松浦守(?~?)とは、戦国時代の武将である。
なお、下の名前の読みは不明なので、あくまでも仮。
概要
明応年間から姿を現し、関ヶ原の戦い前後に完全に姿を消す和泉上守護代を務めた和泉松浦氏の最盛期を作った当主。当初は主君に付き従い細川澄元→細川晴元陣営にいたが、三好長慶と軌を一にして細川氏綱陣営に身を投じ、三好長慶・遊佐長教・内藤国貞・松浦守の4人が当初は細川氏綱を支える4人の守護代だった。
なお、細川氏の出身というのは、細川有盛が松浦守の養嗣子になったという記載の誤読の可能性がある。また、岸和田城主というのは子孫の事績が遡及された誤伝。
先代・松浦左衛門大夫盛
明応7年(1498年)3月16日、『永青文庫所蔵御代々御寄附状写』の「松浦盛遵行状写」という書状に、唐突に出てくるのが、この記事の人物の先代・松浦盛である。なお、通称は五郎次郎→左衛門大夫。
おそらくここで唐突に表れ、以後1世紀程度しか活動が見られないのが和泉松浦氏という氏族で、肥前の松浦党の人々も、和泉にも同じ苗字の人がいたっぽいよと江戸時代中期に言っているレベルで交流がなく、関係は全くの不明。ただし、一字名と「まつら」の読みから、同じ嵯峨源氏を祖先と思っている集団ではあったのだろう。
そして、細川氏の内和泉上守護家の守護代は本来宇高氏という氏族だったのだが、この松浦盛の段階でそれに既に成り代わっている。この松浦盛は、明応7年6月16日に、永源庵主に、和泉が騒乱状態になっているので、京都から入国する覚悟を決めたと言っているので、おそらくここで和泉に入ったのだろう。
以後、『日根文書』や『九条家文書』等で、日根野又五郎に土生重長の知行を安堵させたり、細川政元の配下の秋庭元重等から、九条家と細川家は一体なので直ちに日根野・入山田の違乱を停止するように命じられたり、『大和伊藤文書』で惣社五社中で田楽を開いたりと、混乱状態の和泉に土着して色々在地支配にかかわっていたようである。
ところが、明応9年(1500年)を最後に姿を消し、この記事の人物の松浦守に当主が変わる。
九条政基と幼き松浦守
九条政基の領地内政日記こと『政基公旅引付』の文亀元年(1501年)から、松浦守が和泉松浦氏の当主を務めていることがわかるようになる。この日記はあまりにも領地の日根野・入山田庄が混乱状態にあるので、下国した九条政基が在地の人々などと領地を再建する過程を描くものだが、そこで細川元常の配下として何かと交流があるのが、松浦守である。
松浦守が初めて厳密に登場するのが、文亀元年の4月3日の記事である。なお、この記事から、3月の記事等にいる松浦もおそらく彼であると思われる。九条政基は、当時はまだ松浦五郎次郎を名乗っている松浦守に、細川政元配下の安富元家経由で何か書状を送っていたようで、松浦守からはそれを盛大に、いや日根野も入山田もうちの知行だから!と突っぱねられている。
以後も九条政基は、細川政久の配下である下守護代・斎藤勝実と松浦守を両守護代として、細川政元などの力も借りて、和泉の混乱を鎮め直ちに知行を回復させるように度々書状を送っていく。なお、閏6月2日には、松浦守に預けられていた囚人が逃げ出す騒動もあったようである。
なお、閏6月8日の記事から、松浦五郎次郎は年少なので名前がまだないということから、この頃は元服前であり、まだ諱すらもっていなかったことがわかる。なお、彼が幼いというのは、『政基公旅引付』の文亀2年(1502年)の8月7日の記事で、惣領を代行した松浦某が討ち死にしたことが載っていることから、幼い当主に代わって一族の誰かが面倒を見ていたこと、そしてその人物があっけなく死んだことがわかる。さらに言ってしまえば、先代とされる松浦盛も、おそらくろくすっぽ引き継ぎもできずに死んだようであり、和泉松浦氏は何らかの異常事態が続いていたような気配がある。
