桂吉朝(かつらきっちょう)とは、桂米朝門下の上方落語家。天才、桂枝雀以上のポテンシャルを秘めていたといわれ、米朝曰く「枝雀には50の話を教え、吉朝には100の話を教えた」というほど、演技力に幅があった。本名は上田浩久。他の著名な上方落語家のようにタレント活動(ただし、歌舞伎や芝居、文楽など他の芸能とのコラボは積極的に行っていた)をしなかったため、そこまで世間で知られた噺家ではなかったが、落語ファンの間ではその高い実力を買われ、師匠の米朝や桂枝雀に匹敵する人気を誇ったほどであった。
そして、後に大名人の名を襲名することも約束されていたが、40代に胃を患ってしまい、再発した癌によって弱冠50にして惜しまれながらも世を去ってしまう。しかし、死の間際まで高座に立ち、必死に力を振り絞り、演目をこなし、大喝采を受けるなど、まさしく実力で世に評価されていた人物である。
弟子に、『ちりとてちん』で一躍有名になった桂吉弥や米朝、女流ながら吉朝一門で一番の実力者とも評される桂吉坊などがいる。
概要
芸域は至って幅広く、メリハリがありながらも、滔々と流れるような絶妙の節回しは、師匠の桂米朝にも決して引けを取らないと評される。また、常に意欲的で、好奇心旺盛(枕を聞いていると、けっこう”いちびり《お調子者》”でもあったようだ)でもあったため、「そってん芝居」のような、他の誰もアホらしすぎて演じないような演目にも興味を抱き、100以上のレパートリーを持っていたといわれる。中でも芝居噺や人情噺は十八番であり、また枕では現代人らしい笑いの感覚も取り込み、若いファンにも強く支持された。
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