楢崎正剛(ならざき せいごう、1976年4月15日 - )とは、日本の元プロサッカー選手、サッカー指導者である。
元サッカー日本代表。現・名古屋グランパスGKコーチ。
現役時代のポジションはGK。187cm70kg。利き足は右足。
概要
奈良県香芝市出身。横浜フリューゲルスでプロキャリアをスタートさせ、クラブが消滅した1999年から長年に渡り名古屋グランパスのゴールを守ってきた日本を代表する名GK。Jリーグベストイレブンに6度選出され、2010年には名古屋のJ1リーグ優勝に大きく貢献し、GKとしては史上初となるJリーグ最優秀選手に選ばれている。
日本代表には1998年にデビューし、FIFAワールドカップには4回メンバーに選出。2002 FIFAワールドカップでは全4試合でゴールを守り、日本の初の決勝トーナメント進出に貢献。代表では1歳年上の川口能活とのハイレベルな正GK争いが繰り広げられ、10年以上日本のゴールを実質二人が守ってきた。また、2000年のシドニーオリンピックにオーバーエイジ枠として出場している。
積極的で攻撃的なGKだった川口に対し、体格に恵まれた楢崎はどっしり構えた堅実的なスタイルでミスが少なく、ポジショニングの良さが光ったこともあって全盛期が長く、30代後半になってJ1リーグ137試合連続フルタイム出場の記録を打ち立てている。
経歴
生い立ち
1976年4月15日、母親が里帰り出産したこともあり、母の実家がある徳島県で出生。幼少期は大阪府に暮らしており、父親が学生野球の経験者ということもあって小学3年生までは野球をしていた。小学4年生のときに奈良県香芝市に引っ越し、地元の三和スポーツ少年団に入部しサッカーを始める。当時から長身だったこともありポジションはGKだった。
中学は香芝市立香芝中学校に進学。この時期からGKとして頭角を現すようになり、奈良選抜や関西選抜にも選出される。育成年代でGKコーチを置くようなチームは稀であり、選抜チームのコーチに教わったことを部活に持ち帰り、チームにフィードバックし、自分で内容をアレンジしたり、時にはチームメートを使ったりして、練習に取り入れていたらしい。
高校は奈良県内でも屈指のサッカーの名門校である奈良育英高校に進学。この頃からGKとしての本格的なトレーニングを受けたことで実力をつけていき、高校3年生になるとキャプテンに就任。1994年には第73回全国高校選手権に出場。初戦の相手は前年度の優勝チームであり、安永聡太郎や佐藤由紀彦といったタレントを擁した清水商業だったが、下馬評を覆して勝利する。その後も四日市中央工業高校や三本木農業高校といった強豪揃いのブロックを勝ち上がり、奈良県勢では初となるベスト4進出を成し遂げる。国立競技場のピッチに初めて立った準決勝の市立船橋戦では北嶋秀朗らタレントを擁した相手に0-3で敗れる悔しい想いをしたが、確かな評価を得た高校最後の大会となった。
横浜フリューゲルス
奈良育英高校を卒業後、1995年にJリーグの横浜フリューゲルスに入団。加入してすぐは控えGKという立ち位置だったが、当時の正GKであった森敦彦が長期の出場停止となったことでチャンスが巡り、8月16日のJリーグ2ndステージ第2節ベルマーレ平塚戦でスタメンに抜擢され、Jリーグデビューを飾る。この試合で安定したセービングで勝利に貢献したことからその後も高卒ルーキーながらも正GKとして定着。プロ1年目ながらも23試合に出場する。
1996年には開幕から6試合連続無失点のJリーグ記録を樹立するなど活躍。山口素弘、前園真聖の日本代表組にジーニョ、セザール・サンパイオ、エバイールのブラジル代表トリオを擁したチームの中で守護神として堂々とした立ち振る舞いを見せ、この年優勝争いを演じたチームに貢献。この年にGKコーチとして加入したマザロッピの指導を受けたことでポテンシャルがさらに引き出され、安定感のあるGKに成長。シーズン終了後には20歳にしてJリーグベストイレブンに選出された。
プロ4年目の1998年は彼にとって激動のシーズンとなった。代表デビューを果たし、ワールドカップのメンバーにも選出された飛躍のシーズンとなるはずだったが、クラブはこの年を最後に消滅することが決定。難しい状況の中でこの年初めてリーグ戦全試合にフルタイム出場し、2度目のJリーグベストイレブンに選出。そしてフリューゲルスにとって最後の大会となった天皇杯で快進撃を続けると、1999年元旦でも清水エスパルス相手に完封勝利を果たし、フリューゲルスとしての最後の試合で優勝するいう有終の美を飾るのだった。