以後も松浦守や斎藤勝実らの手紙に憤慨して奉行衆や細川政元経由でロビー活動も続けていく九条政基であったが、その一方で現地の百姓などには松浦守たちに従わないように主張していたようである。そして、文亀2年10月26日、ついに松浦守が松浦守と記した書状を安富元家に送っており、幼かった彼だが九条政基とやりあうために元服したようである。なお、これが上述の家督代行者の討ち死にによるものなのは十分想定される。
かくして、九条政基が敵方の存在ではないかなどと両守護代は口論をくり広げていき、九条政基は彼らにとらわれた百姓を助けようとするなど文亀3年(1503年)になってもまだ明応9年(1500年)に起きた和泉の混乱は静まらないようである。結局このあたりの記事を最後に『政基公旅引付』から彼の動向を追うことはできなくなり、以後成長した彼が発給した一次史料まで時代が飛んでいく。
松浦守と畿内の争乱
永正6年(1509年)、その3年前の永正の錯乱で畿内情勢はすっかり混乱していたのだが、松浦守の主君・細川元常は細川澄元支援のため、阿波に下向したようである。そして、松浦守はある程度成長してもうその間の和泉の政務代行を任される存在になっていた。
以後、『田代文書』などを見ると、松浦左衛門大夫を名乗った松浦守が、在地支配や細川高国方との戦いなどを担っていたことがわかる。細川元常が阿波や淡路で細川澄元方を立て直している間、百姓や佐竹澄常等への命令を行っていたようである。
一方、この間敵対する足利義稙と彼を支える細川高国・大内義興・畠山尚順・畠山義元の政権は、永正15年(1518年)の大内義興の下国もあって、動揺をしていた。そのため、松浦守の属する細川澄元側はたびたび上洛軍を率いたのだが、大永4年(1524年)等には細川元常の配下として、日根野又次郎や日根野景盛・田代源次郎等に書状を出す等、引き続き和泉支配に大きく関わっていたようである。
ただし、この年に細川元常ら細川晴元軍が上洛を目指すのだが、細川稙国軍との戦いで負け、四国に戻っていってしまった。結果として、松浦守は一人取り残され最前線で長年放置されていたようである。
そして、ついに大永7年(1527年)、足利義維・細川晴元の軍勢が、三好元長らと共に、2月2日に淡路に侵攻した。『南行雑録所収松浦守書状写』によると、足利義維・細川晴元方として、松浦守・山名誠通・伊勢長野氏等が出てきており、足利義晴・細川高国方の、山名誠豊・北畠晴具・六角定頼封じ込めに携わっていたようである(なお、六角定頼とはすでに婚礼の準備もあったようなので、おそらく両陣営にかかわっていた模様)。
ところが(本当にところが)、あまりにもほったらかしにされていたので、松浦守は佐竹基親らとこの年の春頃に細川高国陣営に与する羽目になってしまった。この経緯としては、細川氏綱が和泉で盛んに活動したことにあり、結果として『高野山西院来迎堂勧進帳』に細川高国に与する存在として名前を残してしまう結果となった。
ただし、松浦守はこの後主君細川元常達が戻ってくる頃には元鞘に戻っている。というわけで、三好長尚や柳本賢治が細川高国・武田元光連合軍を打ち破り、京都を支配しつつも、堺幕府とも呼ばれる存在が出来上がった。11月9日に細川元常の被官衆が和泉に戻り、細川元常の息子の細川晴貞と共に、肥前守となった松浦守が細川元常の支配を引き続き代行していく体制が出来上がるのである。
細川高国残党との戦いの中で
以後、『岸和田市立郷土資料館集蔵文書』、『法隆寺文書』、『中家文書』等で、享禄2年(1529年)等にも引き続き在地の支配の書状などを残している松浦守であったが、彼の足跡はしばらくわからなくなる。
その彼が、久々に登場するのが、天文年間の本願寺とのやり取りである。『証如上人日記』によると天文5年(1536年)1月16日というまだ天文法華の乱も起きていない頃に、松浦守と本願寺はなにやら和睦を結んだようで、小郡代の良性という人物が松浦守の使者を務めている。細川元常、およびその息子の細川晴貞も健在であり、丹清貞といった彼らの配下も絡んでいるようである。
