもいいという人は次の節まで飛ばしてください。
探偵小説?推理小説?本格ミステリ?
さて、本記事冒頭に引用した3つの文章は、それぞれ日本の探偵小説の父・江戸川乱歩、戦後の昭和に本格派の作家として活躍した土屋隆夫、そして「新本格」の始まりとなった綾辻行人という3人の作家の、本格ミステリの定義に関する文章である。……え、「乱歩と綾辻は知ってるけど土屋隆夫って誰?」って? 今はほとんど忘れられたけど昔は偉い作家だった人です。現代のミステリを読む上では別に知らなくても特に不自由はないけど……。
それぞれ「探偵小説」「推理小説」「本格ミステリ」について語っているが、まあ基本的にこの3つはどれも同じジャンルに属する小説について語っている文章として受け取っていただいて構わない。そのジャンルというのがこの記事で説明する「本格ミステリ」である。
ただし、広い意味の言葉としては「探偵小説」=「推理小説」=「本格ミステリ」ではない。今同じものって言ったじゃん、お前は何を言っているんだ、と言われそうだが、これについては現在「ミステリー」と呼ばれているジャンルの小説に対する用語の変遷が絡んで来る。
というわけで歴史の話になるのだが、そもそも日本における「ミステリー」の歴史は、明治維新の開国によって欧米の文化が流入してきたことに始まる。エドガー・アラン・ポー「モルグ街の殺人」が発表された1841年は日本では天保12年、大塩平八郎の乱が起きた年である。アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』が「ストランド」誌に連載されたのが1891年から1892年、日本では明治24年~25年のことだ。
この頃、海外の小説を翻案[1]して日本に紹介していたのが黒岩涙香。『モンテ・クリスト伯』を『巌窟王』、『レ・ミゼラブル』を『噫無情』と題して紹介したのが有名だが、そうした涙香の翻案作品の中にはあちらの「Detective Novel(あるいはDetective Story)」が含まれていた。その訳語として充てられたのが「探偵小説」という言葉である。涙香は自身でも『無惨』という創作探偵小説を手掛け、これが日本初の創作探偵小説といわれている。
大正時代に入ると海外の探偵小説は当時のインテリ向けの知的でモダンな読み物として人気を集め、創刊当初は都会のインテリのための硬派な評論誌だった雑誌「新青年」は翻訳探偵小説を載せはじめた結果、すっかり探偵小説専門誌になってしまった。
そんな「新青年」から1923年、短編「二銭銅貨」でデビューしたのが江戸川乱歩である。乱歩の登場で、それまで海外作品の翻訳が主体だった探偵小説は、日本人作家による創作が盛んになっていった。
ただ、何しろ大元の乱歩の作風がアレなので(念の為に付記しておくが、乱歩自身は謎解き重視の探偵小説を指向していた。そっちでも天才だったけれど、それ以上にあまりにも怪奇幻想方面に才能がありすぎただけで……)、そうした創作探偵小説は昭和初期のエログロナンセンスの風潮と合流し、謎解きの要素よりもエログロや怪奇幻想に主軸を置いた作品も多くなっていき(例:夢野久作『ドグラ・マグラ』)、また今でいえばSFや冒険小説に該当するものも含め、それらが全部ひっくるめて「探偵小説」と呼ばれていた。
そもそも当時の日本にはまだ謎解きを中心とするミステリ創作の方法論が根付いておらず、みんな欧米の作品を原書で、もしくは当時のわりといい加減な翻訳や抄訳で読みながら手探りで書いていたので、「本格」に該当する作品自体が少なかった。これはまあ致し方ないところである。
しかしそうした風潮に対して「いかんでしょ」ともの申したのが甲賀三郎という作家。この人は当時の有名どころの探偵小説作家であり、ゴリゴリの謎解き原理主義者だった。彼は探偵による謎解きをメインとする探偵小説を「本格探偵小説」、そうでない作品を「変格探偵小説」と読んで区別するべきだ、と主張した。これがミステリー小説の歴史における「本格」という語の登場である。
というわけで「本格」という語はそもそも最初からジャンル区分のための用語である。これは現代も変わらない。単なるジャンル区分なので「本格」と「変格」の間にも優劣はないのだが、語感から「本格こそが正統」というニュアンスを感じ取ってこの語を嫌う作家や使うことを避ける評論家もいる。まあ実際、語義的にもそういうニュアンスがあることも確かだし……。
さて、戦時中は当局の検閲で探偵小説は事実上書けなくなってしまっていたが、終戦を迎えると横溝正史が相次いで力作を発表し、高木彬光や鮎川哲也といった新人の登場で探偵小説は復活することになる。戦前の探偵小説は短編が中心だったが、戦後は長編が多く書かれるようになり、本格ものの長編の名作が多数書かれた。日本の本格ミステリはこの時期に最初の黄金期を迎えたと言われることもある(一方、「変格」の方はSFや幻想文学など、それぞれのジャンルに細分化されていった)。
……のだが、1946年に制定された当用漢字表から「探偵小説」の「偵」の字が外されてしまった。新聞などで「探てい小説」と表記しなくてはいけなくなってしまったのである。これはさすがに字面が間抜けすぎるということで、「探偵小説」に替わる用語として使われ始めたのが「推理小説」であった。
それでも50年代ぐらいまでは業界用語として「探偵小説」の方がまだ主流だったのだが、1958年に松本清張『点と線』がベストセラーになると、いわゆる「社会派」ブームが到来する。このリアリティ重視のミステリーという新潮流に「推理小説」という新しいワードがぴたりとハマった。それまでの乱歩・横溝ラインの古臭い「探偵小説」に対して、現代的な新しい「推理小説」という表記が主流に取って変わることになる。これは1947年に乱歩らによって設立された作家団体の「探偵作家クラブ(日本探偵作家クラブ)」が、1963年に現在の「日本推理作家協会」に改称したことに象徴される。
もちろん「社会派」も「本格」も単なるジャンル区分である以上、本来は対立項ではないはずなのだが(「社会派」かつ「本格」の作品も当然ある)、「社会派」ブームを主導した松本清張が「探偵小説を「お化屋敷」の掛小屋からリアリズムの外に出したかったのである」と述べているように、「社会派」自体が従来の「本格」を含む「探偵小説」に対するアンチテーゼという側面があったこともまた事実であり、その結果として謎解き重視のジャンルとしての「本格」という言葉は、大元の「探偵小説」と一緒くたに古臭いものとして影が薄くなってしまった。