名古屋グランパス
1999年シーズン、山口素弘、マザロッピGKコーチと共に名古屋グランパスエイトへ移籍。加入してすぐにこれまで正守護神だった伊藤裕二からポジションを奪う。この年の名古屋は大型補強で優勝候補に挙げられていたが、選手と監督の確執という内紛が起き、3度の監督交代というゴダゴダが続いたことで低迷する。それでもジョアン・カルロス監督が就任した10月以降は破竹の快進撃を見せ、勢いのまま2000年元旦の天皇杯決勝ではサンフレッチェ広島を破り、優勝。楢崎個人にとっては2年連続での天皇杯制覇であり、移籍1年目でタイトルを獲得することができた。
2000年は移籍2年目にしてキャプテンに就任。以降、2013年までの14シーズン連続で名古屋のキャプテンを務めることになる。しかし、この年もフロント、監督、選手の間での不信感が募り、主力3人が放出されるなどお家騒動が続き、キャプテン就任最初の年にして頭の痛いシーズンとなる。
チームの象徴的存在だったドラガン・ストイコビッチが2001年7月に現役引退して以降の名古屋は万年中位とレッテルを貼られるチームとなっていた。その後も選手と監督の確執が勃発するなど、一体感のないチーム環境が続くが、守護神としての存在感は年々増しており、最後の砦としてチームを救う場面が数多く見られた。2003年には自身3度目となるJリーグベストイレブンに選出。
2004年には若手の有望株とされていた川島永嗣が加入し、熾烈な正守護神争いが予想されたが、蓋を開けてみると相次ぐ監督交代が起きても楢崎への信頼は揺らぐことはなく、若き日の川島にとって大きな壁として立ちはだかっていた。その後も本田圭佑や吉田麻也といった将来日本サッカーの中心に立つ若手が台頭するが、チームは相変わらずタイトル争いに加われないシーズンが続いていた。
2008年、万年中位からの脱却の切り札としてクラブレジェンドのドラガン・ストイコビッチが監督として帰還。最終ラインの要であるバヤリツァが長期離脱したことで不安定だった守備を数多くのビッグセーブで救い、最終節まで優勝争いに加わったチームを支え続けた。この年、5年ぶり3度目となるJリーグベストイレブンに選出される。
2009年シーズンは守備陣に負傷者が相次ぎ、本来FWの選手がCBを務めるなど苦しい台所事情に足を引っ張られて失点が増えていた。そんな中、7月25日の浦和レッズ戦でリーグ史上初の「Jリーグ100試合完封」を達成。Jリーグの歴史に大きな金字塔を残すこととなった。
2010年シーズンには、田中マルクス闘莉王が加入。ストイコビッチ監督がこれまでのパスワーク主体のスタイルからパワーとスピードを前面に出したトランジションスタイルにシフトしたことで守備陣への負担は大きくなっていたが、闘莉王、増川隆洋、ダニルソンと共に強固なディフェンスラインを形成。毎試合のように決定的なシュートを浴びることがあったが、再三に渡るビッグセーブの連発によって失点を防ぎ続け、名古屋に勝ち点をもたらし続けていた。34歳となりベテランに差し掛かったことで円熟味を増し、チームリーダーとして苦しい戦いでチームを鼓舞し続け、34試合全試合にフル出場。まさにキャリアハイといえるシーズンとなった。この年、名古屋は悲願だったJ1リーグ初優勝を達成。キャリア16年目にしてようやく掴んだ初のリーグ優勝であり、キャプテンとして満面の笑みでシャーレを掲げた姿が印象的だった。12月のJリーグアウォーズではJリーグでは史上初めてとなるGKでリーグMVPに選ばれるという快挙を達成。
2011年シーズン開幕直前のゼロックススーパーカップの鹿島アントラーズ戦ではPKストップの活躍によってタイトル獲得に貢献。この年、ACLに初出場。あと一歩で連覇を逃すこととなったが、このシーズンのチームについて「ベストな戦いは2011年」と振り返り、手ごたえを掴んでいた。
2012年からは主力選手の怪我やコンディション不良によって守備がさらに不安定となり、そのたびにビッグーセーブでチームを救い、「守備戦術は楢崎」と一部からは言われるようになっていた。2013年5月6日には J1通算512試合出場を達成し、J1最多出場記録を更新(最終的にはJ1通算631試合まで記録を伸ばした)。
ストイコビッチ監督が退任してからの2014年以降は主力の怪我や高齢化もあってチーム状態は下降線を辿るようになる。年齢的にも30代後半を迎え、大ベテランとなりつつあったが、不動の守護神としての地位は維持し続け、2013年から2015年までは3年連続でリーグ戦フルタイム出場を果たしたことで「鉄人」と評されるようになる。しかし、もはやザルといえるレベルとなった守備陣の崩壊をたった一人で凌ぐのは流石に困難でもあった。
