杉浦忠単語

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杉浦忠1935年9月17日2001年11月11日)とは、元南海ホークス所属のプロ野球選手であり、日本プロ野球アンダースローである。
1974年から1977年まで近鉄バファローズにて投手コーチを、1986年から1989年まで南海ホークス及び福岡ダイエーホークス監督を務めていた。

概要

生まれは愛知県。小、中学生時代は外野手高校から投手に転向した、ちなみに最初はオーバースローで投球していた。
その後立教大学に進学し引き続きオーバースローで投球していたが、大学2年からアンダースローに転向、これによりそれまでは1試合二桁四球記録したこともある制球善し大学通算36勝を挙げるなどエースとして活躍、同期長嶋茂雄本屋敷錦吾と共に「立教三羽」と言われ、注を集めた。

プロからは南海鶴岡一人が獲得を熱望し、大学先輩である大沢啓二から長嶋茂雄と共に勧誘されており、大沢から両者に少なからず銭が渡されていたが、家族を懐柔された長嶋は直前に翻意し巨人へ入団、杉浦巨人に行ってしまうのではと訪れた鶴岡監督に「鶴岡さん、は男です。」と言い切った。
この時杉浦部屋南海チームカラーであるグリーン一色であったと言われている。

南海時代

1958年(1年)から期待の表れか開幕投手名される。
開幕戦は東映を相手に7回2失点、味方の大量援護もあり15-2で勝利投手となり7月までに20勝と順調に勝ちを挙げていたが、連投の疲労が蓄積してきたためか8月からはペースダウンで5敗を喫し9月には天王山であった西鉄ライオンズとの2連戦に先発するも、1戦引き分け、2戦西鉄打者であった中西太にスリーランホームランを浴びるなど打ち込まれて敗戦投手となり、西鉄に三連覇を許すことになった。
この年杉浦299投球回、27勝12敗、防御率2,05という成績で新人王を獲得するが、投手タイトル西鉄化け物稲尾和久最多勝最優秀防御率を取られるなど南海全体が西鉄にしてやられた年であった。
この経験から杉浦は来年は西鉄リベンジすることを誓った。


1959年西鉄に勝つため、南海優勝させるため、自分に期待を寄せてくれる鶴岡監督に報いるため、杉浦は投げ続けた。
4月こそ防御率5点代とパッとしなかったが、5月からぐんぐんと調子を上げ6月の終わりには13勝を挙げて防御率も1点代に戻し、7月中旬から8月の終わりには12連勝を記録するなど文字通り「投げれば勝つ」という状態であった。
後年、杉浦自身が「59年が最高」とるようにこの年は371と1/3回を投げ、38勝4敗、防御率1.40、奪三振336と驚異的な数字を残しチーム優勝に導く。
特にこれだけの回数を投げながら4敗しかしなかったことは42勝を挙げた年の稲尾とべても高く評価されている。(稲尾は42勝した年に14敗を喫している。)ちなみに先発での成績が35試合で266.2回を投げて24勝3敗、防御率1.65、リリーフでは104.2回で14勝1敗、防御率0.77という数字が残っている。さらに同年には54回2/3連続失点という記録まで作り上げた。結局この年は全ての数字稲尾和久を上回り全投手タイトルを獲得。チームとしても個人としても1958年リベンジを果たしたが、この年の杉浦はこれだけでは終わらなかった。
日本シリーズでの相手は巨人。かつて南海エースであった別所毅彦を引き抜かれたこともあり南海監督である鶴岡が何としても倒したいと思っていた相手である。しかしこれまで南海1951年1952年1953年1955年といずれも巨人に勝つことが出来なかった。その巨人を相手に杉浦は驚異的なピッチングを見せる。第1戦、巨人エース藤田元司を温存し義原武敏が先発南海は当然杉浦忠。
南海は初回に5点を先制、杉浦右手の血豆により本調子ではないものの7回まで3失点に抑える好投を見せていたが8回に血豆が破れて血が付いたボール捕手野村克也が気づき、この回で降する。
試合は後続の祓正敏、皆川睦雄が打たれたものの、岡本伊三美の2本塁打を含む大量援護で10-7で勝利杉浦勝利投手となる。第2戦、巨人藤田元司南海は田沢芳夫が先発
試合は初回に長嶋茂雄の2ランで巨人が先制するも、4回に南海藤田打ち込み4点を奪い6回にも2点を追加する。
南海は5回からリリーフ杉浦を送り込み、7回に1点を失うもののそのまま6-3で逃げ切り勝利杉浦は2勝を挙げる。一日けて第3戦、巨人藤田南海杉浦先発
初回に巨人長嶋茂雄ヒットで先制するも、2回に野村克也の2ランで逆転、そのまま投手戦となるが、9回に杉浦坂崎一彦ソロホームランを浴びて同点に追いつかれるも、南海が10回に1点を勝ち越し、杉浦がそのまま10回を投して3-2で勝利、3勝を挙げる。そしてにより一日けた第4戦、先発は3戦同様に藤田杉浦で始まる。
3回に1点、7回に巨人の守備の乱れもあり2点を取ると、杉浦は9回を完封し3-0で4勝、そしてついに南海は宿敵巨人を下し悲願の日本一を達成することになる。
最終的に杉浦はこの日本シリーズ32回を投げ4連投4連勝という快挙を成し遂げ最優秀選手に選ばれた。