その後、社会派推理小説は推理要素が形骸化し、風俗小説化したことで徐々に勢いを失ったものの、70年代に入って森村誠一などが凝ったトリックを導入することで推理要素の復権を図ったりしたことで持ち直し、「リアリティのある事件」+「トリック」というのが「推理小説」のひとつのフォーマットとして定着する。
こうして「推理小説」という言葉は一般に浸透し、出版社サイドは「力作」ぐらいの意味で「本格推理小説」という言葉を使うようになっていく。
さて、そんな中の70年代、ルシアン・ネイハム『シャドー81』の邦訳をきっかけに、冒険小説を中心とした翻訳エンターテインメント小説のブームが到来する。このとき始まったのが、雑誌「週刊文春」による年間のミステリーランキング企画「週刊文春ミステリーベスト10」であった。
この週刊文春の企画の偉大だったところは、最初の1977年のベスト10のラインナップを見ればわかるように、ジェイムズ・ヤッフェ『ママはなんでも知っている』や梶龍雄『透明な季節』のような謎解きものから、ネイハム『シャドー81』のような冒険小説、スティーヴン・キング『呪われた町』のようなホラーまで全部ひっくるめて「ミステリー」と呼んで同列に並べてランキング化したことだった。このミステリーベスト10は以降毎年の恒例となり、1989年にはこの企画に対するカウンターとして宝島社の「このミステリーがすごい!」が始まり、謎解きものからハードボイルド・冒険小説・SF・ホラーまでなんでもありの「ミステリー」というジャンル表記が、徐々に「推理小説」に取って変わっていくことになる。これが現代の「ミステリー」というジャンルにそのまま繋がっている。
その一方、70年代には角川文庫のメディアミックス戦略で空前の横溝正史ブームが起きたりして、昔ながらの探偵小説の価値が見直されはじめてきた。そんな中、島田荘司と講談社の編集者・宇山日出臣の仕掛けによって、1987年に講談社ノベルスから綾辻行人『十角館の殺人』が登場、いわゆる「新本格」ムーブメントが始まる。これについて詳しいことは「新本格」の記事に譲るが、これによって清張以降やや影の薄かった「本格」というジャンルが活況を取り戻し、現在に繋がっていく。
この「清張以降、新本格以前」の時期を「本格冬の時代」とも言うが、「本当に『冬の時代』なんてあったの?」という議論もある。これについても詳しくは「新本格」の記事で。
並行して上記のようになんでもありのジャンル全体を示す言葉が「推理小説」から「ミステリー」に入れ替わっていったわけだが、「ミステリー」という語の指す範囲が広くなりすぎたこと、前述の通り出版社側が「力作」という意味合いで「本格推理小説」というワードを使っていたため、こうしたジャンルとしての「本格」を「本格推理小説」や「本格ミステリー」と呼称すると、語弊や誤解が生じかねないという状況にあった。
そんなわけで、意味が広くなりすぎた「ミステリー」に対し、狭い意味での謎解き中心の作品を指すワードとして「ミステリ」が使われるようになり、ジャンルとしての「本格」はより明確に「本格ミステリ」という語に集約されることになった。
以後、1997年から本格ミステリ限定の年間ランキング「本格ミステリ・ベスト10」が始まり、2000年には作家団体「本格ミステリ作家クラブ」が設立され、翌年から年間の最優秀作を表彰する「本格ミステリ大賞」が始まって、現在に至る。
長い。四行でまとめろ
- 戦前~1950年代ぐらいまでのジャンル全体の呼称が「探偵小説」。
- 1960年代~昭和終わりぐらいまでのジャンル全体の呼称が「推理小説」。
- 平成以降のジャンル全体の呼称が「ミステリー」。
- 「本格ミステリ」はそれらの中の1ジャンルであり、謎解き重視の作品を指す。
ということである。ただし、本記事冒頭の乱歩や土屋隆夫は明らかに「探偵小説」や「推理小説」を、狭い意味での謎解き重視のジャンルとしての「本格ミステリ」の意味合いで使っている。また、「本格推理小説」や「本格ミステリー」を「本格ミステリ」の意味で使う人もいる(島田荘司とか)。このあたりはどういう意味合いでその言葉を使っているかは、文章のニュアンスから判断するしかない。
そしてまた『金田一少年の事件簿』や『名探偵コナン』の大ヒットによって、マニアではない一般層にも「名探偵が犯人の仕掛けたトリックを見破り、何人かの容疑者の中から犯人をズバリと指摘する」という本格ミステリ特有の形式が「ミステリー」の定型として受容された結果、一般読者も「ミステリー」という言葉を(意識せず)狭い意味での「本格ミステリ」の意味で使ってたりするし、後述の通りその「本格」の範囲もまた人によって違っているので、言葉の意味ははてしなく混乱していくわけである。
Q:ぜんぜんわからん。なんでそんな言葉の意味がふわふわしてるの?
A:結局みんなその場のノリと自己流のイメージで言葉を使ってるので……。
Q:もうちょっとちゃんと意味と用法を定義したら?
A:いまさら無理だと思います。ふわふわ定義の緩さがジャンルの多様性を支えている面もあるし……。
余談だが、どこで半端に聞きかじったか、現代でも「本格以外のミステリを『変格』と呼ぶんだよ」とか言っちゃう人がいるが、前述の通り「変格」はそこに内包されていた各ジャンル(SF、ホラー、幻想小説など)がそれぞれ独立してひとつのジャンルとして確立されていったため、少なくともジャンル区分としての「変格」はほぼ半世紀以上前には滅んだド死語である。現代でそんなこと言ってたらナウなヤングもチョベリバである。
現代で「変格」という言葉をあえて使うとすれば、「戦前の探偵小説の雰囲気のある変なミステリ」ぐらいの意味になるだろう。
もひとつ余談として、「本格」と「新本格」を何か別のジャンルだと思ってる人もいるようなのだが、「新本格」は歴史的な区分のことであって、新本格もジャンルとしては「本格ミステリ」である。「本格ミステリ」でGoogle検索すると「本格 新本格 違い」というサジェストが出てきたりするが、「本格」と「新本格」って何が違うの?という質問は、「日本」と「平成」って何が違うの?と訊いてるようなものなので、答えようがない。
まあ新本格にはある種一定の「新本格らしさ」があるのは事実だし、また一時期の新本格の作品の中に明らかにジャンルとしての「本格」からはみ出した作品が結構あったのも事実で、それで業界がどったんばったん大騒ぎしたこともあるのだが、それらについては「新本格」の記事で。
で、結局「本格ミステリ」って何なのよ?
