松浦宏明単語

29件
マツウラヒロアキ
1.9千文字の記事
  • 0
  • 0pt
掲示板へ

松浦宏明(まつうら ひろあき)とは、元プロ野球選手である。

概要

1966年5月19日生まれ。千葉県船橋市出身。

高校船橋法典高等学校に進学。入学時は外野手だったが2年時に投手に転向するとエースとして活躍。甲子園大会出場はかったものの、県内屈の本格投手高校通算46本塁打の打者として投打で注を集めた。

卒業後、複数の社会人野球チーム大学野球部からがかかったものの、日本ハムファイターズから「練習生の形で獲りたい」と打診があり承諾。前日には球団からドラフト5位で名すると約束されたが、事情が変わり当日は名されなかった。松浦ショックを受け気持ちが折れてしまったが、からの説得や、たまたまつけていたテレビドラフト特集番組で王貞治氏が「高校プロ入りできるチャンスがあるなら入りなさい。大学社会人で怪をしてしまったらタイミングを逃してしまう。」と応えていたことで気持ちが傾き、ドラフト外日本ハムへの入団を決意した。

1985年同期よりもく一軍デビューを果たし、同年は8試合に登板した。

1986年、一軍ではリリーフプロ入り初勝利を挙げた1試合の登板に終わったが、二軍では11勝を挙げイースタン・リーグ最多勝を獲得。

1987年にビハインドの場面で起用される。5月にビハインドの場面で登板しその後チームが逆転勝ちを挙げると、その後5試合連続でリリーフ登板後にチームが逆転し勝利投手となるなど「松浦が投げると負けない」という不敗神話が誕生するなどブレークを果たす。同年は48試合に登板し8勝5敗8セーブ防御率3.54と好成績を残した。

1988年、開幕からしばらくは抑え投手を任されたが、シーズン途中から先発投手に転向し覚醒。同僚の西崎幸広とともにエース格といて活躍し、15勝5敗4セーブ防御率2.76の成績を残し、西崎や西武ライオンズ渡辺久信とともに最多勝タイトルを獲得した。

1989年は故障のため1勝止まりだったが、1990年は復調し11勝、1991年は9勝をマークしている。

しかし1992年以降は低迷。1995年シーズン途中に岡本透とのトレードで横浜ベイスターズへ移籍したものの9試合の登板で1勝1敗、防御率7.31とパッとせず、シーズン終了後自由契約に。

その後、中日ドラゴンズの入団テスト受験し合格したが、打撃投手としての採用に変更と電話があり、心が折れた松浦は結局入団せず、そのまま現役を引退した。

引退後、資格を取得し接院を開業。治療だけでなく怪をしないための導や相談、更には研究にも取り組み、イップスのを探るなど患者にも評判の良い接院であったという。

2013年、新たな刺中国へ渡り、中国野球リーグ上海ゴールデンイーグルスの投手コーチに就任。2014年からは同リーグの江ペガサスへ移籍。5人もの故障者を復活させ、2015年には全優勝に大きく貢献。

その後日本に帰し、2015年末に学生野球資格回復2016年には千葉県中学女子野球選抜チーム 千葉マリーンズのアドバイザー兼コーチを務めた。

2017年からはコミュニティスクールの教員として教育現場に携わっている。

人物・エピソード

変化球と強気に攻める気持ちを武器に打者を打ち取っていった右腕。

87年にはビハインドの場面でリリーフ登板すると、とたんに打線が勢いづきチームが逆転勝ちするということが続いたことから「逆転のマツ」と呼ばれた。

背番号「0」を使用したしい投手でもあり、「ゼロ戦マツ」と呼ばれることもあった。

通算成績

投手成績

通算:11年 登板 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 230 24 4 54 46 14 --- .540 765.0 393 585 407 367 4.32

獲得タイトル・表彰

関連動画

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 0
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

ニンジャスレイヤー (単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: 新星
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

松浦宏明

まだ掲示板に書き込みがありません…以下のようなことを書き込んでもらえると嬉しいでーす!

  • 記事を編集した人の応援(応援されると喜びます)
  • 記事に追加して欲しい動画・商品・記述についての情報提供(具体的だと嬉しいです)
  • 松浦宏明についての雑談(ダラダラとゆるい感じで)

書き込みを行うには、ニコニコのアカウントが必要です!