1960年杉浦は前年と変わらぬ投を見せ、31勝を挙げるがこの年は西本幸雄監督率いる大毎としい首位争いの末に敗れ2位となった。


1961年、この年はキャンプの時点でスピードが衰えておりあんなに投げ続けていれば当然な気もするが、それでもひたすら投げ続けていた杉浦アクシデントが起こる。
8月の終わりから右手違和感を感じていた杉浦9月2日阪急戦にて6回を投げたところで降し、病院にて診察を受けたところ、右腕の動脈閉塞と診断され入院。
この年は20勝を挙げ、チーム優勝するが、杉浦日本シリーズには登板できなかった。


1962年1963年は2年連続で負け越す。


1964年は再び20勝を挙げチーム優勝日本一となるが、1959年のような快投は見せることが出来ず、それどころか病魔が再発した。


1965年からはリリーフとして投げ続けるが年々成績は下降していき、1970年には右ひざにが溜まってが入らず、ついに現役を引退する。
通算成績は187106敗、1756奪三振防御率2.39、そのうち164勝を最初の7年で挙げているように、まさに「太く短く」という選手だった。
引退試合は翌年71年の巨人とのオープン戦、相手は長嶋茂雄、試合前に長嶋は「思い切り振って三振するよ」と記者に答えていたが、杉浦の渾身の一球をセンター前に弾き返した。
これについて杉浦は「彼がマジで向かってきてくれた事に自分はすごく嬉しかったし誇りを感じますね。」とっている。まああのミスターのことだから引退試合ということを本気で忘れていた可性も否定できないが・・・

引退後

1974年から1977年には西本幸雄に乞われて近鉄バファローズにて投手コーチを務め、エース鈴木啓示らを導した。

1986年からは南海ホークス監督を務めるが、守乱と投壊で暗期に入っていた南海全に立て直すことはできず、1988年には球団がダイエーに身売りされたため、その年のホーム終戦ファン長嶋君ではありませんが南海ホークスは不滅です。」「行ってまいります!」挨拶した。
ダイエーホークス監督1989年限りで退任、1990年から1994年までフロント入りした。1995年野球殿堂入り。

ホークス退団後は解説者マスターリーグで活動していたが、2001年マスターリーグの遠征先のホテルにて急性心筋梗塞により66歳で急逝した。
前年に恩師の鶴岡監督が亡くなり、杉浦はその弔辞を務めたがそれからわずか1年後、その後を追うように亡くなった。
なお、鶴岡監督葬儀には出席も献もしなかった野村も、杉浦葬儀には出席こそしなかったものの献は行っている。

