板倉滉(いたくら こう、1997年1月27日 - )とは、日本のサッカー選手である。
ドイツ・ブンデスリーガのボルシア・メンヒェングラートバッハ所属。サッカー日本代表。
187cm75kg。ポジションはDF(センターバック)、MF(守備的MF)。利き足は右足。
概要
神奈川県横浜市出身。恵まれた体格を生かした対人守備を得意とするセンターバックであり、守備的MFとしてもプレーすることができる。足元の技術も高く、インテリジェンスも高いことから攻撃面でも貢献できる近代的なタイプのDF。
川崎フロンターレの下部組織出身でU-20日本代表としてU-20 FIFAワールドカップにも出場。レンタル移籍先のベガルタ仙台で頭角を現すと、2019年にマンチェスター・シティと契約。オランダやドイツでのレンタル移籍先での活躍ぶりで評価を高めるようになる。2022年からブンデスリーガの古豪ボルシアMGでプレーしている。
U-24日本代表で主力としてプレーし、日本代表にも定着するようになる。2022 FIFAワールドカップでは怪我から復帰直後ながらもグループリーグ3試合にフル出場し、大金星を挙げたドイツ戦とスペイン戦で鉄壁の守備を披露し、日本のベスト16進出の立役者の一人となる。第二次森保JAPANでは冨安健洋とのコンビは歴代最強の呼び声も高く、日本の最終ラインに無くてはならない存在になっている。
経歴
プロ入り前
父、母、妹の4人家族の長男として生まれ、幼少期から活発に外で遊ぶのが好きな少年だった。父親が野球をやっていたこともあり、小学生になるまではサッカーではなく野球に熱中していた。
小学1年生の頃、突然サッカーをやりたくなり、野球を辞めてサッカーを始める。この頃、父親の仕事の関係で兵庫県神戸市に住んでおり、西宮市の強豪クラブ・高木SCに入団。すぐに地元へ戻ることになると、後に三笘薫や田中碧を輩出したさぎぬまSCに入団。実力をつけている。また、この時期に川崎フロンターレのファンにもなっており、後援会にも入会している。
小学4年生のとき、川崎フロンターレのジュニアチームのセレクションに合格し、この年立ち上げとなったU-12チームの第1期生となる。このときの監督がサッカーのことだけでなく、私生活に関しても厳しく指導され、毎日泣きながら練習に取り組んでいた。また、当時のポジションはFWだったが、色々なポジションの適正を試された結果、CBでプレーすることになる。当時は自分が1番上手くて、点を取るFWしかやりたくないと思っていたが、全く違うポジションを言われたことで、それが泣くほど悔しかった。それでも与えられたポジションで必死に練習に取り組み、小学6年生のときにフランスで開催されたダノンネーションズカップ2008に出場、世界の舞台を経験したことが自信となり、DFとしてプロを目指すようになる。
中学生になるとU-15チームへ昇格。しかし、周りよりも成長期が遅かったことでパワーやスピードで圧倒されるようになり、試合に出れなくなってしまう。次第に友達と遊ぶ方に夢中になるようになり、練習に遅れていくなどサッカーに身が入らなくなっていた。中学3年生の段階でもベンチという状況でサッカーを辞めようと考えたことすらあったが、U-18チームとの試合に出場した際のプレーが評価され、本人にとってもまさかの上のカテゴリーへ昇格できることになる。
高校生になりU-18チームへ昇格すると、ここにきて身体が急激に成長し、周りの選手を追い抜いて大型のCBとなり、1年生のときから主力としてプレーするようになる。2年生になると足下の技術を買われてボランチとしても起用されるようになり、2つのポジションを経験することでプレーの幅を広げていく。さらにトップチームの練習にも参加したことで、一度は諦めかけていたプロの道が現実味を帯びていく。3年生のときにはキャプテンを務め、2014年8月9日にはトップチーム昇格が内定する。
川崎フロンターレ
2015年1月、U-12時代の同期だった三好康児と共にJ1リーグの川崎フロンターレとプロ契約を交わす。しかし、選手層の厚い川崎では出場のチャンスが訪れず、結局プロ1年目のシーズンはJリーグU-22選抜の一員としてJ3の試合に2試合出場したのみで、J1では一度も公式戦のピッチに立つことはできなかった。
2年目の2016年になると少しずつベンチに入る機会が訪れるようになり、8月6日の2ndステージ第7節ヴァンフォーレ甲府戦で途中出場し、J1リーグでのデビューを果たす。11月23日のJリーグチャンピオンシップ鹿島アントラーズ戦で三好と共にスタメンに抜擢されるが、後半32分で交代となりチームも0-1で敗れ優勝を逃す。
