東京ヴェルディとは、東京都全域を本拠地とするJリーグのプロサッカークラブである。
2000年までは神奈川県川崎市にホームタウンを置き、「ヴェルディ川崎」というチーム名だった。
概要
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チームの前身は1969年に創設された読売クラブ。Jリーグ発足時より参加している「オリジナル10」の一つであり、初代のJリーグ王者。
Jリーグ創成期は三浦知良、ラモス瑠偉、武田修宏、北澤豪らスター選手を多く揃え、人気と実力の両面で№1でJリーグを代表するクラブだった。
1998年に読売新聞が経営から撤退して以降は経営の縮小を余儀なくされチームは弱体化。2009年に2度目の降格を経験して以降は10年以上J2リーグに属する程、低迷期が続いている。
『緑』を意味するポルトガル語「VERDE」からの造語。ユニフォームはホームが緑、アウェーは白。ホームスタジアムは味の素スタジアム(東京スタジアム=東京都調布市)。マスコットキャラクターはコンドルをモチーフにしたヴェルディくんと、始祖鳥をモチーフにしたリヴェルン。
近年は何度か存続の危機に直面する程の経営難に陥っており、2020年からはゼビオホールディングスの子会社となっている。
クラブの歴史
ヴェルディ川崎(1992年~2000年)
前身は読売クラブ。1969年に創設された、企業のサッカー部ではない「クラブサッカーチーム」の先駆けである。旧日本リーグ(JSL)では5度の優勝を誇り、日本を代表するサッカーチームの1つとなった。
1990年にJリーグ加盟が内定。1991年には読売グループ3社の出資により運営会社が設立。当初ホームタウンは東京都を希望していたが、Jリーグ側が国立競技場の使用を認めず、当時都内にJリーグの基準を満たすスタジアムが存在しなかったことから川崎市をホームタウンとし、等々力陸上競技場をホームスタジアムにすることになる。
また、「地域密着」の理念を掲げたJリーグに対し、読売新聞社社長の渡邉恒雄が反発。Jリーグの方針に反し、Jリーグ発足前後の1992年から1993年にかけて読売系のメディア(読売新聞・日本テレビ・スポーツ報知)を中心として「読売ヴェルディ」という呼称を用いていた。
紆余曲折してJリーグのオリジナル10となったヴェルディ川崎だが、1992年のJリーグヤマザキナビスコカップでは決勝で清水エスパルスを下し、初代王者に輝く。
1993年5月15日、記念すべきJリーグ開幕試合で横浜マリノスと対戦。マイヤーがJリーグ第一号のゴールを決めたものの、逆転負けを喫している。1stステージではヨーロッパスタイルへの転換を図る松木安太郎監督と主力選手の間に軋轢が生まれたこともあって優勝を逃す。2ndステージでは元ブラジル代表のビスマルクが加入したことで三浦知良が前線の仕事に専念できるようになり、圧倒的な強さを発揮し優勝。チャンピオンシップでは鹿島アントラーズを下し、栄えある初代のJリーグ年間王者となる。ラモス瑠偉、三浦知良、北澤豪、武田修宏、柱谷哲二らをはじめとした個性的なスター選手に恵まれ、当時のJリーグバブルを象徴するチームとなった。三浦知良は初代のJリーグMVPを受賞。
また、ナビスコカップではワールドカップ最終予選のため代表を欠きながらも永井秀樹ら控え組の活躍で決勝まで進み、決勝では再び清水を下し、2連覇を果たす。
1994年はネルシーニョをヘッドコーチに招聘し、松木監督との二頭体制となる。1stステージ終了後に三浦知良がイタリアへ移籍したものの、2ndステージはその穴を見事に埋めて制覇。チャンピオンシップでは怪我を抱えながら強行出場したラモスの活躍でサンフレッチェ広島を下し、2年連続でJリーグ年間王者となる。守備の要であるペレイラがJリーグMVPを受賞。
ナビスコカップでもジュビロ磐田を決勝で破り、3連覇を達成。
