李左車(りさしゃ)とは、秦代・楚漢戦争時代の人物。戦国時代の趙に仕えた名将である李牧の孫ともされる。
楚漢戦争時代に劉邦の漢と項羽の楚から独立していた趙国において、王である趙歇(ちょうあつ)に仕え、趙の実権を握っていた陳余(ちんよ)の部下となっていた。戦いにおいて進言をしたものの取り上げられず、漢軍を率いる韓信に趙は大敗し李左車も捕らえられた。
だが李左車は韓信の師として遇され、彼の進言によって燕国は戦わずして降伏する。
李左車のその後は史料では不明であるが、民間伝承において多くの事績が残っており神として祭られた。また故事成語となった言葉をいくつも発したことでも知られる。
この項目では、李左車を師とした韓信の部下となり、李左車と行動をともにしたと考えられる呂馬童(りょばどう)、王翳(おうえい)、呂勝(りょしょう)、楊武(ようぶ)、楊喜(ようき)、李必(りひつ)、高邑(こうゆう)をあわせて紹介する。
概要
先祖の事績と登場の背景
李左車は、嘘くさいという噂が高い『新唐書』宰相世系表によると、その先祖は秦にあり、趙に移ってきた戦国時代の趙の名将であり趙の武安君に封じられた某漫画で有名な李牧の孫にあたる。父は、秦に仕え中大夫となった李汨(りべき)という人物で、兄に李諒(りりょう)、弟に李仲車(りちゅうしゃ)がいた。
これが正しいとすると、李左車の父である李汨は秦に仕えて中央官として咸陽に赴いていたと思われるが(劉邦に仕えた蕭何も成績がよかったため中央官に抜擢されたが断っている)、李左車は地元である趙に残っていたか、秦に対する反乱がおこった時に趙に逃げてきたものと考えられる。
秦に対する反乱(陳勝・呉広の乱)が起きた時の李左車の事績は伝わらない。
秦に対する趙の反乱は、反乱を初めに行った陳勝が派遣した武臣(ぶしん)が趙において王として即位し自立することにより開始される。武臣が反乱によって死ぬと、武臣の補佐をしていた張耳(ちょうじ)と陳余が、かつての王族の一人である趙歇を趙王として擁立する。
趙は秦軍を率いる章邯(しょうかん)と王離(おうり)によって攻撃され、趙歇・張耳のいた鉅鹿(きょろく)は秦の大軍に包囲される。だが、楚の項羽によって秦軍は敗れ包囲は解かれる。趙は項羽に従属するに至り、鉅鹿への援軍に消極的とみられた陳余は張耳と不仲になった。
張耳は項羽に従い秦の都である咸陽を攻めて秦を滅ぼす。張耳はその功績で項羽によって、かつての趙の主要な土地の王である常山王に封じられる。趙歇は北の地である代王に封じられ、陳余は侯である成安君(せいあんくん)に封じられるにとどまった。
この論功行賞に不満を持った陳余は、隣国である斉とともに項羽への反乱を起こす。張耳は逃亡し、陳余は趙歇をまた趙王に擁立した。陳余は代王に封じられたが、趙歇の補佐として趙の都である襄国(じょうこく)にとどまった。代国は夏説(かせつ)を相に任命し任せた。
陳余は項羽に反乱を起こし、張耳の首を送ってきた劉邦に従属する。しかし劉邦が項羽に大敗し、また張耳の首が偽物のものであることが分かると、劉邦と手を切り趙は自立する。また趙の隣国の魏も漢から自立した。
李左車も、いつの時点か分からないが趙歇もしくは陳余の部下としてこの趙に仕え、広武君に封じられていた。
彼の祖父である(と思いたい)李牧が「武安君」であり、趙王を名乗る前の武臣が「武信君」を名乗り、三県を項羽によって封じられた陳余も「成安君」と呼ばれている。李左車は彼らと同等の「君」である「広武君」という、王位に次ぐ地位に任じられていた。
李左車は李牧の孫かどうかは別として、①趙において相当な名声のあった人物、②そのような人物の子孫、③勢力のある家の主、④兵法などで趙歇や陳余の部下として相当な功績をあげてきた人物、これらのどれかであると考えられる。
敗軍の将は以て勇を言うべからず、亡国の大夫は以て存するを図るべからず
漢では魏と趙が漢に反して楚と講和して自立を図ったと知り、大将軍である韓信を討伐軍を率いさせ魏と趙を討伐させる。韓信はまず魏を討伐し、魏王である魏豹(ぎひょう)を捕らえた。