2017年になると出場機会も少しずつ増えるようになり、3月1日のAFCチャンピオンズリーグ第2節、東方足球隊戦でチームを敗戦から救うプロ初ゴールを決める。アンダー代表に呼ばれるなど、実力が認められつつはあったが、やはり選手層の厚いチームの中でリザーブメンバーという状況に変わりはなく、怪我もあってレギュラー争いに食い込めずにいた。結局、この年川崎は初のJリーグ年間王者に輝くが、公式戦出場は12試合にとどまり、主力に定着することはできなかった。
ベガルタ仙台
2018年は出場機会を求めてJ1リーグのベガルタ仙台に期限付き移籍で加入する。背番号は6。2月25日のJ1開幕戦柏レイソル戦にスタメンとして出場すると、決勝ゴールを決める活躍で勝利に貢献。このままレギュラーに定着するかと思われたが、3月14日のJリーグルヴァンカップ第2節横浜F・マリノス戦で退場になったうえにそのときの危険なタックルによって右足の靭帯を損傷。1か月以上の戦線離脱となる。それでも渡邊晋監督からの信頼は変わらず、復帰後はCBの主力として定着。3得点を決めるなど、攻撃面でも貢献し、チームのJ1残留に貢献。さらに第98回天皇杯では決勝進出。2017年元旦の浦和レッズとの決勝でもフル出場するが、惜しくも準優勝に終わっている。
フローニンゲン
2019年1月15日、イングランド・プレミアリーグの強豪マンチェスター・シティへの完全移籍が発表される。ただし、フル代表の経験が無いためイングランドでも労働許可証が取得できず、加入と同時に堂安律も所属しているオランダ・エールディヴィジのFCフローニンゲンへレンタルされることになる。
しかし、加入1年目となった2018-19シーズンは監督から相手にもされず、ベンチ入りするだけで試合に出場することなく終わってしまう。
2019-20シーズンは練習でのアピールに成功し、2019年8月1日のエールディヴィジ開幕戦FCエメン戦にスタメンとして起用され、オランダでのデビューを果たす。そこからCBのレギュラーを掴むと、10月20日の第10節スパルタ戦では完封勝利に貢献し、この節のベストイレブンに選出。球際への厳しさと1vs1に勝つことをより意識するようになったことでオランダのスタイルにも順応するようになっていた。ところが、開幕から16試合連続でスタメンに名を連ねながら17節から23節までなぜかスタメン落ちとなる。
2020年7月23日、フローニンゲンへの再レンタルが発表される。背番号も5に変更となり、3年目となった2020-21シーズンは開幕からスタメンに名を連ね、押しも押されぬチームのディフェンスリーダーに成長。ラインコントロールの調整も任されるようになり、序列としてもCBの1番手という位置づけになっていた。加入当初は見向きもしなかったデニー・バイス監督からもチームに欠かせない選手と公言するほど、絶対的な信頼を寄せられるようになっていた。2021年1月15日の第16節ヴィレムⅡ戦では移籍後初ゴールを記録。3月20日のRKC戦では、後半からキャプテンマークを付けてプレーすることになる。結局、シーズンを通してピッチに立ち続け、全34試合フル出場を果たす。ちなみにこの年フィールドプレイヤーで全試合フル出場は板倉を合わせて二人のみだった。さらに、圧倒的な大差でクラブの年間最優秀選手にも選出され、現地でもオランダ屈指のCBという評価を受けていた。
シャルケ
2021年8月19日、ドイツ・ツヴァイテリーガ(2部)のシャルケ04へレンタル移籍することが発表される。背番号は3。東京オリンピック出場のためチームへの合流が遅れるが、8月28日の第5節デュッセルドルフ戦でスタメンとして出場を果たし、ドイツでのデビューを果たす。その後すぐにCBのレギュラーを掴むと、高いパフォーマンスを披露しディフェンスリーダーとして振る舞うようになる。12月10日の第17節ニュルンベルク戦では移籍後初ゴールを決める。ドイツのキッカー誌からは2部の前半戦のセンターバック部門で1位の評価を受ける。シーズン前半戦は3バックの中央が主戦場だったが、終盤戦になるとボランチでも起用されるようになる。2022年4月9日の第29節ハイデンハイム戦ではDF二人を手玉に取ってかわしてのゴラッソを決める。大きく評価を高めた板倉は、シャルケの1シーズンでの1部復帰と2部リーグ優勝に大きく貢献する。
シーズン終了後、シャルケは完全移籍での獲得を狙うが経済的な理由で断念。2022年6月1日に退団が発表される。
ボルシアMG
2022年7月2日、ドイツ・ブンデスリーガの古豪ボルシア・メンヒェングラートバッハに完全移籍することが発表される。契約期間は4年で移籍金は7億円。背番号は「3」。