1995年より松木が退任し、ネルシーニョが監督に昇格。1stステージはあと一歩のところで優勝を逃したが、2ndステージではイタリアから帰って来た三浦知良が驚異的なペースでゴールを量産し制覇。しかし、チャンピオンシップではJSL時代からの宿敵である横浜マリノスに敗れ、リーグ3連覇を果たせず。
1996年は開幕から躓き、4月途中にネルシーニョ監督が解任となる。後任にエメルソン・レオンが就任するも、レオンと確執のあったラモスは京都パープルサンガへ移籍してしまう。結局リーグ戦では7位、ナビスコカップも決勝で敗れ準優勝となり、黄金時代に陰りが見え始めたシーズンとなった。
一方、この年の天皇杯では決勝でサンフレッチェ広島を3-0で下し、Jリーグ発足後初優勝。Jリーグで最初に国内三大タイトルを制覇したチームとなる。
1997年はクラブOBの加藤久が監督に就任。しかし、鳴り物入りで移籍してきた前園真聖が全くの期待外れで退団したビスマルクの穴を埋められず、チームは低迷。8月にラモスが復帰するが、カンフル剤とはならず。1stステージ16位、2ndステージ12位と大きく低迷し、栄光の時代はこの年で終焉となった。
1998年は開幕当初こそ好調だったが、その後失速。シーズン終了後に読売新聞社とよみうりランドが経営から撤退。以降は日本テレビが全額出資という形になるが、経費削減のため高額年俸の三浦知良や柱谷哲二は事実上のリストラとなる。また、この年を最後に読売クラブ時代の1977年からチームを牽引してきたラモス瑠偉が現役を引退。
1999年は中澤佑二が大ブレイクを果たし、ベストイレブンと最優秀新人賞を獲得。1stステージは2位と久々に優勝争いに絡んだが、2ndステージは10位に終わる。
2000年2月15日に翌年からの東京移転が承認される。ヴェルディ川崎としての最後のシーズンは年間10位というパッとしない成績に終わる。
東京ヴェルディ1969(2001年~2007年)
2001年よりホームタウンを東京都に移転し、チーム名も「東京ヴェルディ1969」に改称。ホームスタジアムは完成したばかりの東京スタジアムに決定する。
東京移転最初の年に松木安太郎が監督に復帰。小倉隆史、三浦淳宏を補強するも、松木監督は成績不振とフロントとの確執によって1stステージ限りで解任。小見幸隆が監督に就任した2ndステージはブラジル代表のエジムンドが加入。エジムンドとマルキーニョスのブラジル人コンビが活躍。J2リーグ降格の危機に直面していたが、最終節で辛うじて残留を決める。
2002年は中澤の移籍によって守備が安定せず、開幕5連敗という最悪のスタートを切り、小見監督は事実上解任となる。その後、合流が遅れていたエジムンドの活躍もあって成績は持ち直し、2ndステージは4位と躍進する。この年を最後に黄金期の主力で最後の一人となっていた北澤豪が現役を引退。
2003年シーズン途中からオズワルド・アルディレスが監督に就任。リーグ戦では1年目で8位、2年目となった2004年は9位と2年続けて二桁順位で終える。さらに、2004年の天皇杯では1996年以来となる決勝進出を果たすと、決勝ではクラブ生え抜きの平本一樹と飯尾一慶のゴールでジュビロ磐田に勝利し、8年ぶり及び東京移転後初となるタイトルを獲得する。
2005年はブラジル全国選手権得点王のワシントンを獲得し、名門復活に期待が集まる。開幕前のゼロックススーパーカップを制覇するが、シーズンに入ると低迷。7月には3試合連続で大量失点を喫したことでアルディレス監督が解任となる。後任にバドンが就任するも、チームの総得点の半数以上を稼いでいたワシントンが不調に陥ると13試合連続未勝利という深刻な状態に陥り、11月26日の柏レイソル戦で1-5と大敗したことでとうとうJ2降格が決定。Jリーグを代表する名門の降格は当時のサッカーファンに衝撃を与えた。主将の山田卓也、ワシントン、米山篤志、林健太郎といった主力の大半が退団する。なお、天皇杯優勝によって獲得したAFCチャンピオンズリーグ2006の出場権がJ2降格によって剥奪されるのではないかと心配されていたが、AFCから出場が認められた。