いやもうホントに人によって何を本格と見なすかは差がありすぎて千差万別なので、定義しようとするとどうとでも取れるようなクソ雑定義にならざるを得ない。
実際、21世紀になってからも東野圭吾『容疑者Xの献身』を巡って不毛な大論争が勃発したこともあるし、本格ミステリ大賞でも、綾辻行人『Another』が候補に挙がった際には投票者の間で「どう考えても本格じゃないから候補に入ってること自体間違ってる」と候補作選びに文句を言う人から「めっちゃ面白い本格だ!」と喜んで投票する人まで様々であった(ちなみに結果は受賞作に1票差で落選)。
漫画化・アニメ化され人気の城平京『虚構推理』なんかも、1作目で本格ミステリ大賞を受賞しているが、1作目の刊行当時から「(本格)ミステリではない」という人も結構いた。
まあそれでも本格ミステリファンが100人いればまず100人とも本格だと認めるだろう作品もある。たとえばエラリー・クイーンの国名シリーズや、島田荘司の『占星術殺人事件』を(好みや作品評価は別として)「そもそも本格ミステリではない」と言う本格ミステリファンというのは、仮にいたとしてもよほど何か変にこじらせた奇人の類いになるだろう。
その一方で、普通は本格ミステリと見なされない作品に対して「いやこれも本格だ」と本格ミステリ的な楽しみ方を見出すタイプの本格ミステリファンもいる。北村薫とか。
というわけで、以下に「これが含まれる作品は本格ミステリと見なされることがある」という主要な要素を思いつくままに列挙してみる。他にもあるかも。
- 物語の中心に「謎」が存在し、それが(論理的な手続きによって)解決されること。
- 名探偵が登場し、事件の謎を解く形式の物語であること。
- 「謎」が物語中で解決される前に、充分な手がかりが用意され、読者にも真相が推理可能であること。
- 「謎」が解決された際に、作中にその真相と矛盾する描写が存在しないこと。
- 真相に納得のいく意外性(驚き)があること。
- 伏線が張られ、それがきちんと回収されること。
- 密室やアリバイなどの何らかのトリックや、クローズド・サークルや犯人当てなど本格ミステリの形式・ガジェットが用いられていること。
- ミスディレクションや叙述トリックなど、本格ミステリのテクニックやテーマが用いられていること。
その人が何を本格ミステリと見なすかは、これらの要素のどの部分を重視するかによる。
たとえば原理主義的なマニアであれば、1・3・4を特に神聖視し、真相に至るための手がかりが不足していたり、ちょっとした描写のミスがあったりすると即座に「本格ではない」「本格とはいえない」と言い出したりする。
その一方、2や7を重視する人であれば、名探偵が出てきて密室やアリバイの謎を解く話は全部「本格」になる。
5・6・8を重視する人であれば、鮮やかな伏線回収や叙述トリックのある作品は全部「本格」である。別ジャンルの作品を本格認定するのが好きなマニアはこのタイプが多い。
実際のところ、「本格ミステリが好き」という人は1・2・7を様式美として愛している人、またそれに加えて3・4・5・6を成立させようという目的意識が作品にあるかどうかを本格か否かの判断基準として置いている、という感じの人が多いんじゃないかと思う。
これらの要素が全部入っていれば、まあ100人中ほぼ100人が納得する本格ミステリになると思うが、これもあくまで本項初版作成者の私見に過ぎない。100人の本格ファンがいれば100通りの本格ミステリの定義があると思ってほしい。
もちろん、「本格ミステリと見なせること」と「本格ミステリとして優れていること」は別である。誰がどう見ても本格ミステリだがつまらない本格もあるし、全く本格ミステリに見えないにも関わらず優れた本格ということもある。SFでもそうだがこの点をごっちゃにして「俺が考える理想の本格でなければ本格ではない」というタイプのマニアが一番面倒臭く思われがち。さすがに現代ではそういうタイプはあまり見ない気がするけど。あ、特定個人を批判するものではありません。
ここまで日本の話ばかりだけど海外ではどうなの?
