枢軸国単語

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枢軸国とは、第二次世界大戦中に連合と戦ったの事である。Axis Powers(アクシズパワーズ)とも。

概要

ドイツを盟とした、第二次世界大戦営の一つ。日独の三が中心となり、ハンガリールーマニアブルガリアタイ王国、そのほか多数の傀儡政権が参加した。

枢軸の由来は、1936年にイタリア首相ムッソリーニが出した「ローマベルリンを結ぶ線は、協調と平和の意志を持つヨーロッパ々がその周りを回る事が出来る枢軸である」という明から。要するにローマベルリンの線を枢軸にヨーロッパが回るという意味である。

第二次世界大戦開戦劈頭はドイツと傀儡のスロバキアしかいない小さな営だったが、ポーランドデンマークノルウェーオランダルクセンブルクベルギーフランスユーゴスラビアギリシャを次々に粉砕。精強なドイツ軍おこぼれに預かろうとイタリアブルガリアハンガリールーマニアクロアチア独立国などが枢軸国に加わった。1941年12月8日真珠湾攻撃によって大日本帝國が、翌1942年1月にはタイ王国が枢軸国に加入。のちに自由インド仮政府ビルマ国も参加した。1943年前半までは枢軸軍が大いに暴れまわり、連合軍を打ちのめした。

しかし物量に勝る連合軍の反攻が始まると、次第に劣勢となっていく。19439月イタリアが降伏し、イタリア社会主義共和国イタリアに分裂して内戦状態となる。1944年後半、戦況が挽回不利にまで陥ると寝返りが相次ぐようになり、東欧の枢軸国が消滅。極東でもビルマ国が寝返っている。1945年5月に枢軸の盟ドイツと、最後まで抵抗していたクロアチア独立国が降伏。ヨーロッパから枢軸国が消滅した。残った大日本帝國自由インド仮政府タイ王国などが絶望的な抵抗を続けていたが、1945年8月に最後の列強日本が降伏。極東方面の枢軸国も消滅し、第二次世界大戦は終結した。

結成までの経緯

第一次世界大戦で敗戦国になったドイツなど)、もしくは戦勝だが恩恵をあまり受けられなかったイタリアなど)は、自前のだけでは世界恐慌の大不気を防げなかった。このため武で諸外を侵攻し、強引にを高めようとした。これらの行為を行った日本ドイツイタリア社会の非難を浴びて国際連盟から離脱。孤立した三は次第に緊密な関係となっていき、枢軸国の子が作られた。

1936年11月1日ドイツイタリア軍事同盟を締結。先述のローマベルリンの線は枢軸明を発表。ムッソリーニ総統ミラノでの演説で枢軸を強調した。続く11月25日日独防共協定(反共産主義・対ソ連想定の盟約)が結ばれ、翌年11月6日にはイタリアも加入。三枢軸体制が成立した。

ドイツは第一次大戦で奪われた領土を奪還するべく、民族義を掲げて1938年3月より周辺を併合し始めた。オーストリアの併合から始まり、ズデーテン地方割譲、チェコスロバキア解体、メーメル返還など広範囲の地域をが物にしたが、実は事前投票を行っていて併合は地元住民が望んだ結果だった。だが、ドイツは破綻確定の謀な経済政策を将来の戦争を前提に推し進め、一方で民には危機的財政を隠蔽した挙げ句に虚偽の回復を演出・喧伝し人心を握。暴走を始めていく。

急速に勢を拡大するドイツに倣い、イタリア1939年4月7日アルバニア王国へ侵攻。全土を占領して傀儡政権を打ち立てた。5月22日、独鋼同盟を締結。枢軸同盟を正式なものにした。

第二次世界大戦

ドイツポーランドダンツィヒ(現グダニスク)の返還を要した。ダンツィヒドイツにとって本飛び地の東プロイセンを陸続きに繋げる上で必須の土地であった。しかしポーランドは返還を拒否したため、1939年9月1日ドイツポーランド宣戦布告し侵攻を開始。二週間前にポーランドと同盟を結んでいたイギリスフランスポーランド側に立ち、ドイツ宣戦布告9月3日)。これが第二次世界大戦の始まりである。

