松平長親単語

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松平長親まつだいら・ながちか 1455/1473~1544)とは、三河の人領平家5代当である。

概要

三河の人・松平親忠の三男(長男とも)。安祥平家の当。多くの戦功を挙げ、一族中における安祥の地位を高めた。隠居・出後も後見として存在感を発揮し、子・信忠、孫・清康、曾孫・広忠の代まで生きた。だが三男・信定への溺お家騒動を引き起こす。玄孫・家康の誕生翌年に死去。

当代史料に残る名前は「長忠」であるが、後代においては長として伝わっている。出後は「閲」(どうえつ)と号した。長(1442?~1520?)、乗元(1446~1537)、に知恩院25世の存1469~1549)等がいるとされている(※に関する異説は後述)。どいつもこいつも生年がおかしい、変態長寿ブラザーズひとり
息子は以下の5人。

生涯

松平家5代当主という扱いについて

忠もそうなのだが)長は三男という立場であり、本来は長長の「岩平家」が平氏の惣領・宗という立場であったのでは?と考えられている。は安祥であり、長はその座を継いではいるのだが、当時の一族の本拠地は安祥ではなく岩だったと。

ただし、平氏は後に三河一向一揆記録が散逸したり、下人の一族となったりしたため、松平広忠以前の記録については不確かなことも多く(それは彼の名前が「長」と誤伝されてしまったことにも表れている)長自身にも長男説があり、とされる長・乗元は忠の(つまり伯父)であったという説も存在する。

実際、忠から続く「次郎三郎」の名乗りを考えた時、安祥平家は「2代当次男」の三男忠から始まっているために、歴代当名乗り次郎三郎となったと考えれば、収まりが良くなるのも確かである。

しかし、1506年に起きた今合戦により岩平家落し、逆に長の安祥平家盛を迎えることとなる。また、結果的に彼の子孫が幕府を開き下人となった。そのため後世、平家5代当称号を与えられることとなった。

伊勢盛時との戦い(今橋合戦)

1496年、の隠居により安祥平家督を継いだ。

かしこの時代は、駿河の今川氏親による積極的な西進が行われている最中で、まずは遠江を併合すべく斯波義寛・斯波義達子などと戦が繰り広げられた。やがて今川氏は遠江の一部へと領地を拡大し、また反斯波・今川の遠江人の協もあって、更に東三河までも配下に組み込む。こうして次のターゲットは西三河の平氏となっていた。

1506年、安祥の長は、当時今川臣であった伊勢新九郎盛時北条早雲。氏叔父である)と戦っている。大久保彦左衛門が後世に記した『三河物語』によれば、駿河・遠江・東三河をあわせた今川1万の大軍に対し、長側はわずか500で対峙していたという。しかし長存亡をかけた決死の攻撃により、東三河勢をまず破る。続く新手もほぼすべて撃ち破り、最後は総大将・盛時の旗本勢まで破り、日後もよくもちこたえ、これには流石の盛時も撤退しなければ ならなかった。

この一戦がきっかけで長の武名は近隣諸くこととなり、党におけるは大いに増した。(※1501年説、1508年説もある)

長親の汚点

そんな名将の長であるが、後々まで続くお問題の種をまいてしまう。

1503年にくも隠居。嫡子・信忠督を譲って後見役を務めたが、信忠はかなり暗愚な人物であり、そうした資質を見抜けなかったようだ(実際はまだまだ長が実権を握っていたようだが。↑の今合戦でも信忠は特に活動の記録い)。信忠のあまりのダメっぷりに臣の不満は溜まり、遂に平家分裂の危機にまでしてしまい、家老酒井忠尚の嘆願でようやく嫡孫・松平清康督を譲らせるという事態に陥るほどの体たらくであった。(清康の相続は1523年。この時信忠34歳、清康13歳である)

また、三男(次男とも)・松平信定をかなり溺愛していた為に、信定の増長を招いてしまった。1535年に孫・清康が守山崩れ死亡しわずか10歳の松平広忠督を継いだ時、間もなく信定が広忠を岡崎から追放し、事実上の宗乗っ取りを画策している。しかし長はこの時、信定に対しても広忠に対しても、何の手も打たず黙認していた。その後なんとか広忠は岡崎へ帰還し、信定とも一応の和解を見たが、結局信定は死ぬまで広忠と対立していた。信定の桜井平家はその後も何かと反抗し続ける。
(信定は信忠時代も清康時代も反抗的な態度をとっていたという。また信定の妻は織田信秀で、織田氏と独自に接近を図っていた点も気になるところ)

このように信定を溺愛したあまり、平家臣団に溝を作り分裂を招いただけではなく、徳川家康が苦難と辛少年時代を送る遠因を作ってしまった。そしてそれは今川義元の死まで続くこととなる。

玄孫である徳川家康が3歳の時まで生きていた。家康の幼名を『竹千代』にするよう広忠に命じたのは長という。

松平竹千代/徳川竹千代

最初に竹千代の幼名を名乗ったのは長である。(ただし、忠にも竹千代を名乗った説が存在する。)
来孫の信康まで竹千代であった。子8代同じ幼名が続いたこととなる。

竹千代と名乗った人たち

  1. 松平長親
  2. 信忠
  3. 松平清康
  4. 松平広忠(仙千代と名乗ったとも言われる)
  5. 徳川家康
  6. 松平信康
  7. 徳川秀忠(初名は長丸もしくは長であったが、・信康の死の後、嫡男名され竹千代を名乗っている)
  8. 徳川家光
  9. 徳川家斉長男
  10. 徳川家慶長男

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける松平長親の力一覧。

1544年とあって、登場するとすれば信長誕生(1534)シナリオくらい。そして大抵しょっぱなで清康が殺されてしまうので、じいちゃんにも頑っていただく必要がある。清康が生き残れば楽隠居できるのだが…。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
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天翔記 戦才 智才 政才 野望
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 戦闘 智謀 政治
世記 采配 智謀 政治 野望
蒼天録 統率 66 知略 68 政治 67
下創世 統率 知略 政治 教養
革新 統率 武勇 知略 政治
統率 70 武勇 48 知略 73 政治 77
創造 統率 74 武勇 64 知略 75 政治 76

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松平長親

1 ななしのよっしん
2014/04/13(日) 09:04:29 ID: ZWorVTp0hK
記事作成乙

玄孫できるまであの戦の三河で生きてるとか長生きしすぎぃ!
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2 ななしのよっしん
2014/12/12(金) 04:57:22 ID: 0WdY5u4arr
玄孫である家康赤ん坊の頃まで生きてたのか・・・。
存命中に玄孫ってなんだよw 孫の孫ってどいうことだよw
っていうか平家は代々若いころに子供作るの好きだよね。短気な系だからしょうがないね
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3 ななしのよっしん
2019/03/30(土) 21:59:41 ID: wQskTrqLuY
17歳 信忠(息子)誕生
38歳 清康(孫)誕生 信忠21歳
53歳 広忠(曾孫)誕生 清康15歳 信忠36歳
58歳 信忠死亡(享年41) 広忠5歳 清康20歳
62歳 清康死亡(享年24) 広忠9歳
70歳 元康/家康(玄孫)誕生 広忠17歳

が当時としては長命だったのと、その間がく作ってく逝くから物凄く長生きに見えるんだろうな。
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