ミステリーの祖国たる欧米では、日本でいう「本格ミステリ」にあたるジャンルはほぼ滅亡している。……というのが定説。
その歴史に関しては「ミステリー」の記事でも簡単に解説されているが、ミステリーという小説ジャンルは、エドガー・アラン・ポー「モルグ街の殺人」(1841年)を祖とし、アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』(1891年~1892年)の爆発的ヒットで後追いの作品が大量に生まれたことでひとつのジャンルとして確立された。
その後、1920年代~1930年代にかけて英米でアガサ・クリスティ、エラリー・クイーン、ジョン・ディクスン・カーなどが活躍する「本格ミステリ黄金時代」が到来したが、第二次大戦後は欧米のミステリーの中心はハードボイルド、犯罪小説、冒険小説などに移行していき、謎解き中心の「本格」は退潮していった。
前述の通り日本では「新本格」によって「本格」が再興したわけだが、海外では「新本格」が起こらなかったため、現在では「本格」らしい海外作品は、黄金時代の作家を敬愛する物好きな少数の作家の作品がぽつぽつ入ってくる程度(ポール・アルテとか、アンソニー・ホロヴィッツとか)。ミステリー全般を扱う『このミス』や『週刊文春ミステリーベスト10』が海外作品にもそれなりにページを割いているのに、本格専門の『本格ミステリ・ベスト10』では海外作品のページがめちゃくちゃ少ないのがその証拠である。
そんな状況のため、日本の「本格」作品が海外で翻訳され「Honkaku」と呼ばれるという逆転現象も起きたりしている。
「新本格」初期の頃には「海外でとっくに滅んだ古臭い本格に今さら戻ってどーすんだ」的な、「ミステリーはパズル的な謎解きものから人間を描いた犯罪小説や冒険小説へ進化する」という進歩史観に基づいた批判も結構あったようだが、さすがに現代ではそういうことを言う人はそんなにいないと思う。
なお、中国語圏では島田荘司が新人賞を作るなど本格ミステリの普及に尽力したこともあってか、華文ミステリは日本の新本格の影響を受けた本格ミステリが多く見られる。
また、実は欧米でも「本格」に該当する作品は今でも結構書かれているのだが、翻訳出版される水準に達した作品がほとんど無いので、ほとんど日本に入ってこないだけ……という話もある。実際のところどうなのかは、欧米のミステリマニアに聞くしかないのかもしれない。
とりあえず本格ミステリが好きな人は、本格ミステリがいっぱい書かれ、たくさん出版されている日本に生まれたことを喜べばいいんじゃないかな。
ありがちな誤解やよくある言説について
「トリックは出尽くした」系の論とトリック中心主義の現在
日本では伝統的に、一般層まで非常に根深く蔓延している認識として「ミステリーには何らかのトリックがなければならない」という認識がある。さすがに現代では減っている気もするが、創作をやっている人がミステリーを書く(描く)ことに苦手意識を持っている場合、「トリックが思いつかない」ということを理由にしている可能性は結構高い(と思う)。
密室トリックやアリバイトリックなどが本格ミステリの大きな魅力であり華であることは間違いないし、「トリックは作家の命」とすら言われていた時代もある。しかし同時に、「ミステリのトリックは既に出尽くした」という言説はもう半世紀以上前から言われ続けている。さらに「既出のトリックの再利用はNG」という倫理意識も根強くあるため、「トリックが出尽くしたのでもう本格ミステリは終わり」なんて雑な意見が大真面目に語られたりもする。そもそも現実問題として古今東西のあらゆるミステリーのトリックを網羅して被りを避けるなんて、現代では物理的に不可能である。
この「トリック」という概念自体、どこからどこまでが「トリック」なのかがまた一概には定義しにくい問題で、用語の定義と意味が拡散・混乱しがちなのだが……。
実際のところ、70年代には都筑道夫が「トリック無用論」を唱えているように、本格ミステリにトリックは必須のものではない(いやいやそんなわけないやろ、とお思いの方は、たとえば北村薫の名作「砂糖合戦」(『空飛ぶ馬』収録)を読んでみてほしい。謎があり、論理的で意外な解決のあるあの作品に「トリック」はあるだろうか?)。
まあ、「トリックがなければ本格ではない」という見方もひとつの本格観ではあるが、少なくとも現代でそれが本格ミステリ界の支配的な見解とは言えないだろう。
なのにどうしてこれほど根深く「本格ミステリにはトリックが必須」という考え方(トリック中心主義)が一般まで根強く定着しているかというと、これはもうだいたい江戸川乱歩と松本清張と島田荘司のせいである。日本の本格ミステリ史の節目となったこの3人の作家がいずれもトリック中心主義者だったせいと言っていい。
探偵小説のトリックを愛しすぎた乱歩の「類別トリック集成」が後世に与えた大きすぎる影響は言うまでもない。もちろん、欧米の「黄金時代」の本格が数々のトリックとそのバリエーションを創出することで発展したのは事実だし、それを分類整理して後の作家の手引きとした乱歩の功績は偉大すぎるほど偉大なのだが、この乱歩的なトリック中心主義が、乱歩自身の存在感と影響力があまりにも大きすぎた故に、日本のミステリを呪縛してしまったことは否めない。「新しいトリックを考案すれば大乱歩の『類別トリック集成』に自分が新しい項目を付け加えられる」というのは、当時のミステリ作家たちにとってあまりにも魅力的なモチベーションだったわけであるからして。
実際、「社会派」ブームで乱歩的な探偵小説を駆逐した清張も「ミステリーには何らかのトリックが必要」という乱歩の認識を強く受け継いでいた[2]。清張の起こした「社会派」ブームは推理味の希薄な作品の濫造で勢いを失うが、70年代にそれを再興させた森村誠一もまた「社会派」に凝ったトリックを導入するという形で推理要素の復活を目論んだため、「本格」=「トリック小説」というイメージはますます強固になった。
さらに「新本格」を仕掛けた島田荘司も、あまりにもトリックメーカーとしての才能がありすぎたために必然的にトリック中心主義の考えを引き継ぎ、乱歩のトリック中心主義は実に21世紀まで永きに渡って一般的な認識として日本のミステリーに刻み込まれることとなる。
もっとも、乱歩自身ですら「もうトリックという坑道は掘り尽くされている」的なことを言っており、トリックに頼った本格ミステリの限界は早くから認識されていた。だからこそ清張の「社会派」以降、トリック一辺倒の古い「本格」は批判されてきたわけである。実際、70年代頃の森村誠一や斎藤栄といった「社会派」+「トリック」路線の推理小説を、都筑道夫は「昨日の本格」と呼んで批判している。