電撃戦・破竹の快進撃

1939年

当時、イタリアは参戦しておらず枢軸国はドイツとその影下にあったスロバキアのみであった。しかしドイツは既にソ連と不可侵条約を結び、更にモトロフ・リッベントロップ協定を締結。独ソでポーランドを仲良く半分こする事に。9月17日、協定に呼応してソ連軍もまたポーランドへ侵攻。大に挟撃されたポーランドは死の淵に立たされた。ポーランドの窮地に対し英は全く軍を動かさず、ただただポーランド軍がやられていくのを見ているだけだった(北海大西洋では海軍同士の戦闘が起きている)。ドイツ軍事は凄まじく、勇戦むなしく9月27日首都ルシャワを失陥。政府ルーマニアに亡命し、降伏に至った。続く10月7日ポーランド全土はドイツ軍ソ連に占領されてしまった。

ポーランド降伏後、ドイツは対戦国になった英と睨み合いとなるが大きな戦いは生起しなかった。英連合軍は第一次世界大戦のような大戦争の再来を恐れており、積極的な攻勢に出られなかったとされる。あまりにも戦闘が起きないので、いつしか「まやかし戦争」と呼ばれるようになった。陸地での戦闘は起きなかったが、での戦いは熾だった。イギリスなので、植民地から資を送るには輸送船が必要である。その輸送船をドイツ海軍Uボートが襲撃し、片端から沈めていった。当初は連合軍も護衛に注しておらず、被害が増大。加えてドイツ海軍駆逐艦17隻を使ってテムズに磁気機を敷設(西の壁作戦)。イギリス軍に掃の術はく、商船67隻、駆逐艦3隻、補助巡洋艦6隻が撃沈された。余談だが11月21日ロンドンに向かっていた日本郵船の照丸がハーウィッチ港外で触して沈没。当時まだ日本は参戦しておらず、中立の扱いだった。抗議する日本政府に対し、独英は互いに責任を押し付けあった。ちなみに乗客と乗員は全員助かっており、鉄道ロンドンに送られた。

イギリス海軍の一大拠点スカパ・フローに潜入したU-47が停泊中の英戦艦ロイヤルオークを撃沈したり、北海で独巡洋戦艦シャルンホルストグナイゼナウが英特設巡洋艦ラワルピンディを撃沈するなど、兵差を覆してドイツ海軍は暴れまわったが、イギリス海軍も装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーを南まで追い詰めて自沈させており、やり返している。

枢軸国ぞくぞく参戦

1940年

1940年2月16日中立ノルウェーの領を航行していた独補給艦アルトマルクが英駆逐艦コサックの襲撃を受け、輸送中の捕虜を奪還される事件が起きる(アルトマルク号事件)。これに激怒したヒトラー総統ノルウェーデンマークを保護下に置く事に決め、ヴェーゼル演習作戦5時間で練らせた。

4月9日ドイツの陸海軍ノルウェーデンマーク電撃的侵攻を開始。デンマークは僅か6時間で降伏し、ノルウェー軍も連合軍の助を受けながら迎え撃ったが苦戦を強いられる。ノルウェー軍がまだ戦っている5月10日ドイツ軍は突如フランス本土への侵攻を開始。オランダベルギー、ルクセンブルグを降伏させ、進軍路を確保すると側面からフランス軍に襲い掛かった。第一次世界大戦ダメージから立ち直っていないフランス軍は連戦連敗し、各地で壊走していった。6月9日、抵抗を続けていたノルウェーが降伏。更に6月10日、勝ちに乗りたいイタリアと傀儡アルバニアが枢軸国側に参戦。英宣戦布告し、南フランスに侵攻。地中海にも戦線が構築され、イタリア軍は英領マルタ襲した。しかしイタリア軍は準備不足のところを強引に参戦したため大変弱く、死にかけのフランス軍に押されて逆にイタリア本土へ侵攻されそうになった。6月22日パリを占領されたフランスは独と休戦条約を結ぶ。こうしてフランスは連合軍から脱落し、親独のヴィシー政権が誕生。残余の連合軍は北部の都市ダンケルクから脱出し、西ヨーロッパから追い出されてしまった。

