東照宮(とうしょうぐう)とは、東照大権現(徳川家康)を祭神とする江戸時代からの神社群の総称である。なお、地域によって日光東照宮、久能山東照宮などと名付けられるが、文科省での文化財の名称はいずれも東照宮である。
徳川家康は神格化され、東照大権現といわれるが、これは比叡山と同地に鎮座する日吉神社で主流だった山王権現に肖っており、関東における天台宗の拠点となった喜多院を治めていた当時の高僧、天海の影響によるものである。
概要
東照宮創建の由来は江戸幕府を築いた徳川家康本人が天海らに遺言を告げたもので、「骨を久能山に納め、霊牌を大樹寺、日光、金地院に小堂を営造…」とあった。そして、その遺言通り、最初に駿府国静岡(静岡市)の久能山に東照社(現在の久能山東照宮の前身)が造営される。そして、それと並行して日光へも霊堂創建の準備が執り行われた。なお、この時家康はあくまで「小堂を築き…」とあり、日光が今に見る絢爛豪華な大堂へと変貌を遂げたのは、のちの3代将軍、徳川家光の手によるものであり、家康21周忌の際に、先祖家康のさらなる神格化と、より幕府を掌握する徳川家の権力と権威を世に標榜するためであった。そして、元々の久能山も大造替を行っているほか、岡崎や川越など全国各地、ゆかりの強い地に東照宮を創建している。その後、諸大名の勧請などで、全国には数百を超える東照宮が創建されることになった。
なお、日光が墓地として選ばれたのは、当地にはもともと輪王寺という関東地方を総括する寺があり、一帯は源氏、北条氏などの尊崇を集めるなど東国の一大霊場となっていたためである。
ところが、明治時代には旧幕府色を払拭するため、明治神道の社格制度では軒並み東照宮は格を落とされ、日光東照宮と久能山東照宮ですら別格官幣社となっており、他の東照宮に至っては県社以下に落とされてしまった。それにより、廃社になったものも少なくなく、現存するものも合祀されたりしている。
全国の東照宮
全国の東照宮は、最盛期の江戸時代には泰平な時代を築いた徳川氏を讃えたり、忠誠を誓ったりして700社以上が設けられたといい、現在も130社ほどが残っている。そのうち代表例を、カテゴリーで分類しながら紹介していく。
総本宮
- 日光東照宮 → 本記事を参照
- 久能山東照宮(静岡市)
太平洋を望む久能山は駿府を統治していた徳川家康が特に思い入れを抱いていた地であり、遺言によって久能山に骨を埋めよと2代将軍、秀忠に命を与えたことで、日光とともに東照社が築かれていった。後に家光によって大造替が行われ、日光とともに全国東照宮の総本社として名を知らしめるようになっている。国宝にも指定された絢爛豪華な本殿は、実は日光に存在しない(日光は本殿が存在しない)ものであり、ほかにも拝殿や石の間などが国宝に、唐門や玉垣などが重要文化財となっている。なお、久能山は険しい山となっており、1100段以上の石段を登った末に本殿がある。一方で、周囲は観光地として開発もされ、日本平ロープウェイから5分で到着できるようになっている。この他、静岡に多くの模型メーカーが集まっている関係で、ガンプラを筆頭に様々なプラモデルが奉納・展示されている。
徳川家光らと関わりが深い東照宮
- 世良田東照宮(群馬県太田市)
徳川家が、この在郷の世良田氏の末裔であったことを自称していたことから、後述する天海が住職をしていた関係もあり、長楽寺境内に創建された。後の神仏分離で、今の位置に遷座している。なお、社殿は元々、大規模造替される前の日光にあった奥拝殿を移築したものであり、かつては三大東照宮を自称していたが、今は控えめな表現となっている。拝殿は当時のもので、国の重要文化財。 - 仙波東照宮(埼玉県川越市)
現在は川越八幡宮境内にある。黒衣の宰相といわれ、家光も全幅の信頼を置いていた天台宗の高僧「天海」が拠点としていた喜多院は、久能山から日光への改葬の際に、その法要を行った寺であり、その縁で後水尾天皇より東照大権現の勅額が下賜されたことを記念して創建されたもの。そのような歴史と自負があるため、三大東照宮を名乗っている。社殿などは国の重要文化財。 - 上野東照宮(東京都台東区)
