松本育夫とは、元サッカー日本代表のサッカー選手、元Jリーグチーム監督、元Jリーグチームゼネラルマネージャーである。現役時代のポジションはFW。
概要
宇都宮工業高校時代から将来を嘱望されており、大学入学時の1960年に若干18歳で日本代表入りをした。1963年に天皇杯で早稲田大学を優勝に導くなど、早稲田大学ア式蹴球部の黄金時代を築いた。
1964年に東洋工業(現・マツダ)に入社し、当時の蹴球部(後のサンフレッチェ広島)に入部した。チームメイトには大学のチームメートであった桑田隆幸、二村昭雄、大野毅がいる。また、当時の日本代表選手らとプレーしていた。サイドアタッカーやウイングとしてJSL(日本サッカーリーグ)創設時の不滅の4連覇に貢献した。
1968年、メキシコシティオリンピックの日本代表に選ばれ、川渕三郎から右ウイングのポジションを奪い、日本の銅メダル獲得に貢献。FIFAフェアプレー賞も受賞した。1969年に選手を引退。
1971年-1975年は東洋工業のコーチ、1976年には東洋工業の監督として選手を育成した。東洋工業在籍中の1972年に日本ユース代表監督に就任。1979年U-19日本代表監督に就任し、風間八宏、柱谷幸一、水沼貴史など、後のフル代表を育て上げ、1979年日本開催のワールドユース選手権に出場した。1985年のアジアユース時では、井原正巳や中山雅史を育て上げた。1990年に所属していたマツダがマツダSCのJリーグ10チーム入りを降りようとした際、関係者と共にJリーグ入りを後押しした。1996年にマツダを退社。
Jリーグ開幕後、1996年から京都パープルサンガのゼネラルマネージャー(GM)に就任し、ハンス・オフトなど有名監督を招致し、ラモス瑠偉らを獲得するも、下位に低迷するチーム事情があったために、1999年シーズン途中にGMを辞任。
1999年途中、川崎フロンターレの監督として招聘され、監督に就任。熱血指導があって元気の無かったチームに活を入れ、同年のJリーグ2部(J2)優勝、1部昇格を果たす指導を行った。しかし、2000年は代表権のない社長職に追いやられ、チームは低迷し、2001年シーズンのJ2降格が決まった。松本は社長職を辞任した。
2002年に長野県の地球環境高校(通信制の高等学校)の監督に就任すると、一躍長野県代表に入る偉業を成し遂げた。しかし、拡大主義を主張する学校側と意見が対立し、翌2003年8月に辞任した。
2004年、前年J2でぶっちぎりの最下位だったサガン鳥栖の監督に招聘され、就任した。2004年当時はチームはプリンセス天功をスポンサーに迎え入れるも、経営面がボロボロで主力が不足し、12チーム中11位と、最下位には終わらなかったものの、結果サガン鳥栖第2次解散騒動に巻き込まれた。親会社がサガンドリームスに代わった2005年からようやく躍進し、監督最終年の2006年にはチームをJ2最高位の4位まで押し上げ、有終の美を飾った。2007年より岸野靖之に監督をバトンタッチし、GMに就任する。しかし、チームはGMを行っている3年間、J1昇格圏内を狙える位置、また、J2昇格圏内にある位置でプレーしていたが、シーズン後半に弱く、結局2009年までにJ1昇格を果たすことが出来ず、岸野は監督を辞任、尹晶煥を後継の監督とするために、2010年は再び監督に就任した。しかし、従来の『情熱』ではサッカーが通じず、ワールドカップ中断後はズルズルと順位を落とし、また、横浜FCに大量に選手を獲られた事もあり、結果は9位だった。そのまま監督を退任。尹晶煥へと監督職を託した。
サガン鳥栖ゼネラルマネージャー(GM)在任中の2009年にサッカー殿堂入りを果たしている。
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