本能寺の変は天正十(1582)年六月二日、京・本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣・明智光秀の率いる軍勢に攻められ自刃に追い込まれた事件。1000年を超える日本史の中でも屈指の大事件である。
本能寺の変のいきさつ
1582(天正10)年3月、織田信長は甲斐の武田勝頼を滅ぼした。
これにより織田家は、畿内を中心とした大勢力となった。
- 奥州(伊達氏など)・・・ほとんどが織田家に従属。大きな勢力はいない。
- 関東 北条氏政・・・織田家に従属状態。
- 北陸 上杉景勝・・・滅亡寸前。滅亡を覚悟で織田家に抗戦中。
- 紀伊 高野山金剛峰寺・・・細々と抗戦中 雑賀衆、本願寺は一部を除き既に織田に恭順
- 中国 毛利輝元・・・高松城を水攻めされるなど、大幅に不利な状況で抗戦中。信長の大軍が送り込まれる寸前で、安国寺恵瓊を使者に和睦を模索中。
- 四国 長宗我部元親・・・織田信孝、丹羽長秀らが征討軍を編成。渡海直前。元親は恭順を申し入れ交戦回避に全力
- 九州 大友氏・・・信長に従い、一緒に毛利を攻める予定。
- 竜造寺氏・・・とりあえず友好関係
- 島津氏・・・同上
という状況であった。既に織田信長の天下統一はほぼ成し遂げられており、抵抗勢力はごくわずかであった。この状況を考慮した朝廷は、同年四月下旬、織田信長に関白・征夷大将軍・太政大臣の三職を提示した。世にいう三職推任問題である。なお当時、足利義昭はまだ将軍であったが、朝廷は将軍職を信長に提示している。一応、先例が全くないわけではなく、室町幕府11代将軍であった足利義澄は、10代将軍足利義材が将軍職のまま将軍に就任している。
- 北陸方面…柴田勝家、前田利家、佐々成政
- 関東方面…滝川一益
- 中部方面…織田信忠、織田信雄、森長可、河尻秀隆
- 中国方面…羽柴秀吉、黒田官兵衛、織田秀勝
- 山城方面…明智光秀
- 畿内方面…池田恒興、細川藤孝、筒井順慶
- 四国方面…織田信孝、丹羽長秀、三好康長(ただし、実際には渡航前で主軍は摂津に在陣)
なお、信長の同盟者の徳川家康は、同時期安土城で信長の歓待を受けた後、わずかな家臣を引き連れ堺見物をしていた。信長の長男である織田信忠が同行していたが、長谷川秀一に交代し、信忠は京へ向かう。
こういった状況の中、備中高松城を水攻めにしていた秀吉は信長に増援を求めてきた。信長は光秀に援軍を命じ、信長自身も出撃するべく軍勢の準備をさせる。
そして信長は僅かな手勢を引き連れ、京・本能寺に宿泊。織田家当主の織田信忠は妙覚寺に宿泊していた。
6月1日夜~6月2日早朝にかけ、明智光秀は秀吉に援軍に向かうと見せかけ、突如進路を変更し、京都に向かった。この時に、かの有名な「敵は本能寺にあり!」と宣言している。
開戦
陣容(織田軍は総勢約1000、明智軍は総勢約13000と伝わる。諸説あり)
織田軍の主な武将 | 明智軍の主な武将 |
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※ 赤字は本能寺の変における自刃・戦没者。緑字は山崎の戦い前後の自刃・戦没・刑死者。
変発生
六月二日明朝、信長の宿泊している本能寺の周辺が俄かに騒がしくなってきた。明智光秀が率いる13000人の軍勢が信長のいる本能寺に攻撃を仕掛けたのである。
これに対し、本能寺にいた信長たちはあまりに少勢であった。信長自身も槍や弓をとり奮戦するが、小一人また一人と倒れ、信長自身も手傷を負ってしまう。信長は奥へ引き退き、自刃したといわれる(享年49歳)。
妙覚寺に宿泊していた織田信忠は本能寺に向かったが、途中であった京都奉行・村井貞勝から本能寺がすでに焼け落ちたことを聞き、二条城に移る。「ひとまず安土に逃げるべきだ」と主張する家臣もいたが、織田信忠は「このような謀反を起こすからには、まさかやすやすと逃がしはしないだろう。もしも雑兵に打ち取られたりしたら無念」と言い、脱出を断念。家臣の前田玄以に我が子・三法師の運命を託した。前田玄以は脱出に成功し、他には織田長益(織田有楽斎)、水野忠重、鎌田新介などが脱出した。
明智軍は続いて二条城に攻めかかった。織田信忠らは予想外に善戦したが、しょせん多勢に無勢。自刃して果てた。多くの一門、家臣が織田信長、織田信忠らに追従して自刃、戦死し、織田家は近衛の馬廻衆や中枢側近を数多く失った。これはのちのち、三法師こと織田秀信が当主になった後も尾を引いていくことになる。
変発生直後
