楠木正儀(?~?)とは、南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将である。
概要
楠木正成の三男で、兄の楠木正行、楠木正時らが四条畷の戦いで亡くなった後当主を務めた。正儀は河内を拠点とし、幕府方の高師泰と戦い、やがて観応の擾乱が始まると変わって畠山国清と戦い、徐々に河内を手中に収めつつ摂津まで迫った。
1351年足利直義が南朝に降ると、楠木正儀は足利直冬を擁立し、代わって足利尊氏が南朝と和睦すると勢いづき、1352年に尊氏が直義討伐のために鎌倉に出陣した隙をついて千種顕経、北畠顕能らとともに京を攻め足利義詮を敗走。反撃を受けるまでの1か月の間制圧した。
1353年に山名時氏が南朝につくと、楠木正儀は今度は両軍勢で挟み撃ちにして二度目の京制圧をするも撤退。さらに1355年に足利直冬と結び、桃井直常、石塔頼房ら旧直義派の諸将と三度目の京制圧を実行する。しかしこの時も足利尊氏との激戦の末、数か月足らずで撤退することになる。そして1361年に細川清氏と四度目の京制圧をするが、すぐに足利義詮の反撃を受けて、撤退することになり、以後南朝が京都を制圧することはなかった。
これ以降は和平派となり、佐々木道誉、細川頼之らと条件を詰めていく。しかし1368年、後村上天皇が亡くなりタカ派の長慶天皇が即位すると和平交渉が破綻した上に、主戦派が幅を利かせていくようになり立場が悪くなっている。そして1369年ついに単身幕府に降伏。幕府は彼を河内と紀伊のの守護に任じるが、河内をめぐって南朝方にいる息子の楠木正勝、一族の和田正武らと戦う。
しかし北朝方でも細川頼之を除いては彼を信用するものはほとんどおらず、1370年の康暦の政変で細川頼之が地位を追われ、斯波義将が変わるとついに孤立してしまう。
そして1382年、主戦派が立場を悪くしハト派の後亀山天皇に代わっていた南朝へと復帰。以後しばらくはその名前がみられるが、南北朝の戦いが終焉したあたりで彼の消息は分からなくなってしまった。
息子の楠木正勝も南北朝合一の後後亀山天皇に従わず吉野に残り、以後楠木一族は後南朝とともに歴史の陰にかろうじて見て取れる存在となっていくのである。
関連項目
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