徳川家の菩提寺である増上寺境内にあった芝東照宮とともに、都下を代表する東照宮で、「安住の地が江戸に欲しい」という徳川家康の遺言により建てられたもの。そこで、徳川家康に忠誠を誓っていた藤堂高虎の自邸の敷地に、徳川家光によって築かれ、芝とともに江戸における東照大権現信仰の拠り所となった。なお、上野は江戸の乾(北東)の方角にあり、天台宗の寛永寺が設けられている。これは京の比叡山に倣っており、天海によって天台宗に帰依した徳川家光の影響も少なくない。戦災で焼失した芝東照宮とは対照的に、奇跡的にも震災にも戦災にも耐え抜き、社殿などが国の重要文化財となっている。 - 芝東照宮(東京都港区)
元々は、徳川家の菩提寺である増上寺境内にあり、神仏習合で切り離された。家康が自らの還暦祝いで刻ませた寿像を駿府城に置いていたが、遺言により増上寺に社殿を作り祀るようにしたのが始まり。それを家光が移転、改築を行い、駿府城より惣門を、福岡藩の黒田忠之により寄進された鳥居などをしつらえ、芝東照宮となった。しかし、幸い寿像は罹災を免れたものの、貴重な社殿類は戦火で焼失し、今の社殿は昭和44年に再建されたものとなっている。 - 滝山東照宮(愛知県岡崎市)
家康の生誕地である岡崎に東照宮がないことを知った家光が、是非岡崎城の近くに東照宮を築きたいという思いによって創建。明治になって村社に格が落とされ日吉社となったが、昭和44年に、本殿などが重要文化財に指定されたことがきっかけで、元の滝山東照宮に戻している。 - 鳳来山東照宮(愛知県新城市)
鳳来寺の境内にあり、徳川家康の実母である於大の方が参籠したことを家光が知り、そして家綱が家光の命を受けて創建した。本殿などは国の重要文化財。 - 日吉東照宮(滋賀県大津市)
現在は日吉大社の末社となっているが、元々は比叡山延暦寺の末寺であり、東照宮創建にかかわりが深い、天台宗と天海ゆかりの寺院。壮麗な唐様は権現造の大元になっており、いわば日光東照宮、久能山東照宮の雛型となったものである。 - 金地院東照宮(京都市左京区)
金地院(こんちいん)は京都市左京区南禅寺にある塔頭の一つで、以心崇伝ゆかりの寺。以心崇伝は天海とともに徳川家康から厚く信頼されていたが、天海が山王権現信仰を推輓したのに対し、崇伝は吉田神道に基づいた明神信仰を推輓したことで対立、そして天海の入れ知恵(明神は秀吉が名乗っていたことで縁起が悪いと吹き込んだとされる)によって、家康の神格化に際し、秀忠が権現を選択したことで袂を分かった。しかし、家康が名指しで「金地院に小堂をいとなみ」と指名しており、家康の遺髪が祀られ、京都所司代の番所が置かれるなど、江戸時代には一目置かれる存在だったという。
御三家とかかわりの深い東照宮
御三家となった水戸、尾張、紀伊の三国はそれぞれ諸藩に配置されると、まっさきに行ったのが東照宮造営であったといわれており、これらの造営は上述の東照宮より歴史が古いものが多い。
- 水戸東照宮
水戸藩祖、徳川頼房によって創建されたもの。家康だけでなく、秀忠の霊屋も建てられ、歴代将軍も祀られているのが特徴。かつては国宝(今でいう重要文化財)だったが戦災で焼失、戦後に再建された。 - 名古屋東照宮
尾張藩祖、徳川義直によって創建されたもの。御三家の筆頭であったことから、東照宮で最も豪華で壮麗ともいわれ、かつては国宝だったが、戦災で焼失。昭和29年に、建中寺の霊廟を移築して社殿とした。そのため、東照宮としてはいささか地味な社殿となっており、再建を望む者も少なくない。 - 紀州東照宮(和歌山東照宮)
