森可成単語

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森可成(もり・よしなり/よししげ 15231570)とは、美濃国戦国武将である。

概要

織田信長の若き頃より彼に仕え、数々の戦で活躍した精鋭のひとり。通称は三左衛門。の腕前に優れた「攻めの三左」。美濃国金山森長可森蘭丸森忠政らの

信長からも篤い信頼を受けたが、浅井朝倉延暦寺との戦い「志賀」にて討死した。享年48

彼の死後も一族は信長の寵に応えて各地で活躍するが、その多くが戦場で散った。

生涯

氏は美濃に土着していた一族で、代々美濃守護土岐氏に仕えていた。だが土岐頼芸斎藤道三によって追放されたため、可行と可成は尾織田氏へと仕官先を変えた。

この後は織田を借りつつ土岐の再をなそうとするが、結局土岐頼芸は没落し、以後は織田督を継いだ織田信長に仕えた。柄としては新参者だが、信長にとっては最古参臣に入る。

以降は清織田大和)の織田信友を討ち取り、信長織田信勝との稲生の戦い、岩倉織田伊勢)との浮野の戦い・・・と信長の尾統一戦線にて活躍する。桶狭間の戦いでも武功を挙げた。

信長美濃を手中に収めると(うほうじょう)を与えられ、これを金山(兼山)と名した。金山はこのあと30年以上に渡っての本拠地となる。現在可児市に位置し、東美濃の入口となるである。

信長の戦いでは柴田勝家と共に先鋒を務めた。この後、近江佐山の築を任せられ、となる。朝倉氏との戦いにも同行するが、長男が討死する。続くの戦いでは磯野員昌突した。

志賀の陣

佐山現在近江神宮の裏側に位置し、京都大津経由で琵琶湖西を進むルートを睨む役割を担っていた。と同時に北にを向かえば比叡延暦寺がある。

第一次信長包囲網が本格化し、信長本隊が摂津方面で三好三人衆との争い(野田福島の戦い)に兵を集めると、浅井朝倉連合軍は手薄になった西ルートから京都して攻め寄せてきた。こうして始まったのが志賀である。

可成は織田信治(信長)・地茂綱(蒲生定秀の子)と共に迎え撃つが、織田1000に対して連合軍30000という圧倒的兵差であった。それでも緒戦はぎきったが、そこに本願寺顕如の要請に応えた延暦寺の僧兵が連合軍に加わると、いよいよ支えきれず、信治・茂綱とともに討死を遂げた。

続いて佐山も連合軍の猛攻を受けたが、鬼兵庫の異名をとる家老各務元正らが必死の防戦をみせて退けた。こうして時間を稼いでいる間に信長本隊が近江へ駆けつけ、連合軍は後退し比叡山に籠する。以後、包囲する織田軍と降伏を拒否する連合軍の睨みあいが3ヶ間も延々と続いた。最終的に朝廷将軍足利義昭の仲介で講和が成立するが、可成をはじめとする重臣や一族を失った信長の怒りは大きく、翌年の比叡山焼き討ちへと繋がっていく。

子孫・その後

六男三女の子宝に恵まれた。子供たちも信長から寵を受けて重用された。だが多くが若くして討死を遂げる。

長男は上述の通り、越前・手筒山攻めで討死した。(1552~1570)

このため次男・森長可が跡を継いだ。みんなご存じ武蔵さんである。同様、に優れた武将として活躍するが、小牧・長久手の戦いにて討死。(1558~1584)詳しくは当人の項参照。

三男は信長の小姓として有名な森蘭丸(成利)、四男が坊丸(長)、五男が力丸(長氏)。本能寺の変にて信長と共に死す。

一生き残ったのが六男の森忠政で、豊臣秀吉徳川家康と移りゆく中を渡り行き、江戸時代には美作18万石の大名となった(1570~1634)。だが子孫は乱心で一度易され、再後は2万石と三日月1万石(ともに播磨)に大幅縮小した。

一方、可行は金山にて隠居していたようだが、可成討死の翌1571年に78歳で死去した。

可政がいるが彼は1560年生まれ、可成37歳の時に生まれたで、甥にあたる森長可の方が年上だったりする(このとき可行は67歳。元気だな・・・)。可成の死後は長可を補佐するが、本能寺の変のドタバタの中で対立して出奔する[1]。その後は秀吉家康に直接仕えていたが、江戸時代になってからに復帰した。以降、子孫は家老として存続。

各務元正は遺された若い当をよく支え続け、1600年に59歳で死去した。

佐山明智光秀が後任のとなるが、近くに坂本を築いて移ったためとなった。

創作での扱い

森蘭丸お父さん程度の認識にされてしまう事の多い可哀そうな人である。最近は息子がバーサーカーになったりしてもう大変。途中で壮絶に退場するも志賀の知名度が微妙なあたりが・・・。だが最近はいい役どころでの出番が増えてきた。注したい。

信長のシェフ

主人公ケンを気遣う良き父親ポジション信長への忠心も篤い。ややマイナーな武将ゆえ、一般的な歴史知識を持つケンも彼がいつどこで討死するのかを知らなかった。

ドラマ)演:宇梶剛士

信長の忍び

キザナンパだが美男子戦場女子供が出ることを良しとしない、美濃一の色男。だが攻めの三左の異名通りの十字の名手である。佐山の戦いで信長下布武を宣言して壮絶に討死。

アニメ関智一

信長の野望

信長の野望」(PCシリーズにおける森可成の力一覧。

武将風雲録で初登場したがS2以降は死んでいる。以後皆勤賞足軽)に優れた戦闘要員ではあるが、織田には前田利家という強すぎるライバルがいるので副将ポジションになりがち。政治は上がったり下がったりである。

