椎名康胤とは、戦国時代に越中新川郡(現富山県東部)を中心として活動した武将である。諦めの悪さに定評のある神保長職との抗争に生涯を費やした。
概要
家督相続まで
椎名康胤の属する椎名氏は越中守護・畠山氏によって越中国新川郡の守護代に任ぜられた家系であり、現在の魚津市を中心に新川郡を治めていた。
※ちなみに、同じく畠山氏から砺波郡(現南砺市・砺波市・小矢部市・高岡市西部に相当)の守護代に任ぜられたのが遊佐氏で、射水郡(現氷見市・高岡市東部・射水市)と婦負郡(現富山市西部)の守護代に任ぜられたのが神保氏である。
椎名康胤の父・慶胤もまた越中の有力武将として活動していたが、一向一揆平定のため越中に侵攻した長尾為景によって神保慶宗・土肥ら越中の有力諸侯共々殺されてしまう。
越中の有力勢力を壊滅させた為景は畠山氏から新川郡守護代に任ぜられたものの、越後の支配基盤すら盤石でないことを鑑みて椎名家の一人・椎名長常を代官として新川郡(越中東部)を間接統治する方法をとった。以後二十年近く越中では長尾為景の武力を背景とした椎名長常を中心にある程度平穏が保たれたが、為景の死とそれに伴う長尾家の勢力低下を機に再び越中に戦雲がたちこめることとなる。
為景によって壊滅させられた神保家を復興させた神保長職は長尾家の影響力低下を好機とし、婦負郡・新川郡の郡境を成す熊野川(現神通川)を渡って富山城を築城した。これは事実上の椎名家・長尾家への宣戦布告であり、富山城を中心に神保氏と椎名氏の抗争が勃発した。最終的に能登守護畠山義続の仲介が入り、椎名家が神保長職の富山城入城を認める形で和睦が成立した。
このような戦乱の中で康胤は家督を譲られ、椎名家当主の座に就いた。
神保長職との抗争
長尾家を後ろ盾とする椎名家に対して、神保家は砺波郡を実効支配する瑞泉寺・勝興寺を中心とする一向宗勢力と結びついて勢力を拡大した。後に本願寺顕如と武田信玄が対上杉攻守同盟を結んだことから神保家は武田家ともつながりを持つようになり、やがて越中における神保長職と椎名康胤の抗争は武田信玄と上杉謙信の代理戦争の形を取ってゆくことなる。
永禄三年(1660年)には前年に決められた停戦協定を破って神保長職が椎名康胤を攻めたため、康胤の救援要請を受けた長尾景虎(以後上杉謙信で統一)が越中に初めて攻め込み長職から富山城を奪った。この救援に応える形で椎名康胤は上杉謙信の関東遠征に参加したものの、この間に越中の反上杉・椎名陣営は再び結集し、永禄五年に再び神保長職は椎名康胤に攻撃をしかけた。謙信は再び越中に出陣して長職を攻撃したが、謙信が越後に戻ると長職はすぐに康胤への攻撃を再開し、金谷(神通川)の合戦で康胤は家老を失う大敗を喫して居城の松倉城まで攻め込まれてしまう。
度重なる神保長職の攻撃に「ま た お ま え か」と言ったかは定かではないが、今度こそ本腰を入れて神保家を攻撃した上杉謙信はついに神保家を屈服させることに成功する。長職は畠山義綱に仲介を頼んだために神保家は亡びなかったものの、以後神保家では親上杉派の家老が台頭し上杉家への従属を深めていくこととなる。
面白くないのは椎名康胤である。幾度も自分に辛酸を舐めさせた神保家は滅ぶことなく上杉の支配下に入り、逆に越中における上杉家の代表としての椎名家の立場は相対的に低下した。さらに追い打ちをかけるように上杉謙信は一度上杉家に刃向かった勢力でも旧領を安堵すると指令したため、康胤は越中の諸侯の一つ土肥氏に所領を返さねばならなくなった。領土の返還を渋った康胤は土肥氏によって告発され、謙信の叱責を受けた康胤は渋々領土を返還したものの、上杉家への反感は次第に高まっていった。
このような康胤の境遇に目をつけたのが武田信玄である。信玄は一向宗勢力を通じて密かに椎名康胤に接触し、上杉家への造反を促した。康胤の反乱によって越中の情勢は新しい局面に入ることとなる。
上杉への反乱