劉邦もまた、かつて従属していた殷や河南といった国の土地を趙と争うとともに、自ら軍を率いて項羽の楚軍と争っていた。劉邦自身も楚軍が退いた時に、機会があれば趙の南方の主要都市である鄴(ぎょう)や邯鄲(かんたん)を狙っているのは明白であった。
韓信も、援軍として派遣されてきた張耳とともに趙への討伐に軍を進め、趙の北の地である代を討伐する。陳余の部下である夏説は敗れて捕らえられ処刑された。韓信はさらに軍を進め、趙の都にあたる襄国の北側にある井陘(せいけい)まで攻め込んできた。
陳余は強敵である漢軍に南北から挟まれている状況であり、まずは兵力が少なく趙の討伐が目的であることが明白な韓信軍を討伐することにしたものと思われる。
李左車は趙歇と陳余に従い趙の主力として動員された二十万を号する大軍とともに、井陘の入り口で韓信の軍を待ち受けた。韓信の軍は数万である。兵力は趙軍が圧倒していた。
ここで李左車は陳余に進言する。
「漢軍の韓信は張耳を副将として魏と代を攻め滅ぼし勝利を重ねており、その軍は勢いに乗っています。さらに敵軍は敵地にあって決死の覚悟を固めており(後述の「李左車たちの兵法」参照)、その強さは、正面から当たることは難しいでしょう。ただし井陘の道は戦車や騎馬が横に並ぶこともできないほど狭いため、韓信の軍は補給線が長くなり、兵糧がかなり後方から来る点が弱点となります。私に精兵3万人をお貸しになり、韓信の軍の補給を断たせてください。そしてあなた方(趙歇と陳余)が守りを固めて打って出なければ、韓信軍は進むことも退くこともできません。私の軍が韓信の軍の補給を断ち、民から略奪できないようにさせれば、十日以内に韓信と張耳の首をお届けします。どうかお聞き届けください」
と言い、さらに「そうしなければ、あなた方は韓信と張耳によって必ず捕らえられてしまうでしょう」とまで付け加えた。
これを見ると、李左車はただの参謀ではなく、兵力を二分して別働軍を指揮することが提案できるほど強い立場であり、少なくとも軍事面においては陳余に次ぐ地位にあったと考えられる。
しかし、陳余は儒学者であり正々堂々の戦いを好んでいた。また、『孫子』の兵法でも「兵力差がある時は正面から攻撃すべき」とあり、韓信の軍が実際は数千程度であり遠路を来て疲れていると考えていることもあって(後述の「李左車たちの兵法」参照)、李左車の進言は取り上げられず、正面から韓信の軍を迎え撃つこととなった。
陳余の立場とすれば、趙の南では劉邦が軍を展開しており少数の韓信と張耳の軍を相手に時間をかけていることができなかった。また、かつて趙の地の王であり人望のあった張耳は是非とも早急に討ち取る必要があった。さらに「漢とも楚とも不仲」である趙としては、少数の兵など蹴散らせることを見せつけて攻められないようにしなければならないという事情もあった。
また、李左車の策は韓信が井陘の道を進軍しなければ成立せず、韓信が井陘の道を進まなかった場合は趙の主力を拘束されることは好ましくないという事情があったと思われる。陳余が、李左車が功績を立てることを警戒していたのではと推測する人もいるが、これは想像によるものが大きい。
李左車としては、韓信が井陘の道を進まない時は3万の軍でほぼ同数の韓信の軍と相対する予定であったと考えられるが、結局李左車の策は用いられることはなく、韓信を正面から迎え撃つことになった。
一方、漢軍の韓信は趙に偵察を送っており、陳余が李左車の策を採用されなかったことを聞いて喜んで軍を井陘に進めた。
戦いは「背水の陣」を用いた韓信の圧勝に終わり、陳余と趙歇は捕らえられて処刑され、李左車は逃走することとなった(「井陘の戦い」。戦いの内容の詳細は、韓信・曹参・陳余の項目を参照)。
韓信は李左車が逃走したことを知ると、「広武君を殺すな。生かして捕らえたものは千金を与えよう」と全軍に命令を出していた。李左車は漢軍に捕らえられ、韓信のもとに送られた。
李左車は韓信によって縄をほどかれる、更に李左車を(上座である)東を向くように座らせ、自分は(下座である)西を向いて座り、さらに李左車を「師」として仕えると言った。