そして、2016年シーズン、小倉隆史監督兼GMの起用というフロントの人事が完全に裏目に出てしまう。怪我によって連続フルタイム出場が137試合で途絶え、リーグ戦26試合に留まったことでチームの崩壊を救うことができず、この年キャリアで初となるJ2リーグ降格の憂き目に遭う。このとき、J1クラブへの移籍の話も浮上したが、名古屋に残留することを決断する。
初のJ2での戦いとなった2017年はレギュラーとしてピッチに立っていたが、40歳を過ぎて流石に衰えが見え始め、シーズン終盤戦になると武田洋平にポジションを奪われる。1年でのJ1復帰を決めたJ1昇格プレーオフでも出場機会は訪れなかった。
2018年はオーストラリア代表のミッチェル・ランゲラクが加入したことで第3キーパーにまで降格してしまい、キャリアで初の公式戦出場無しに終わる。この年の12月、現役引退を表明していた長年のライバルである川口能活の引退セレモニーにサプライズで登場し、花束を渡している。
2019年1月8日、現役引退を発表。奇しくも川口と同じシーズンを最後ににユニフォームを脱ぐことになった。3月2日、名古屋とセレッソ大阪の試合前に行われた引退セレモニーでは、川口がサプライズで花束を持って登場。セレモニー後、場内を一周した際には、セレッソ大阪ゴール裏サポーターからも声援と大きな拍手を受けた。この年の年末に開催されたJリーグアウォーズで「Jリーグ功労選手賞」を授与される。
現在はJクラブ初の「クラブスペシャルフェロー」として活動するほか、「アカデミーダイレクター補佐」「アカデミーGKコーチ」を兼任している。
日本代表
プロ2年目の1996年12月、AFCアジアカップ1996のメンバーとして日本代表に初招集される。しかし、大会では出場機会は訪れず、1997年も定期的に招集されていたが、川口能活が正キーパーとして定着したこともあって1998 FIFAワールドカップ アジア最終予選でも出番は訪れなかった。
岡田武史監督が正式に日本代表監督となった1998年2月15日のオーストラリア戦で代表初出場を果たす。3月1日のAFCマルボロ・ダイナスティカップの韓国戦でもゴールを任され、安定したプレーで勝利に貢献したことで評価を高める。しかし、岡田JAPANでは川口の牙城を崩すには至らず、1998年6月にフランスで開催された1998 FIFAワールドカップのメンバー入りも果たすが、結局出場はないままだった。
フィリップ・トルシエが日本代表監督に就任してからの1999年になって出場機会を得るようになると、6月にパラグアイで開催されたコパ・アメリカ1999では3試合中2試合でスタメンに起用されている。その後は徐々に川口よりも優先して起用されるようになり、親善試合ではキャプテンマークを巻いて出場することもあるなど、トルシエ監督からの信頼を得ていた。
2000年9月に開催されたシドニーオリンピックではオーバーエイジ枠としてU-23日本代表に選出。正キーパーとして全試合に出場し、日本のベスト8進出に貢献。準々決勝のアメリカ戦では、ボールを処理する際中澤祐二と激突し、頭蓋骨骨折という状況ながらも自ら出場を志願し、PK戦まで流血をしながらもゴールを守り続けた。
しかし、このときの負傷によって10月にレバノンで開催されたAFCアジアカップ2000を欠場。その間に再び川口が序列を上げることになり、2001年3月24日のサンドゥニでのフランス戦でスタメンに起用されたものの5失点を喫して大敗。これにより川口が優先して起用されるようになり、自国開催となったFIFAコンフェデレーションズカップ2001でも出場機会は訪れなかった。
ワールドカップイヤーとなった2002年になり、海外移籍で試合勘を失った川口が調子を落としたことから再び出場機会が訪れるようになる。6月に日本と韓国の共同開催となった2002 FIFAワールドカップのメンバーに選出。本番でゴールマウスを守るのは楢崎なのか川口なのかが注目されたが、トルシエ監督が選んだのは楢崎だった。日本が歴史的なワールドカップ初勝利を挙げたロシア戦、グループリーグ突破を決めたチュニジア戦では2試合連続で完封するなど、全4試合でゴールを守り、日本のベスト16進出に貢献。