以後、日根野や高槻といった彼の配下がしばらく贈答に姿を現し、松浦守は上野某(細川上野氏や奉公衆上野氏ではなく本願寺方の上野法橋等か?)といった人物から贈り物を受け取っていく。ついに5月20日に和睦が進み、丹清貞と松浦守の配下の新田伊賀守といった人々と本願寺証如は会合を開いているようである。
なお、『証如上人日記』の天文5年7月6日の記事に、いね井という松浦守の弟が出てくるが、もしかしたらこれが後に出てくる、井上民部丞(井上氏?)かもしれない。
ちなみに、本願寺証如とは、以後も贈答を続けていくのだが、天文5年7月9日には馬が来なくて松浦守がキレていることもあったりした。
また、『井出文書』によると、天文4年(1535年)に野田山城を築き、松浦守はそこを本拠にしたようである。
以後、天文9年(1540年)に良性が死に、取次ぎが高槻知久に変わったことくらいしか、特に書く事がないほど、松浦守・細川晴貞は本願寺証如から贈り物を受け取ったことくらいしかわからない。ところが、『音信御日記』によると、天文11年(1542年)に唐突に堺に蟄居して牢人になっている。これは、政変というよりは、畠山稙長や遊佐長教に押し切られ、和泉を失陥したものと思われる。
天文12年(1543年)には元の地位に戻った松浦守が、本願寺顕如の一連の誕生の祝いに名を連ねている。が、先ほども見たように細川晴元と細川高国残党の戦いは激化しており、この年の7月27日の多聞院日記には、25日に玉井三河守に追い出され、細川晴元の力で戻る等、きな臭い情勢になってきていた。なお、『細川両家記』や『足利季世記』では玉井三河守は細川氏綱の配下になっているが、事実かは不明。
松浦守の下剋上?
そして、この年の10月27日、三好宗三が多賀常直に命じて、被官の成敗を免じさせ、松浦守は面目を失ったことが、後の伏線だったかもしれない。以後もしばらく、細川晴貞とともに本願寺から贈答を受け取る日々が続くが、この間、細川晴元・細川氏之に仕えていた、三好四兄弟が権勢を増していく。
天文16年(1547年)7月21日にあったらしい、畠山在氏との舎利寺の戦いを制した松浦守だったが、天文17年(1548年)8月12日に三好長慶が細川晴元から離反する直前に、『野村盛康氏所蔵文書』によると、既に松浦守は離反しており、細川晴元が三宅国村に松浦守の成敗を命じている。このように、松浦守は三好長慶と軌を一にし、細川氏綱方に身を投じたのである。
そして、天文18年(1549年)1月13日に六角定頼が岸和田兵衛大夫に送った書状などで三好長慶・松浦守の離反を非難し、細川元常が細川晴元の陣営にいることから、後世下克上のひとつとも言われる松浦守の離反も衝撃だったようである(なお、息子の細川晴貞はほぼ同時期に消えており、松浦守の下克上に何らかの影響があって消えたとも言われている)。
そして6月24日、遊佐長教・三好長慶の連合軍が、細川晴元・三好宗三らと江口の戦いを開き、これに勝利する。6月27日には細川氏綱や三好長慶らと共に、松浦守にも本願寺証如から贈り物が来ている。そして、これが松浦守が現時点では歴史上最後に姿を見せた場面である。
その後の松浦氏
もうすでに60前後であったであろう松浦守は天文年間の内に亡くなっており、三好長慶は十河一存の息子を松浦周防守盛(松浦左衛門大夫盛とは別人で、系譜関係は全く不明)の下に送り込み、松浦氏を一族化してしまった。これは、結果として細川氏綱を支えていた遊佐長教・内藤国貞・松浦守が一気に死ぬという状況になり、三好長慶の躍進へとつながっていく。なお、敵対していた細川元常も天文23年(1554年)に死ぬため、和泉は以後十河一存を中心にした体制になっていく。
おそらくこの松浦万満が松浦孫八郎→松浦光に成長して、織豊期の岸和田城主になっていくが、消えてしまい、後は寺田兄弟の松浦安大夫家(俗説で言う松浦宗清)らが差配していくのだが、それは別の物語である。
関連項目
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