紀州藩祖、徳川頼宣によって創建されたもので、城下外れの和歌浦に鎮座していたことが幸いして戦火を免れ、今も本殿、楼門などが重要文化財となっている。和歌山城とともに御三家和歌山を象徴する建物として、和歌浦名物に「和歌浦には名所がござる、一に権現…」などと謳われ、「関西の日光」、はたまた「西の日光」という通り名がある。また、侍坂と呼ばれる108段の石段を勇壮に駆け上る例大祭は江戸時代から明治以後和歌祭と名付けられて今に続き、多くの見物客を集める。
諸大名が勧請した東照宮の一例
- 弘前東照宮
弘前2代藩主津軽信枚が、天海を通じて東照大権現を勧請し創建したもの。本殿は国の重要文化財だったのだが、宗教法人が破産してしまい、重要文化財の本殿を除いて破却の憂き目に。また、祭神は黒石神社に遷座することになっている。 - 仙台東照宮
2代藩主、伊達忠宗が勧請し、造営したもの。伊達家は外様ながら徳川家とは縁があった。また、仙台では当時大火や洪水に見舞われ、疲弊してしまっており、幕府が救済した経歴がある。その恩義を示すため、当家二代目城主である忠宗が勧請したものである。本殿などは国の重要文化財。 - 鳥取東照宮
初代鳥取藩主、池田光仲によって造営された。光仲は家康の曾孫にあたるものの、池田家は元来豊臣に仕えていたため、幕府への恭順を示すために勧進したと伝えられている。なお、元々は因幡東照宮という名で、明治時代には樗谿神社(おうちだに-)という名前に改めたものの、読めないために、平成23年に鳥取東照宮と改められた。拝殿などは国の重要文化財。 - 広島東照宮
広島藩の2代目藩主浅野光晟が、生母にあたる正清院が家康の三女にあたることから造営に深く関心を持ち、勧請した歴史がある。しかし、そんな経歴のため城下の民はあまり関心を持っていなかったことで明治維新後にはすっかり荒廃してしまっていた。その後明治末期に再建されるが、大戦の原爆投下によってほとんどが全焼、その後多数の避難者が集まり、救護拠点となった歴史がある。その後昭和40年、東照公350年祭が全国の東照宮で行われ、その際に社殿を再建することになった。
歴史から姿を消した東照宮
- 川崎東照宮(大阪市)
大阪市の天満付近に建てられた東照宮だが、現存しない。それも仕方ないことで、一帯は豊臣秀吉が築いた地であった。その大坂に繁栄をもたらした太閤秀吉公ゆかりの地にわざわざ築かれた東照宮であることは、すなわち豊臣家の思い入れを断ち切る徳川氏の狙いが透けていたからである。江戸時代、例大祭には大坂一番の盛り上がりを見せたとも記される一方、サクラじゃないかと胡散臭さを訝る町人も多かったという。案の定、明治時代の大坂行幸をきっかけに、秀吉を祭神とする豊國神社造営の勅が下されたことで、市内では「太閤はん最高や!徳川なんか最初からいらんかったんや!」豊臣礼讚という機運が高まり、明治6年になってあっけなく廃絶した。そしてその跡地には小学校などが建っており、石碑が残っているに過ぎない。なお、川崎東照宮は大塩平八郎の乱でも受難しており、更に鳥羽伏見の戦いでも戦火を受けそうだったため、御神体が埼玉の忍東照宮に移されている。
東照宮とは非なるもの
- 耕三寺(広島県尾道市)
陽明門などを模したいわばテーマパーク、もとい浄土真宗系の寺院。鉄工所経営や塩田開発などで莫大な財をなした金本耕三(後の耕三寺耕三)が、実母を供養するために作った孝養門が、完全な日光東照宮陽明門の模写であることから、俗に「西の日光」と呼ばれるようになった。ほかにも京都御所紫宸殿を模した山門や室生寺五重塔を模した五重塔など、境内にひたすら模擬建築が建ち並び、一部は登録有形文化財となっている。しかし、あくまで孝養門は模造建築であり、東照大権現を祀ったものではないため、東照宮ではない。それ以外にも、境内には神社施設は一切併設されていない。
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関連項目
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- 0pt