「師」とは太公望のような軍事的、戦略的な策略を進言する主要な参謀であるとともに、講談小説における「軍師」のような仕えるべき相手から敬意を払われる立場にあたる(ただし、爵位を受けることはあっても、官職は受けることはない。張良の項目の「張良の立場」参照)。
李左車は、勝利者である韓信から最大限の敬意をもって兵法の師事を与える立場で遇されることとなった。
韓信「私は北の燕国と、東の斉国を討伐したいと考えていますが、どうすれば成功するでしょうか?」
李左車「私はこう聞いています。『敗軍の将は以て勇を言うべからず、亡国の大夫は以て存するを図るべからず』(敗れた将軍は武勇を語るべきではない。滅びた国の大夫(大臣)は国家の存続について語るべきではない)と。私は負けて滅びた立場ですから、どうしてそのような国家の大事をあなたと図ることができましょうか。」
韓信「百里渓(ひゃくりけい、春秋時代の人物)は虞の国で用いられずに虞の国は滅び、秦の国で用いられて、秦は覇者となりました。陳余があなたの策を用いたら、私は捕虜になっており、あなたに師事などできていません。あなたの判断に託し、その計略に従いますから、辞退しないでください。」
ついに、李左車は答えることにした。
智者も千慮に一失あり。愚者も千慮に必ず一得あり
李左車「私は『智者も千慮に一失あり。愚者も千慮に必ず一得あり(優れた知者も多くの考えの中には誤りもあり、愚者も多くの考えの中では必ず優れたものもある)』という言葉も聞いています。ですから、考えを述べさせてもらいます」
李左車「将軍(韓信)は、魏王と夏説を捕らえ、趙軍を破り、成安君を誅殺しました。その名と威光は天下にふるい、民はその命令を待っています。ですが、民も兵も疲れ果て実用には堪えません。将軍は疲労した兵を率いて、燕国の堅牢な城を攻めようとしています。これでは長い期日をかけても城も攻め落とすことはできないでしょう。軍の勢いが衰え、兵糧も尽き、弱国の燕すら降伏させられてないことが分かると、必ず斉国は国境を防いで兵を増強するでしょう。燕国と斉国が勢力を保ち、降伏しないとなると、漢(劉邦)と楚(項羽)の形勢はまだ分かりません。私は僭越ながら、これは誤った計略だと思うのです。兵をうまく使うために、自軍の強いところで相手の弱点をつくのです。」
韓信「それでは、どうすればいいのでしょう?」
兵は固より聲(こえ)を先にして實(じつ)を後にする者(こと)有り
李左車「兵を休ませて、趙の民を安んじて、士大夫と饗宴し、兵に酒をのませることです。そして、北の燕国に兵を向けてから、雄弁な弁士を使者として送って、趙(にいる韓信の軍)が燕より強大であることを示せば、燕は必ず服従するでしょう。燕が服従して、そのことを喧伝させて斉に知らしめれば、斉も必ず服従するでしょう。こうすれば、天下の事は計略通りにいきます。『兵は固より聲(こえ)を先にして實(じつ)を後にする者(こと)有り(戦争は宣伝を先に伝え、実際に軍を動かすのはその後にする)』という言葉は、まさにこのことです。」
韓信は李左車の計略に従い、燕に使者を派遣した。燕は李左車の予想通り降伏した。
民間伝承やわずかな記録に残った、李左車のその後
李左車の『史記』や『漢書』などの史書に残った事績は以上である。後に劉邦は多くの功臣を侯として封じるが、その中に李左車は入っていない。そのため、それからの事績は民間伝承などで伝えられるものでしか分からない。
百度百科に記載された民間伝承によると、『劉邦が楚王となった韓信を謀反の疑いで捕らえて淮陰侯に降格させた後、李左車を漢の太子である劉盈(りゅうえい、後の恵帝)に仕えさせ、その補佐を命じた。李左車は滎陽(けいよう)という都市の城外の広武山の山上から兵馬を操練した。韓信が劉邦の后である呂雉(りょち、呂后)によって殺害された後に、李左車は官職を辞して隠居した。その後は、困窮したものたちを救い、広くその恩徳を行き渡らせた」とされる。