開戦から1年も経たないうちにポーランドデンマークノルウェーオランダベルギールクセンブルクフランスを軍門に下らせたドイツ軍の精強さは全世界に知れ渡った。ドイツ軍の勢いに乗っかって自の利益や領土を増加させようとするが現れ始め、ドイツに急接近していく。フランスの軍港を使えるようになったドイツ海軍は、北海大西洋方面にUボートを次々に送り込んだ。この頃の連合軍は護衛に関心で、敵の商船は片端から沈められた。Uボートにとって一回黄金期であり、イギリス恐怖のどん底に陥れた。

フランスの沿まで勢圏に収めたドイツ軍は、7月10日よりイギリスへの襲を開始する(バトルオブブリテン)。ドーバーポートランドホーンチャーチなどに襲を加えたが、イギリス空軍ベルリン襲して反撃。ゆくゆくはイギリスに上陸する予定だったが、イギリス空軍な抵抗を受けて多くの爆撃機が撃墜された。元気に反撃してくるイギリス軍に手を焼くヒトラー総統は、イタリアに北アフリカイギリス軍を攻撃して後方かく乱するよう要請。9月9日イタリアリビアから英領エジプトして進軍を開始。北アフリカ戦線が構築された。しかしイタリア軍は弱く、潤沢な物資を持つイギリス軍に腹筋ボコボコパンチ喰らって逆にリビアを奪われかけた。イタリア軍が期待通りの活躍をしなかったのと、イギリス軍の抵抗が強すぎたため10月12日イギリス本土上陸は期限延期となった。10月28日にはイタリア軍北アフリカ戦線放り出してギリシャへ侵攻。しかしここでもイタリア軍敗北し、アドリア海に落とされそうになる。仕方なくドイツ軍イタリア軍の援護に回り、12月20日にシチリへ進出。

少しさかのぼること9月27日日独伊三国軍事同盟が締結。11月20日にはハンガリーが参加し、続いてルーマニアスロバキアが参加。徐々に勢を拡大していく。

1941年

1941年3月1日、日独軍事同盟にブルガリアが参加。ドイツの圧により3月26日ユーゴスラビアが参加したが、反枢軸のセルビア人が軍事クーデターを起こして政権が転覆。これに激怒したヒトラー総統ユーゴスラビア侵攻を命じ、4月6日ドイツハンガリールーマニアブルガリアギリシャユーゴスラビアへの攻撃を開始した。ユーゴスラビア軍は粉砕され、く間に降伏。4月10日にザグレブで独の傀儡クロアチア独立国が誕生し、続いてモンテネグロセルビア政府立された。4月27日にはドイツ軍がアテネへ入し、ギリシャも降伏。傀儡のギリシャ国立された。ギリシャ政府や王はクレタへ逃亡。

5月20日地中海に浮かぶ英領クレタ挺降下。イギリスオーストラリアニュージーランドギリシャからなる連合軍とドイツ軍が交戦した。イギリス地中海艦隊は優勢な艦隊を派遣したが、ドイツ空軍の猛攻により軽巡洋艦1隻と駆逐艦3隻を喪失。クレタの連合軍も撃破され、脱出できなかった者は山中ゲリラをする羽になる。6月15日クロアチア独立国が日独軍事同盟に参加し、枢軸国に加わる。