人物・プレースタイル

に速球と空振りした打者の体にあたると言われた程切れ味鋭いカーブを持ち味にしており、より多くの回を投げるためできるだけ少ない球数で打者を抑えることを考えていたという。

なお張本勲によれば、杉浦アンダースロー投手の中では一番ストレートが速く見えたらしい。(1に杉浦忠、2に秋山登、3に山田久志とのこと)
長年バッテリーを組んだ野村によれば「全盛期は何を投げさせても簡単に抑えてしまった」らしい。
しかし後年速球が衰えてきた際、チームメイト皆川睦雄の投球スタイルを参考にシンカーを覚えたいと野村克也に相談したところ「杉浦皆川ではタイプが違う」「シンカーよりスライダーを覚えるべき」と強硬に反対されたが結局野村が折れたためシンカーを習得、その結果ホップするような速球の回転が死んでしまい成績を落とすことになった。

性格は温厚で球界の紳士と言われているほどだが、以下のように熱い面も見受けられる。
ルーキーイヤーのオフシーズン野村克也稲尾和久中西太と計4名でを飲む機会があり、この時杉浦は酔った勢いかはたまた優勝を逃した悔しさか、稲尾・中西両名に「来年は見ていろ!」と啖呵を切っている。

またオールスターゲームの際に、稲尾に野村投手を見破っていることを暴露してしまったこともある。これは野村は凄いんだぞ!ということを稲尾に言いたかったための発言であるが、そのせいで稲尾にを修正された野村は内心穏やかではなかったようだ。ただこの出来事をきっかけに野村は稲尾以外の選手の研究する等さらに分析にを入れるようになったため、結果的には自分の成長を促すきっかけになったと感謝に意をのちに述べている。

長嶋茂雄とはプロ入り後もお互いに意識していたようで、杉浦引退時「スギの永遠のライバルだった」と発言し、著書でも杉浦に触れていることが多い、また上述の長嶋の翻意については後日、長嶋大沢のところまで引っっていき二人で謝罪するなど義理堅い性格でもあった。

また野村克也とは強い信頼関係で結ばれており、試合のたびに配球について話し合っていた。
上記のシンカー習得を止められなかったことを野村は今でも悔いていると著書でっている。
ただ野村南海監督であった鶴岡一人との間で溝が出来るようになって以降、杉浦野村とは徐々にではあるが疎遠になったようである。

成績

年度別投手成績

年度 球団 登板 先発 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
1958年 南海 53 34 14 1 27 12 -- -- .692 299.0 72 215 91 68 2.05
1959年 69 35 19 9 38 4 -- -- .905 371.1 35 336 67 58 1.40
1960年 57 29 22 4 31 11 -- -- .738 332.2 44 317 85 76 2.05
1961年 53 20 12 1 20 9 -- -- .690 241.2 31 190 85 75 2.79
1962年 43 18 6 1 14 15 -- -- .483 172.2 36 96 68 59 3.07
1963年 51 24 9 1 14 16 -- -- .467 252.2 46 156 86 74 2.63
1964年 56 33 9 1 20 15 -- -- .571 270.2 52 162 103 91 3.02
1965年 36 8 3 0 8 1 -- -- .889 111.1 16 82 27 27 2.19
1966年 27 0 0 0 2 4 -- -- .333 51.0 3 39 16 14 2.47
1967年 45 4 0 0 5 5 -- -- .500 98.1 16 68 29 26 2.39
1968年 41 7 0 0 5 6 -- -- .455 111.0 32 53 39 33 2.68
1969年 30 5 1 0 2 7 -- -- .222 65.1 16 33 33 30 4.15
1970年 16 0 0 0 1 1 -- -- .500 35.2 10 9 13 11 2.75
NPB:13年 577 217 95 18 187 106 -- -- .638 2413.1 409 1756 742 642 2.39

監督通算

通算 試合 勝利 敗戦 引分 勝率
NPB:4年 520 223 271 26 .451 Bクラス4回

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杉浦忠

18 橋上ヘッドコーチ
2015/03/08(日) 06:51:34 ID: ObUC978a59
>>17
では、編集をお願いいたします。
私はこれ以上手を加えませんので。
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19 ななしのよっしん
2015/03/20(金) 10:35:14 ID: ZoxSua5fN3
>>15日本語の勉強し直した方が良いな