またリンク先が消えているが、この記事によると、『李左車は韓信に従い斉の土地に入った後、劉邦の指示で屯田を行った。韓信が斉王から楚王に封地を変えられてから後も、李左車は斉のその土地に留められることになり、死後にその地に埋葬された』という民間伝承が紹介されている。
このほかに、『漢書』には李左車が記したとされる『廣武君』という一篇の兵法書の存在があるが、現存していない。
また、李左車の故郷とされる土地と墓は中国北部の各地に散在しており、どれが本当に李左車のものかは分からない。河南地方には、元は広武鎮と呼ばれ、「広武君」であった李左車が封じられた土地であり、隠居し葬られた土地であるとされる「李左村」も存在する。
あの嘘くさいという噂が高い『新唐書』宰相世系表によると、李左車の息子には李常伯(りじょうはく)、李遐(りか)がいる。李遐はその字(あざな)を伯友(はくゆう)といい、漢の涿(たく)郡の郡守となったとされる。この系図が正しければ、子孫は反映し、李左車は「趙郡の李氏」という後の名族の先祖にあたることになる。
李左車は後世でも人気があり、神として扱われるようになる(後述「雹神・李左車」参照)。また創作でも韓信の智謀すぐれた参謀として活躍し続けることが多い。
李左車について
雹神(はくしん)・李左車
李左車は、いつの時代からかどういった理由か分からないが、死後に中国北部において大いに人気を博し、現在の中国の山東省安丘市には、李左車を雹神(はくしん、天候の運用を司る神)として祭る雹泉廟(ひょうせんびょう)が存在する。
その民間伝承によれば、李左車は先祖の土地であるこの土地において隠居して山林に入り、仙人修行を行い、悟りを開いた。その後は田園生活をした後、死去した。
後に玉皇大帝によって、李左車は「雹神」とされ、大地・山川・江河・湖泊・雨雪・風雹を操り、人間の作物に対する賞罰を決める神となった。これにより、安丘では「雹泉廟」が祭られ、安丘では雹の被害を受けることがなくなった。
李左車を雹神とする伝承は中国各地に広がり、清代に書かれた短編小説中である『聊斎志異』の「雹神」では、李左車は雹を操る雹神として作品に登場する。
そのためか、李左車は中国で書かれた楚漢戦争を扱った講談や戯曲でも史実以上の活躍を行い、項羽を追い詰めるための重要な役割を果たすようになっている。
李左車たちの兵法
李左車に関する史書の記述の前後にわたり、数々の兵法に関する引用が李左車・陳余・韓信・韓信の諸将により行われている。ここではその発言の引用先と思われる兵法書の記述について解説する。
(韓信の軍は)勝利の勢いに乗っており、故国を去って遠い地で戦い、その鋭鋒は当たるべきではありません(李左車)
これは、『孫子』九地篇の「運兵計謀,為不可測,投之無所往,死且不北,死焉不得,士人盡力」を根拠にしていると思われる。「兵士を運用して計略をめぐらし、(味方の)兵士たちに局面を予想できないようにさせれば、兵士たちは逃亡できる場所がないようになり、死ぬまで逃げようとしない。彼らは死に物狂いで人力を尽くして戦うであろう」の意味である。
中国では兵の大半は徴兵した農民兵であり、練度が低く、不利になればすぐに家にまで逃亡しようとする。そのため、あえて敵地に入ることで、逃亡できず負ければ死ぬような場所を戦地とすれば、必死になって戦うと『孫子』では教えている。
そのため、『孫子』は自国の領土を戦場とするのを「散地」と呼び、兵士が逃亡しやすいために戦うことを避けるように戒め、敵国の奥深くを「死地」と呼び、あえてその地で戦うように勧めている。
「自分の根拠地で戦った方が地の利があり、兵士は故国や家族を守るために必死になって戦う」という一般的な理解とは違うため注意すべき。ただし、城の防衛に関しては中国でもこちらの理解の方が正しい。また兵站の話も違うため注意。
千里の先に兵糧を送るようになると、兵士は飢えてしまい、それから薪や菜をとって煮炊きしても兵士たちの腹はいっぱいになりません(だから、韓信の軍の補給を断ちましょう)(李左車)