じゃあ本格ミステリはどっちに向かうべきなんだ、という話では、小説である以上人間を描くべきである、という話から、推理小説は「動機」を重視する「心理の謎」の方に向かうべきである――という論調が古くからあったわけだが、その「動機」を重視したはずの「社会派」が推理要素の形骸化で衰退し、トリック小説に回帰してしまったこともあってか、いまいち定着しなかった。
「新本格」が初期に当時の評論家や年配のマニアからバッシングを受けたのも、それが「トリック小説」としての「本格」への回帰と見なされ、「トリック一辺倒の本格に未来はない」という当時の「良識ある」ミステリ観が認識が影響していたと言えるのではないだろうか。
しかしこうしたトリック中心主義の呪縛は、「新本格」の勃興後、有栖川有栖や法月綸太郎といったエラリー・クイーンの影響を強く受けたロジック派の新人が登場し、評論活動の活発化や、北村薫による「日常の謎」の確立、西澤保彦による特殊設定ミステリの方法論の確立といった経緯を経て、徐々に薄まっていくことになる。島田荘司が『本格ミステリー宣言Ⅱ』での新本格批判で自分が送り出した作家たちから総スカンを食らい、影響力が低下したことも大きかったかもしれない。「21世紀本格」とかもう誰に訊いても「そういえばそんなもんあったね」でしかないだろうし。
そしてゼロ年代、本格ミステリ業界では、本格ミステリの形式を借りて本格から逸脱するメフィスト賞系の作品群が斯界に混乱を巻き起こし、ジャンル内に「本格とは何か」という根源的な問い直しを改めて促した(その行き着いた先が『容疑者Xの献身』論争。前述の通り詳しくは「新本格」の記事で)。
それ以降、本格ミステリ界では多重解決や特殊設定ミステリのブームという形で「本格ミステリにはロジックが必須」「ロジックの面白さが本格の魅力」という(都筑道夫が70年代に唱えていた)ロジック中心主義が主流になっている(と思う)。
乱歩の「難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さ」という定義の意味するところが、21世紀になってようやく本格ミステリ界の一定の共通認識になったと言えるのかもしれない。
そんなわけで「トリック」を売りにした本格ミステリは令和の現在、明らかに減少傾向にある。もちろん、「トリック」と「ロジック」は別に対立項ではない(「社会派」と「本格」が対立項ではないのと同様に)ので、ロジックが中心になればトリックが全く不要になるかというと、そんなこともない。
現代の本格ミステリも様々な趣向を凝らしたトリックを編み出しているが、現代の本格ミステリの評価基準は、そのトリックを使う必然性や、シチュエーションとトリックが有機的に絡んでいるかどうか、そしてそのトリックを解明する手がかりや論理に充分な説得力があるか――といった部分に重心が移っている。結果、「トリックそのものの斬新さ」が本格ミステリの評価において占めるウェイトはかなり小さくなり、ミステリの売り文句として「斬新なトリック」が使われることも少なくなった。
要するに現代の本格ミステリにおいては「ロジックを伴ったトリック」を、ロジックを中心に評価する、という評価軸が主流になっている(と思う)。
結局のところ、優れたトリックに優れたロジックが伴っていれば一番いい、というのは当たり前の話とも言えるだろう。「それができれば 苦労はしねェ!!!」と言いたくなるかもしれないが、現代の本格ミステリで高い評価を得ようとしたらそのぐらいの苦労はしないといけないので作家も大変である。
じゃあもうトリックの斬新さを追求するトリックものは古びて滅ぶだけなのかというと、トリック主体の本格が減少した結果、一周回ってトリック中心の本格が今の読者にはかえって新鮮になっているような節もあり、トリックを愛する本格ミステリ作家がいる限り、まだまだトリックものも滅びないだろう。
「本格ミステリに動機は不要」論と本格ミステリにおける「動機」について
本格ミステリに対して未だに言われることがあるのが、「動機なんてどんな可能性だって考えられるんだから、本格ミステリに動機は不要」という、いわゆる「動機不要論」である。
これは正確に言うと、「犯人当てにおける容疑者の絞り込みにおいて犯行動機の有無を推理の材料に用いるべきではない」ということであり、他者の内面を正確に知る術が人間には存在しない以上、これ自体はまあ本格ミステリの作劇手法としてひとつの正論であると言える。
ただ、この問題をややこしくしているのが「動機」という言葉の意味である。
なぜなら、本格ミステリにおける「動機」という言葉の指すものは、「その行為の原因・理由・背景」としての「動機」と、「その行為のもつ合理性」としての「動機」の2パターンが存在するからだ。
そして動機不要論で否定されているのは、前者の「原因・理由・背景」の方だけである。
前者の「原因・理由・背景」としての「動機」とは、いわゆる追いつめられた犯人が崖の上で告白する悲しい過去の類い。犯人がその犯行を為すに至った原因であり、理由であり、きっかけとなった出来事のことである。ちなみに「社会派」ブームを牽引した松本清張は「探偵小説は動機を重視すべきである」と主張したが、清張の言う「動機」は概ねこちらの意味を指している。
これは「家族・恋人を殺されたから」から「太陽が眩しかったから」までどんな理由でも設定できる以上、論理的な推理の材料とすることは難しい。
一方、後者の「合理性」としての動機とは、「その行為をすることに犯人にとってどんなメリットがあったか」ということを問うている。本格ミステリにおいては、こちらの「動機」を考えることは必須と言える。たとえば密室トリックひとつをとっても、「現場を密室にすることで犯人にどんなメリットがあるのか」という「犯人の行動のもつ合理性」をしっかりと固めておくことは、論理的な推理の有力な材料となり、真相の説得力を大いに高める効果がある。読者も「なんとなく密室を作ってみたかった」より、「こういう理由で密室にすることに大きなメリットがあった」という真相の方が納得できると感じられるだろう。
この「合理性」そのものを問うのが、いわゆる「ホワイダニット」(Why done it)、すなわち動機探しのミステリである。一見して不可解であったり不合理であったりする行動が、ある一点から見ると実は合理的な行動であった、という認識の転換に驚きが生じるのがホワイダニット・ミステリであり、これ自体がひとつのサブジャンルとして確立されている。
というわけで、本格ミステリにおける「動機」について語る際には、「原因・理由・背景」としての動機についての話なのか、それとも「合理性」としての「動機」についての話なのか、ということをしっかり区別しておきたい。