椎名康胤が上杉家への反乱を決意しつつあった頃、隣国の能登畠山家では家臣のクーデターによって畠山義続・義綱父子を追放する事件が起こる。幕府体制の守護神を自認する上杉謙信は畠山父子復帰作戦を計画し、神保氏を初めとする越中の諸将に協力を求めた。そして、まさに復帰作戦を始めようとしたその矢先に椎名康胤が反旗を翻した。
武田による椎名康胤の調略は秘密裏に行われたため、椎名家造反の報は謙信にとって寝耳に水の事態だった。一方、親上杉路線をとりつつあった神保長職は「敵の敵は味方」という考えもあってか上杉家と行動をともにし、越中の情勢は
(西から)瑞泉寺・勝興寺ら一向宗→×←神保長職→×←椎名康胤→×←上杉謙信
という非常にカオスなものとなる。
上杉謙信は神保長職と放生津(現射水市)に陣を張って一向宗・椎名家と戦っていたが、同じく武田信玄の調略を受けた本庄繁長が椎名康胤と呼応する形で上杉家に反乱を起こしたため、畠山父子帰国作戦を果たせぬまま帰国せざるをえなくなった。
晩年
堅城・松倉城(現魚津市)に依った椎名康胤は上杉家の攻撃をよくしのいだものの、周囲との連絡を絶たれ次第に追い詰められていった。謙信は対椎名への押さえとして松倉城近くの魚津城(現魚津市市街)に上杉家のイケメン武将・河田長親を派遣し、幾多の攻防戦の末に遂に松倉城は陥落した。
以後椎名康胤は一向宗に身を寄せ、元亀元年には大阪の石山本願寺に加勢に行ったことが記録されている。その後再び椎名康胤は越中に戻り、上杉謙信との最後の戦いに備えることとなる。
なんとしても謙信の眼を越中に向けさせたいと思っていた武田信玄は今度は神保家を調略し、武田氏の仲介の下一部の武将を除く全越中の武将の反上杉同盟が成立した。この反上杉同盟には勝興寺顕栄・瑞泉寺顕秀・椎名康胤・神保長城(神保長職の子)らが名を連ね、まさに越中諸侯のオールスター的陣容であった。上杉謙信という大敵を前にして、越中全体での抵抗戦だったといえる。
砺波郡五位庄に集結した一揆勢を中心とする大軍勢は親上杉派の神保家臣が籠城する日宮城を陥落させ、続けて富山城までも攻め落とすことに成功する。越中の情勢悪化を案じた上杉謙信は直々に越中に出兵し、神通川を挟んで激戦が繰り広げられた。越中勢はよく戦ったが、結局は軍神には勝てなかった。辛うじて神通川以西は確保したものの、大敗を喫して富山城を奪還されてしまった。
これ以降越中勢は完全に劣勢になり、一向一揆は衰退していった。椎名康胤はその後も一揆勢とともに越中西部を転戦していたが、蓮沼城(現小矢部市)での戦いで敗れ自害したと伝えられている。
奇しくも父・慶胤と同じく一向宗と結んだが為に越後長尾(上杉)家に攻められて死ぬという最後であった。
補足
史実で神保長職に終始押され気味だったのを反映してか、長職に劣るステータスである。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
天翔記 | 戦才 | 110(B) | 智才 | 46(C) | 政才 | 102(B) | 魅力 | 57 | 野望 | 44 | ||||
烈風伝 | 采配 | 31 | 戦闘 | 44 | 智謀 | 23 | 政治 | 31 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 30 | 智謀 | 38 | 政治 | 27 | 野望 | 30 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 39 | 知略 | 19 | 政治 | 32 | ||||||||
天道 | 統率 | 47 | 武勇 | 52 | 知略 | 29 | 政治 | 48 |
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なんと太閤立志伝5では居城として魚津城が実装されているが、その扱いは…お察し下さい
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