軍事 内政
戦国群雄伝 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 68 政治 47 54 野望 52 教養 69
覇王 采配 74 戦闘 72 智謀 49 政治 50 野望 52
天翔記 戦才 150 智才 118 政才 132 69 野望 64
将星 戦闘 74 智謀 64 政治 63
烈風 采配 64 戦闘 63 智謀 49 政治 44
世記 采配 55 智謀 38 政治 26 野望 43
蒼天 統率 60 知略 55 政治 26
下創世 統率 59 知略 55 政治 26 教養 47
革新 統率 66 武勇 75 知略 60 政治 29
統率 66 武勇 75 知略 60 政治 29
創造 統率 63 武勇 70 知略 61 政治 43
戦国立志伝 統率 63 武勇 70 知略 61 政治 43
大志 統率 70 武勇 83 知略 65 内政 44 外政 51

関連動画

関連項目

脚注

  1. *本能寺の変の際、安土城には幼い森忠政、妙向尼(可成未亡人)、可政のの三人がいたのだが、長可のびが忠政と妙向尼だけを救出して戻ってきたため。そりゃ怒るわ。

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森可成

3 ななしのよっしん
2017/11/11(土) 15:19:04 ID: Rtk3EbZtrX
最近できた記事だね

信長のシェフの可成はええパパやった。もっと長生きしてたら歴史が大きく変わったろうと思われる

信長の忍びではさんまでもがキャラに近い厚遇
ご武運を~のセリフが良かった
4 ななしのよっしん
2017/12/17(日) 00:50:29 ID: wdm+uvIpds
信長が基本的に大好きなのは可成の忠義を買ってたからなんだろうしなぁ
5 ななしのよっしん
2018/01/09(火) 00:07:20 ID: WsBwYO5Lb+
よく、森可成朝倉浅井一向宗勢三万の兵相手に千余で奮戦して死亡
的に書いてあるネットの記事とかは多いように思われますが、
この戦いを朝倉側から書いた、朝倉重臣山崎の書状では
森可成が下坂本を抑えていたので、拙者が先勢として攻めかかり、
9月20日に彼の口を攻め崩し、
森可成織田九朗などを始め多数を打ち倒して、即日攻略した。」
的に書いてあり、朝倉側の資料やら研究やらに基づきますと、
朝倉浅井一向宗の総勢三万近くのうち、8千が朝倉景健大将として先鋒軍となり、
山崎がその副将としてその先鋒軍の先を務めたようで、
これですと、山崎が率いる先勢三千余くらいが、
森可成率いる千五、六余くらいを相手に野戦で戦って、
即日攻略した、的な感じになるのでしょうかね。
6 ななしのよっしん
2018/01/09(火) 00:12:48 ID: WsBwYO5Lb+
勢も地に拠って戦ったわけでもなく、
普通の野戦であったわけですし、
山崎朝倉において名をかす猛将ですから、
二倍近い兵差ではさすがに森可成も一日で撃破された、的な
感じになるのでしょうかね。
(同じく二倍近い兵差で戦われた、三方ヶ原の戦いでは、
二時間余で武田勢が徳勢を撃破して、徳勢に対して
大勝利を収めている、という事例もありますしね。
それを考慮しますれば、勢もよくった方かと言えるかと思われますしね。)
7 ななしのよっしん
2018/01/09(火) 00:25:00 ID: WsBwYO5Lb+
もちろん、森可成の奮戦は決して否定されるものではありませんが、
どうにも側・織田側の記述などを基にして、
敵側の兵が過大にされているようにも思えたりもしますかね。
8 ななしのよっしん
2018/02/17(土) 03:58:37 ID: 9j49rDVH7M
もっと長生きしていれば値はそれぞれ
7080台くらいには成ってたかもなあ。
信長臣の筆頭格だったし。
9 ななしのよっしん
2018/07/10(火) 21:15:13 ID: JqvtVfmJnx
知略や政治はともかく統率と武勇はそれくらいあっても良かったんじゃと思う
10 ななしのよっしん
2018/08/12(日) 21:36:39 ID: gDCViH+u3P
>>5-7
歴史的に残った(勝った)方が
自分に都合よく書くのが史書だからね
負けた時は相手が圧倒的兵だったからだ
勝った時はものすごい大軍だったが打ち破ったのだ
みたいな書かれ方はされがち
11 ななしのよっしん
2018/08/12(日) 21:53:49 ID: g4cpZGKUNm
敵に予備軍がいる、味方の後詰は間に合わない
しかもあの辺りは味方の将軍だけでなく敵の延暦寺の勢下でもあった土地
そのような状況だと兵数の差の影が倍加してしまう
12 ななしのよっしん
2019/09/22(日) 23:44:28 ID: WsBwYO5Lb+
まあ、シンプルに2倍程の軍勢で戦った、としても、
同じように2倍程の軍勢と戦った、
三方ヶ原での徳勢が武田勢によって、
数時間程で多くの武将が戦死などをして、
敗北をした事を考慮していけば、
なんのかんのと森可成もよく戦ったのでは、
と思うのですけどね。

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