これの後半部分は当時の格言を踏まえていると思われるが、全体としては『六韜』戦騎篇「敵人無險阻保固,深入長驅,絕其糧路,敵人必飢」に近い内容である。「敵が要害の地におらず、こちらの土地の深く入り込んで攻めてきた時は、敵の兵糧の補給線を断れば、敵は必ず飢える」の意味である。
上記のように敵は『孫子』通りの考えで行けばリスクを恐れず、敵地に入って攻め込んでくる。それへの常套的な対応策は「固く守り、遊軍を使って兵糧の補給を断ち、そのまま孤立させ降伏に追い込むか、餓死させる」である。
ちなみに、そもそも『孫子』は「戦争は国家に対して大きな負担であるためできる限り避けるように政治を行う。起こってしまったら可能な限り負担の少ない方法で早期に終結させる」という考えのもとに書かれている。そのため兵糧に関しても「兵糧を国内で集めて現地に送るのは、集めることも送ることも国家の負担である。なので可能な限り現地調達するべきである。」と書かれている。輸送能力が現代と比較にならないほど低い時代ゆえの考えである。
兵法では十倍の兵力があれば敵を包囲し、二倍の兵力があれば戦うとある(陳余)
これは、『孫子』謀攻篇の「故用兵之法,十則圍之,五則攻之,倍則分之,敵則能戰之,少則能守之,不若則能避之。故小敵之堅,大敵之擒也」を根拠にしていると思われる。「用兵の決まりは、十倍の兵力がある時は敵を包囲し、五倍いる時は敵を攻め、二倍いる時は敵を分断、互角なら奮戦して戦い、兵力が敵より少ない時は防衛し、敵わないときは戦わない。少数の兵力で戦ったら、多数の兵力に捕らえられてしまう」の意味である。
実は『孫子』では特に兵力が多い時は奇策を求めておらず、基本的に多数の兵力で少数の兵力と戦うことが大事とされている。味方の兵力が敵より少ない場合には計略によって敵の兵力を分散させて、常に敵より優位な兵力で戦い、敵を各個撃破が必要とあると説いている。
陳余のこの発言は特別誤りではなく、多数の兵力で少数の敵を撃破しようとする兵法の基本は守っている。
はるばる千里を越えて、我が領地を攻めてきたとしても、疲れ果てているだろう(陳余)
これは、『孫子』軍争篇の「以近待遠,以佚待勞,以飽待飢」が根拠になっていると思われる。「近くにいる兵で遠くから来た敵兵を待ち、休息した兵で疲れた敵兵を待ち、腹がふくれた兵で飢えた敵兵を待つ」の意味である。
『孫子』では上述した通り、敵国に攻め込み、兵の退路を断ち、必死の決意をさせて戦わせていることを勧めている。その反面、対応方法として、このように遠征してきて疲れ、飢えた敵軍を待ち、休息し腹が満ちた兵で撃破することを勧めている。もちろん攻撃側が防衛側を誘導して攻撃させて、このような状態で敵を撃破することも可能である。上記も含めて、陳余のこの引用も誤りではなく、井陘の戦いの結果を以て、陳余の引用した『孫子』の一節を否定するのは危険である。
陳余の考えは兵法の常套手段の一つであり、この引用も誤りではないが、兵法は総合的に様々な要素を組み合わせて考え、最終的に敵を破ることを要求しており、兵法の一節だけを守ればいいわけではない。それを理解していないと趙括のようになる。
兵法では山稜を右側や背後にして、水や沢を左側や前方とする(韓信配下の諸将)
これは、『孫子』行軍篇の「邱陵隄防,必處其陽,而右背之,此兵之利,地之助也」、「平陸處易,右背高,前死後生,此處平陸之軍也」が根拠になっていると思われる。「丘陵や堤防は必ずその(日当たりのいい)南側に布陣し、丘陵や堤防を軍の右側や後方(右後方?)に来るようにすれば、兵にとっても利益があり、地の利を得ることができる」、「平地に布陣して、軍の右側や後方(右後方?)に高地がくるようにして、低地を前方にして、後方を高地にする。これが平地における軍の在り方である」の意味である。
河や沼地は自然と低地であるため、『孫子』では前方にして戦うように勧めている。また、そういった場所では行軍が困難になるため相手の妨害にもなる。なお、高地はあくまで背後にして、まずはそこで待って攻めてきて疲れた敵と戦い、その上で不利ならば後方に逃げてまた戦えるように勧めている。いきなり逆落としの効果を狙って高地に陣取った場合は、馬謖のように水手を断たれる場合があるから勧めていない。そもそも集団が逆落としのように攻撃するのは不可能という意見もあるが。