6月22日、独ソの境線に集結したドイツ陸軍300万が突如として越境。不可侵条約を破ってソ連への侵攻を開始した(独ソ戦)。ドイツは最大の物資・燃料資輸入元であったはずのソ連に対して宣戦布告し、全世界を驚かせた。独ソ戦の勃発に伴って東欧の枢軸国も次々に宣戦布告し、第二次世界大戦最大の地上戦が幕を開けた。冬戦争ソ連によって不当に領土を奪われたフィンランドも参戦し、スカンジナビア半島からドイツ軍とともに侵攻を開始。フィンランドドイツと同盟を結んでおらず、「これは冬戦争継続であり、ナチスドイツとは関係」と発表したが、連合からは無慈悲の枢軸国判定を受けた。当時のソ連軍は独裁者スターリンによって実施された大粛清で、大幅に弱体化していた。加えて不可侵条約締結かつ燃料の生命線たる自ドイツが攻めるはずはないと油断していたため、精強なドイツ軍麗な電撃戦によって、ソ連軍は大敗北。開戦劈頭に数万の捕虜を出す結果となった。

8月初旬にドイツ軍はスモレンスクを占領。9月レニングラード包囲網完成し、ドイツ軍ルーマニア軍によってキエフを占領。11月にはドン沿いのロストフを占領し、首都モスクワに迫った。しかし例年より冬将軍の到来によりドイツ軍の進軍が停止。更にモスクワからの反撃を受け、12月6日に撤退を強いられた。

そして12月8日大日本帝國真珠湾攻撃を敢行。アメリカイギリスオーストラリアオランダ宣戦布告して大東亜戦争が始まった。これにより日本が枢軸国として、アメリカが連合として参戦し、名実ともに世界規模の大戦争となった。日本東南アジアの資地帯の確保・大東亜共栄圏を掲げ、開戦と同時にマレー半島フィリピンに上陸。その日本軍事同盟を結んでいたドイツイタリア12月11日アメリカ宣戦布告し、ハンガリーブルガリアルーマニアクロアチア独立国も同様に宣戦布告した。

(日本)陸海軍太平洋に浮かぶウェーク島グアムマキン、タラワ電撃的に占領。12月10日にはマレー沖海戦イギリス東洋艦隊の新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズレパルスを撃沈し、南方の制権を一気に奪取する。12月21日、日泰攻守同盟締結によりタイ王国が枢軸国として参戦。さらにアメリカ西海に9隻の潜水艦が出現し、市民が見ている中で堂々とタンカーを撃沈していった。

1942年

1942年1月8日英軍がタイ内を攻撃し始めたため、1月25日タイ英に宣戦布告した。ドイツもまた対戦を開始し、パウケンシュラーク作戦を展開。同中旬にUボート5隻がアメリカ東海メキシコ湾に出現して大暴れ。17隻(13万4000トン)の連合軍商船を沈めた。

海軍は破の快進撃を見せ、東南アジアの連合軍を次々に撃破。まず1月2日フィリピン首都ニラを占領。1月23日にはラバウルカビエンを占領し、資地帯を防衛する門を獲得した。2月15日、東洋のジブラルタルと呼ばれたイギリス軍のシンガポール要塞を攻略し、約13万名の英印兵を捕虜にした。この大敗はウィストンチャーチル首相に「イギリス史上最悪の敗北」と言わしめた。3月9日オランダ軍の中枢であるジャワ島旗を揚げ、東南アジアの連合軍はコレヒドール要塞とバター半島で抵抗する軍を除いて駆逐された。資地帯を手中に収めた日本は奪還に現れるであろう英東洋艦隊を撃滅すべく、4月上旬にインド洋へ南雲機動部隊を派遣セイロン沖海戦で英東洋艦隊を半壊させ、南アフリカへと後退。イギリス軍は戦争末期になるまで本格的な反攻に出られなくなった。この結果は北アフリカ戦線にも少なからず影を与えたようである。決死の抵抗を続けていた軍も5月に降伏し、東南アジアインド洋は日本の勢下に収まった。