J2リーグを戦うことになった2006年はレジェンドのラモス瑠偉が監督に就任。就任1年目はACL出場による過密日程に加え、前年からの課題であった守備面での不安を解消することができず、J2初年度は7位で終了する。2007年は元日本代表の服部年宏、名波浩に加え、フッキ、ディエゴと大型補強を敢行。第7節から13節までに7連敗を喫し一時はラモス解任騒動に発展するが、3バックに変更したことで守備の問題が解決すると、その後は一度も連敗することなく安定して勝ち点を積み重ね、2位の成績でJ1復帰を果たす。この年フッキが37ゴールという驚異的な得点力を発揮し、J2得点王となった。
東京ヴェルディ(2008年~)
J1復帰となった2008年にチームの呼称を「東京ヴェルディ」に変更。ラモスが監督を退任して、エグゼクティブディレクターになり、柱谷哲二が監督に就任。7月にフッキが退団して以降は思うように勝てなくなり、シーズン終盤には攻撃の核であるディエゴが4試合出場停止を食らったことがダメ押しとなってわずか1年でJ2へ降格することになる。
この2度目の降格を最後にチームは長いJ2生活を送ることになる。
2009年には強化費用が大幅に削減されることになり、胸スポンサーだったサイバーエージェントも撤退。この年、監督に就任した高木琢也だったがシーズン途中で解任となり、1度も昇格争いに絡むことなく7位に終わる。
9月には日本テレビが経営から撤退。これによって読売グループは40年続けたサッカークラブ経営から完全に手を引く形になる。チームはいよいよ存続の危機に立たされることになり、一時はJリーグが介入するほどの綱渡りの運営が続く。
2010年は川勝良一が3度目の監督に就任。厳しい台所事情の中でユース出身の若手を積極的に起用し、彼らがチームの中心となる。2010年、2011年と2年連続で5位と昇格争いに絡みながらもJ1復帰を逃している。何とかクラブの存続にこぎつけた2012年は19歳の小林祐希が主将を務め、半年間の期間限定で移籍してきた杉本健勇の活躍もあって前半戦を2位で折り返す。しかし小林、杉本が移籍した夏以降は得点力不足に苦しみ、勝てない試合が続く。9月には川勝監督が退任。結局プレーオフ進出を逃し、最終順位は7位に終わる。
2013年は三浦泰年が監督に就任するが、2月のカマタマーレ讃岐との練習試合でペ・デウォンが悪質なファウルによって相手選手に大怪我を負わせる事件が勃発。このとき審判と乱闘を起こすなどした三浦泰年の言動が問題視される。シーズンに入っても、開幕から5試合勝ち無しなどスタートダッシュに失敗すると、その後も浮上のきっかけをつかめないまま終始下位に低迷し、過去最低の13位という成績に終わる。
2014年もベテラン、若手も含め多くの主力が退団することになる。前年以上に開幕から低迷したチームはJ3降格の危機に直面するほどだった。クラブはようやくピッチ内外で問題視されていた三浦泰年を9月に解任。ユースの監督だった冨樫剛一が後任監督となり最悪の結果は避けたものの、前年を下回る過去ワーストの20位という結果となった。
2015年は竹本一彦がGMに就任。目標を「9位以上」と下方修正しつつ、生え抜きの選手を中心としたチーム作りに原点回帰する。すると、チームは予想外の快進撃を見せ、シーズン中盤には破竹の5連勝によって自動昇格圏に肉薄。終盤戦以降は失速したものの、最後までプレーオフ進出の可能性を残しての8位と前年の大不振を考えればポジティブなシーズンとなった。しかし、2016年は佐藤優也、三竿健斗という主力二人が移籍した穴を埋めきれず、再び18位と低迷する。
2017年、ラ・リーガでの監督経験が豊富なミゲル・アンヘル・ロティーナが監督に就任。ロティーナは細かいポジショニングにこだわった組織的な守備を選手に植え付け、脆弱だった守備を劇的に改善。安定した戦いぶりで上位勢に絡み続け、シーズンを5位でフィニッシュ。初のJ1昇格プレーオフ進出を果たす。プレーオフでは準決勝でアビスパ福岡に敗れ、J1昇格を逃す。
