松井友閑単語

マツイユウカン
1.0千文字の記事
  • 0
  • 0pt
掲示板へ

松井友閑(?~?)とは、戦国時代の武将である。

概要

織田信長古参の側近。似たような存在である武井夕庵とは異なり秀吉政権でも職務を担っていたが、急に罷免されて歴史の表舞台からは姿を消した。

織田信長の側近・松井友閑

出自については全く不明。谷口広は『信長公記』首巻の清州の町人で舞を教えた友閑が同一人物である可性も想定している。なお、ルイス・フロイスによれば元は僧だったそうだ。

後には丹羽長秀とともに京都の町人たち相手の奉行を務めるほど重用されており、元3年(1572年)には病気で倒れた彼を織田信長がとてつもなく心配しているほど、上に認められた存在だったようだ。大徳寺領賀茂社とのやりとりでは塙直政木下秀吉の上位者としてふるまっていたほか、上杉謙信相手の外交担当にもなっていた。

松井友閑は、塙直政の代理で島田秀満とともに足利義昭つなぎとめも担ったが、決裂。足利義昭の追放後はの代官を担う。これは、塙直政大和長岡孝が丹波といった、大坂本願寺包囲体制の一環だったかもしれない。なお、この縁で三好康長の降を仲介している。

かくして、三好康長とともに、本願寺との講和を成立させた一方、宮内卿法印に任官されるなど、織田信長の重臣の一人となった。しかし、代官のみに仕事をとどめていたとはいえず、地方官と側近を兼ねていたのが松井友閑だったのである。この流れから、上杉謙信だけではなく、伊達輝宗大友宗麟などの外交も彼が担当していった。

荒木村重の説得にも万見重元といった後輩たちとになっていった松井友閑は、京都、安土をひっきりなしに移動する、むちゃな運用をされていた。こうした一方で法隆寺の内紛への対処や、本願寺の明け渡しにも携わっていたようである。

本能寺の変の後

えにも坊主衆として参加した松井友閑であり、正10年(1582年)にも武田勝頼討伐を畿内などに伝える任務を粛々と行っていた。ところが、徳川家康を接待している時に、本能寺の変が勃発する。

とはいえ、松井友閑は、羽柴秀吉にも引き続きの代官として重用されていった。少なくとも賤ヶ岳の戦いの頃には全に羽柴秀吉下に収まったが、正14年(1586年)に突然職務を罷免される。

松井友閑のその後は、文2年(1593年)の10月29日の『鹿日録』で生存がまだ確認される程度で、杳として知れない。

補足

実は信長の野望には全く出たことがない(太閤立志伝にはいるのだが…)。

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 0
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

結月ゆかり (単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: れとふすちむ
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

松井友閑

まだ掲示板に書き込みがありません…以下のようなことを書き込んでもらえると嬉しいでーす!

  • 記事を編集した人の応援(応援されると喜びます)
  • 記事に追加して欲しい動画・商品・記述についての情報提供(具体的だと嬉しいです)
  • 松井友閑についての雑談(ダラダラとゆるい感じで)

書き込みを行うには、ニコニコのアカウントが必要です!


ニコニコニューストピックス