松平忠直(まつだいら・ただなお 1595~1650)とは、戦国武将・大名である。徳川家康の次男結城秀康の子。越前福井藩主。
概要
結城秀康の子で、徳川家康の孫にあたる。父に似て血気盛んな性格だった。「忠」は伯父の徳川秀忠からの一字拝領。
大坂の陣では真田幸村相手に奮戦するなど活躍を見せるが、その後は色々と危険な乱行が目立ち始め、若くして隠居・配流の憂き目にあった。これをきっかけに、越前一国67万石を有した福井藩は分割され、越前松平家も5系統に分かれることになる。
生涯
若き日
父の代か忠直の代かは諸説あるが、結城から松平へと復姓。松平忠直と名乗った。1607年、父秀康が早世して13歳で家督を継ぐ。徳川秀忠との仲は良好で、娘・勝姫を正室に迎えている。
大坂夏の陣では越前衆を率いて大活躍。自らも敵の首を取るなど功を挙げた。真田幸村を討ち取ったのは彼の家臣である。
だがこうした血気盛んな性格は年々悪化していく。大坂の陣の論功として名茶器「初花肩衝」を与えられたが、領地の加増が無かった事に不満を示したという。更には家臣の未亡人を我が物にしようとしたり、断られるとその一族を斬殺したり、正室の勝姫すら殺害しようと試みたり…と乱行が目立ち始めた。病気を理由に参勤交代をサボったりもしている。
福井の地は京都から北陸(特に加賀前田)を睨む要衝の地。それだけに彼を野放しにしておくわけにはいかなかった。1623年、29歳の時に隠居を命じられ、出家。そのまま豊後府内へと配流された。
忠直の子・松平光長はまだこの時9歳と幼かったので、福井藩は弟の松平忠昌(越後高田藩から移封)が継いだ。
その後
配流されて監視・軟禁の身とはなったが、それなりに自由はあったようで、新たに側室をもうけて二人の庶子(永見長頼・永見長良)を生ませていたりする。(ただしこの二人、後々家督争いの種になる)
1650年、豊前で死去した。56歳。
その後の福井藩と越前松平家
前述のとおり、福井藩は次弟の忠昌が継いだ。が、同時に藩は分割されて忠昌は福井50万石、三弟直政に大野5万石、五弟直基に勝山3万石[1]、六弟直良に木本2.5万石……となる。
一方の息子・光長は忠昌と入れ替えで越後高田藩25万石となった。
こうして越前松平家は5つの系統に分裂するのだが、現在に至るまで宗家は忠昌系か光長系かという論争が存在している。秀康以来の福井藩主の家系か、それとも嫡男の家系か……?
光長晩年のすったもんだ
だが光長は嫡男に先立たれ、養子を取ることになった。この時に候補となったのが、忠直が豊後で産ませた永見長頼の子・松平綱国だった。が、これがお家騒動をもたらして高田藩は改易。綱国は廃嫡。
最終的に引っ越し大名こと松平直矩(直基の子)の子・松平宣富が養子となって決着し、改めて美作津山に10万石が与えられて家は復興する。(この辺の事情も宗家論争をややこしくしている)
これ以降、子孫は津山藩主として幕末を迎えている。
関連項目
脚注
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