本能寺の変に際して、ほとんどの織田家重臣や一門は即時的な行動ができなかった。変発生当時、柴田勝家は上杉景勝と戦っており、織田信雄は軍勢の大部分を実弟である織田信孝に預けていた。結局両者とも明智討伐の姿勢こそ見せるものの、明智軍と実際に戦うことはなかった。
またその織田信孝は大部分が寄せ集めの軍勢であったため求心力が保てず、丹羽長秀の進言により変関与疑惑のあった津田信澄殺害以外のことはできなかった。滝川一益は北条氏政の一時的な離反のため関東に膠着状態となっていた。制圧したばかりの甲斐・信濃では反織田の挙動が強くなり、森長可、毛利秀頼といった多くの武将が滝川一益と同様自らの旧領へと帰ることとなった。旧領帰還より統治を優先した河尻秀隆は、変の混乱の最中に殺害されることになる。
堺に滞在していた家康は変の報を聞き、自害しようとしたが、思いとどまって三河に逃走することにした。家康一行は織田家臣である長谷川秀一らの案内で伊賀を超え一路岡崎を目指し、岡崎に無事到着する。この逃避行は、のちに「神君伊賀越え」と呼ばれることになる。しかしこの道中、穴山梅雪らが襲撃されて戦死した。その死には諸説ある。
また、本能寺の変をきっかけとして、諸侯の動きも大きく変わることとなった。これについではこちらの記事や山崎の戦いなどを参照にされたし。
本能寺の変の影響
詳細は山崎の戦いを参照にされたし。
光秀の動機
動機の考察は江戸時代よりされており多くの説が存在する。下記に挙げたものはその一部である。
怨恨説
この説は古くから提唱されている。理不尽な行為を受けたことにより謀反を起こしたとするものは、根拠とする史料が創作であることからほぼ否定されている。ただ近年、これとは違う理由の怨恨説は一定の支持はされている。
↓良く聞くパターン
- 信長が約束を破ったせいで光秀の母親が殺されてしまった(この話自体が創作なのだが割と史実と思われている)
- 光秀が家康の接待をした時、「接待のやり方や食事のメニューが悪い」と言って怒られた
- 光秀が腐った魚を城の堀に放り込んだため、信長が臭がってキレた(この2つの話も創作の可能性大)
- 武田勝頼を倒した際、光秀が「我らも骨を折った甲斐があった」と言ったら信長にキレられた(上記各説に比べると全く無いとは言えないがそれでも信憑性が極めて薄い)
黒幕説
黒幕説では様々な説が提唱されている。その黒幕として秀吉・家康・朝廷・義昭などが挙がるが、証拠がない。
ただし共謀者に関しては当時から随所に噂され、柴田勝家、津田信澄、公家の吉田兼見、近衛前久などが名前を挙げられた。これらは毛利家の史料などで見ることができるが、柴田勝家以外の人物は殺害、冷遇の扱いを受けることとなった。
野望説
自分が天下を獲ろうと考えたとき、自身の年齢を考えるとほとんど時間が残っていない。そんな時光秀にチャンスが訪れる。信長は僅かな手勢を引き連れているのみであり、京周辺に自分の軍勢に対抗できるほどの軍勢もない。光秀は一か八か行動を起こすのである。
四国征伐阻止説
新史料の発掘により2010年代半ばから急速に注目度が上がってきた説。当初四国の長宗我部氏と織田は良好関係にあった。また光秀と家臣の斎藤利三は長宗我部氏は婚姻関係にあった。しかし状況の変化から信長の方針が変更され、長宗我部氏とは対立を深めることになる。そして信長は信孝・長秀を四国征伐を命じ、大坂で準備させることになる。光秀は目前に迫った四国征伐を阻止するため信長に攻撃を仕掛けることになる。
信長の遺体の行方
事件後も信長の遺体は見つからなかった。信長の葬儀では、遺体の代わりに信長の木像が造られ、火葬されている。激しい火災により、遺体が信長と確認できぬ程に燃えたものと思われるが、密かに運び出されて埋葬されたという史料もある。いずれにせよ現在も特定はされていない。
安土城焼失
安土城は信長の思想を具現化したものといわれる。安土城は軍事要塞的要素は少なく、主に政務を執り行う城である。
安土城は本能寺の変が起こりしばらくして炎上、焼失してしまう。出火場所は発掘調査により本丸付近であると特定されている。多くの容疑者が挙がっているが、動機が不明瞭であったりアリバイがあったりで犯人は分かっていない。
天下を目指し自らの思想を組み込んだ安土城。主が本能寺に倒れると焼失する安土城。一つの時代は終わりを告げ、次の時代へと移っていく。
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関連項目
- 戦国時代
- 織田信長
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