ノックスの十戒(とヴァン・ダインの二十則)は別にルールではない
マニアではない一般読者に非常にありがちな誤解として、いわゆる「ノックスの十戒」を現代でも守らねばならないミステリのルールだと思っているというものがある。これ自体は「ノックスの十戒」について解説される際に、決まり文句として「ミステリーを書くときのルール」として紹介されるので致し方ない面はある。
しかし、別にノックスの十戒はスポーツのルールのような、それを守らないとそもそも競技が成立しないというような厳密な概念では断じてない。同じような(そして十戒より知名度の低い)「ヴァン・ダインの二十則」もそうだが、あれらは当時の「つまらないミステリにありがちな要素」を列挙しているだけである。あれらを守っておけば、少なくともそういうダメなミステリになることだけは避けられるよ、という程度のものでしかない。
断言してもいいが、現代のミステリ作家でミステリを書くときにノックスの十戒を念頭に置いて遵守しようと努める作家はいない。そもそも十戒が発表されたのは約100年前であり、十戒に書かれているようなことはミステリ作劇の基本中の基本テクニックの部分でしかない。十戒を日本に紹介した江戸川乱歩も『幻影城』で「謂わば探偵小説初等文法であって、(中略)現在ではもう戒律などの時代を通りすぎている」と述べている。
要するに十戒とは1950年代にはもう時代遅れになっていた代物であり、十戒を守るとか守らないとかいう100年前の水準で考えているようではそもそも現代でミステリ作家にはなれない、と言うべきだろう。
野球で例えれば、ノックスの十戒で定められているようなことは「バッターは打ったら一塁に走らねばならない」というようなゲームを成立させる根本的なルールではなく、たとえば「ランナーがいないのに送りバントをするべきではない」というような類いのもの。別にルール上はそうすることを禁止されてはいないけれど、悪手だから合理的に考えればやらない方がいい、という種類のものである。
そして野球にセーフティバントという戦術があるように、上手い使い方をすれば十戒破りで作品を面白くすることだっていくらでも可能である、ということは(セーフティバントの概念を知らない野球選手が存在しないように)ミステリを書く者にとってはわざわざ言うまでもない当たり前のことに過ぎない。
現代のミステリ作家が十戒を意識するとすれば、十戒をネタにした作品を書くときだけであろう。
ファンタジーやSF要素と本格ミステリ
- 探偵方法に超自然能力を用いてはならない。
- 未発見の毒薬、難解な科学的説明を要する機械を犯行に用いてはならない。
- 中国人を登場させてはならない。(これは「常人離れした特殊能力を持った人間を登場させてはならない」ぐらいの意味)
これらは要するに「現実に存在しない超自然的要素を持ち出したら読者が真相を推理しようがなくて納得してもらえないからダメだよ」という提言である。この「本格ミステリに超自然的要素はNG」という考え方は現代でも一般読者の中にしぶとく生き残っていたりする。
しかし、たとえば参加者の中の誰が人狼なのかを推理する人狼ゲームにおいて、「人狼なんて現実に存在しないから推理しようがない」と言う人はいないだろう。「人狼が参加者の中にいる」という前提をルールとして共有すれば、それに基づいて推理を展開することができる。
こうした考え方から、本格ミステリにファンタジーやSFの要素を組み込んで、現実にはない特殊なルールの中での謎解きを展開するタイプのミステリも現代では珍しくない。特殊設定ミステリの項で詳しく触れているのでそちらを参照。
なので「この作品は超自然的要素が出てくるから(「本格」の意味での)ミステリーじゃない」というようなことを言う人もいるが、少なくとも現代ではその見解は時代遅れである(前述の通り、その作品が本格として優れているかどうかはまた別の話になる)。
本格ミステリ用語集(簡易版)
- アナグラム
- 「○○さんと××さんは実は同一人物だったんだよ!」という真相の説明によく使われるが、読者にすぐに気付かれないように大抵はローマ字のアナグラムなので「そんなんわかるか!」と思われがち。
- 操り(「操り」テーマ)
- 犯人が他人の行動を意のままに操っているという構図を用いたミステリ。特に黒幕たる真犯人が実行犯を操っていたり、犯人が名探偵の推理を操って誤った方向へ誘導しようとするタイプの作品のこと。事件に対して犯人がメタ的な位置にいるという点で、後期クイーン的問題との関わりが深い。
- アリバイ崩し
- 鉄壁のアリバイのある容疑者がいかに犯行が可能だったかを解き明かすタイプのミステリ。昔は時刻表を使った鉄道ものが山ほど書かれたが、現在は乗り換え案内や監視カメラのせいで滅びた。時刻表のイメージが強いが、時刻表以外にもいろいろなトリックがある。ちなみに時刻表トリックは日本の鉄道の運行の正確性を前提にしているので、ほぼ日本にしか存在しないトリックである。何人かいる容疑者の中で時刻表つきのアリバイを主張する奴がいたらそいつが犯人。
- 安楽椅子探偵(アームチェア・ディテクティヴ)
- 犯行現場に趣くことなく、その場で話を聞いただけで謎を解くタイプの探偵。「探偵より、探偵が真相を導き出せるだけの充分な手がかりを全て話の中に含めることができる語り手の方が有能なのでは?」というのはよく言われるツッコミ。なので「これが真実かどうかはわからないよ」という旨の前置きをするタイプの安楽椅子探偵もいる。
- 顔のない死体
- これが出てきたら被害者と犯人の入れ替わりを疑うのが鉄則。なので「顔のない死体による被害者と犯人の入れ替わり」をやるときは「それが顔のない死体であるということ」を読者の意識からいかに消すかが大事になる。もちろん、顔のない死体が全て入れ替わりネタであるわけではない。
- 首斬り
- 「顔のない死体」の内部カテゴリである「首を斬られた死体」のこと。死体の首を斬る合理的な理由は何かという謎から、斬った首の活用法までいろいろな謎とトリックのバリエーションがある。首以外の部位も同様で、「死体切断・バラバラ殺人」というカテゴリとして扱う方がいいかもしれない。
- クローズド・サークル
- いわゆる「吹雪の山荘」「嵐の孤島」など、外界との行き来や連絡が絶たれてしまった閉鎖環境のこと、およびそれを舞台にした作品のこと。限定された容疑者の中で、生き残りを賭けたサバイバルの緊迫感とともに、名探偵vs犯人の対決を演出できる、本格ミステリの華。アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』や綾辻行人『十角館の殺人』なんかが代表例。詳しくは当該記事を参照。