5月7日、ポートモレスビーの攻略帝國海軍と、それを阻止しようとするアメリカ海軍珊瑚にて突。人類史上初の空母空母戦が生起した。日本側は小空母祥鳳を失ったが、空母レキシントンを討ち取った。だが本命のポートモレスビー攻略は中止となり、快進撃を止められた。

連合国の反攻

1942年6月5日に生起したミッドウェー海戦により、帝國海軍は敵空母1隻と駆逐艦1隻を撃沈したが、空母4隻と重巡1隻を失う。また体勢を立て直した連合軍の反攻は、日本の見立てよりかった。8月7日、飛行場を建設していたガダルカナル島アメリカ軍が大挙襲来。を巡って熾な争奪戦が始まり、両軍とも多くの艦艇がの底に沈んだ。しかしに劣る日本は増大する損を補填できず、潤沢な連合軍を相手に押されるようになる。9月10月25潜によるアメリカ本土爆撃が行われたが、損は軽微だった。

一方、欧州戦線もターニングポイントを迎えていた。10月23日エジプトエルアライメンでの戦闘で独軍が敗北。これを機に独軍の崩壊が始まり、北アフリカ戦線導権をイギリス軍に握られる。トドメとなったのが、11月8日英軍が行ったヴィシーフランスモロッコアルジェリア、オランへの侵攻であった。エジプト方面から迫るイギリス軍とアルジェリア方面から迫る連合軍に挟撃され、北アフリカの独軍は窮地に陥った。あっけなく降伏したヴィシーフランスを制裁するため、本の独軍は南フランスを占領し、全土を支配下に置いた。

独ソ戦ではドイツ軍がコーカサスの地に進撃し、スターリングラードの包囲を始めていた。だがソビエトの物量と土の広大さ・寒さ・そして地形や厳しいインフラ事情に苦戦。それでも包囲網完成させ、一時はソ連軍を撃破してスターリングラードを占領したが…。12月、後方地域に集結していたソ連の大軍が一気に反撃を開始し、ルーマニア軍やハンガリー軍を撃破。内にいるドイツ軍の退路を断ち、窮地に陥れた。かくして枢軸国の鮮やかなまでの快進撃は鳴りを潜め、失速していく。

1943年

19431月30日スターリングラードに取り残されたドイツ軍の将兵約30万がソ連軍に投降。太平洋戦線でも多くの駆逐艦兵士を失い、ガダルカナル島争奪戦に敗れた日本三度に渡る撤退作戦を行い、2月7日了。防衛線をコロンバンガラまで下げた。この1943年から枢軸国側が押されるようになる。

スターリングラード攻防戦での敗退以来、独ソ両軍で消耗戦が始まる。この頃に至り、ソ連軍は大粛清ドイツからの不意打ち宣戦の衝撃から全に立ち直り、前線から離れた安全地帯であるウラル山脈へ疎開させていた工業が発揮され始め、加えてイランに進駐したイギリスアメリカから大量の武器弾薬の供給(レンリース)を受けたことで、歩兵はもちろん、戦車を中心とする機甲師団も充実していった。戦争初期には弱体であったソ連軍は文字通り覚醒し、質・量共に世界最強の戦へと化けていった。

5月13日チュニジアで最後の抵抗をしていた独軍が降伏し、北アフリカ戦線終結。眼前に敵が迫ったイタリアは本土防衛戦の準備を始めるが、民の間では厭戦気分が広がっていた。7月10日イタリア領シチリに連合軍が上陸。8月中旬までに守備隊を撃破し、シチリを足がかりにしてイタリア本土への攻撃準備を始めた。イタリアではクーデターが発生し、ムッソリーニ総統が政界追放及び逮捕される。後釜に座ったバドリオ政権が連合軍と休戦条約を結び、9月8日条件降伏。ついに枢軸国の一が脱落し、ナポリ近郊のサレルノに連合軍が上陸した。イタリアの降伏と同時にドイツ軍が動き出し、速に北中部を占領。要な工業地帯を手中に収めた。さらに閉されていたムッソリーニ総統コマンド部隊を送って救い出し、サロの町に首都を置いたイタリア社会主義共和国立。脱落したイタリアに代わって日独同盟に加わり、連合に下った南イタリア戦争する内戦状態になった。

