朽木元綱とは、日本の戦国時代~江戸時代初期に活躍した戦国武将である。今の滋賀県高島市の旧朽木村を本拠地としており、関ケ原の戦いでの西軍裏切り組の一人。
概要
近江国高島郡朽木庄を領していた国人・朽木晴綱の子に産まれる。朽木氏は近江源氏の血流である高島氏の奔流で、その起源は鎌倉時代後期にまで遡る。2歳の時に父・晴綱が高島氏との戦いで戦死。幼齢ながら急遽家督を継ぐことに。(ちなみに2歳で家督を継いだ人物に筒井順慶がいるが、元綱と順慶は偶然にも同じ1549年生まれである。)
父の代から引き続き、三好氏に京を追い出された足利義輝と細川晴元を匿っている。
織田信長が京に侵攻してきた際は恭順している。信長が越前国の朝倉義景を攻めていた途中で長政に背後を攻撃され急いで撤退した(金ヶ崎の退き口)際には撤退に協力。朽木庄の通過を手伝い、信長の危機を助けた。
本能寺の変で信長が倒れた後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に従い、天下平定の戦いに参加。豊臣姓を貰うくらいには重用されている。
関ケ原の戦い
秀吉の死後、徳川家康と武断派武将と石田三成との対立が深まり、家康の会津征伐の隙を付き慶長5年(1600年)に三成達が挙兵する。
元綱は西軍に属していたが、脇坂安治の勧めを受け悩んだ末に直前で東軍への内応を決意。決戦当日では小早川秀秋の寝返りを警戒した大谷吉継により小早川隊が陣取った松尾山の麓に配された。
小早川隊が裏切り麓を駆け下り一斉攻撃してくると、朽木隊と脇坂隊は呼応して寝返り、それに動揺した隣の赤座直保隊と小川祐忠隊も釣られて寝返って大谷隊に一気に押し寄せた。
大谷隊は一気に壊滅し吉継は自刃。そのまま側面を突かれた西軍は壊滅し、天下分け目の戦いは家康ら東軍の勝利に終わった。
戦後、裏切り組の命運は大きく分かれた。元綱は安治の説得に応じて東軍側に付いたことを評価されたが、直前まで態度を明らかにしなかったことを咎められ領地を2万石から約半分の9590石に減らされた。なお、脇坂安治は最初から東軍と通じていたため所領安堵。場の流れで寝返った赤座直保と小川祐忠は所領没収の憂き目に。
江戸時代
江戸時代では交代寄合(大名級の扱いと江戸に住まず参勤交代を自発的に行った旗本、さらに朽木氏は陣屋を構えていた)として江戸幕府に仕えた。
元和2年(1616年)にそろそろ何時死んでもおかしくないと考えたのか、頭を剃って牧斎と号した。その後も江戸幕府の進める太平の世を形作る様を見届けながら、寛永9年(1632年)に朽木庄で死去。享年84の長寿だった。
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関連項目
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