韓信はあえて『孫子』に反したわけである。漫画などでも、川を背に陣を引いた韓信を見た陳余が「兵法の基礎すら知らない」と馬鹿にして攻め込む場面である。しかし、『孫子』は戦争において重視される様々な要素について書かれており、時と場合によっては戦争で勝つために『孫子』の他の要素を優先し、ある要素を無視するという選択もありえる。それが下記である。
兵士を死地におとしいれれば、かえって生き残り、亡地にいれれば、かえて存続できる(韓信)
これは、『孫子』九地篇の「投之亡地然後存,陷之死地然後生」を根拠にしていると思われる。「兵士を絶体絶命の窮地(亡地)や負ければ死ぬ場所(死地)においやれば、かえって生き残る」の意味である。 戦勝後にいわゆる「背水の陣」を敷いた理由を問われた韓信の答えである。
『孫子』では上述したように敵国の土地で戦い、リスクを恐れずに必死になった兵士に奮戦させるように勧めている。『孫子』では長期戦によって国力の消耗をしないように忠告し、敵国に攻め込んで敵軍と決戦を行って勝利し、短期間で戦争を終わらせるように説いている。そのため、孫武の『孫子』は全て野戦を想定しており、防衛や城の防御の方法は教えていない。
地形を活用した軍の管理について
李左車とともに働いた(と考えられる)韓信配下の武将たち
ここでは李左車とともに韓信の部下として働いていたと考えられる武将たちを紹介する。曹参は該当項目、傅寛(ふかん)・孔藂(こうそう)・陳賀(ちんが)については、曹参の項目の「曹参・韓信の部下として活躍した武将たち」を参照。他に、韓信配下として働いていた人物に灌嬰(かんえい)・張蒼(ちょうそう)・蒯通(かいつう)らがいる。
呂馬童(りょばどう)
元は項羽の古い知り合いであった。
劉邦が項羽の封建後に関中を攻め章邯(しょうかん)たちと戦っていた頃に、関中にある好畤(こうじ)において劉邦の部下となり、郎中騎将に任じられている。
章邯の部下として戦い劉邦に降伏したようであるが、項羽の古い知り合いであるため秦人であるとは考えにくく、なぜ関中にいたかは分からない。
あくまで仮定であるが、章邯の監督や補佐として派遣されていたか、始皇帝時代に咸陽への移住の対象となった十二万戸に含まれていた一人であったことが考えられる。
その後は韓信や灌嬰に従ったようで、漢の司馬の地位につき、項羽の武将である龍且との戦いでは功績をあげている。
項羽との最終決戦「垓下の戦い」では漢の騎司馬に任じられており、灌嬰の配下として項羽を追い詰める。烏江(うこう)において、逃走をあきらめ決死の戦いを行ってきた項羽と戦うことになった。
呂馬童と相対した時には、項羽は数百人を斬っていたが、既に馬を捨てており傷を十数か所に得ていた。
その後、報償欲しさに項羽の遺体に対する漢兵の争いが起き数十人が死んだが、呂馬童は五分された項羽の遺体の一部を取った。
論功行賞の時に中行侯に封じられ、千五百戸を与えられた(万戸を五等分されたわけではない)。漢の功臣としての順位は第101位である。
漢文の教科書や楚漢戦争の最終局面に登場するため、劉邦側の列伝が立てられていない武将たちの中では、高い知名度を誇る。
王翳(おうえい)
楚と漢が滎陽や成皐(せいこう)を争い、韓信が劉邦に軍を奪われ斉への討伐を命じられた頃に下邳(かひ)において、漢の郎中騎として仕える。その後は韓信の配下となった。下邳は項羽の勢力下にあったため、項羽に仕えていたか在野の士であったが、彭越との戦いで降伏しその後は劉邦の部下となったか、劉賈や盧綰が楚でゲリラ戦を行っている時に降伏したものと思われる。
烏江では灌嬰の配下として呂馬童らとともに項羽と対峙し、呂馬童に呼び掛けられる。項羽が自害した後に、真っ先にその首をとった。
論功行賞の時に杜衍(とえん)侯に封じられ千七百戸を与えられた。漢の功臣としての順位は第102位である。