太平洋戦線では日本支援によって、8月1日ビルマ国独立を宣言。即日英に宣戦布告した。10月21日、同じく日本支援スバス・チャンドラ・ボース率いる自由インド仮政府立。24日に英に宣戦布告し、インドしてビルマ国ラングーンに進駐した。

1944年

1944年6月4日ローマを連合軍に奪取される。ここを足がかりに、ドイツ東部への爆撃を開始。6月6日にはフランス北方のノルマンディーに連合軍が上陸。後方地域だったフランスに第二線が構築され、本格的な大規模反攻作戦が始まった。6月22日ベラルーシ方面でソ連軍がバグラチオン作戦を開始。一気に攻勢へと転じた。中央軍集団が半壊し、東部戦線の崩壊が始まった。ついにドイツは東と西と南から同時に攻められる事になり、7月25日に連合軍はノルマンディーを突破。パリへ向けて東進する。

太平洋戦線でも6月19日マリアナ沖海戦が生起。帝國海軍は虎の子の大空母3隻と400機以上の航空機を失う大敗を喫し、7月7日絶対国防圏の要だったサイパンを失陥。アメリカ軍に本土襲の足がかりを明け渡した。本土に迫り来る連合軍を迎撃すべく、日本沖縄硫黄島の防御を固め始めた。

ソ連軍の矢面に立たされる事になった東欧では、降伏や寝返りが相次いだ。8月23日ルーマニアクーデターが発生し、イオンアンネス首相が失脚。新政府が連合に降伏し、枢軸国から脱落。ドイツ宣戦布告した。それから間もない26日、パリが奪還されドイツ傀儡のヴィシー政権が崩壊。フランス本土は連合側の自由フランスのものとなった。8月30日ドイツ軍ブルガリアから撤退。9月2日ブルガリア中立化したが、構う事ソ連軍が侵攻。共産主義者によるクーデターによって対独宣戦布告する。ソ連軍と寝返ったルーマニア軍に襲われるハンガリーソ連と休戦しようとしたがドイツ軍クーデター(パンツァーファウスト作戦)が入り、摂政ホルティを解任。親独組織である矢十字党とその導者サーラシが新政権を立してドイツとの共闘を続けた。9月10日、追い詰められたフィンランドソ連と休戦。内のドイツ軍を追い出し始めた(ラップランド戦争)。ただドイツフィンランド軍の官はあらかじめ撤退の協議を行っており、戦うふりをしながらスムーズノルウェーへと退いていった。10月14日イギリス軍によってギリシャ国が降伏。連合側となった。

ソ連軍の勢いは凄まじく、ついに東プロイセンに到達。同地のドイツ民はパニックに陥り、先に本へ脱出しようとした。ドイツ海軍カール・デーニッツ元帥は生き残っていた戦闘艦から漁船まで動員し、難民を救出を試みた(ハンニバル作戦)。輸送船が民間人を運搬し、リュッツォウやアドミラル・ヒッパーといった戦闘艦が迫り来るソ連軍を撃して時間稼ぎに当たった。このハンニバル作戦終戦まで続けられた。

地球の反対側では10月24日レイテ沖海戦が生起。残存艦艇をかき集めてアメリカ軍に一大決戦を挑んだが、参加艦艇の大半を喪失。これにより帝國海軍事実上壊滅し、散発的な抵抗しか出来なくなる。それでもフィリピンの防衛的とした輸送部隊をオルモック湾へと送り続けた(多号作戦)。成功した回もあったが、どが失敗に終わり、多数の駆逐艦輸送艦を失って頓挫した。レイに上陸したアメリカ軍はじわじわと版図を広げ、日本軍の重要拠点であるマニラを狙って進軍を続けた。レイテの敗北により本土と南方の資地帯は遮断され、補給路は途絶えた。12月26日、ミンドロサンホセに築かれた物資集積所を帝國海軍の挺身隊が撃。駆逐艦1隻を失うも輸送艦4隻を沈めた(礼号作戦)。これが事実上最後の日本勝利だった。