ロティーナ2年目の2018年は開幕から10試合無敗と好スタートを切り、一時は4連敗を喫したものの夏に調子を取り戻すと再び上位勢に食い込んでいく。この年の昇格争いは大混戦となったが、最終的に6位に入り込み、2年連続でプレーオフに進出。
J1参入プレーオフでは、1回戦、2回戦をいずれもウノゼロで勝ち抜き、あと1勝で11シーズンぶりのJ1復帰というところまで辿りつく。しかしJ1・16位のジュビロ磐田との決定戦では0-2で敗れ、あと一歩で悲願のJ1昇格を逃す。翌日、チーム躍進の立役者であるロティーナの退任が発表される。
クラブ創設50周年となった2019年、チームの総合スポーツクラブ化を目的として、エンブレムとロゴデザインを変更する。
新監督に前香港代表監督のギャリー・ジョン・ホワイトが就任するが、成績不振により7月で解任。後任には2016年までプレーしていた永井秀樹が就任。しかし一度も昇格争いに絡むことなく13位でシーズンを終える。
2020年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で大幅な減収となり、再び経営問題が取り沙汰される。リーグでは36節から7試合未勝利(3分4敗)で終了という後味の悪さを残して12位に終わる。
12月25日、ゼビオホールディングスの連結子会社となる。
2021年でとうとう、オリジナル10のチームとして初めてJ2リーグでの在籍年数がJ1の在籍年数を上回ってしまう。5連勝を記録するなど6月までは好調だったが、7月、8月と続けて未勝利に終わると選手に対するパワハラ問題が表面化していた永井監督が9月に辞任。コーチの堀孝史が暫定監督に就任するも失点数がリーグワースト3位を記録し、前年と同じく12位に終わる。シーズン終了後、永井前監督のパワハラがJリーグに認知され、クラブにも罰金と譴責処分が科せられる。
2022年もシーズン序盤は好調だったものの、その後13試合でわずか1勝と成績不振に陥り14位にまで低迷。6月に続投していた堀監督が退任。後任にはJ1での監督経験が豊富な城福浩が就任。その後もしばらくは勝てない試合が続き、パリ五輪代表候補の山本理仁がガンバ大阪に引き抜かれるが、終盤戦に入ると首位の新潟や3位の岡山を破るなど最終節まで6連勝。一度は絶望的となっていたプレーオフ進出の可能性がわずかながら残るなど最終的に9位にまで浮上した。
2023年も城福監督が続投。開幕から好スタートを切ると、上位を維持し昇格争いに加わる。7月に攻撃の中心だったバスケス・バイロンが昇格争いのライバルである町田に電撃移籍(しかも直接対決の3日前)するが、染野唯月と中原輝のレンタル加入によって戦力の低下を抑える。後半戦も持ち前のパスワークに加えてJ2最少失点の安定した守備で勝ち点を積み上げ、終盤は清水、磐田と激しい2位争いを繰り広げながらもリーグ戦を3位で終了、プレーオフ出場権を獲得する。
昇格プレーオフ準決勝で6位千葉に2-1で勝利、決勝では4位清水に先制を許す厳しい試合展開だったが、試合終了直前の後半アディショナルタイムに染野がPKを決めて同点に追いつき、そのまま試合終了。規定により年間順位が上のヴェルディが16年ぶりのJ1昇格を決めた。
ホームタウン移転問題
Jリーグ開始当初は神奈川県川崎市をホームとして参戦したが、元が東京のチームのため東京志向が強く、2001年、東京スタジアム(現・味の素スタジアム)の完成を機に東京へと移転しチーム名を「東京ヴェルディ1969」とする。Jリーグ発足以後、ホームタウンを移転したのは現在までこのヴェルディのみである。[1][2]
ちなみに、川崎フロンターレの前身である富士通サッカー部が、川崎を本拠地とした活動を始めたのは1996年のことである(Jリーグ参入は1999年より)。2000年にはこの年限りで「川崎ダービー」も実現した(ヴェルディの1勝1分)。