ジーコ監督就任後も引き続き正キーパーを務めることになる。2003年6月にフランスで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2003でも全3試合でゴールを守り、2003年10月8日の親善試合チュニジア戦から2004年2月18日のドイツW杯アジア1次予選第1戦オマーン戦まで、7試合無失点という日本代表連続無失点記録を打ち立てる。このまま絶対的な守護神の座を手にするかと思われたが、2004年7月に中国で開催されたAFCアジアカップ2004のメンバーに選出されながら直前の負傷によって川口にスタメンを譲ると、川口が伝説的なビッグセーブによって日本の連覇の立役者となったことでまたも立場が逆転。その後の代表戦では控えに回るようになる。
2006年6月にドイツで開催された2006 FIFAワールドカップで3度目のメンバー入りを果たすが、本大会でゴールを守ったのは川口であり、出場機会は訪れなかった。
ドイツW杯後にイビチャ・オシム監督が就任してからはしばらく代表に呼ばれなかったが、2007年になって代表に復帰。6月1日のモンテネグロ戦でおよそ2年ぶりに出場を果たす。しかし正キーパー奪取には至らず、直後のAFCアジアカップ2007でも守護神を任されたのは川口だった。
岡田武史監督が就任した当初も第2GKという立ち位置だったが、川口の不調もあって2008年6月2日の南アフリカW杯アジア3次予選オマーン戦以降はレギュラーとして起用されるようになる。クラブでも好調を維持していたこともあってこの頃には誰もが推す守護神という立場にあり、アジア最終予選でも全試合でゴールを守り、本大会出場権獲得に貢献。
2010年6月に南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップでも代表のゴールを守るのは楢崎と見られていたが、直前のテストマッチでチームが結果を残せていなかったことに加え、高地での適用が遅れたこともあって本番直前にレギュラーの座を剥奪されてしまう。本大会で起用されたのはかつて名古屋での守護神争いで勝利した川島永嗣であり、川口と共にベンチで大会を過ごすことになる。これは12年間続いた楢崎と川口の二頭体制が終焉したことを意味していた。
2010年9月7日のグアテマラ戦終了後代表引退を表明し、惜しまれながらも代表を引退。通算出場試合数は77試合。
個人成績
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1995 | 横浜フリューゲルス | Jリーグ | 23 | 0 | |
| 1996 | 横浜フリューゲルス | Jリーグ | 23 | 0 | |
| 1997 | 横浜フリューゲルス | Jリーグ | 24 | 0 | |
| 1998 | 横浜フリューゲルス | Jリーグ | 34 | 0 | |
| 1999 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 25 | 0 | |
| 2000 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 30 | 0 | |
| 2001 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 28 | 0 | |
| 2002 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 30 | 0 | |
| 2003 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 28 | 0 | |
| 2004 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 26 | 0 | |
| 2005 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 32 | 0 | |
| 2006 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 24 | 0 | |
| 2007 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 29 | 0 | |
| 2008 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 30 | 0 | |