8月6日のブンデスリーガ開幕戦ホッフェンハイム戦にCBとしてスタメンで出場し、アシストまで記録する完璧な内容で勝利に貢献し、上々のブンデスリーガデビューを飾る。第2節古巣シャルケ戦と第3節ヘルタ・ベルリン戦では高いパフォーマンスが評価され、2試合連続でキッカー誌が選定するベストイレブンに選定される。順調すぎるスタートを切ったが、9月4日の第5節マインツ戦で後半8分に欧州移籍後初の一発退場となる。さらに、9月12日の練習中に左膝内側側副靱帯の部分断裂という重傷を負い、長期離脱となる。ワールドカップ中断直前の第15節ボルシア・ドルトムント戦で2か月ぶりに戦線に復帰。ワールドカップ後はCBの定位置を取り戻し、2023年2月18日の第21節では絶対王者バイエルン・ミュンヘン相手の勝利に貢献し、評価を高める。シーズン終盤はチーム状態が悪化したこともあってパフォーマンスが下がり、大量失点を喫する試合も増える。それでもチーム内での高い信頼は揺らぐことはなく、最後まで主力としてシーズンを終える。
夏にイタリア王者のSSCナポリへの移籍話が浮上するが、2023-24シーズンもボルシアMGに残留することを決意。2023年8月19日ブンデスリーガ開幕戦のアウクスブルク戦では前半13分にブンデスリーガ初ゴールを決める。9月2日の第3節では試合には敗れたものの、王者バイエルンを相手に技ありのヘディングシュートを決め、シーズン2得点目をマーク。10月26日に持続的に負傷していた左足首の手術を受けることになり、その後のシーズン前半戦を欠場する。アジアカップ終了後、2024年2月10日の第21節ダルムシュタット戦で約4か月ぶりに戦列に復帰。復帰後のパフォーマンスが悪く、一時期スタメンから外れることもあったが、守備的MFとしても起用されるようになり、不調のチームの中でレギュラーとして戦い続ける。
2024-25シーズンは開幕からCBに固定される。2024年10月19日、第7節ハイデンハイム戦ではセットプレーから右足でストライカーさながらのシュートを決め、シーズン初ゴールを記録。12月7日、第13節ボルシア・ドルトムント戦ではコンパクトなラインを維持しながらのハイパフォーマンスでセール・ギラシを完封。kicker誌が選出する第13節のベストイレブンに選ばれる。
日本代表
2015年3月にU-18日本代表に初めて選出されると、2016年10月にバーレーンで開催されたAFC U-19選手権のU-19日本代表メンバーに選出。CBに冨安健洋や中山雄太、岩田智輝といった実力者が居たことから出場機会を得られずにいたが、準決勝のベトナム戦で初出場を遂げると、セットプレーからの1アシストと共に完封勝利に貢献。決勝では出場機会が無かったが、日本の初優勝に貢献する。2017年5月に韓国で開催された2017 FIFA U-20ワールドカップのU-20代表にも選出。初戦の南アフリカ戦にボランチとしてスタメンで出場するが、その後はベスト16のベネズエラ戦に途中出場したのみとなった。
2018年には東京オリンピックを目指すU-21日本代表に選出され、1月に中国で開催されたAFC U-23選手権2018に出場。初戦のパレスチナ戦で決勝ゴールを決めれば、第2戦のタイ戦では試合終了間際に2試合連続となる決勝ゴールを決める。しかし、その後の試合には出場せず、チームはベスト8で敗れている。8月には、インドネシアで開催された第18回アジア競技大会に出場。幼なじみでもある三好が出場しないときはキャプテンを務め、主力として日本の準優勝に貢献する。
2019年6月、東京オリンピック世代を中心に構成された日本代表のメンバーに選出され、ブラジルで開催されたコパ・アメリカ2019に出場。6月21日の第2戦ウルグアイ戦にスタメンとして出場し、フル代表でのデビューを果たす。第3戦にもスタメンで出場したが、日本はグループリーグ敗退に終わっている。2021年5月21日のFIFAワールドカップ アジア2次予選ミャンマー戦では代表初ゴールを決める。
2021年7月、東京オリンピックに出場するU-24日本代表のメンバーに選出。当初はバックアッパーと予想されていたが、冨安の負傷や出場停止もあって吉田麻也とのCBコンビでスタメンで出場する機会が多く、グループリーグ第3戦を除く5試合に出場。3位決定戦のメキシコ戦では、ボランチとして途中出場するが、チームは敗れ、目標だったメダル獲得を逃している。
フル代表ではコンスタントにメンバーに選出はされていたが、CBの3番手という立ち位置のためなかなか出場試合数が増えず、2021年9月からスタートした2022 FIFAワールドカップ アジア最終予選でもベンチ入りしながら出場機会が与えられずにいた。しかし、2022年1月にレギュラーの吉田と冨安が揃って負傷したことでチャンスが到来し、川崎時代の先輩である谷口彰悟とのコンビで中国戦とサウジアラビア戦を2試合連続完封。3月24日のオーストラリア戦でもクリーンシートを達成し、ワールドカップ出場権獲得に貢献する。