一方、それまでJリーグの理念である地域に根ざす活動に力を入れておらず、ホームタウンである川崎市に事前の相談も無く東京移転を決めていた。この移転強行に対して川崎市側は激怒し、移転後は等々力競技場でのホームゲーム開催を一切認めないという声明を出している。
経営問題
Jリーグ創成期に活躍していたスター選手たちの年俸が高騰したことで赤字経営が続き、チームの成績が落ちてきた1998年に読売新聞社とよみうりランドが経営から撤退。高額年俸の三浦知良らは切られ、以降は日本テレビによる全額出資となる。
2009年シーズン中に前年度のリーマンショックによって経営不振に陥っていた日本テレビが経営から撤退。これにより読売グループはサッカー運営から完全に手を引いた。
この影響により2010年に経営危機が明るみに出る。
一時はシーズン途中での倒産も噂されたものの、Jリーグが直接経営に乗り出してこの危機を回避。
スポンサーを確保し、なんとかチームは存続を決め、その後しばらくの間は厳しいながらも落ち着くようになる。
2020年、新型コロナウィルスの世界規模での感染拡大によって大幅な減収を余儀なくされると、経営状況が悪化。10億円近い赤字が予想され、再びクラブ存続の危機に直面する。
経営陣は増資によって経営難を乗り切ることを画策するが、株主のゼビオがこれに難色を示す。
12月25日、ゼビオが新株予約権を行使し株式の過半数を所有。これによってクラブはゼビオの子会社となり、ゼビオが特別損失として処理したことで経営難を乗り切る。しかし、これまで苦しい時期を乗り切ってきた旧経営陣をいわば乗っ取る形となったゼビオに対し、サポーターからは不信感の声が挙がった。
観客動員は2013年こそ持ち直して平均6000人台に回復したものの、最盛期(J初年度)の1/4にとどまる。
約50000人収容の味の素スタジアムも経費節減のためにバックスタンドを閉鎖することがほとんどである。
歴史と伝統のあるクラブだけに、腰を据えた経営と戦略で復活を期してもらいたいところではある。
おもなタイトル
国内タイトル
個人タイトル
現在の所属選手
背番号 | Pos. | 国籍 | 選手名 | 生年月日 | 加入年 | 前所属 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
- | 監督 | 城福浩 | 1961.3.21 | 2022 | サンフレッチェ広島 監督 | ||
1 | GK | マテウス | 1993.4.10 | 2020 | フィゲイレンセFC | ||
2 | DF | 深澤大輝 | 1998.8.21 | 2021 | 中央大学 | 【H】 | |
3 | DF | 谷口栄斗 | 1999.9.30 | 2022 | 国士舘大学 | 【H】 | |
4 | DF | 林尚輝 | 1998.6.9 | 2023 | 鹿島アントラーズ | 【レ】 | |
6 | DF | 宮原和也 | 1996.3.27 | 2022 | 名古屋グランパス | ||
7 | MF | 森田晃樹(C) | 2000.8.8 | 2019 | 東京ヴェルディユース | 【H】 | |
8 | MF | 齋藤功佑 | 1997.6.16 | 2023 | 横浜FC | ||
9 | FW | 染野唯月 | 2001.9.12 | 2023 | 鹿島アントラーズ | 【レ】 | |
10 | MF | 見木友哉 | 1998.3.28 | 2024 | ジェフユナイテッド千葉 | 【完】 | |
11 | MF | 山見大登 | 1999.8.16 | 2024 | ガンバ大阪 | 【レ】 | |
14 | MF | チアゴ・アウベス | 1996.6.19 | 2024 | ボタフォゴFC | 【完】 | |
15 | DF | 千田海人 | 1994.10.17 | 2023 | ブラウブリッツ秋田 | ||
17 | MF | 稲見哲行 | 1999.4.15 | 2022 | 明治大学 | ||
