柳沢吉保(1658~1714)とは、江戸時代前期に活躍した大名である。
概要
徳川綱吉最大の寵臣で、もっとも有名な側用人。主君である徳川綱吉以上に毀誉褒貶が激しく、時代劇などではすべての黒幕となっている彼の印象も強いだろう。主税・弥太郎・出羽守・美濃守。
延宝3年(1675年)に綱吉の小姓組となる。延宝8年(1680年)の徳川綱吉の将軍就任に伴い、本丸入りして小納戸に就任。元禄元年(1688年)には南部直政とともに側用人となり、若年寄の上座となる。
元禄14年(1701年)に松平の称号と諱の「吉」の字を賜り、美濃守に就任する。彼の領地は実質22万石以上あったとされ、幕府の官僚組織の職務領域を侵すことはなかったとはいえ、絶対的な権力者として君臨した。これには徳川綱吉の越後騒動以来の大名への厳格な態度によって、大名が家名存続のために交際を重視したことが起因しており、あまり柳沢吉保一人を攻めるのも酷だったりする。
柳沢吉保自身も学問の重視など善政を行った人物ではあったものの、徳川綱吉の死と共に彼の権勢も衰え、ついには『護国女太平記』といった「柳沢騒動」物が流行することとなった。
関連項目
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