>>14は、「杉浦野村研究を稲尾にバラした事を恨んでいる」という文章に対して「野村の本ではそんな事書いてない」って反論
野村の著書の引用なんざどうでもいいって言うが
野村の感情に関しても野村の著書はどうでもいいのかい?
お前さんの方がよっぽど読解ないぜ
>>7を十回くらい読み直しな
書いてあるだろ、「野村は恨みに思ってる」って
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20 ななしのよっしん
2015/11/13(金) 22:31:02 ID: J7uqSE07ho
野村寄りとかいうそういう発想がまず理解できない
なんでそんなに敵対してたいんだよ
あの馬鹿こそ杉浦さんの何を知ってるというのか
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21 ななしのよっしん
2016/04/09(土) 09:39:24 ID: PVsxo4FTEV
スポニチとニッカンの反野村キャンペーンみにしただろうな
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22 ななしのよっしん
2017/02/21(火) 01:02:38 ID: ZoxSua5fN3
ここまでまともに杉浦選手自身の話が出ていので、ちょっとしようか

この人、これだけ凄まじい逸話・実績を持ってるのに200勝してないのよね
勝ちでいったらこの人のに隠れがちな皆川さんの方が上
なんというか、登板過多の犠牲者と言ったらそうなんだろうけど
でもだからこそ伝説になったとも言えるし、難しいなあ
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23 ななしのよっしん
2017/04/13(木) 23:18:19 ID: +4gH08l1KP
まともに投げられたの5年間くらいだからねぇ…デビュー3年で96勝とか意味分からない
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24 ななしのよっしん
2017/06/18(日) 02:28:38 ID: S0pUTAeTVX
というか、今以上に投高打低の時代とはいえ、リリーフに回ってからもWHIPが0.91→0.88→1.00→1.19→1.29→1.07、当時のリリーフワンイニング限定ではなかったことを考えると相当な好成績なのに、それを「年々成績は下降していき」で済ませてしまうのはあんまりだ

監督としても、前任の吹義雄(隠れた名監督)が勝てなかったもののチームの土台作りに成功したおかげもあるのだが、暗期に入っていたホークスをある程度立て直し、それなりに勝負できるようになっていた
特に退任した1989年の後半戦はパ・リーグ台風なんて呼ばれる戦いぶりで、ホークスファンは退任を惜しみつつ、今後を楽しみにしていた
なお後任の田淵
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25 ななしのよっしん
2020/04/12(日) 21:31:58 ID: OJRzVY4FSG
鶴岡分の酷使無双のせいで急劣化したが、それでも
当時の投手としては大ベテランと言える35歳までやれたのは
凄い。
この点、数年でぶっ壊されて引退したと誤解してる人も多い
んじゃないかな?
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26 ななしのよっしん
2023/11/14(火) 13:54:41 ID: SMr9KRrgjs
日本シリーズ4連投4連勝という今じゃ出来ない記録持ちの大投手、てかあの時代は連投が当たり前だったってこともあるけど、通算で187勝と名球会入り出来なかったのが悔やまれる。
監督としては弱体化した南海を再建していた途中でチームが身売り、結果南海ホークス最後の監督となっちゃったけどね。
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27 ななしのよっしん
2023/11/21(火) 14:35:42 ID: SMr9KRrgjs
がそんな男に見えますか?」(南海に入団してくれるか不安になって赴いた鶴岡一人に対して)
「一人になって泣きたい」(日本シリーズで4連投及び4連勝してシリーズMVPを受賞した際に)
長嶋(茂雄)君ではありませんが(南海ホークスは不滅です! (福岡に)行ってまいります!」(南海監督時3年1988年、同シーズンをもってチームダイエーに身売りすることが決まり、本拠地最終戦後のセレモニーにて)
これら3つの名言を残したが、鶴岡一人と同様南海ホークスげた野球人生だったと思う。
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