松井友閑(?~?)とは、戦国時代の武将である。
概要
織田信長の古参の側近。似たような存在である武井夕庵とは異なり秀吉政権でも職務を担っていたが、急に罷免されて歴史の表舞台からは姿を消した。
織田信長の側近・松井友閑
出自については全く不明。谷口克広は『信長公記』首巻の清州の町人で舞を教えた友閑が同一人物である可能性も想定している。なお、ルイス・フロイスによれば元は仏僧だったそうだ。
上洛後には丹羽長秀とともに京都の町人たち相手の奉行を務めるほど重用されており、元亀3年(1572年)には病気で倒れた彼を織田信長がとてつもなく心配しているほど、上司に認められた存在だったようだ。大徳寺領賀茂社とのやりとりでは塙直政や木下秀吉の上位者としてふるまっていたほか、上杉謙信相手の外交担当にもなっていた。
松井友閑は、塙直政の代理で島田秀満とともに足利義昭のつなぎとめも担ったが、決裂。足利義昭の追放後は堺の代官を担う。これは、塙直政が大和、長岡藤孝が丹波といった、大坂本願寺包囲体制の一環だったかもしれない。なお、この縁で三好康長の降伏を仲介している。
かくして、三好康長とともに、本願寺との講和を成立させた一方、宮内卿法印に任官されるなど、織田信長の重臣の一人となった。しかし、堺代官のみに仕事をとどめていたとはいえず、地方官と側近を兼ねていたのが松井友閑だったのである。この流れから、上杉謙信だけではなく、伊達輝宗や大友宗麟などの外交も彼が担当していった。
荒木村重の説得にも万見重元といった後輩たちとになっていった松井友閑は、堺、京都、安土をひっきりなしに移動する、むちゃな運用をされていた。こうした一方で法隆寺の内紛への対処や、本願寺の明け渡しにも携わっていたようである。
本能寺の変の後
馬揃えにも坊主衆として参加した松井友閑であり、天正10年(1582年)にも武田勝頼討伐を畿内などに伝える任務を粛々と行っていた。ところが、堺で徳川家康を接待している時に、本能寺の変が勃発する。
とはいえ、松井友閑は、羽柴秀吉にも引き続き堺の代官として重用されていった。少なくとも賤ヶ岳の戦いの頃には完全に羽柴秀吉の傘下に収まったが、天正14年(1586年)に突然職務を罷免される。
松井友閑のその後は、文禄2年(1593年)の10月29日の『鹿苑日録』で生存がまだ確認される程度で、杳として知れない。
補足
実は信長の野望には全く出たことがない(太閤立志伝にはいるのだが…)。
関連項目
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