18 | MF | 山田楓喜 | 2001.7.10 | 2024 | 京都サンガF.C. | 【レ】 | |
20 | FW | 木村勇大 | 2001.2.18 | 2024 | 京都サンガF.C. | 【レ】 | |
21 | GK | 長沢祐弥 | 1996.7.1 | 2021 | アスルクラロ沼津 | ||
22 | MF | 翁長聖 | 1995.2.23 | 2024 | FC町田ゼルビア | 【完】 | |
23 | MF | 綱島悠斗 | 2000.8.15 | 2023 | 国士舘大学 | 【H】 | |
25 | DF | 山田裕将 | 2001.7.19 | 2024 | 国士舘大学 | 【卒】 | |
26 | DF | 袴田裕太郎 | 1996.6.24 | 2024 | 大宮アルディージャ | 【完】 | |
27 | FW | 山田剛綺 | 2000.5.19 | 2023 | 関西学院大学 | ||
28 | MF | 食野壮磨 | 2001.5.29 | 2023 | 京都産業大学 | 【卒】 | |
30 | FW | 白井亮丞 | 2005.5.17 | 2023 | 東京ヴェルディユース | 【昇】 | |
31 | GK | 佐藤久弥 | 1998.4.4 | 2021 | アスルクラロ沼津 | 【H】 | |
32 | MF | 山本丈偉 | 2006.5.18 | 2023 | 東京ヴェルディユース | 【昇】【H】 | |
33 | MF | 松橋優安 | 2001.10.27 | 2020 | レノファ山口FC | 【復】【H】 | |
34 | FW | 川村楽人 | 2005.5.17 | 2023 | 東京ヴェルディジュニアユース | 【2】 | |
38 | MF | 熊取谷一星 | 2003.2.14 | 2024 | 明治大学(在学中) | 【特】 | |
40 | MF | 新井悠太 | 2003.3.24 | 2023 | 東洋大学(在学中) | 【特】 | |
41 | GK | 中村圭佑 | 2005.4.27 | 2024 | 静岡学園高校 | 【卒】 | |
47 | MF | 松村優太 | 2001.4.13 | 2024 | 鹿島アントラーズ | 【レ】 | |
48 | DF | 内田陽介 | 2002.8.20 | 2024 | 明治大学(在学中) | 【特】 |
※備考欄は【完】=完全移籍での加入、【レ】=レンタル移籍での加入、【復】=レンタル先からの復帰、【新】=新任の監督、【昇】=トップチーム昇格、【卒】=新卒での加入、【特】=特別指定選手、【2】=2種登録、【H】=ホームグロウン選手
過去に所属したおもな選手
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歴代監督
国籍 | 監督名 | 在任期間 | 備考 |
---|---|---|---|
ペペ | 1992年 | ・ナビスコカップ優勝(1992年) |
|
松木安太郎 | 1993年~1994年 | ・Jリーグ優勝(1993年、1994年) ・ナビスコカップ優勝(1993年、1994年) |
|
ネルシーニョ | 1995年~1996年4月 | ・Jリーグ2ndステージ優勝(1995年) |
|
岸野靖行 | 1996年4月 | 監督代行 |
|
エメルソン・レオン | 1996年5月~1997年1月 | ・天皇杯優勝(1996年) |
|
加藤久 | 1997年1月~6月 | ||
バウディール | 1997年6月~12月 | ||
川勝良一 | 1997年12月 | ||
ニカノール | 1998年~1998年9月 | ||
川勝良一 | 1998年9月~12月 | ||
松永英機 | 1999年 | 実質的な指揮は総監督の李国秀 |
|
張外龍 | 2000年 | ||
松木安太郎 | 2001年~2001年7月 | ||