| 2009 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 26 | 0 | |
| 2010 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 34 | 0 | |
| 2011 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 24 | 0 | |
| 2012 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 32 | 0 | |
| 2013 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 34 | 0 | |
| 2014 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 34 | 0 | |
| 2015 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 34 | 0 | |
| 2016 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 27 | 0 | |
| 2017 | 名古屋グランパス | J2リーグ | 29 | 0 | |
| 2018 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 0 | 0 |
個人タイトル
引退後
2019年2月15日、名古屋グランパスのクラブスペシャルフェローに就任。GKの普及や指導、自分の経験を伝えるなどの活動をおこなう。2020年にはアカデミーダイレクター補佐およびアカデミーGKコーチを兼任することとなる。
2021年2月28日、2021年度のJFAトレセンコーチに就任。なお、上記のクラブスペシャルフェロー、アカデミーダイレクター補佐、アカデミーGKコーチとの兼任となった。
2024年、名古屋グランパスのトップチーム アシスタントGKコーチに就任。
2025年、名古屋グランパスのトップチームGKコーチに就任。就任1年目で19歳のピサノ・アレックス幸冬堀尾を日本代表に送り込むなどの成果を出す。
プレースタイル・人物
187cmと長身であり、非常に安定感のあるセービングが持ち味で、ポジショニングの上手さは特出している。他のGKであれば好セーブになるようなシュートも、ポジショニングの良さから難なく処理することが多く、楢崎本人もスーパーセーブには興味がないと語っていたが、年を追うごとに安定感を増し、ベテランになってからは神がかったビックセーブを見せる事も増えていった。
川口能活とは代表GKの座を争ってきたライバルであり、プレースタイルから「動の川口」と呼ばれたのに対し、「静の楢崎」と呼ばれた。ライバル関係ではあったものの仲は良好であったようで、普段からよく話をしていたようである。
奇しくも両名は同じ年に引退しており、お互いの引退セレモニーにお互いがサプライズで登場し花束贈呈している。その後、PlayStation®4のCMで川口と共演している。
一時期スペインのアトレティコ・マドリードへの移籍が報じられたが、実現はしなかった。楢崎本人が、「前所属の横浜フリューゲルスという名前を消したくないので名古屋からは出ない」という趣旨のことを語っていることからそういったことも実現に至らなかった1つの要因であると考えられる。
関連動画
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- なし
-
アプリエンジニア/システムインテグレータ・ソフトハウス年収400万円~1,008万円
-
プロダクトデザイナーリーダー候補 東証グロース上場/リモートワーク中心/業界トップクラスシェア/HRTech/「KING OF TIME」シリーズ全体のUX向上に貢献いただけるデザイナーを募集しています年収500万円~800万円
-
「定員残りわずか!」未経験採用枠/Webデザイナー/プライベート充実月給25万円~60万円
-
「ゲーム開発・運用」2Dデザイナー/高単価案件/一部リモート月給51万円
-
開発マネージャー候補/成長性の高いプロダクトの企画.運営年収900万円~1,300万円
-
ゲームクリエイター総合職 プランナー・ディレクター・デザイナー等 正社員で賞与年2回/豊富な案件月給23万円~70万円
- 1
- 0pt