呂馬童ほどではないが、彼と同じ理由で知名度はそれなりにある。
呂勝(りょしょう)
劉邦に仕え、騎士(騎馬に乗った兵士)として劉邦の関中出撃に従う。その後は郎将(郎中とも)に任じられ灌嬰の配下となった。呂馬童らとともに項羽と対峙して、遺体争いの末にその五分された遺体の一つを奪う。その功績は王翳に匹敵したとされ、論功行賞の時に涅陽(でつよう)侯に封じられ、千五百戸を与えられた。漢の功臣としての順位は第104位である。
楊武(ようぶ)
劉邦が関中で章邯たちと戦っていた頃、なぜかはるか東にある楚の領土内である下邳で劉邦に従い、郎中騎将に任じられる。義帝に親しい項羽に対する独自の反抗勢力であったか、斉の反乱に呼応したがあくまで独立を保っていたものであろうか。
陽夏という土地の戦い(劉邦が項羽との講和を破り、追撃を行ったが敗れた戦い?)で功績があり、都尉に任じられる。その後は灌嬰の配下となり、呂馬童らとともに項羽と対峙。遺体争いの末にその五分された遺体の一つを奪う。論功行賞の時に呉房(ごぼう)侯に封じられ、七百戸を与えられた。項羽の遺骸を取った五人の中では地位の高く、漢の功臣としての順位は第94位である。
楊喜(ようき)
劉邦が関中から出撃して項羽を攻撃しようとした頃に、関中の杜(と)という土地で漢に従い郎中騎に任じられる。その後は韓信の配下となり、さらに後に灌嬰の部下となった。
垓下の戦いの後に逃走を図った際に灌嬰の騎兵五千はそれを追撃し、騎将として楊喜もそれに加わっている。 項羽は東城まで逃れたが灌嬰の軍は項羽に追いつき、率いていた八百騎は二十八騎となった。楊喜も含めた灌嬰の騎兵数千はさらに項羽に攻撃を仕掛けるものの、項羽は突如無双状態となり死の覚悟を決め、敢然と戦いを挑んできた。
わずか29人に、たちまち漢軍の一武将は討ち取られる。楊喜は項羽を追ったが、項羽に睨まれ怒声をあびると、100%確実な死にフラグに気づき乗馬とともに恐れて数里(1km程度)も逃走した。
項羽はさらに漢軍の都尉(とい)を討ち取り、項羽はわずか2騎しか失わずに、漢軍の包囲を突破した。
その後も楊喜は項羽への追跡を行い、呂馬童らとともに項羽と対峙。遺体争いの末にその五分された遺体の一つを奪う。論功行賞の時に赤泉(せきせん)侯に封じられ千九百戸を与えられた。漢の功臣としての順位は第103位である。
李必(りひつ)
季必(きひつ)と『史記』に記されていることもあるが、研究者は同一人物としている。
馮翊(ふうよく)郡重泉(じゅうせん)県の出身。重泉は関中の地にあるため元々は秦国人にあたる。
劉邦が関中を制圧していた頃、漢の首都となる櫟陽(れきよう)において劉邦に仕える。章邯や司馬欣(しばきん)らに仕えていて降伏したのかもしれない。漢将となった後に章邯の守る廃丘(はいきゅう)を攻め功績をあげる。その後は項羽との戦いにも従軍した。
劉邦が彭城の戦いにおいて項羽に大敗し滎陽に逃走すると、ここで項羽の率いる楚軍を戦うことになった。その際に楚軍の騎兵に対抗すべく、劉邦は漢軍の中から戦車や騎兵を率いる将軍を抜擢しようとした。
将軍らは「李必と駱甲(らくこう、李必と同じく重泉の出身)が騎兵を率いることに習熟しています。彼らは今は校尉の地位にありますが、騎兵を率いる将軍にしてください」と彼らを推薦する。
しかし李必は駱甲とともに、「私たちは(他国人に恨まれ、楚と漢に滅ぼされた)秦人です。兵士たちは私たちを信用しないのではないかと恐れています。大王(劉邦)に親しく、騎乗に優れている人物を将軍に任命し、私達はその人の補佐をします。」と進言する。
結局、灌嬰が中大夫として騎兵を率いることになり、李必と駱甲は左右の校尉として彼を補佐することとなった。李必は灌嬰に従って騎兵を率い、楚の騎兵を滎陽の東で大いに破る。
その後も灌嬰に従ったと考えられ、(おそらくは灌嬰とともに)韓信の配下となった。
劉邦の天下平定の後も、燕王・臧荼(ぞうと)の反乱で功績を上げて将軍の地位についた。韓王信の反乱でも功績をあげている。論功行賞の時に戚(せき)侯に封じられ、千戸を与えられた。漢の功臣としての順位は第90位である。
