桂春團治(かつらはるだんじ)とは、上方落語四天王と評された上方落語界の大名人である。厳密には、名跡の号でもあるが、今日では三代目を指してそう呼ぶことが多く、本記事では専ら三代目桂春團治について述べる。本名は河合一(はじめ)。桂春団治と記されることもある。弟子に桂福団治、桂春之輔、三代目桂春蝶などがいる。
三代目桂米朝と並び長寿であったが、85歳で米朝の後を追うように亡くなった。晩年は足の怪我から外に出ることは少なかったが、それでも四天王で最も高年齢で高座に立ち続けていた人物である。
ちなみに『浪花恋しぐれ』で有名なのは豪放磊落な初代桂春團治、手塚治虫が初めてギャラをもらったという独演会のポスターの仕事に関わっているのは二代目桂春團治であり、間接的な関わりはあるものの、別人である。2017年には、桂春之輔が四代目桂春團治を襲名した。
概要
二代目春團治は実の父であり、父親は大名跡を受け継いだ苦労を知っていたため、息子を噺家にさせるつもりはなかった。それで、息子の一(はじめ)本人も当初はサラリーマンをしていたが、上司と喧嘩して退職。その後は荷物持ちとして、たまたま父の巡業に同行した際に、漫才師の代打ちとして父の見よう見まねで「寄合酒」を演じたところこれが大受けしたので、そのまま噺家を目指したといわれている。
一方、父親からは「寄合酒」と「祝いのし」ぐらいしか稽古をつけてもらっておらず、立花家花橘、桂文團治から習ったものが多い。芸風がそれまでの桂春團治と異なるのはそれが原因である。その後は二代目桂福団治を襲名するが、1953年に父親の二代目桂春團治が亡くなると、映画『世にも面白い娚の一生』などで初代桂春團治にスポットが当たったことをきっかけに、周囲からの勧めもあり、29歳で桂春団治を襲名することになる。それが原因で大名跡を継いだことを妬んだ周囲からのイジメや嫌がらせなどもあったが、そのプレッシャーをはねのける努力を重ね、後に上方四天王と呼ばれる功績を残す大名人となっていくのである。
それからの詳しい経歴は省略するが、若い頃から活動的であり、大阪のみならず東京にも赴き、東西を問わず活躍の場を求めていた。また、同人活動にも注力し、その時に知り合ったのが桂米朝、六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝(当時は桂小文枝)という面々でもあり、「さえずり会」という仲間を作った。
その努力家の一方で、好色としても知られ、若い頃は100人以上の女性と関係を持っていたとも言われている。そして、奥さんにも「女の一人や二人も抱けない男が売れるはずない。お前はそれを承知で俺と結婚したはずだ」と言って説得したという逸話があるほど。
芸風
前述したような役者気質から、芸風は実に雅やかで華やか、繊細に色気という言葉が似合うものであった。日本舞踊の心得もあり、山村流に造詣があったという。そして、羽織をシュッと脱ぐときの仕草がまた色気に溢れており、その度に拍手喝采が沸き起こったほどで、それ見たさに寄席に通う者もいたという。
その割に、本人は軽い滑稽噺を得意としており、「平林」、「鋳掛屋」などは長く演じていた。また、尾籠なネタもけっこう好んでいたようであるが、春團治が演じると下ネタも下でなくなると言われるほど、品があった。
また、職人的な拘りも持っており、高座で語る噺のレパートリーが少なかったことも有名である。これは、覚えていないのではなくて、高座でとてもで出せる代物でないという自身の強い拘りからである(ちなみに、江戸落語の八代目桂文楽も同じような拘りがあった)。そのため、若い頃は演じても円熟味が増すとぱったりと演じなくなった演目も多い。
1998年には紫綬褒章、2004年には旭日小綬章も受章している。
いわゆる”枕営業”を好まなかった落語家でもある。彼の枕はあっても1分以内で収まっており、また、そこで笑いをとることはなく、あくまで噺の話術で笑いをとっていた。そして、枕ばかりで笑いを取ろうとする弟子に対して苦言を呈したこともあった(だいたい三代目春蝶のせい)。
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