- 交換殺人
- AとBがそれぞれ殺したい相手を動機のないもう片方に殺してもらい、その間自分はアリバイを確保することでお互い容疑者圏外に逃れようとするトリック。片方が先に犯行を済ませるともう片方はわざわざ自分も殺人をするメリットがないとか、100%相手に弱味を握られるとかの問題をどう解消するかが作者の腕の見せ所。
- 後期クイーン的問題
- 名探偵は様々な手がかりから推理を組み立てるが、その手がかりが本当に正しい真相に繋がる手がかりだということを名探偵はどうやって判断するのか? また全ての手がかりが揃って真相が見通せたとしても、その真相をひっくり返す未知の手がかりが存在する可能性は否定できないのでは? つまり「名探偵には完璧な推理は不可能なのではないか?」という問題。ガチで悩む作家もいれば、「何が問題なのか全くわからん」という作家もいる。詳しくは名探偵の記事を参照。
- 三大奇書
- 小栗虫太郎『黒死館殺人事件』(1935年)、夢野久作『ドグラ・マグラ』(1935年)、中井英夫『虚無への供物』(1964年)の3作品のこと。「第四の奇書」といわれる竹本健治『匣の中の失楽』(1978年)が出てきたときに遡って規定されたので、『匣』を入れて四大奇書とも言うが、第五の奇書はたぶん永遠に決まることはない。詳しくは当該記事を参照。
- 消去法推理
- フーダニット(犯人当て)の本格ミステリにおいて、容疑者を「犯人の条件に当てはまらない人物を除外していく」ことで絞り込んでいくタイプの推理。説得力のある消去法推理は本格ファンに受けがいいが、マニアには真相を読まれやすくもなるので、どう意外性を出すかに作者の腕が問われる。
- 叙述トリック
- 意図的な情報の語り落としによって、作者が読者に対して仕掛ける語りのトリック。読者が思い描いていた物語の構図が一瞬でひっくり返る驚きがその醍醐味。犯人当てで「意外な犯人」を演出するために使用されることも多い。その性質上、不意打ちで食らうのが最も効果的であり「叙述トリックがある」こと自体がネタバレだが、これを用いた作品がいくつも大ヒットしたため、現在は帯やPOPでネタバレされるのが当たり前になってしまった。「信頼できない語り手」とは近いが同じ概念ではない。当該記事も参照。
- ダイイング・メッセージ
- 被害者が死に際に残した伝言。大抵はすぐに意味の取れない判じ物的なものになり、その解釈そのものが謎となる。しかし唯一の解釈に絞り込めるぐらい複雑な暗号にすると「死に際にそんな複雑な暗号を考えて残せるわけないだろ」と突っ込まれがちで、咄嗟に残せそうな簡単なものにすると無数の解釈が可能になってしまうという問題がある。そのため、ダイイング・メッセージの解読を直接の手がかりとするのではなく、他のロジックで犯人を特定した上でダイイング・メッセージの解釈を補強材料に使うのがスマートとされる。
- 大量死理論
- 欧米のいわゆる「黄金時代」が第一次大戦後、日本では太平洋戦争後に本格ミステリの復興が起きたことから、「戦争の大量死に対して個人の死の尊厳を取り戻す小説が本格ミステリ」とする、笠井潔の唱えた割とガバガバな理論。もちろん色んな人から散々に突っ込まれているが、ミステリ評論界隈では笠井潔が(『容疑者Xの献身』論争で下野した後も)良くも悪くも影響力を持ち続けているので、現在もしばしば話題に出てくる。議論のベースになるような歴史を整理し理論を体系立てた本格ミステリ論をまとまった分量やっている評論家(正確にはそれを書いて商業的に継続的に出版できる立場にあって、かつそれをやり続ける意欲と余裕のある評論家)がそもそも笠井潔ぐらいしかいないから……。
- 多重解決
- ひとつの事件に対して、それが解決でもおかしくなさそうなもっともらしい複数の推理が繰り出される形式。単にトンチンカンな迷推理では多重解決とは言わない。もっともらしい推理が何度も提出されては否定されてを繰り返して最終的にひとつの真相に辿り着くタイプの作品と、複数の推理が等価に並列したまま真相が定まらないタイプの作品とがあり、現状ではどちらも「多重解決」と言われているが、前者を「多重推理」、後者を「多重解決」として区別するべき、という意見もある。残りのページ数で現在の推理がダミー解決か真相かがわかりやすくなってしまうことや、最終的な真相よりその前の解決の方が魅力的になってしまいがちといった問題が起こりがち。当該記事も参照。
- 倒叙
- 犯人の視点から犯行を描き、その完全犯罪がいかに瓦解するかのプロセスを描いたミステリ。要するに『刑事コロンボ』『古畑任三郎』。「倒叙トリック」は間違い(重要)。なお、現在の「倒叙」のイメージを作ったのは『刑事コロンボ』なので、『コロンボ』以前の「倒叙」とされる作品は、現代の目で見ると犯罪小説と呼んだ方がいい作品もある。当該記事も参照。
- 読者が犯人
- 誰でも思いつく「意外な犯人」のバリエーション。もちろん実際にやった作例もいろいろあり、それをウリにした作品では辻真先『仮題・中学殺人事件』、深水黎一郎『最後のトリック』が有名。「成功させた」と言える作品はぶっちゃけほとんどない。必然的にメタなオチになるため、評価はメタネタをどこまで許せるかという読者の寛容さ次第になりがち。
- 読者への挑戦(状)
- メタな視点から「ここまでに書かれていることで真相を特定できますよ」と保証する、解決編の前に挟まるアレ。これが入っているミステリは少なくとも作者が「本格」を書こうと務めていることは間違いない。ここで切って解答を読者から募集する犯人当てクイズ企画は昔からよくある。
- 特殊設定ミステリ
- SFやファンタジーなど、現実世界とは異なる設定を導入し、その設定を用いた特殊なルールに基づいた謎解きを展開するミステリ。2010年代後半から大きなブームを巻き起こした。詳しくは当該記事を参照。
- 日常の謎
- 殺人などの犯罪事件が絡まない、日常生活の中に生じる謎を扱ったミステリ。北村薫のデビュー以降、北村の影響を受けた数々の作家によってジャンルとして確立され、ライト文芸におけるライトミステリーの興隆にも繋がっている。詳しくは当該記事を参照。
- バールストン・ギャンビット(先行法)
- 犯人を被害者に見せかけることで容疑者圏内から外す手法。「バールストン」というのはこのネタを使ったある有名作の作中の地名。つまりこの名前自体がその作品のネタバレだし、他の作品について「バールストン・ギャンビットを用いた……」などと記述するとこれもまたネタバレになるので、使いどころが非常に難しい用語。原則ネタバレ厳禁のミステリにおいてどう使ってもネタバレになる用語の存在意義とは……?