12月16日ドイツ軍アルンヌで反攻開始(バルジの戦い)。しかし24日に攻勢が停止し、翌25日より連合軍の反撃が始まる。同日中モスクワ立したハンガリー臨時政府が対独宣戦布告

敗戦

1945年は枢軸国にとって終末の年と言えた。アメリカイギリスの圧で、中立を保っていた々が一斉に日独への宣戦布告を始めた。その様相は全世界を敵に回しているかのようだった。

1月12日ソ連軍が更なる攻勢に転じてワルシャワとクラクフを奪取。2月13日ハンガリー首都ブタペストを占領し、ドイツ軍と対独協者のハンガリー人を追放。ハンガリーも脱落したが、矢十字党の残党がドイツ軍とともに西方へ脱出し、抵抗を続けた。4月4日ブラチスラヴァを占領された事によりスロバキアが降伏。同13日、ウィーン占領によりオーストリアも降伏した。そして4月16日、ついにドイツ首都ベルリンソ連軍に包囲される。4月27日、北イタリアスイスに程近いコモで逃亡中のムッソリーニが捕縛され、翌28日に処刑された。これによりイタリア社会共和国は崩壊。4月30日にはハンガリー西端で抗戦していた矢十字党も倒れた。猛攻の末、5月7日に枢軸の盟ドイツが降伏し、同日中クロアチア独立国も共産系パルチザンに降伏。欧州の枢軸国は全に消滅する事となった。

欧州戦線は決着したが、太平洋戦線では日本タイが枢軸国として残っていた。しかし3月3日フィリピン首都ニラを、3月26日硫黄島を失陥。4月7日には連合艦隊徴と言うべき戦艦大和が撃沈された。残余の艦艇は燃料不足から動く事が出来ず、擬装用のネットってアメリカ軍から隠した。東南アジアに残された独潜水艦を接収し、大量の特攻機や回天搭載潜水艦を使ってアメリカ艦隊に抗していたが、6月22日沖縄が陥落。日本本土は毎日のように爆撃及び艦砲射撃を受け、都市部のどが焼け野原と化す。

そして8月15日日本ポツダム宣言を受諾して降伏。後ろを失ったビルマ国自由インド仮政府蒙古聯合自治政府満州国は崩壊していった。9月2日戦艦ミズーリの艦上で調印式が行われ、ここに第二次世界大戦が終結。枢軸国は全に消滅する事になった。

枢軸国一覧

関連項目

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枢軸国

25 ななしのよっしん
2019/09/27(金) 18:50:56 ID: 55zpwW+km2
戦後一番扱いの良かったは何処なんだ?
案外日本か?
26 ななしのよっしん
2019/09/27(金) 20:39:10 ID: IpsIZU4/zs
>>25
うまく立ち回って一カだけ敵国条項から逃れたタイ
戦中も戦後内をされる事自由民主主義をずっと維持できたフィンランド
連合枢軸国どっちが勝っても戦勝フランス
27 ななしのよっしん
2020/04/06(月) 13:39:57 ID: RYJELDdPkd
関連項目に『悪の枢軸(“axis of evil”)』の追加を提案します。
概要』等でトリビアとして触れても良いでしょう。
'02/01/29の米国一般教書演説George Walker Bush大統領が'用いた際には命名の由来が明言されず、今日に至っています。
しかし、第二次世界大戦で連合枢軸国を悪の国家集団体制だと見做した事に準拠した物として、賛否はさて置き当事を始めとする社会でも周知されています。
北朝鮮イランイラクの3は、北半球の中緯度地域に存在する点では地理的な枢軸性が見出せます。
とは言え、ブッシュジュニアにせよ思想的後継者として構成及び地域や組織の再定義を行っていると思しきトランプ大統領にせよ、(批判であれ)ムッソリーニ大統領の様に具体的な準えを意識している訳ではない様です。
以上、皆様宜しく合意形成の上で、今後の更新に反映させて頂ければ何よりです。
28 ななしのよっしん
2020/05/10(日) 03:19:45 ID: NnKq4bAcGd
>>26
印進駐でうまいこと保ってきた英の均衡が壊れたタイ
ソ連に本土一部占領中だったフィンランド
そもそも半ば傀儡政権ヴィシー政権
3ヶともなし崩し的に組み込まれたし旧領回復戦争的だったから当然っちゃ当然

