松田優作(1949年9月21日~1989年11月6日)とは、山口県下関市出身の俳優・歌手である。
先妻は作家・松田美智子、後妻は女優・松田美由紀。熊谷真実は義理の姉にあたる。
先妻の間に一女、後妻の間に二男一女がいる。長男は松田龍平、次男は松田翔太で共に俳優である。
文学座→六月劇場→夢家事務所(個人事務所)→セントラル・アーツに所属していた。現在松田優作に関する権利は、優作の家族が所属・経営するオフィス作が保有している。(所属俳優として扱われている)
概要
185cmの長身と空手で鍛えた屈強な肉体、切れ長の鋭い眼差しと彫りの深い顔立ちで1970年代~80年代にテレビドラマ・東映映画・角川映画を中心にアクションスターとして活躍し一時代を築いた。また「野獣死すべし」出演時の、役作りのための過酷な減量と奥歯を4本抜いたエピソードに代表される演技への病的とも言えるこだわりで、30代以降は舞台・テレビ・映画とジャンルを問わぬ演技派として評価された。その独特の演技に魅了される者は現在も多く、新たなファンを増やし続けている。
ただ、生前は短気な性格と過剰なこだわりが災いし、大小さまざまなトラブルを起こしたことからトラブルメーカーとしてのイメージも強く、概ね生前の松田優作に対する一般的なイメージは「なんじゃこりゃぁあ!!!の人」「探偵物語の工藤ちゃん」「お騒がせ俳優」の3つに集約されていた。
生い立ちと生涯
日本人の父と在日韓国人3世の母との間に非嫡出子として生誕。出生時の本名は金優作。2人の異父兄がおり(異母兄弟もいる)兄弟仲は良かったが、自身の生い立ちに気付き孤独を感じるようになる。
1967年に高校を中退をし、渡米をする。弁護士になれという母親の厳命によるものだが、後にアメリカ生活に嫌気が差し帰国。長兄一家のつてを頼りに東京の私立高校夜間部に転入。1969年に卒業をする。
1972年に劇団文学座への入団が決まり、役者に専念するため当時通っていた大学を中退。
1973年に日本テレビ系の刑事ドラマ『太陽にほえろ!』に柴田純刑事(ジーパン)役に大抜擢され、一躍脚光を浴びることになる。同年には法務省に帰化申請して日本国籍を取得し、通名であった松田優作が本名となる。1974年、ジーパン役として演じた有名な殉職シーン「なんじゃこりゃぁあ!!!」はモノマネの定番になったドラマ史に残る名場面となっている。
その後は映画に軸足を移したが、1976年に一般人に暴力を振るい全治3ヶ月の重傷を負わせる傷害事件を起こし逮捕される。これによりテレビドラマへの出演を1年間自粛する。1977年、そんな優作の復帰を願った石原裕次郎のオファーにより、日本テレビ系の刑事ドラマ『大都会PARTⅡ』にレギュラー出演し本格的にテレビドラマにも復帰する。
1979年には日本テレビ系列のアクションドラマ『探偵物語』に主演。同作には企画段階から参加し、私立探偵・工藤俊作をアドリブ満載で熱演しはまり役となった。現在でもファンが多くいる作品でもある。この作品でゲストとして共演した女優・熊谷美由紀と不倫関係に陥る。当時優作は駆け出し時代の劇団の同僚だった女優の堀真弓(現・作家の松田美智子)と結婚していたが、この不倫が原因で1981年に離婚し、美由紀とは1983年に長男の誕生を機に結婚。
「大都会Part2」「探偵物語」といったテレビドラマでの出演の一方、映画でもこの時期に「人間の証明」「蘇る金狼」「野獣死すべし」に出演し、第二の絶頂期を迎えた。
1980年代からはアクションドラマ・映画から距離を置き、舞台への回帰をすすめる。この頃から演技力も高く評価されるようになっていった。1986年の「ア・ホーマンス」で主演兼監督を務めたことで話題となる。
1988年にはアメリカ映画『ブラック・レイン』に出演しハリウッドデビューを果たすが、この時癌に侵されていた。1989年に膀胱癌の転移により死去。享年40歳という若すぎる死であった。
死去から25年以上を経た現在でも、そのカリスマ性は伝説となっている。
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松田優作(または彼が演じた人物)をモデルにしたキャラクター
※製作者・原作者が明確に認めていないものも含んでいます。他にもあれば追記・修正願います
関連項目
- 男優の一覧
- 水谷豊(親交があった俳優)
- 山西道広(文学座の同期生。終生の盟友)
- 中村トオル(事務所の後輩。兄のように慕っていた)
- 古尾谷雅人(後年の優作のような髪型をするなど心酔していた)
- 太陽にほえろ!
- 探偵物語
- なんじゃこりゃぁあ!!!
- 松田優作webサイト(公式サイト、外部リンク)
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