- ハウダニット
- How done it(どうやったか)、つまり犯行方法を問うタイプのミステリ。要は密室トリックなどのトリック当て。一見して常識的に不可能と思われる犯行は「不可能犯罪」と呼ばれ、読者を惹き付ける魅力的な謎となる。そしてそれを可能にする優れたトリックは本格ミステリの華。ただ、あまりに謎が魅力的すぎると解決が「幽霊の正体見たり枯れ尾花」的なガッカリ感をもたらしてしまうことも。
- フーダニット
- Who done it(誰がやったか)、つまり犯人当てのミステリ。もちろん「犯人が誰か」は大抵のミステリにおいて中心的な謎だが、その中で敢えて「フーダニット」を標榜するミステリは、読者への挑戦状などで限られた登場人物の中から読者に推理による犯人の特定を求めるタイプの本格であることが多い。
- ホワイダニット
- Why done it(なぜやったか)、つまり動機を問うタイプのミステリ。前述の通り、この場合の「動機」とは「恋人を殺された復讐」とかの「原因や理由」ではなく、「そうすることで犯人にどんなメリットがあったか」という「合理性」を問うものである。
- フィニッシング・ストローク
- 最後の一撃、つまりラスト一行(もしくは数行とか数ページとか)で読者を驚かせる手法。
- フェアプレイ
- 出題編において真相と矛盾する記述をしないこと、真相の推理に必要な手がかりを読者に全て開示しておくこと、といった本格ミステリを書く上での心がけ。こうした心がけを守り「読者に対してフェアである」ことが本格ミステリの条件であり、また重要な評価軸であるとするマニアは多い。
しかし何がフェアで何がアンフェアかというのは実際のところ線引きが非常に難しく、同じ作品に対してもマニアの間で意見が分かれることは珍しくない。たとえば「犯人の○○氏は職業が××なのでトリックに必要な(何らかの熟練を要する)作業は可能だった」式のロジックはよく使われるが、「ある人物の職業が××である」ことは「その(熟練を要する)作業が可能である」ことのフェアな手がかりと言えるだろうか、とか。結局のところ評価軸としては「俺が納得できた作品はフェア、納得いかなかった作品はアンフェア」ということでしかないのかもしれない。 - 物理トリック(機械トリック)
- 物理的な仕掛けを用いて、凶器や死体を移動させたり密室を構成したりするトリック。文章だとわかりにくいので図解がつくことが多い。派手な物理トリックはインパクトが強く、この種のトリックを愛好するマニアは多く、物理トリックにこだわる作家も少なくない。一方、文章だけではどうしてもわかりにくいことや、本当に可能かどうかの検証が読者には事実上不可能で論理的に推理することが困難なトリックが多いことなどから、この種のトリックを嫌うタイプのマニアもいる。
- プロット型本格
- プロットというと小説を書き始める前に作るおおまかなあらすじや企画書を指すことが多いが、ここでの「プロット」は「筋立て」ぐらいの意味で、ストーリー展開の中に本格ミステリとしての中心的なギミックがあるタイプの本格のこと。要するに叙述トリックを含むどんでん返しもののミステリを専門用語っぽく言い換えた言葉。叙述トリックものの名作がいろいろ書かれたゼロ年代半ば~後半ぐらいによく使われた用語だが、最近はあんまり見掛けなくなった気がする。
- プロバビリティーの犯罪
- 相手が通るかもしれない階段に踏むと足を滑らせるかもしれない小物を落としておくなど、「偶然が重なって上手くいけば相手に危害を与えられるかもしれない」タイプの仕掛けによる犯罪。偶然性に頼る犯行のため成功する確率は低いが、犯意の立証が困難であるため失敗しても気付かれないか言い逃れの余地が大きく、成功すれば完全犯罪になる可能性が高い。江戸川乱歩の短編が有名だが、最初に考案して作品に仕立てたのは谷崎潤一郎。
- 見立て殺人
- 童謡の歌詞などに見立てて装飾された殺人。海外ではマザー・グースが定番。単なる怪奇趣味の雰囲気作りのためだけに使われることもあるが、当然ながら本格ミステリとしては見立てに合理的な理由やトリックが仕掛けられている方が評価が高くなる。
- 密室
- 内側から閉ざされた部屋の中に死体があり、犯人の姿はない。犯人はどうやって閉ざされた部屋に出入りして犯行を為したのか? という本格ミステリの定番中の定番の謎。黎明期から現代までありとあらゆるトリックが考案され続けている。作中で「密室講義」をする作例も多々。閉ざされた部屋でなくても、現場の周囲にあるべき足跡がない「足跡の密室」や、現場の出入りが複数の人間によって監視されていた「衆人環視の密室」といったパターンもある。
- ミッシング・リンク
- 一見して関係のない連続殺人の被害者の、隠された繋がりのこと。およびそれを探し出すタイプのミステリ。クリスティ『ABC殺人事件』、デアンドリア『ホッグ連続殺人』、クイーン『九尾の猫』なんかが代表的な作例。
- 見取り図
- 本格ミステリについていると一部の読者のテンションが上がるもの。舞台となる建物の間取りや構造、島の地図など。謎解きの手がかりになったりトリックの図解に用いられたりするが、単に説明代わりについているだけの場合も結構ある。鉄道ミステリについている路線図などもこの範疇に入る。
- 名探偵
- 本格ミステリにおいて謎を解く役割にある人。およびそういうタイプのキャラクターの属性。昔も今も変人率が高い。詳しくは当該記事を参照。
- 館もの
- 変な館を舞台にした本格ミステリ。特に新本格以降の様式美。よく動く。
- レッド・ヘリング
- 犯人や重要な手がかりから読者の目を逸らすためのミスディレクション。
- 連鎖式
- 一見バラバラの短編が最後に全部繋がって長編になるという形式。東京創元社の作品に多い。
- ワトソン役
- 名探偵の助手を務めるポジションのキャラクター。作品の語り手・記述者を兼ねる場合が多い。変人の名探偵に対して大抵は常識人。「実はワトソン役の方が真の名探偵」とか、「事件によって探偵役とワトソン役が交替する」とかもわりとよくある。
大百科に記事のある本格ミステリ作家・作品
というわけでどの作品が本格ミステリかを勝手に認定するわけにもいかないので、ミステリーや新本格、本格ミステリ大賞や本格ミステリ・ベスト10の記事を参照。
関連リンク
- 本格派推理小説 - Wikipedia
- 一千億の理想郷 本格ミステリ定義集成
- 古今東西の本格ミステリの定義に関する文章や発言を集めたページ。
関連項目
脚注
- *当時の読者には外国の地名や人名をそのまま訳しても意味不明だったので、外国の小説は舞台や登場人物を日本に置き換えた「翻案」という形で紹介されていた。
- *意外に思った人は原作版の『砂の器』を読んでみると良い。「なんじゃそりゃ!」というトンデモ殺人トリックが登場してびっくりすること請け合いである。このトリックは映像化では必ずカットされる。仕方ないね。
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