なお駱甲は侯に封じられていないため、戦死したか、それほど功績をあげずに引退したか、なにかの反乱に加わったものと考えられる。
特にそういった証拠はないが、李必は某漫画の主人公である李信の同姓であり、李信の子孫である李広が漢でも武将として高い地位にあるため、李信の家が没落しなかった理由として彼らとなんらかの血縁関係にあったのではないかという推測もできる。
ただし、李必の子孫に李信成という人物がおり、これは避諱(ひき、目上の者の諱で使われた文字を使わないこと)を犯しており、『新唐書』宰相世系表にその名がないこともあわせて、李必は李信の直系ではありえないと考えられる。
江戸時代に中国の講談小説を翻訳した『通俗漢楚軍談』(横山光輝『項羽と劉邦』の原作となった作品)では、李必は項羽との戦いで蒲将軍(横山版では龍且)に討ち取られているが、これは創作であり、上記の通り、戦死していない。
高邑(こうゆう)
劉邦の決起した沛の西南にある齧桑(げっそう)において決起して劉邦に仕え、客の地位についた(客は蕭何や盧綰たちがついていた参謀や顧問のような高い地位)。上隊の将となった後、劉邦に従って漢中に赴いた。
劉邦が項羽との戦いを決めた後に将軍に任じられ、魏の太原の攻略及び井陘の戦いにおいて功績をあげた。その後は韓信の配下となり、河を渡るために缻(木製の甕)を用いた(韓信の魏王・魏豹を捕らえた戦いで実行したという意味か、それとも、斉との戦いにおいて黄河を渡った時などでも使用し続けたという意味か、不明)。項羽との戦いや陳豨の反乱平定に功績をあげている。
論功行賞の時に祝阿(しゅくあ)侯に封じられ、八百戸を与えられた。漢の功臣としての順位は第74位である。
創作物における李左車
『通俗漢楚軍談』
中国の講談を江戸時代に翻訳した講談小説。横山光輝『項羽と劉邦』はこれをベースにした作品である。
李左車は史実と同様の経緯で韓信の師となるが、項羽との最終決戦で偽って項羽に降伏しその参謀として迎えられる。虞美人や周蘭がひきとめたためにためらう項羽を説得し、項羽を韓信の望む戦場(九里山)におびきよせる。その後項羽のもとから逃亡し、その後の戦いでも項羽をおびきよせるために挑発を行い漢軍に勝利をもたらす活躍をする。
司馬遼太郎『項羽と劉邦』
軍略に優れるが大人しく、無口な人物とされる。特に天下国家を語れるような人物ではないと評されているが、補給や軍の実務に優れている。彼を師とあがめたことで、韓信は野心があると張耳からも誤解されることになる。
暴れる兵士を大人しくさせる手段として、その兵士の塩分を抜くといった工夫を行い、軍に油を普及させ、料理を美味にする方法を普及させるという、政治性は欠けるが真面目で堅実な軍の知恵袋的な描写が印象的である。
関連動画
関連書籍
浅野裕一『孫子』講談社学術文庫
李左車に関する専著は存在しないが、李左車や韓信らが当時愛読し学んだ『孫子』への理解が深めるための書籍を紹介する。
こちらは長く伝わる過程で文字が大きく異同していった『孫子』ではなく、1972年に中国から出土から竹簡に記された戦国時代当時の孫武の『孫子』について、同時に出土した『孫臏(そんぴん)兵法』を参考にして、元々書かれていた春秋時代末期という時代背景も考慮にいれながら翻訳、解説を加えた書籍である。
そのため、従来の伝えられた『孫子』とは文字の異同が多い原文であることもあって、かなり異なった解釈で解説が行われている。
内容は現代語翻訳、読み下し文、漢文、注釈、説明をワンセットとしており、翻訳ではかなりの補足を行われた上に含蓄が大きい説明を加えられておりとても分かりやすい。また解説も分かりやすい上に詳しく『孫子』の兵法について多面的に解説している。
この『孫子』の重要な部分に関する内容を、現代や西洋の戦争の事例を出して(上記の書籍に比べても)さらに分かりやすく説明した書籍として、浅野裕一『「孫子」を読む』講談社現代新書が存在する。
興味を持たれた方はあわせて読んでもらいたい。
関連項目
- 2
- 0pt