その後、評価を高め日本の最終ラインになくてはならない存在となりつつあったが、2022年9月に左膝靭帯断裂の大怪我を負い、ワールドカップ出場が危ぶまれる。それでも懸命のリハビリによって大会直前に復帰。11月に開催された2022 FIFAワールドカップ・カタール大会のメンバー入りを果たす。グループリーグでは3試合全てにフル出場し、特にドイツ戦とスペイン戦では劣勢の時間帯も体を張った守備で対応し、ドイツ戦では浅野拓磨の決勝ゴールをアシストするなど日本の2つの歴史的大金星に貢献する。ラウンド16のクロアチア戦は警告累積によって出場停止となり、日本がPK戦で敗れたことで初のワールドカップは終了。海外メディアからはDFラインで最も安定したプレーを見せた選手として高評価を受ける。
ワールドカップ後は吉田麻也が選出されなくなったこともあってセンターバックのレギュラーとなる。2024年1月にカタールで開催されたAFCアジアカップ2023では第3戦を除く4試合にフル出場。しかし、怪我明けのぶっつけ本番で大会に臨んだこともあって本来の安定感を欠いていた。準々決勝のイラン戦では前半に警告を受けたこともあって消極的な守備に終始。自らのミスから2失点を許してチームはベスト8で敗退。試合後のコメントで謝罪し、大きな責任を感じる旨を述べることになる。
2026 FIFAワールドカップアジア最終予選ではチームが3バックに変更した中、冨安と伊藤洋輝が長期離脱となった最終ラインの要となる。2024年11月19日、第6節アウェイでの中国戦ではCKからダイビングヘッドでチームの2点目を決める。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2015 | 川崎フロンターレ | J1 | 0 | 0 | |
Jリーグ・アンダー22選抜 | J3 | 2 | 0 | ||
2016 | 川崎フロンターレ | J1 | 2 | 0 | |
2017 | 川崎フロンターレ | J1 | 5 | 0 | |
2018 | ベガルタ仙台(loan) | J1 | 24 | 3 | |
2018-19 | フローニンゲン(loan) | エールディヴィジ | 0 | 0 | |
2019-20 | フローニンゲン(loan) | エールディヴィジ | 22 | 0 | |
2020-21 | フローニンゲン(loan) | エールディヴィジ | 34 | 1 | |
2021-22 | シャルケ(loan) | ツヴァイテリーガ | 31 | 4 | |
2022-23 | ボルシアMG | ブンデスリーガ | 24 | 0 | |
2023-24 | ボルシアMG | ブンデスリーガ | 20 | 3 |
プレースタイル
メインポジションはセンターバックだが、ディフェンシブハーフとして出場することも多い。DFとしては対人守備を得意とする潰し屋タイプで、オランダやドイツの屈強な選手を相手にしても当たり負けしないフィジカルコンタクトを前面に出した守備で簡単に突破を許さず、1vs1の強さは世界でも十分やっていけるだけのレベルにある。守備的MFのときも同様に対人守備で相手を潰すハードな守備によってボールを刈り取り、攻撃の芽を摘む。
ヨーロッパでプレーするようになってからは、状況を把握しながら味方が戻ってくる方向へと誘導するように縦を切る守備ができるようになった。
足元の技術も高く、精度の高い縦パスを前線に供球できる。プレッシングへの耐性もDFとしては高く、状況認知した状態で縦パスとスペース活用の選択肢があり、敵のベクトルの重さを利用し、ボールに触れずにターンすることで相手をいなしていく。ただ、視野の確保や状況の認知、判断といった面で改善の余地があり、自信があるが故に無理に縦パスを付けてカットされるのが欠点。
また、対人守備を得意としている反面、相手に付いていきすぎてスペースを空けてしまう傾向がある。
空中戦の強さも武器であり、クロスボールやロングフィードを跳ね返すだけの強さがある。セットプレーにおいてはターゲットとしても有効であり、ヘディングからたびたびゴールも決めている。
積極的な攻撃参加も特徴的であり、キックの精度の高さを活かしたミドルシュートもセールスポイントと言える。
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