小見幸隆 | 2001年7月~2002年4月 | ||
ロリ・サンドリ | 2002年4月~2003年5月 | ||
レアンドロ | 2003年5月 | 監督代行 | |
オズワルド・アルディレス | 2003年5月~2005年7月 | 天皇杯優勝(2004年) | |
石﨑信弘 | 2005年7月 | 監督代行 |
|
バドン | 2005年8月~12月 | J2降格(2005年) | |
ラモス瑠偉 | 2006年~2007年 | J1昇格(2007年) | |
柱谷哲二 | 2008年 | J2降格(2008年) |
|
高木琢也 | 2009年~2009年10月 | ||
松田岳人 | 2009年10月~12月 | ||
川勝良一 | 2010年~2012年9月 | ||
高橋真一郎 | 2012年9月~12月 | ||
三浦泰年 | 2013年~2014年9月 | ||
冨樫剛一 | 2014年9月~2016年 | ||
ミゲル・アンヘル・ロティーナ | 2017年~2018年 | ||
ギャリー・ジョン・ホワイト | 2019年~2019年7月 | ||
永井秀樹 | 2019年7月~2021年9月 | ||
堀孝史 | 2021年9月~2022年6月 | ||
城福浩 | 2022年6月~ | J1昇格(2023年) |
その他
- Jリーグ設立当初、Jリーグの企業名排除・地域密着の理念と激しく強く対立したため(現在はかなり合わせている)サッカー界では悪役的扱いになることもあるが、現在に至るまで、ブラジル型のテクニックを重視した攻撃サッカーを長く伝統とし、Jリーグブームのころ人気選手が多く在籍したため、根強い支持がある。
- また、前身の頃からの伝統でユース世代の選手の育成にも定評がある。近年では2010年、2011年とクラブユースサッカー選手権を連覇。強豪の高校も入り混じって行われる高円宮杯U-18プレミアリーグでも、2012年にイーストリーグを制してチャンピオンシップに進むなど、その力は今もなお健在。当然、下部組織からトップ昇格する有望株も多いが、経営危機やチームの低迷もあって程なくして別のクラブに移籍することが多くなった。
- 女子サッカーチームの日テレ・ベレーザは、(その名から想像できる通り)同じ読売系列で、読売グループが経営から外れた現在でも関わりが強い。
- サッカー天皇杯を2004年に制覇したのはよいのだが、それ以後はJリーグよりも下のチームを前に敗退することが多くなってしまった。どうしてこうなった…
関連動画
関連リンク
関連項目
- サッカー
- Jリーグ - Jリーグチーム一覧
- J1リーグ(1993年 - 2005年、2008年、2024年 - )
- J2リーグ(2006年 - 2007年、2009年 - 2022年)
- オリジナル10
- 東京都
- 味の素スタジアム
- 読売
脚注
- *ジェフユナイテッド市原・千葉(旧・ジェフユナイテッド市原)や湘南ベルマーレ(旧・ベルマーレ平塚)も名前は変わっているが当初からのホームタウンの地域を拡大したものである。
- *Jリーグ参入前であれば、福岡ブルックス(現・アビスパ福岡)が静岡県藤枝市から福岡市に移転したという経緯はある。
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 北海道コンサドーレ札幌
- 浦和レッドダイヤモンズ
- 川崎フロンターレ
- 京都サンガF.C.
- 柏レイソル
- FC東京
- サガン鳥栖
- 鹿島アントラーズ
- アビスパ福岡
- 名古屋グランパス
- ガンバ大阪
- ジュビロ磐田
- セレッソ大阪
- 横浜F・マリノス
- アルビレックス新潟
- サンフレッチェ広島
- 湘南ベルマーレ
- ヴィッセル神戸
- FC町田ゼルビア
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