松平清康(まつだいら きよやす 1511 ~ 1535)とは、日本の戦国時代に活躍した戦国武将である。
概要
三河国(今の愛知県東部)の戦国大名で、徳川家康の祖父にあたる。
瞬く間に三河を統一したが若くして不慮の死を遂げた、流れ星の如き人物。
生涯
誕生
松平氏はいつの間にか三河国に土着した一族で、本人達は源氏の新田氏の系譜を引いていると記している[1]が、本当の来歴は消失しており不明である[2]。三河各地に分かれて割拠した松平諸家のうち、今の安城市に勢力を張った安祥松平氏の4代目当主にあたるのが清康である。
永正8年9月7日(1511年9月28日)に3代当主・松平信忠の長男として誕生。幼名は竹千代。母親は水野氏の女性だとされるが諸説ある。
快進撃
大永3年(1523年)に祖父松平長親と家臣団によって父親が隠居に追い込まれた事で、若干13歳で家督を継承。一族郎党を率いる立場となった。
家督相続してからは周囲への攻勢を強める積極的な領土拡大策を行い、松平氏の勢力を三河西部だけでなく東部にまで広げていった。その過程で岡崎の領主である西郷信貞を屈服させ、彼の娘・於波留姫を正室に迎える事で西郷氏を勢力下に組み込んだ。その後、拠点を信貞の本拠地であった岡崎に移し、そこの龍頭山にあった城を拡張・全面改築する。それが、現在の岡崎城の始まりである。
内政面では奉行・代官制を確立させ統治機構の充実を図っている。新城である岡崎城下に家臣団を移住させ寺院・神社を誘致するなど城下町を育て、今の岡崎市の原型を形作っている。また家中の士気高揚策なのか、家臣の中でも特に武勇に秀でた者5人を岡崎五人衆として表彰している。
この頃から新田氏の末裔であると主張して「世良田次郎三郎」を名乗った事が、後々に孫にあたる徳川家康に影響を与えることになる。
享禄2年(1529年)には三河東部の国人衆の多くが恭順。11月には最後まで抵抗した熊谷氏も打ち倒し三河国を統一。ただの一国人だった松平氏を一国の大名へと発展させた。しかし清康の目は次へ向いていた。誰もが松平氏の更なる発展と栄光が末永く続く事を疑わなかった。しかし・・・。
早すぎる最期
三河統一から間もない享禄3年(1530年)には更なる勢力拡大を目指し隣国・尾張国(今の愛知県西部)に侵攻を開始。じわじわと確実に領域を拡張していく。同時に尾張の有力者である織田信秀に対抗して美濃の斎藤 道三や西美濃三人衆と挟撃する密書を交わして全面対決する準備を整えたうえで、天文4年(1535年)12月に自ら兵を率いて尾張に進軍する。
こうして尾張の守山城に攻めかかったが、その攻城戦の最中に「家臣・阿部定吉が織田方に内通している」「清康は定吉を処刑する気だ」というデマが松平陣営に流れる。清康はこれを気にも留めていなかったが、家臣団の間では定吉への疑念が深まり、険悪な空気が漂っていた。こうした状況で定吉は息子の阿部正豊に「噂は事実無根である」「もし自分が処刑されたら無実を証明して汚名を晴らしてほしい」と打ち明け、潔白を訴える書状を託した。
その事件の翌日(現在の暦で12月29日)早朝、手違いで馬が逃げ出した事で陣中がにわかに騒然となる。これを見た阿部正豊は父・定吉が処刑されたと勘違いしてしまう。そのころ本陣で戦闘準備をしていた清康だったが、怒りにかられた正豊によって背後から斬り殺された(守山崩れ)。享年25歳、破竹のスピードで三河を統一し勢力を拡大した英主のあまりにも早すぎた死であった。
守山崩れ・余談
これらの事件の裏にいたのは、清康の叔父である松平信定(桜井松平家当主)とも噂される。愚鈍と言われた父・松平信忠に比べ、なかなか人望のあった人物と言われ、祖父・松平長親からも寵愛を受けていたらしい。
ところが、隠居させられた信忠の跡を継いだのは清康だった。そこで松平一族のトップの座を奪い取るために密かに織田家と内通し、こうした策謀を巡らせていたのではないかと言われている。そして清康の死後、信定は岡崎城を乗っ取ってしまうのである。
その後
暗殺犯の正豊はその場で斬り殺された。我が子が仕出かした大事件を聞いた阿部定吉は死を以って償おうとしたが、清康の跡を継いだ息子・松平広忠に止められ、許された。この後、定吉は生涯をかけて若き広忠の苦難を支え続けていく。
優秀なリーダーの死によって安祥松平家の求心力は大暴落してしまう。三河は再び土着勢力が割拠する分裂状態へと逆戻りし、隣国の織田氏と今川氏が領地を奪い合う戦場と化す。
安祥松平家は大幅に弱体化して、広忠も一時は岡崎を追われるなど苦難の日々を過ごす事になり、生き残るべく我が子を人質に差し出す事態へと陥ってしまう。
人物像
小柄だが勇猛果敢でどのような低い身分の者であっても慈しみを以って接し、優秀な人材はドンドン抜擢していったという。その仁徳は多くの人を惹きつけ賞賛されたらしい。
十代の若さからトップに立ち、僅か13年の治世で松平家を三河一国を治める大名に成長させた実績は名君と呼ぶに相応しい。それ故に予期せぬ突然の最期はあまりにもダメージが大きく、以降松平家は過酷な時代を迎える事になる。
清康から見て孫にあたる徳川家康も偉大なご先祖を尊敬し、自らの名前の康の字は清康から取られたという。
補足
「信長誕生」シナリオで登場。戦闘能力は非常に高いが家臣が人材不足気味で、30歳まで生きても天下は取れそうにない。守山崩れはイベント化もされており、流星の如く退場してしまう作品もある。また、家臣に暗殺されたためか覇王伝の智謀はかなり低い。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | 84 | 戦闘 | 85 | 智謀 | 29 | 政治 | 70 | 野望 | 67 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 174(A) | 智才 | 138(B) | 政才 | 140(B) | 魅力 | 88 | 野望 | 68 | ||||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 84 | 智謀 | 81 | 政治 | 74 | 野望 | 87 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 85 | 知略 | 73 | 政治 | 64 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天道 | 統率 | 92 | 武勇 | 84 | 知略 | 83 | 政治 | 90 | ||||||||
創造 | 統率 | 87 | 武勇 | 84 | 知略 | 69 | 政治 | 67 | ||||||||
大志 | 統率 | 89 | 武勇 | 80 | 知略 | 72 | 内政 | 66 | 外政 | 69 |
関連項目
脚注
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