ナチ共も西プロイセンエルザス=ロートリンゲン及びニース&サヴォイアの未回収地域の復帰だけで駄に畜生行為しなければ報復にも合わなかっただろうし、多分WW1敗北者ドイツ国際連盟常任理事国になったように遅かれかれ国連安保理常任理事国にも復帰してただろう
全く大義名分なくて一方的侵略者だった日本は論外な、新はまず経済開発して、どうぞ
29 ななしのよっしん
2020/05/25(月) 10:08:15 ID: kUkiOPAO9w
枢軸ネタでよく『独「今度はイタリア抜きでやろうぜw」』てのがあるけど
ドイツは親中反日中国武器供与、ドイツの侵攻でイタリア参戦

ぶっちゃけ日本にとってもイタリアにとっても
そもそもドイツと組んだのが一番の失敗だったのでは?と思わなくもない
30 ななしのよっしん
2020/05/25(月) 11:27:38 ID: pYrRIaVpjP
日本は自らの暴走のせいで国際連盟を脱しドイツと組まざるを得なくなって、日中戦争で大変なのに英に宣戦
イタリアWW1での約束反故を理由にイギリスを憎んで結果的にドイツと接近&準備不足なのに理やり参戦

ともに自滅のを自ら選んでしまった感はある
イタリアはまだ分からなくもないけど、当時の日本は擁護しようがないほど外交音痴というか軍を制御できてなさすぎというか……
日本の最大の過ちは軍が勝手に私領を作ったり(満州国戦争始めたりしたのを防げなかった点にあると思う
31 ななしのよっしん
2020/07/06(月) 12:31:01 ID: NnKq4bAcGd
>>29
ドイツ視点
日本アメリカを連れてくる無能
イタリア→なんか居るやつ
日本視点
ドイツソ連に喧売るアホ
イタリア→知らね
イタリア視点
日本ドイツクソバカ

要するに全員お互いの足しか引っってない
どっちかというとイタリア人がムッソリーニ抜きでやりたいというのが正直なところじゃないかな
イタリア人じゃないから知らないけど
32 ななしのよっしん
2020/11/25(水) 22:13:04 ID: 7PB7d6svho
枢軸国軍事の順位を表すと独>≧日でいいんかな?実際の戦歴や連合軍の評価だと独が一番高評価だったみたいだし 


現実的に不可能に近いとは言え、日本ドイツぐらいに重工業化を進めて陸軍強化を当てれば英ソの連中は理でも中国相手に勝利できるレベルまでになれたのかね?
33 ななしのよっしん
2020/12/19(土) 09:05:00 ID: MUPj+0UDy+
陸を強化しても中国険しい山岳とかを踏破するイメージは湧かないかなぁ。戦車とか動かすインフラがな・・・。
ドイツ国債山々丼勘定で予算組んでたからこそ高性作ってたり重工業特化になった(りチェコ等吸収もあったから)ってのもあるし。そして後半になると技術いからどんどん大化(高性を上手くコンパクトに詰められない)
34 ななしのよっしん
2021/03/07(日) 14:35:00 ID: b+SkqIDeDj
そもそも日本軍兵器の性よりもまず戦略が…